昨日(10月12日)付けの朝日新聞夕刊に掲載された文芸評論家・加藤典洋と翻訳家・鴻巣友季子の対談「ノーベル文学賞と翻訳の関係」。その中で加藤典洋が紹介している、ちょっと身も蓋もないというか、まあ、そーゆーコトなんだろーなー、と思わせるエピソード――
去年、マイケル・ハイムというミラン・クンデラの訳者でUCLAの教授の話を聞く機会があった。スウェーデン・アカデミーの人と会った際、「ノーベル賞をとるには何が一番大事か」と尋ねたら、たちどころに「いいスウェーデン語の翻訳があること」と言った。
また、この“暴露話”を受け、鴻巣友季子も――
一つ言えるのはノーベル文学賞に絡む文学は、要は翻訳文学だということ。英語やスウェーデン語で書かれたか翻訳されたもの以外は対象にもならない。
英語やスウェーデン語で書かれたか翻訳されたもの以外は対象にもならない――正にそういう扱いを受けたのが、1958年の西脇順三郎。この年、谷崎潤一郎とともに候補者(41人)となった日本のシュルレアリズム文学の草分けは、しかし、2009年に朝日新聞が情報公開請求して開示された選考資料によると、谷崎については14行に渡る長文の論評が記されているものの、西脇についてはわずか2行――「翻訳された資料に乏しい」などと木で鼻を括ったようなコメントが記されているだけ。もう作品の内容がどーこーじゃないんだね。これで「選考」というのだから片腹痛い。
一方、こういう話もある。1968年、川端康成がノーベル文学賞を受賞した際、日本国内ではむしろ三島由紀夫の方が有力視されていたとかで、毎日新聞などは当日、三島の受賞を見込んで新聞社に館詰めにしていたというのだけれど、しかし、川端の『雪国』を翻訳し、かの文豪をして「ノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と言わしめたエドワード・G・サイデンステッカー(Edward G. Seidensticker)の『流れゆく日々 サイデンステッカー自伝』によると、少しばかり事情は異なる。この年12月、川端たっての希望もあって授賞式出席のためのスウェーデン行に随伴した翻訳家は、とある人物から「発表の丸一日前、川端さんが受賞することは、すでに知っていた」と聞かされたとか。その人物とは、「スウェーデン最大の出版社で、川端さんの作品を一手に出している会社」の編集部長。そう、川端康成はすでにこの時、ノーベル文学賞ゲットに「一番大事」な「いいスウェーデン語の翻訳」が十分あったということ。
翻訳があれば、当選。翻訳がなければ、落選。だったら、提案がある――ノーベル文学賞はノーベル翻訳文学賞に名称を変更しては如何……?
川端康成をして「ノーベル賞の半分は、サイデンステッカー教授のものだ」と言わしめたエドワード・G・サイデンステッカーによる名訳(もっとも、冒頭のあの有名な一節の翻訳については相当、色々言われたようで、『流れゆく日々 サイデンステッカー自伝』を読むと、当人はいささか自棄気味にこんなことを――「もし読者の中に、翻訳をやってみたいと考えている人がいるとすれば、私はあえて忠告しておきたいと思う。冒頭の訳には、よくよく気をつけよ」)、Snow Countryがアメリカのクノップ社(Alfred A. Knopf)から「日本文学シリーズ」の1冊として刊行されたのは1956年。そもそものきっかけは、その2年前、同社の編集部長、ハロルド・ストロース(Harold Strauss)から「現代の日本の小説を訳してみる気はないか」と打診されたこと。
このとき、ハロルド・ストロースの念頭にはすでにノーベル文学賞のことがあったらしい。そのため、翻訳の対象は、このときまでサイデンステッカーがほとんど現代日本文学を訳したことがなかったにもかかわらず、あくまでも現代の作家、しかも、まだ存命中であることが条件。そうした中、サイデンステッカーが第一候補として提案したのは、実は川端康成ではなく、谷崎潤一郎。
