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ペーパーバックの倉庫から⑧

2013.01.11

 富山市長江本町ホニャララのホニャララ。これが現在、ワタシが暮らす住所ということになるのだけど、この土地、元はと言えば母の実家の田んぼだったところ。1958年に一部を宅地化、わが家を含む4軒がこの地に家を構えた。しかし、さらに遡れば、かつてこの地区一帯をエステートとしたある豪農の所有地。ワタシの母の実家はその耕作を任された小作農に過ぎなかった。その豪農の名を南日(なんにち)というのだけれど――

 昨年、当地でオープンした「高志の国文学館」。この正月明けにはじめて覗いてみたところ、思いがけず南日恒太郎(なんにち・つねたろう)についての展示に遭遇。この人が「南日のだんなはん」であるのはかねてから知ってはいたのだけれど、ワタシが知っているのはただ「偉い人」というだけで、実際にどう「偉い」のかは考えてみることもなかった。しかし、展示に曰く「豊かな語学力と詩文の才で、英語教育史に名を残す」。え、英語教育史? しかも、恒太郎が著した英語参考書は「英語受験対策の参考書として圧倒的な人気を博し」、かの芥川龍之介や菊池寛も「受験参考書として使っていたようである」。へえ

 コトここに至って、これまでおよそ関心を抱いたこともなかった「南日のだんなはん」についてにわかに興味が湧いてきた。そりゃそうだよねえ、こんな富山くんだりで洋書専門の古本屋なんてゆーおよそ「場違いな」商売をやっているオトコが根城にする場所が、実はこと英文学(といっても、こっちが扱っているのはペーパーバックなんてやくざなシロモノだけどね)に関してはすこぶる「由緒ある」土地柄である可能性が出てきたわけだから。で、色々調べてみた次第なのだけれど、まずは1974年に富山新聞社報道局から刊行された『越中百家』から「南日家の由来」について――

 南日家の先祖がいつから富山市長江に住み始めたかは明らかでない。しかし、屋敷内の樹齢約三百年のハンノキは南日家のその歴史を示している。(略)

 南日家は東長江の地主であり、恒太郎の父喜平の代までは、作男をたくさん持ち、〝南日のだんなはん〟と呼ばれた三百石の豪農。加賀藩から名字帯刀を許された郷士の家柄でもある。戦後の農地解放でその田畑はなくなったが、恒太郎の姉や妹はいずれも地主の家に嫁ぎ、特に滑川の地主赤間家や石坂家との血縁は深い。

 うむ。まさにその「作男」を努めていたのがワタシの母方の実家だったったわけだけれど、単に作男だったというだけではない。ワタシの祖父(藤七)と祖母(チヨ)はいずれも若い頃、下男・下女として南日家に奉公。特に祖母は一切学校教育を受けたことがなく、読み書きもできない人だったそうなのだけれど、その仕事ぶりが認められたか、南日家では台所仕事を任されたり蔵への出入りを認められるなど、重宝がられていたとか。そんなチヨを見初めたのがひとつ年上の藤七。ふたりは縁あって1908年に結ばれることになるのだけど、さしずめその縁結びの神が南日家。また、藤七・チヨの末娘として生まれたワタシの母などもやれ赤まんまを焚いただの草餅を作っただのといっては南日家に使いに行かされたといい、勝手口で大きな声で「まいどはや(こんにちは)」と言うと、「ずーっと奥の方から奥さんが出て来られんがやちゃ」。

 と、そんなような次第なのだけれど、しかし、そんな豪農の家の長男として1871年に生れた恒太郎の人生行路は必ずしも順風満帆ではなかったらしい。「十五歳の夏にはチフスでほとんど絶望視された」のは、まあ、時代が時代だけにありがちなエピソードだとしても、てっきり帝大出のエリートだとばかり思っていたのが実は大学も出ていなかったとは。1889年、富山尋常中学を中退した恒太郎は四高予科一級をめざすも不合格。さらには「捲土重来を期して猛然と受験勉強に励むが、突然病魔に見舞われる」。何でも水晶体の混濁とかで、医者から進学を断念するよう勧告。で、一旦は勉学を断念するものの、学問への情熱抑え難く、40分勉強して20分目を休めるという独特の勉強法で刻苦勉励、遂には独学で中等教員検定試験に合格。しかし、何でこんなに頑張れたんだろう、明治の日本人は。そして、何でこんなに頑張れないんだろう、平成の日本人は……。

