昨日、アップした「虎よ、虎よ!」で今年は打ち止めにするつもりだったのだけれど、夜、Eテレの「ギョギョッとサカナ★スター」を見たら、今回の「サカナ★スター」はネコザメではないか! これにはオドロイタ。というのも、大上哲夫(と言っても、知っている人は皆無でしょうが、そういう作家がいたのだ、昭和の初めに。『有合亭ストーリーズ』の登場人物の一人)が書いた「榮螺割の仁太」という小説があって、こっちを今年最後のネタにする選択肢もあったのだ。しかし、おれは岩佐虎一郎の「地獄の蓮」を選択し(これは間違いではなかったと思う)、これで一区切り……と思っていた、その日の夜にネコザメに遭遇したんだよ。「ギョギョッとサカナ★スター」を見た人はおわかりだと思うけど、小説のタイトルに言う「榮螺割」とはネコザメのことで、これについては小説でもこう説明されている――「榮螺割といふのは、榮螺をも噛み破るといふところから出た猫鮫の異名で、仁太郞はその綽名どほりに、金のある間は比較的溫和しく寢轉んでゐるが、金が盡きると、獰猛な眼をらん/\と光らせて、村の誰彼に喧嘩を吹つかける、畑を荒す、他人の家へ醉つ拂つて暴れ込む、婦女子を脅かす、全く手に負へないごろつきで、村の者すべてが彼の被害者だつた」。もっとも、番組で紹介されたネコザメはそんな感じではなかった。ネコザメという名前も顔の輪郭がネコに似ていることが由来とかで(さかなクン情報)、小説に言うところの「猫鮫に似た獰猛な顏」はいささか誤解を招く表現か? ただ、ネコザメがサザエを殻ごと噛み砕いてしまうほどの破壊力の持ち主であることは番組でも紹介されていて、「榮螺割の仁太」という二つ名もその一点で容認可能か?
五木寛之の初期作品に「天使の墓場」というのがあって、主人公の行動(闇から闇へと葬り去られた米軍のジェット機墜落事故の真相解明。この事故により、5人の高校生が命を落としていた)に疑問を呈する男(ラジオ局の報道部員・五条昌雄)に対し主人公(高校の山岳部々長・黒木貢。彼が率いる山行で5人の部員が亡くなった――米軍のジェット機墜落事故の巻き添えを喰って)が「一瞬、五条がおびえるような激しい感情を込めた声で」こう言い放つという場面がある――「復讐はわれにあり。われこれをむくいん」。
実は、この引用は間違っている。聖書の「ローマの信徒への手紙」に記されているのは「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり」ということであって……要するに、人間の復讐心を戒めているわけだね。ところが、五木寛之はそれを復讐心の肯定のように使っているわけで……これぞ若書きのなせる業だろうなあ。もっとも、キリストがこんな訓戒(?)を垂れなければならないほどには復讐心は人間の心を安々と捕えてしまう。で、「復讐の鬼」と化した人間を主人公として戴く小説や映画がこれでもかとばかりに生み出されることになる。「天使の墓場」もその一つなんだけれど……そんな中、わが同郷人である細田守は『果てしなきスカーレット』でその超克を訴えようとした――らしいのだけれど(一応、ソースとしてアニメイトタイムズのこちらの記事から引いておくなら――「この映画では、「復讐」というテーマを中心に据えました。といっても、ただ単なる復讐というよりも、「報復の連鎖」について考える作品にしたいと思ったんです。今作の制作を始めたのが、ちょうどコロナが明け始めたくらいの時期でした。その苦しい時期が過ぎて、やっと落ち着けると思った矢先に、ご存じの通り世界中でまた新たな争いや悲しい出来事がたくさん起こりました。/その様子を見ながら、どうして人は報復をし続けるのか、そしてその先には何が待っているのか。この問いが頭から離れませんでした。このような状況に立たされている「現在」を考えながら、このテーマを持って映画を作り上げようと決意しました」。全く以て、志は気高い。しかし……)、敢えなく爆死してしまった、ということだね。