……現存の日本の作家のうち、もっとも重用なのは川端と谷崎だと考えていたが、二人のうちでは谷崎の方が骨格がしっかりしていて、英語に訳すという試練をくぐり抜けても、いわば、健全な体形を損なわずにすむ可能性が高いと思ったからである。実際、日本語から英語に翻訳するというのは、あたかも肉切り包丁で無器用に切り分けるような作業で、いつでも何か、大事なものを切り捨ててしまうことを迫られる。だが川端よりは谷崎の方が、こうした犠牲にまだしも耐えられるのではないかと思えたのだ。
この提案にハロルド・ストロースも同意。クノップ社の「日本文学シリーズ」の第2弾(ちなみに、第1弾は大佛次郎の『帰郷』を訳したHomecoming)として1955年に刊行されることになったのが、Some Prefer Nettles(『蓼喰う虫』)。書評でも好評を博し、売れ行きも「相応に良かった」とかで、翌年には川端のSnow Countryと三島由紀夫のThe Sound of Waves(『潮騒』)がつづき、さらに1957年には再び谷崎のThe Makioka Sisters(『細雪』)が刊行。2009年、朝日新聞の情報公開請求によって開示された選考資料によって谷崎がノーベル文学賞の候補となっていたことが判明したのが、正にその翌年(1958年)。その14行に渡る長文の論評にはこうあったという――「現代日本の代表的な作家。『細雪』では、戦前から戦後にかけて伝統が失われてゆく中で母国の習慣と社会の規範に対する素晴らしい観察がみられる。『蓼喰(たでく)う虫』では、優しい悲愴(ひそう)のベールに覆われた日本の現実が芸術的な手腕で表現されている」。
個別タイトルを挙げて言及しているのが、『細雪』と『蓼喰う虫』。この時、ノーベル委員会が選考資料としたのがクノップ社刊、エドワード・G・サイデンステッカー訳による「日本文学シリーズ」の2書であったのは明らか。当初からノーベル文学賞を睨んで同シリーズを立ち上げたハロルド・ストロースとしても思惑通り。しかし――言うまでもなく、この年、ノーベル文学賞を受賞したのは谷崎ではなく、あの『ドクトル・ジバゴ』のボリス・パステルナーク。論評では手放しの賛辞と言ってもいいくらいのコメントを連ねておきながら、なぜ? それについては、資料ではこう記しているという――「ノーベル委員会はこの候補者に興味を持っていることは認めるが、今の時点では受け入れる準備ができていない」。
受け入れる準備ができていない? ハテ、どーゆーこと? しかも、今の時点では? 何となく、マダニッポンノジュンバンデハナイ、そう言っているような気も。こんなの、ノーベル文学賞の選考が純粋に文学的評価のみに基づくものではないと暗に認めているに等しいと思うのだけれど、ともあれ――それから10年、晴れて「受け入れる準備」が整ったときには、すでに谷崎はこの世になし(1965年7月30日没。その一週間ばかり前、湯河原の自宅で79歳の誕生日を祝い、好物の品々を完食。その翌日、腎炎を発症。一説には誕生日の過食が仇になったとか)。サイデンステッカーは記す――「それにしても、昭和四十三年当時、谷崎さんがまだ存命だったら、谷崎さんと川端さんと、はたしてどちらがノーベル賞を受けていたか、誰にも分からないことだろう」。しかし、結局は、谷崎潤一郎にはノーベル文学賞受賞の条件がひとつ欠けていたのだと言わざるをえない。ノーベル文学賞受賞の条件①いいスウェーデン語の翻訳があること②ノーベル委員会の受け入れる準備③長命……。