 ともあれ、晴れて英語科教員の資格を得た恒太郎は正則中学校教諭、第三高等学校講師を経て1902年には学習院大学教授。この学習院大学教授時代に著した英語参考書が「高志の国文学館」の展示でも謳われていたように、当時、「英語受験対策の参考書として圧倒的な人気を博し」たというわけなんだけれど、単にその昔、人気があったというだけではない。江利川春雄著『受験英語と日本人』(研究社)では1905年初版の『英文解釈法』(有朋堂)を「英文解釈参考書の古典」として特記、「いま読んでも実にすばらしい参考書で、南日の前に南日なく、南日の後に南日なし、との感にうたれる」との英語学者・高梨健吉の言葉を引用。この『英文解釈法』、初版以来、幾度かの改訂を経て戦後も『新訂 南日英文解釈法』として続刊。「南日恒太郎の英文解釈法は、明治、大正を経て、昭和の戦後期まで生き抜いたのである」(同)。

 いや、南日恒太郎という人を単にベストセラーとなった英語参考書の著者と捉えたのでは過小評価に過ぎるようだ。というのも昭和女子大学近代文学研究室が編んだ全77巻からなる『近代文学研究叢書』の第29巻では葛西善蔵や若山牧水らと並んで南日恒太郎を紹介。ここでは歴とした近代文学者という扱い。同書によれば「彼の本来の望は教師として生涯を送ることではなく、抒情詩人になることであった」。実際、部屋住みの独学時代には森鷗外が主宰する『柵草紙』にたびたび投稿。アーヴィング「スケッチ・ブック」、ラム「シェイクスピア物語」、シルレル「ポエムズ・アンド・バラッヅ」等の英書を耽読。あの鬱蒼たる木立に蔽われたお屋敷を思い浮かべればそれなりに絵になるなー、とも思うのだけれど、とはいえ、そこがどこかと問われれば、富山県上新川郡山室村大字東長江。どんだけ肥やし臭いざいご(=「田舎」の意。漢字を当てるなら「在郷」)だったかはワタシがよーく知っている。

 同書では南日恒太郎が編んだ2冊の訳注書、『英詩藻塩草』と『英詩文鑑賞』を「彼の文学的素質の全幅を傾倒したもの」として高く評価しつつ、「彼が最も愛好した」とされるホイットマンのAfter the Dazzle of Dayの原詩と訳詩をエピグラフよろしく掲げているのだけれど、本エントリでもそれに倣うと――

After the Dazzle of Day
After the dazzle of day is gone,
Only the dark, dark night shows to my eyes the stars;
After the clangor of organ majestic, or chorus, or perfect band,
Silent, athwart my soul, moves the symphony true.

昼のまぶしさの後
昼のまぶしさの去れる後
暗き暗き夜のみぞ我眼に星を示すなる、
荘厳なるオルガン、合唱、又は完備せる楽隊の頑鳴りし後にこそ
音もなく我魂をよぎりて真の合奏楽のゆるぐなれ。

 最後に、そんな南日恒太郎に思いもかけず早く訪れた晩年について。1921年、51歳となった恒太郎は学習院大学を辞し、郷里富山に。平田純「旧制高等学校を育てた英文学者南日恒太郎」(『越中人譚』第10巻)によれば「かねてからの念願だった詩作と、英文学の研究に、さらにはこれまでの研究の整理に専念する、自適の生活に入った」。しかし、1923年、富山高等学校(現富山大学)創設の計画が持ち上がるやその初代校長として恒太郎に白羽の矢が。当初は固辞したものの、再三の懇請に「地味な力強い学校を作り上げる」としてこれを承諾。英文学者としての完成よりも郷党の懇請に応える方を優先した南日恒太郎は、しかし、1928年、学校行事の水泳に参加中、心臓麻痺で急逝。享年57歳。その葬儀は校葬として東長江の南日家で営まれたという。往時には盆踊りも行われた広壮なるお屋敷で。おそらくは数多の作男や下男下女らに見守られながら……。