細田守監督の『果てしなきスカーレット』が大コケだそうだ。興味深いのは同作がシェイクスピアの『ハムレット』から着想を得たとされていること。『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』もシェイクスピアがモチーフとなっており、タイトルからして『お気に召すまま』のジェイクイズの台詞「全てこの世は舞台、人は皆役者に過ぎぬ」の本歌取とされている。そんなシェイクスピアゆかりの大作2本がともに大コケの憂き目を見ている、というのははたして偶然なのか。両作を見舞った悲劇には共通点があって、それは最初から低視聴率&不入りであること。期待して見たけどつまんなかった、という反応の集積として低視聴率&不入りがもたらされているわけではないのだ。最初から低視聴率&不入りなのだ。そして、この両作は事前のプロモーションでシェイクスピアをモチーフとすることが告知されていた。ここは、このことがもたらした影響を思わざるを得ない。もしかしたら、三谷幸喜(64歳)、細田守(58歳)というもはや旧世代に属すると言っていい表現者の中に脈打つシェイクスピア崇拝を「西洋崇拝」と見なして忌避する空気感ができ上がっているのでは? 『国宝』はなぜ大ヒットしたか。それは「日本礼賛」の映画だったからだろう。だから、もしWS劇場で上演されるのが『夏の夜の夢』や『冬物語』ではなく『仮名手本忠臣蔵』や『義経千本桜』だったら結果は違ったのではないか? あるいは、もし復讐譚の下敷きになっているのが『ハムレット』ではなく『曽我物語』だったら結果は違ったのではないか? それほどまでに今の日本人は「日本」に恋い焦がれている。亡くなった恋人の俤を必死で追い求める人のように、もうせつないくらいに「日本」に恋い焦がれている。その恋情に阿ることが表現者の仕事であるかは別として……。
もしがくは小劇場がブームとなっていた1980年代前半の渋谷が舞台で、三谷幸喜の「半半半自伝的」な作品とされている。で、三谷よりも三つ年上のおれはそれより少し前の1970年代後半を映画青年として過ごしており、あえてその舞台を特定するなら池袋だろうなあ。池袋には文芸坐があったし、当時、おれが住んでいたのは西武池袋線沿線ではあったし。実際、池袋ではいろんな出会いがあった。池袋駅東口から文芸坐までの道のりでおれは何人もの映画人に遭遇しているよ。それから『Making of オレンジロード急行』(ぴあbooks)所収の「大森一樹年表」によれば『暗くなるまで待てない!』は1977年4月に文芸坐地下で上映されているそうだけれど、おれの記憶に間違いなければ大森一樹の自主製作映画がまとめて上映されるというイベントがあって、おれはこのときに見ている。で、その場所というのが確か池袋にあった雑居ビルの一室で、観客は折り畳み式のパイプ椅子に座って鑑賞するというね。いかにも自主製作映画の上映イベントらしい。しかし、観客は結構いたな。ビルにはエレベーターがなかったのか、観客はビルの階段に行列をなして並んでいた。おれもその行列に加わって大人しく開場を待っていたんだけれど、ほどなく行列の横を談笑しながらすり抜けて行く二人組がいて、なんと大森一樹と大林宣彦だった。このとき見た中では『ヒロシマから遠く離れて』と『暗くなるまで待てない!』が印象に残っている。前者は1967年にジャン=リュック・ゴダールなどが参加して製作された『ベトナムから遠く離れて』の〝本歌取り〟。