谷崎潤一郎、川端康成と並ぶ現代日本文学の“Big 3”のひとりとして1956年には早くも英語圏デビューを果たした三島由紀夫。しかも、谷崎の英語圏デビュー作、Some Prefer Nettles(『蓼喰う蟲』)が1929年、川端のSnow Country(『雪国』)が1937年と発表は優に一時代前の作品だったのに対して、三島のThe Sound of Waves(『潮騒』)は1954年発表と、まだ焼き立てのほやほや。ほとんどリアルタイムと言ってもいいタイミングでの英語圏デビューは、版元であるクノップ社(Alfred A. Knopf)、ないしは生涯にわたってミシマの担当編集者となるハロルド・ストロース(Harold Strauss)のこの作家に対する期待の大きさの表れと見ることができる。
しかも、実は三島由紀夫の英語圏デビューはもっと早かった可能性さえあるらしいのだ。日本でこそ遺族の了解が得られず、久しくお蔵入りとなっていたものの、英語版だけでなく、各国語にも翻訳されて三島研究の基本文献とされるジョン・ネイスン(John Nathan)の『三島由紀夫 ある評伝』(Mishima: A Biography)によると、実は昭和29年(1954年)には三島の実質的なデビュー作である『仮面の告白』の翻訳が既に完成していたのだという。しかも、その翻訳の背景には、何やら怪しげな気配が。以下、同書の昭和31年(1956年。日本では『金閣寺』、アメリカではThe Sound of Wavesが刊行された年)の項より、『潮騒』英語版刊行について言及した一節(この年九月、この瞠目すべき一年のいわば画竜点睛として、アルフレッド・A・クノップは『潮騒』の英訳を出版し、この「信じがたいほど単純な恋物語」はたいへん好評を博した)に付された原注――
翻訳者のメレディス・ウェザビイは、アメリカ占領軍の情報局員であり、昭和二十年代、「ブランズウィック」時代の三島と親交があった。その最初の翻訳は『潮騒』ではなく、『仮面の告白』であり、すでに昭和二十九年には完成していた。『潮騒』がさきに出版されたのは、クノップ社が三島を「同性愛小説」の作者として海外に紹介することに難色を示したからである。
さあ、色々出て来ました(笑)。翻訳者が「アメリカ占領軍の情報局員」で、両者は「ブランズウィック」で親交があった――。えー、「ブランズウィック」とは何ぞや? 同書によれば、三島が昭和25年頃、「新しい作品、『禁色』のための背景資料を集めるため」と称して足しげく通った銀座のゲイ・バーとか。「いわゆるゲイ・バーは、戦前の日本にはなかった。その突然の出現は、占領時代に東京に集まってきた相当数の兵士たちも含めた、外国人の大規模なホモセクシュアル社会に起因するものである」(ちなみに、所在地は銀座五丁目裏とか。ソースはこちら。管理人は元『薔薇族』編集長・伊藤文学氏であります)。しかし、こんなスゴイことをサラリと書いて見せるわけだから、この本が「未亡人瑤子の逆鱗に触れて絶版に追い込まれた」(Wikipedia)とゆーのもわかるような気がするなー(1995年、瑤子が亡くなると、待ってましたとばかり、2000年には新版が刊行)。
ともあれ、昭和25年のとある日、銀座五丁目裏のゲイ・バーで新進気鋭の文学士と「アメリカ占領軍の情報局員」が出会い、その生体反応(?)の結果としてもたらされたのが『仮面の告白』の英訳。その原稿が、どういう伝手があったものか(実は「翻訳」したとされる人物の素性がわかれば、伝手があったのも当然とわかる。後述)、クノップ社に持ち込まれ、あいにく不採用とはなったものの、1956年には同じ翻訳者によるThe Sound of Wavesが晴れて刊行。となると、この銀座五丁目裏の出会いは戦後日本文学史の欠くべからざる(あるいは書くべからざる?)一章ということになるわけだけれど――でも、コレって、本当なの? 「ブランズウィック」という店の存在や、その素性については証言があるから確かとは思われるのだけれど、翻訳者が「アメリカ占領軍の情報局員」てのは?