2013.01.15

 南日恒太郎の実弟に田部重治(たなべ・じゅうじ)という英文学者がいる。もっとも、恒太郎が英語教育の分野で名を成した人物だったことさえ今ごろになって知ったくらいだから、その弟も英文学者だったなんてことはつい昨日知った事実。いや、正確に述べるならば、田部重治という富山に縁の英文学者がいて、山岳エッセイの名手としても高名、登山家の田部井淳子とは(多分)縁戚関係――そんな大ボケ情報ならワタシの灰色の脳細胞にインプットされていたんだけど、ハイ、昨日、上書き保存しましたのでもう大丈夫です(ちなみに恒太郎には全部で4人の弟がいたそうで、すぐ下の弟の田部隆次も英文学者。恒太郎・隆次・重治の三人を総称して「南日三兄弟」と呼ぶ由。隆次・重治のふたりはそれぞれ田部家の本家と分家の入婿となって田部姓を継承)。

 で、この田部重治が著した「生い立ちの記」(ヤマケイ文庫版『山と渓谷』所収)と題するエッセイがあるんだけど、その開巻早々――

 私は明治十七年八月四日、富山市の東半里ほど離れた農家南日家の三男として生れた。母は滑川の町から東方二里ほど山の方へ登った大崎野村の農家石坂家の長女であった。

 また、『英語青年』1967年7月号から1968年6月号まで連載した「英文学界そぞろ歩き」の第一回目でも生い立ちについては「父は生粋の農夫、母はその石坂家の娘、南日家に嫁いで12人の子供をもった」云々。

 書いてあることはウソではない。ウソではないんだけど――微妙に事実を糊塗しているというか。前エントリでも引いたように「南日家は東長江の地主であり、恒太郎の父喜平の代までは、作男をたくさん持ち、〝南日のだんなはん〟と呼ばれた三百石の豪農。加賀藩から名字帯刀を許された郷士の家柄でもある」。また、母みんの実家も上新川郡東加積村大崎野の有力な地主。みんの父・石坂嘉右衛門は徳望家として知られ、弟・豊一は衆院議員、富山市長、参院議員を歴任した政治家。それをただの「農家」「生粋の農夫」としたのでは、微妙に事実を糊塗していると言われても仕方がない。あるいは、理想化、とでも言うべきか。

 なぜ「豪農」「郷士」を「農家」「農夫」とすることが「理想化」なのか? それは、田部重治が『ワーヅワース詩集』の翻訳者だから。

雲雀に
霊妙なる楽人、空の巡礼者、
憂いに充つる地上を汝はさげすむや、
または、翼は空高く舞い揚れど、
心と眼とは露しげき地上の汝の巣とともにあるにや。
そこへとふるえる翼をたたみ、歌やめて、
汝は思いのままにくだり宿る。

蔭深き森を夜の鴬に任せよ、
輝やく大空こそ汝の浮世離れたる住家。
かしこより汝は一きわ聖なる本能もて、
美しき歌声を溢るるばかりこの世に注ぐ。
実に天と地との仕事を忘れざる汝こそ、
高く舞い上れども、さ迷わぬ賢者の姿。

 雲雀――。この英国ロマン派が愛した野の鳥(ちなみに宮澤賢治も「真空媒溶」や「小岩井農場」でこの野の鳥を歌っているのだけど、「そのすきとほつた」歌声は讃えつつ、一方で姿形については「よだかの星」で「あまり美しい鳥ではありません」と「ほんとうのこと」を書いているのは興味深い)は「生い立ちの記」でも東長江の春の野を彩る。

 田園のよさについては、それほどには感じなかったが、それでも三月の半ばごろから雪がとけて若菜がたべられるようになり、さらにすすんで菜の花が咲き、一面の水田がれんげに彩られて、それがはてしなくつづいているのを見ると、私はひばりの声をききながら、また、はるかの白い山を眺めながら、田圃道をひとりでさまようようになった。

 理想化された田園の生活を描く文学形式を「パストラル」と言うそうだけど、その起源は古代ギリシャまで遡るとか。そこで描かれたのは自然と人間との完全なる調和。しかし、その根底に横たわるのは「都会と田園という弁証法的な対立」という。そうしたテーマがより一層重みを持つようになるのが産業革命以降。もはや「自然と人間との完全なる調和」など思い描くべくもない中、逆に不変・不動の〈理想郷〉としての「田園」が希求されるようになる。ワーズワースの「湖水地方」、国木田独歩の「武蔵野」。田部重治の記憶の中の家郷もそのような場所。それが〈理想郷〉である以上、「豪農」だの「郷士」だのは不似合い。生まれは「富山市の東半里ほど離れた農家」でなければならないし、父は「生粋の農夫」でなければならず、そこへ嫁いできた母も「滑川の町から東方二里ほど山の方へ登った大崎野村の農家」の娘でなければならなかった……。