でも、そんなタイトルを冠するのがいささか分不相応というか。『Making of オレンジロード急行』ではこの映画(2分ばかりの超短編)について「ひとたばのちり紙とひとびんのインクで映画を作ろうという〝経済的試み〟」。これじゃあ何のことやらわからないでしょうが、確かちり紙の束にインクを垂らすんだったかな。で、めくってもめくっても染みがあるという。言うまでもなく(いや、言わないとわからないかな?)インクは「黒い雨」のメタファー……なんでしょうが、これだけのことで『ヒロシマから遠く離れて』はいかにも分不相応だろう――と、当時、そんな感想を抱いたものです。一方、『暗くなるまで待てない!』は普通によくできた映画。近い将来のメジャーデビューを予感させるような(これが微妙に皮肉を効かせた表現になっていることにアナタは気がついているかな? あの時代は、素直に褒めるってことはまずなかった。その流儀をここでも再現してみせたのは、おれなりの大森一樹への仁義の切り方だと受け取っていただければ)。あと『ない!』シリーズの残り2本も見たはずなんだけれど、全然、印象というものがナイ。そんな、印象に残らない作品じゃナイはずなんだけれど……。ただ、そうは言いつつもだ、あの日、あの場所にいた、ということは、あの頃のおれがいかに筋金入りの映画青年だったかということの証明にはなるはず。単に1970年代映画の傑作(たとえば『タクシードライバー』とか『ディア・ハンター』とか)をリアルタイムで見たという程度の映画ファンとは違うということ。
もしがくはオワコンなんかじゃない。おれは毎回ほれぼれしながら視ているよ。特にあの作り込まれたセット。そして、色彩設計の素晴らしさ。石井輝男監督の1960年の傑作『黄線地帯』にも匹敵する。そこに菅田将暉の熱量や二階堂ふみの圧巻のファムファタールぶりが加わるのだから、これ以上、何を望むっていうんだ⁉ まあ、あえて注文をつけるなら、冒頭のエピグラフの朗読かな。ここにビッグネームを当てたのが正解だったのかどうか。そこにわずかでも「権威主義」の匂いが感じられれば、それだけで視聴者は引く……。同じビッグネームでも、三谷作品に縁が深い二代目松本白鸚とかだったらまた話は別なんだろうけどね。でも、現在、二代目松本白鸚は病気療養中で……もしかしたら、ここにこのドラマの不幸がある? でも、注文をつけたいのはこれくらいで、あとは完璧だよ。残り3話(?)も楽しませてもらおう。もっとも、「もしもこの世が舞台なら」、おれは迷わずに(人生を)引退するよ。この期に及んで演技しなければならないなんて真っ平御免だ。もしがく界隈の皆様、そこは悪しからず(笑)。ところで、島地林作という刑事がいた。明治19年11月25日、上新川郡針原村の農家の次男として生まれ、明治40年7月、巡査採用試験に合格して富山県巡査になった。そして大正9年に八尾署の刑事担当の巡査になると、昭和22年に富山県警察部を依願退職(特別な理由があったわけではない。当時、公務員に定年はなく、警察官の退職は依願退職が一般的だった)するまで刑事一筋の人生を歩んだ。昭和40年にはその功績が認められ、勲六等単光旭日章も受章している。その風貌は世人がイメージする「鬼刑事」そのもので(こちらで拝顔が可能です)、今の俳優に当てはめるなら渡辺哲かな。で、この人、風貌からは想像できないんだけれど、劇団「シェイクスピア・シアター」の旗揚げメンバーらしい(ウィキペディア情報)。劇団「シェイクスピア・シアター」というのは、もしがくに登場する劇団「天上天下」のモデルのはずで……それはそれは、大変な劇団にいらっしゃったもので。でも、演技力は折り紙付き。もしこれから書く話がドラマ化されることがあれば島地林作の役は渡辺哲にお願いしよう……?