実は、コレについては、少しばかり異なる証言がある。とはいえ、証言内容としては、こちらも相当にスゴイ。出典は室謙二の『天皇とマッカーサーのどちらが偉い?』(岩波書店)という本なのだけれど(タイトルがよくないな。「天皇とマッカーサーのどちらが偉い?」というのは第4章の章題でもあるんだけど、第2章の章題である「ビーバップを歌いながら」をタイトルとした方が本全体の雰囲気にも合っているし、一般読者にも受けいれられやすかったのでは?)、その「神田ではじまり神田で終わる――タトル商会の人々」と題する章は、戦後、洋書の輸入や日本文学の海外への紹介で大きな役割を果したタトル商会に集った色彩豊かな面々についての貴重な、しかし、いささかのけぞるような証言(何でも、室謙二の尊父がタトル商会の日本人社員第1号だったのだとか)。以下、引用文中に登場する「ロジャースとウェザビー」とは、タトル商会の総支配人だったブルース・ロジャース(Bruce Rogers)と「当時タトル商会で働いていた」メレディス・ウェザビー(Meredith Weatherby)のことなのだけれど――
……ロジャースとウェザビーは、一九四八年(昭和二十三年)に世阿弥の『善知鳥(うとう)』(Birds of Sorrow: A No Play)を共同で「翻訳して」旺文社から出版している。これは英語の訳文と日本語の原文を和紙に印刷した凝ったつくりで、装丁は棟方志功。そして当時は誰でも、これがロジャースとウェザビーと彼らの日本人のゲイの友人たちの、共同の仕事であることを知っていた。ブルースもウェザビーも実は日本語がそんなにできなかった。
メレディス・ウェザビーには、三島由紀夫の『潮騒』(The Sound of Waves)と『仮面の告白』(Confessions of a Mask)の「翻訳」の仕事がある。これはいまでも三島のこれらの本の唯一の翻訳で、アメリカの書店で買うことができる。しかしウェザビーには、三島の日本語を読みこなす日本語の力はなかった。これもまたウェザビーのゲイの日本人協力者がいて可能になったことだった。
いやはや、なんとも。三島の周囲を探ると、出てくるのはこんなんばっかり(苦笑)。ともあれ、この証言が正しいなら三島の『仮面の告白』や『潮騒』を訳したメレディス・ウェザビーはジョン・ネイスンが言うような「アメリカ占領軍の情報局員」などではなく、タトル商会の一社員(宮田昇著『戦後「翻訳」風雲録』によれば出版部長)。この点、もしかしたら、タトル商会オーナーであるCharles E. TuttleがGHQの一部門であるCIE(民間情報教育局)出身であったため、混同した可能性も? ただ、そんなことよりも――「ウェザビーには、三島の日本語を読みこなす日本語の力はなかった」。こっちの方がよっぽどのけぞる。この話が本当なら、The Sound of WavesやConfessions of a Maskの訳者とされるメレディス・ウェザビーとは単なるダミー。実際には「彼らの日本人のゲイの友人たちの、共同の仕事」。メレディス・ウェザビーはタトル商会出版部長の顔でその原稿をクノップ社に持ち込んだだけ……? ともあれ、これぞ戦後日本文学史の欠くべからざる書くべからざる一章。
実際、おかしいと思ってたんだ。三島作品の翻訳者としては、The Temple of the Golden Pavilion(『金閣寺』)のアイヴァン・モリスがよく知られているし、ドナルド・キーンやジョン・ネイスンにもすぐれた仕事があるのだけれど、いずれもハーヴァード大学やコロンビア大学で日本語や日本文学を修めた学究。ひとりメレディス・ウェザビーだけは素性不明(Wikipediaには3行ばかりのごく簡単な記事があるばかり)。しかし、単なるダミーだというのなら、それも納得。とはいえ、室謙二も書いているように、その銀座五丁目裏共同訳(?)は「いまでも三島のこれらの本の唯一の翻訳」。その後、新訳・改訳も出ていないということは、翻訳としてもそれなりに優れている証拠? とすると――もしや、もしや、メレディス・ウェザビーというダミーの背後には名のある翻訳家が隠れているのでは? 戦後、いち早く来日し、日本文学の古典や現代作品にも通暁し、かつ銀座五丁目裏のゲイコミュニティとも密やかなる交流を持つ……。
追記(2011.10.20)
メレディス・ウェザビーの素性に関して、Wikipediaの「矢頭保」の項に「元米軍情報関係将校」との記載あり。室謙二の『天皇とマッカーサーのどちらが偉い?』によれば、1948年にタトル商会を立ち上げたチャールズ・E・タトルがアメリカに一時帰国した際、スカウトして来たのが総支配人のブルース・ロジャース。そのロジャースが「つれてきた」のが、メレディス・ウェザビー。Wikipediaやジョン・ネイスンの情報が正しいとするなら、ブルース・ロジャースは「元米軍情報関係将校」(あるいは「アメリカ占領軍の情報局員」)をスカウトしてタトル商会の出版部長に据えたことになる。また、本文でも記した通り、そもそもチャールズ・E・タトルがCIE(民間情報教育局)出身という経歴。さらに言えば、エドワード・G・サイデンステッカーもその素行を疑われて「CIAのスパイだとさえ攻撃された」ことがあるという。ただし、本人の弁明によれば「私はかつて、そんな者であったことは一度としてない。何らかの関係があったとすれば、CIAにいる友人のために、日本語の資料を翻訳したことがあるくらいのものだ」。おいおい、だったら結構、「関係があった」のでは……?