2013.01.21

 それにしても、明治時代ってサプライズに満ちてるなあ。戸数わずか40戸(と田部重治が書いている。ワタシも母に聞いてみたんだけど、「昔はそんなもんだったかも知れんねえ」)の村から英文学者が3人も出たり、海外渡航経験すらない人間が「英語界の元老」と畏れられる斯界の重鎮に成り上がったり……。

 1896年、晴れて中等教員検定試験(英語科)に合格した南日恒太郎が英語教育者としての第一歩を踏み出すことになったのが正則中学校。中等教員検定試験の試験委員でもあった神田乃武(かんだ・ないぶ)からのオファーに応じたものという。「独学中、文法をよく研究していたことが、当時の試験官であった神田乃武氏の注目をひき、氏の経営していた芝区の正則中学校の教師となってくれないかと頼まれた」(田部重治「英文学界そぞろ歩き」)。この神田乃武、江利川春雄著『受験英語と日本人』によれば「日本英学界の最高権威」。森有礼に随行して14歳で渡米、新島襄が学んだことでも知られるマサチューセッツ州のアマースト大学で8年ばかり学び、帰国したときには英語がほとんど母国語のように身についてしまっていたという。

 そんな神田乃武が中心となり、1889年に設立されたのが正則中学校(設立時点では正則予備校。1892年、尋常中学校に改組)。「他の予備校が単に英、漢、数のみに終始していた時代に、変則的な教育を排し、正則予備校という名称によって示されるように、人格陶冶と学力充実の両面を兼ねそなえた理想的な教育を目ざすものであった」(昭和女子大学近代文学研究室編『近代文学研究叢書』第23巻)。多分、「正則」の二文字が学校名に冠されるのはこのときがはじめて。今日、あまり使われることのない用語だと思うのだけど、当時は、特に英語教育の分野では盛んに使われた用語らしいことは、大槻文彦著『大言海』にもこの用法での説明が記載されていることからも推測できる。曰く「洋學教授ニ就キテ云フ語。新シク、西洋人ニ就キテ、發音、文法、共ニ、正シキ方法ヲ以テ學ブコト。明治維新前ノ洋學ニ、發音モ不正確ニ、釋義モ迂遠ナシリヲ、變則ト云フ」。

 一の矢があって二の矢がある。1895年、そんな「正シキ方法」を実践しようとする学校がもうひとつ誕生する。それが正則英語学校。創設者は斎藤秀三郎(さいとう・ひでさぶろう)。神田乃武より9つばかり若く、正則英語学校創設当時は弱冠29歳。この斎藤秀三郎というのが、まあ、大変な人で。興味のある人はWikipediaの「エピソード」の項を参照して欲しいんだけど、ワタシが特に興味を惹かれるのは「俺の研究は戦争だ」(正確には「俺の研究と云うのは是は戦争だよ君、英語の研究と云うものに対して俺は戦争をして居るようなものだ」)と語ったとされるエピソード。実は斎藤という人、海外留学経験がないんだよね。これは神田乃武や、やはり海外11年という留学経験を持つ井上十吉(いのうえ・じゅうきち)と比較して英学者としては大きなハンデ。しかし、何するものぞ、の気概が斎藤秀三郎にはあったんだろうね。それが「俺の研究は戦争だ」。

 ちなみに、神田・井上・斎藤の三人を総称して「明治英学の三大家」と呼ぶらしいのだけど、大村喜吉著『斎藤秀三郎伝 その生涯と業績』(吾妻書房)から、この三人のキャラクターを比較した一節を引くと――

 斎藤秀三郎の生涯を通観して感ずることは彼の「非社交性」である。この一点では斎藤は井上十吉に通ずるものがあり、神田乃武の外交官肌とおもしろい対照をなしている。井上十吉の場合は性来無口の上にやゝ吃り気味だったので、あれ程の実力を持ちながら教師としては余り冴えなかった。このことは生得の隠遁的な性格と共に彼の全努力を辞典と講義録の編纂に向けさせた。斎藤の場合は之とは異なる。『人に対して豪放磊落時に傲慢無礼、事に当って小心翼々、時に戦々兢々。御気に入りの取巻連に囲まれては談論風発、気心の知れない訪問者に対しては初対面と否とに係らず渋面無言。』『この頃英語は既に先生の宗教になって居た。そうだ先生は英語と云うマイクロコズムの中に住んで居られたのだ。(略)』