また小説を書いた。今度は短編。「有合亭ストーリーズ」と同様、既に某文学賞に応募済ですが、こちらの文学賞でも応募規定として「応募者が作品に関する諸権利を有する限り、ブログ等で発表されている作品も応募可能です」としており、拙サイトでも公開することとしました。
なお、小説に登場する「叔父さん」には裏設定がある。「叔父さん」が言及する女子高校生射殺事件――田中陽造が言うところの「富山〝教室内猟銃殺人〟事件」については「小さい町みつけた③」でも少し書きましたが、この事件の犯人・山本勝次は旧平村の上梨の住人だった。で、「叔父さん」――というか、有り体に言えばおれなんだけど――は上梨にはいささかの思い出がある。小説でも言及しているように、中一の夏休みの林間学校は五箇山だったのだが(これについてはブログでも書いたことがある。こちらとかこちらとか)、五箇山のどこかと言うと、これがなんと上梨だったのだ。当時、上梨には下梨小学校上梨分校というのがあって、こちらの本に校舎の写真が載っていますが、夜はこの木造校舎の教室でごろ寝だよ。夏だっていうのに、寒くてねえ。各自、自宅からタオルケットを持参するよう指示があったんだけれど、中にはバスタオルを持参した生徒もいて、とてもじゃないけれどあの寒さは凌げませんよ。まあ、今ならありえんよね、木造校舎の教室でごろ寝なんて。ともあれ、上梨にはそんな思い出があるわけだけれど、もとより当時のおれは1962年に起きた事件のことなんか知らなかった。事件について知ったのは1974年で、おれは高校一年生。事件のことを教えてくれたのも高校の倫理社会の教師だった。で、これがいかにも1970年代というか……。1974年9月13日、ハーグ事件というのが起きた。日本赤軍のメンバーがオランダのハーグにあるフランス大使館に押し入り、大使ら11人を人質にとってフランス当局に拘束中のメンバーの釈放を要求した。4日間に渡るタフな交渉の末、フランス当局は要求を呑んでメンバーを釈放した。メンバーは「スズキ」という偽名を使っていたが、24日、警察庁の捜査により素性が判明した。本名は山田義昭と言い、なんと平村下梨出身だった。もう富山は大騒ぎだよ。で、倫社の授業でこの事件が話題になった。確か倫社の教師が平村出身だったのかな? そんな記憶がある。そして、こんなことを言った――「平村では10年に1度、大きな事件が起きる」。その10年前に起きた大きな事件というのが女子高校生射殺事件だった。確かにスゴイ事件だと思った。卒業生が授業中の学校に侵入して生徒を黒板の前に一列に並ばせ、その中の一人を猟銃で射殺したのだ。当時、「進歩的知識人」も巻き込んだ形で社会現象化していた数多の事件と比較しても引けを取らないというか、なんなら勝っている? そんな印象を受けたものだ。しかも、事件の犯人が上梨の住人だということもわかって、え、だったら下梨小学校上梨分校の卒業生だったんじゃ……? で、以来、この事件はおれの――というか、「叔父さん」の心の一隅を占拠しつづけているような次第なのだけれど……そんな「叔父さん」がもしオノレの半生を振り返るとしたらこんなふうになる――。こんな裏設定を持つ物語は、「人間は変わる」ということの標本のようでもあり、「人間は変わらない」ということの標本のようでもあり……。
わが家から常願寺川までは、直線距離にすると3キロそこそこ。だから、大した距離ではない。しかし、子どもの足にとっては3キロはなかなかの距離で、よほどの冒険心に駆られたときじゃないと足を延ばすということはなかった。ましてや、常願寺川の向う側となるともうほとんど異界で、結局、小学生の間に大日橋を渡ったことはなかったんじゃないかなあ。まあ、少年時代のおれには「大日橋を渡る」勇気はなかったということだね。