さて、エドワード・G・サイデンステッカーだ(ウン? なにが「さて」?)。エドワード・G・サイデンステッカーが初めて日本の土を踏んだのは1945年9月、場所は佐世保。この地で日本軍の武装解除の任に当った彼は、その任務を通じて、「日本人についても、日本語についても、全く違う見方を抱くようになっていた」。それまでの彼は、確かに日本語を学んではいたものの、「実は一度も、真剣に取り組んだことがなかった。結局のところ、戦争を無事に切り抜けるための方便にすぎず、だから戦争中は、知る必要のある以上のことは、あえて知ろうという興味も持たなかったのである」。一体何が彼を変えたのか? 「私を変えたのは、私の周囲の日本人たち自身だった。終戦直後のこの時期、日本人の行動を一言で形容すれば、『見事』という一語に尽きるのではあるまいか」(以下、引用は『流れゆく日々 サイデンステッカー自伝』より)――
……軍事的な拡大政策は、夢想したような輝かしい成果など、何ひとつもたらしはしなかった。だとすれば、何か、新しい道を模索しなくてはならない。そう思い定めるや、人々はみな、懸命に働き始めた。瓦礫の山を片付け、家を建て、物を作り、売ることを始めたのである。とはいえ、私がその時直ちに、将来の奇跡の経済成長や、巨大な産業構造の形成を予見したなどと言えば、それは嘘になってしまうだろう。ただ、私はその時、はっきり思い知ったのだ。この人々、そして、この人々の言葉を研究することは、決して時間の無駄などには終わらないはずであると。
そう考えた彼は、帰国後、外交官を志望。進学したコロンビア大学では「公法及び行政学」を学ぶ一方、「日本や日本語に関する科目はいくつも取った」(ちなみに、この時期、ドナルド・キーンも同大学に在籍。ともに角田柳作の下で日本の文学や歴史、思想について学んでいる)。卒業後は、国務省外交局に就職。上司から「日本語担当官になる気はないか」と尋ねられると、「喜んでこの提案に賛成」。日本語の集中教育を受けるため、イエール大学、さらにはハーヴァード大学で日本関係の研究を続行。特にハーヴァードでは、のちの駐日大使、エドウィン・ライシャワーの教えを受けることになる。こうして、即戦力の「日本語担当官」として養成されたエドワード・G・サイデンステッカーは1948年、勇躍、「日出ずる国」へと乗り込む。
とはいえ、この時はまだサンフランシスコ講和条約締結前。まだアメリカ大使館さえも存在せず、その身分も国務省外交局の一員でありながら、連合軍最高司令長官付外交部局員という立場。ともあれ、GHQ外交部局のスタッフとして彼は財閥解体の任に当ることになるのだけれど、この件についてはこれ以上書いてもあまり面白味はない。むしろ、『サイデンステッカー自伝』を読んで目を惹かれるのは、彼が時間を見つけては東京の町をあちこち見て回った見聞録。そこにはさまざまな地名が散見されるのだけれど――新橋、築地、上野、池袋、吉原、新宿、渋谷……。なぜか銀座という地名が一切出てこない。「紅灯の巷」を探索し、「隅田川の東側」にまで足を伸ばす旺盛な好奇心を発揮しておきながら、銀座、あるいは、銀座五丁目裏には彼の好奇心は向かわなかったのか? ちなみに、メレディス・ウェザビーとブルース・ロジャースの「翻訳」とされるBirds of Sorrow: A No Play(『善知鳥』)が旺文社から刊行されたのは、サイデンステッカーが日本に赴任した1948年。
さて、GHQ外交部局のスタッフとして忙しく日々を過ごすサイデンステッカーだったが、彼には「ひとつの野心」があった。それは、「学者外交官」になること。「単なる職業的外交官であるばかりではなく、任地の文化や歴史について、深い学殖を備えた外交官」。その好例として彼はアーネスト・サトウなどの名前を挙げるのだけれど、その「野心」を実現すべくまず行ったのが「ある有名な大学の教授」の個人指導を受けて日本文学の古典に挑戦すること。それまでにアーサー・ウェイリー訳の『源氏物語』は読んでいたが、まだ原文で王朝文学を読みこなすだけの自信はない。そこで、あえて個人レッスンまで受けて古典の読解力を身につけようとしたわけだけれど、ふむ、何か己の古典の読解力に磨きをかけたいと感ずるような経験でも? ともあれ、こうして始めた個人レッスンのテキストとして選んだのが『蜻蛉日記』。この個人レッスンの成果はその後、The Kagerō Nikki: Journal of a 10th Century Noblewomanとして結実することになるのだけれど、それはまだ先の話。