そういうこともあってか、「橋を渡る」ということに過剰に意味を見出しがちのところがあって、後年書いた映画のシナリオでも(誤解のないように書き添えておくなら、シナリオ作家協会主催の新人コンクールに何度か応募したことがあるというだけで、このシナリオはその一つ)橋のたもとで待ち合わせしながらいつまで経っても待ち人が現れないので出発できない(橋を渡れない)、という結末にしたことがある。待ち人が現れないのは家を出て行こうとする息子を母が止めるからだが(確か、殺したんだったかなあ、母が息子を。『青春の殺人者』の逆)、そのためいつまで経っても出発できない、という結末の話にあえて『出発』というタイトルを付けた。反語というやつですが、反語という語法を以て語るしかないアイロニカルな主題こそは「青春」である、という直観から来る確信がその根底にあった……と書けば、いささか当時の自分を過大評価しすぎか。
もし本当に「長江・不二越・石金界隈」をモチーフとする小説を書くことになるなら、どうしても避けては通れない出来事がある。実は、昭和42年1月21日、「長江・不二越・石金界隈」の一画で殺人事件があったのだ。場所は、若草町。なんだ、長江でも不二越でも石金でもないじゃないか、と言われそうだが、若草町というのは戦後にできた町で、もともとは西長江に属していた。そして、現在は石金一丁目に編入されている。だから、がっつり「長江・不二越・石金界隈」に含まれるのだ(これは例の「富山市詳図」をご覧いただければ一目瞭然のはず)。そもそも事件現場は東部小学校の正門の真ん前なんだから。しかも、おれはその事件を目撃していたってんだから……これは、もう、おれの少年時代にあっても特筆すべき出来事だよ。
この事件、19歳のバーテンダーが42歳の巡査部長を刺殺したというもので、ここは警察資料通信社編『警察資料年鑑』1969年版より引くなら――
それにしても、いろんなことが思い出されるなあ……。
昔、石金商店街に山崎文房具店というのがあって、文房具屋ではあるんだけれど、プラモなんかも売っていて、まだ小学校に上がる前だったと思うけれど、一人で買いに行ったことがある。長江から石金まで一人で行くってのは結構な冒険だったはずで、だから記憶に残っているんだろう。この際、石金の交叉点を渡ったわけだけれど、まだ小学校に上がる前だったおれは信号が何色なら渡っていいのかがわからなかった。で、とまどっていると、車が停まってくれた。信号を見ると、赤だった。で、赤なら渡っていいんだと思って渡ったんだが……家に帰って、この話をして、「赤なら渡っていいがだよね?」と母に確かめた。そのとき、母が見せた驚きの表情を今も覚えている。最初の子を交通事故で亡くしている母だ。危うく3番目の子も交通事故で亡くすところだった……、そんな血の気の引く思いだったんだろう。古人曰く「七つ前は神の内」。子どもが無事に成長する保証なんてなにもない。あのとき、おれはたまたま神に手招きされなかっただけで、敏夫の二の舞いになっていたとしてもなんの不思議もない。敏夫が神に手招きされたのがたまたまなら、おれがされなかったのもたまたま……。
この6月に車を手放して以来、すっかり世界が狭くなってしまった。行動範囲が、事実上、徒歩圏内に限定されるわけで……こんなこと、子どものころ以来だよなあ。
で、そんなことも関係しているのか、このところやらたと自分が子どもだったころのこの界隈のことを考えている。この界隈――とは、あえて術語化するならば「長江・不二越・石金界隈」ということになるかな。言うまでもなく「谷中・根津・千駄木界隈」を模したものですが、「谷根千」みたいにいい感じで略せないのが玉に瑕? しかし、自分では気に入っていて、なんならこの「長江・不二越・石金界隈」をモチーフとする小説を書いてもいいかなと。
実はね、おれが子どものころの「長江・不二越・石金界隈」は結構なワンダーランドだったんだよ。ここで、地図を見てもらうことにしよう。国立国会図書館のデジコレで見つけたものだけれど、人文社から昭和41年に出版された『日本都市地図要覧 都道府県庁所在都市篇』に収められている「富山市詳図」の一部を切り取ったもの。