昼間はGHQ外交部局のスタッフ、夜は「ある有名な大学の教授」とのマンツーマンレッスン――、そんな意欲的な二重生活をつづけるサイデンステッカーは、しかし、1950年、突如、国務省を退職することを決断する。理由は、その年の昇進リストに名前が載っていなかったこと。既に同期生は悉く昇進。「状況は疑問の余地なく明白だった。こんなに早い時期に取り残されてしまっては、もう追いつくことなどできはしない。私は、まだ三十にもなってはいなかった。何かほかのことを始めるとすれば、今ならまだ時間はあるし、今こそまさにその時である」。この彼の決断に思いとどまるよう説得した同僚もいたそうだが、決断が揺らぐことはなかった。ただ――この退職をめぐって、奇妙な噂が流れたのだけは、彼としても不本意だったらしい。
以上、私の退職について、私の記憶するとおり、できる限り正確に書いてきた。そして、当の私以上に正確に、当時の事情を記憶している人はいないはずだ。あの頃は、さかんに魔女狩りの行われた時代だった。好んでその餌食にされたのは、独り者の男だった。なぜ結婚しようとしないのか、世間はあらゆる種類の妙な想像をたくましくし、そんな男が退職をしたとなると、あらゆる種類の妙な噂が広まった。私が退職した時も、もちろん例外ではない。私に言えることはただ、私が独身タイプの人間であり、退職は、純粋に私自身の意志によるものだったということである。当局からの圧力など、全くなかった。もちろん、昇進リストに載らなかったという事実を、間接的に圧力をかけたのだと見れば、話はまた別かもしれないけれども。
付言しておくと、エドワード・G・サイデンステッカーは2006年に亡くなるまで、生涯独身を貫くことになる。面白いことに、ドナルド・キーンもまた89歳の今日に至るまで独身。米国における日本文学の泰斗が揃いも揃って「独身クラブ」所属とは、はて、偶然や否や……。ともあれ、こうしてフリーの立場となったサイデンステッカーは最初、「復員兵援護法」とかいうもの(と、サイデンステッカー自身が書いている)、それが打ち切られた後はフォード財団の「海外留学奨学金」を得て東京大学に学ぶことになる。その間に「近・現代の小説の代表的な名作は、事実上すべて読破した」。また、『蜻蛉日記』の翻訳に取り組んだのもこの頃。さらには、現代文学の翻訳にも着手。最初に訳したのは、太宰治の短編。ちなみに、太宰の未亡人から翻訳の許可を得たのは川端康成だったとか(川端とは大使館主催の夕食会で面識があった由)。そうこうしている内に、ハロルド・ストロースの目に留まり、クノップ社の「日本文学シリーズ」の翻訳家として起用されることになる。ちなみに、この「日本文学シリーズ」の第1弾として刊行されたのが大佛次郎の『帰郷』の翻訳であるHomecoming(1954年)であるとは10月14日付けエントリでも記した通りだけれど、この本、『サイデンステッカー自伝』によれば、翻訳の出来も悪くはなく、シリーズとしては「相応の成功を収めて出発した」。ところが、一体何があったものか、直後に翻訳者(Brewster Horwitz)が自殺。そのため、クノップ社が代役として白羽の矢を立てたのがサイデンステッカーだった。あるいは、もし前任者が自殺することさえなければ、クノップ社がサイデンステッカーに目を付けることもなく、そうなるとサイデンステッカーが『雪国』を翻訳することもなかったのかも知れない。となれば、川端康成のノーベル文学賞受賞も……と、色々想像は膨らむのだけれど、この話はこれまで。もうすでに相当、字数を費やした。以下、駆け足でサイデンステッカーの半生を辿ると――
1954年、ハロルド・ストロースから「現代の日本の小説を訳してみる気はないか」と打診されたサイデンステッカーは、その候補として谷崎潤一郎と川端康成を推薦。一方、後に“Big 3”と称されることになる三島由紀夫については推薦リストから外している。しかし、決して評価していなかったわけではない。特に『仮面の告白』については高く評価。「ほかに誰も英訳を手がける人がいなければ、私が訳してみてもいいと思っていた」ほど。だったら、ハロルド・ストロースの提案に対しても、少なくとも候補のひとつとして『仮面の告白』を挙げてもよさそうなものだけれど――しかし、事実として述べるならば、既にその時、名義上はメレディス・ウェザビーの訳とされるConfessions of a Maskは存在していた。クノップ社からは出版を断られ、日の目を見るのは1958年(ニューヨークの独立系出版社、New Directionsから刊行)とはなるのだけれど……あるいは彼はこの翻訳が存在することを「知っていた」?
結局、サイデンステッカーは、三島との縁は薄かったということなのか、長編としては、三島の自決後、「周囲の事情から」、最後の長編となった『豊饒の海』の第4部に相当する『天人五衰』(The Decay of the Angel)を訳したのみ。しかもそれは、「自信のある訳の中には数えられない。これは私の持論だが、原作にたいして、本当に優れた作品であるという確信がなければ、いい翻訳が生れるものではないのだ」。しかし――そんな彼が、三島の死に対して示した反応は、一種異様と言うしかない。恐らく彼自身もそう感じているのだろう、その経緯を振り返るに当っては、あえて当時の日記を引用するというかたちを取っている。以下、1970年11月25日、三島由紀夫自決の報に接してエドワード・G・サイデンステッカーが記した日記の一節――
私の最初の反応は――いや、最初ではない、実は四番目の反応だ。最初の反応は、言うまでもなくショックだった。二番目は――本当は絶対に認めたくないことなのだが、あえて率直の命ずるところに従って書くとすれば、一種の安堵感だった。というのも、三島はずっと私の心に、重荷としてのしかかってきていたからだ。本当は私自身がやらなくてはならないことを、他人にやってもらっていると、前々から感じ続けてきたのである。
本当は私自身がやらなくてはならないことを、他人にやってもらっている――これは一体何を言っているのだろう? 「多分、彼の作品の英訳のことを指しているのだろう」とは、サイデンステッカー自身の説明。「最後の作品となった四部作の英訳を、私にやってもらいたいと彼は望んでいたからだ」。しかし、それだけが本当に彼の心にのしかかっていた「重荷」だろうか。サイデンステッカーと三島の間には、まだ語られていない何かがあるのではないか――。通常、何かが「重荷」として心にのしかかるとすれば、それは「秘密」。サイデンステッカーと三島の間には何か「秘密」があったのではないか――。「原作にたいして、本当に優れた作品であるという確信がなければ、いい翻訳が生れるものではない」。エドワード・G・サイデンステッカーが三島由紀夫の「最高の作品」と評価する『仮面の告白』(Confessions of a Mask)の本当の翻訳者が誰であるのかは、未だ明らかではない……。
まあ、本当の翻訳者が誰であるにせよ、表向きは、メレディス・ウェザビーこそ、ミシマを最初に英語圏に紹介した立役者。その素性が、タトル商会の出版部長であったと伝えているのが、宮田昇著『戦後「翻訳」風雲録』(本の雑誌社)。著者の宮田昇は日本ユニ・エージェンシー元代表取締役。早川書房編集部、タトル商会著作権部を経て1967年に日本ユニ・エージェンシーを設立。宮田がメレディス・ウェザビーと交渉を持ったのは、早川書房編集部に在籍していた頃。それまでは、アメリカで刊行された出版物の版権については、ジョージ・トマス・フォルスターなる人物がほぼ独占的に管理。何でも「翻訳権の帝王」と呼ばれていたとか。そのため、売り手市場のボロイ商売をやっていたらしいのだけれど、1953年、タトル商会が著作権の仲介を開始。この寡占状態が崩れることに。
とはいえ、当初はなかなか商売も立ち行かなかったらしいのだけれど、そんなタトル商会にいち早く目を付けたのが早川書房。まずはステファン・ツバイクの遺作『バルザック』の翻訳権取得を依頼。まあ、「著作権の仲介というよりブローカーまがいのことをしていたフォルスター事務所」にはほとほと手を焼いていたらしい。「ほとんど利用する社がなかったタトル商会と、早川書房の利害が一致したのである」。このとき、タトル商会側で著作権担当者の上司として宮田と相対することになったのが「出版部長メレディス・ウエザビー」。これは結構貴重な証言。この人物をめぐっては「アメリカ占領軍の情報局員」(ジョン・ネイスン)とされたり、「当時タトル商会で働いていた」(室謙二)とする情報はあっても、ハッキリ肩書まで示しているのはこの本くらい。なるほど、タトル商会出版部長なら『仮面の告白』を翻訳して(その名義人となって)クノップ社に持ち込むことも可能だったわけだ。
ちなみに、『バルザック』の翻訳権取得依頼のため、タトル商会の狸穴分室を訪れた宮田らが逆に翻訳出版の検討を依頼され、持ち帰った原書があるという。それが後にハワカワ・ポケットミステリーの記念すべき101番(シリーズ第1号)となったミッキー・スピレーンのThe Big Kill( 『大いなる殺人』)と同105番、 I, the Jury(『裁くのは俺だ』)。ミッキー・スピレーンについては、既に中田耕治が注目。しかし、早川書房としては当初、江戸川乱歩が否定的な評価だったため、出版を躊躇したそうなのだけれど、清水俊二に意見を求めたところ、高評価。「早川清にとって、友人である『俊ちゃん』の意見は絶対であった」。結果、早川書房ではこの2作品の翻訳権をタトル商会を通じて獲得。しかも、そのお値段はというと――
この時の前払い印税は、わずか七十ドルであった。その条件には、後に三島由紀夫の『潮騒』を英訳するウエザビーは難色を示し、片平(タトル商会著作権部の片平要一郎 引用者注)が大いに説得してくれた。アメリカの出版界も日本を現在のような大事なマーケットと見ていなかったこともあって、契約できた。私は、改めて、占領下やフォルスター事務所を通した高額な契約の中身に疑問を持ったものである。後に新聞そのほかで、ミッキー・スピレーンのアメリカでの評判が報道され、二、三の社で競争したが、それさえも一点、二百ドルの契約金であったという。
ふーん、70ドルかあ。当時は1ドル=360円の時代。てゆーことは、えー、25,200円! 競争原理が働くって、スゴイことなんだねえ。「翻訳権の帝王」とやらの独占状態がつづいていたら、こんなことは絶対起きなかったんだろうから。そう考えると、ポケミス成功の陰の立役者はタトル商会、ということになるのかな? で、そんなタトル商会―早川書房のホットラインをさらに強化することになったのかどうかは知らないけれど、宮田昇はその後、早川書房からタトル商会著作権部に移籍。引用文中にも登場する片平要一郎にスカウトされたそうなのだけれど、躊躇する宮田の背中を押したのが、当時、早川書房で宮田の上司だった田村隆一。そう、あの「立棺」の(ワタクシごとながら、この詩には相当、影響を受けたもんです。一時はほぼ全文、暗唱できたくらい)。さらには、冒頭でも記した通り、1967年には日本ユニ・エージェンシーを設立。『翻訳権の戦後史』など、翻訳著作権の第一人者として著書多数。
一方、タトル商会の方はというと――あるいは、洋書読みならご記憶かも? 2003年、洋書取次業界1位の洋販(日本洋書販売配給)はタトル商会(同2位)を吸収合併(ただし、存続会社が洋販だっただけで、実態としては、タトル商会による洋販の吸収合併だったらしい。それ以前の1998年、タトル商会は既にさる野心家によって買収)。しかし――これまた洋書読みならご記憶かと思うのだけれど、2008年7月、日本洋書販売(合併後の存続会社)は自己破産を申請。これによって、1948年以来の伝統を誇るタトル商会は名実ともに姿を消した――はずなのだけれど、実は、この一連の合併劇に登場する「タトル商会」とは、元のタトル商会の販売部門が分社化したもの。かつてメレディス・ウェザビーが部長を務めた出版部は現在もTuttle Publishing(チャールズ・イー・タトル出版)として存続。往年のTut Booksの名前こそ消えたものの、出版目録には三島のConfessions of a Maskも。翻訳者は、やっぱりメレディス・ウェザビー……。