 引用文中、二重括弧で括られた部分は斎藤の教え子でもある英文学者・石川正通が『英語青年』に寄せた回顧の一節なんだけど、この後まだまだ続く。「先生は決して美しい夢を捨てなかった。その美しい夢が悪夢となって先生を魘う時先生はひどくみじめであった」なんて一節もあって、この石川正通という人、よほど斎藤秀三郎が好きだったんだろうね。「確かに斎藤には敵も多かった」とは同書にも書いてある通りなんだけど(そのひとりが「国民英学会」の磯辺彌一郎)、一方で石川正通(や、この評伝の著者である大村喜吉)のような“フォロワー”も生み出す。しかも晩年には「英語界の元老」と畏れられる斯界の重鎮にまで昇りつめながら、海外留学経験は愚か(『斎藤秀三郎伝』を読む限りは)海外渡航経験さえないという意外性。もしこの時代に生れていたら、誰に英語を習う? 神田乃武や井上十吉の本場仕込みの英語も魅力的なんだけど、ワタシなら断然、斎藤秀三郎。斎藤の前で拙い訳を披露して「馬鹿! 何だその訳は」と怒鳴られたい……。

2013.01.22

 ああ、17歳だったのか、斎藤秀三郎は。で、弟子の伝法(つのり)久太郎が15歳。17歳の師匠が15歳の弟子に「万国史」を訳させ、「歴史は一般の意義に於て人類の……」と始めるや否や「馬鹿! 何だその訳は。駄目々々。明日からナショナルの第二リードルを持って来い」。前エントリではつい持ち前のM気(?)を発揮してあらぬことを口走ってしまったのだけど、このトシになって17歳に馬鹿呼ばわりされるのはつらいなあ。でも、「馬鹿! 何だその訳は」と一喝された方が後腐れがないのは確か。それを、薄笑いでもされた日には……。

 市河三喜(いちかわ・さんき)という人がいる(いた)。日本英文学会の初代会長で、永らく財団法人語学教育研究所所長も務め、1959年には文化功労者にも選ばれたとてもエライ人だそうです。ワタシがこの人のコトを知ったのは奥本大三郎の『本を枕に』(集英社文庫)という本によってなんだけど、何で虫屋の奥本先生の本に財団法人語学教育研究所所長が登場するかといえば、市河三喜という人、英文学者(てゆーか、英語学者?)であるとともに『昆虫・言葉・国民性』という著書も持つ虫屋でもあったのだという。で、件の「英語の虫」なる小文も虫屋としての市河三喜を紹介すべく綴られたはずのものなのだけれど、その冒頭、5ページほど費やして書かれているのは――

 言語学者や文法家が言葉を大切にするようでいて、恐るべき無味乾燥の文章を書く。詩人や小説家とは、言葉というものについての考えが違うのであろうと思う。

 それはたとえて言って見れば、ステレオマニアのようなものである。トランペットの高音の伸びがどうとか、パイプオルガンの低音の響き具合がこうとか、機械をしょっちゅういじり、高価な部品を取り換えてばかりいる人なのに、音楽そのものにはとんと興味がない。そしてその一方には非道(ひど)い再生装置ですり切れたレコードを聴きながら、音楽を楽しむ、あるいは理解することの深い人もいるのである。

 市河三喜という人も、そんな「高価な部品を取り換えてばかりいる人なのに、音楽そのものにはとんと興味がない」タイプの人物、言い換えれば「いわゆる語学好きの文学オンチ風のところが一寸(ちょっと)あったのではないかと思われる」として、以下、中島健蔵が東京帝国大学文学部仏文科の副手時代に経験したあるエピソードを紹介している。ちなみに奥本大三郎も東京大学文学部仏文科卒。だからこれは仏文派がふたりがかりで英文派ひとりに相対しているという側面があることを頭に入れておく必要がある。ともあれ、以下は当の中島健蔵が『回想の文学① 疾風怒涛の巻』(平凡社)で「くやしさいっぱいになって」(奥本大三郎)書いている「事件」のあらまし――

 ……市河教授が、講義の前、フランス語の不規則変化の動詞の不定法がわからなくて、仏文の副手のわたくしに研究室で聞いたことがあった。ペローの童話か何かの引用部分に出てきた動詞で、choir(落ちるの意)だったと思う。とっさに、わたくしは不定法が思い出せなかった。それで、こいつ、できないなと思ったらしい。目の前に教材をつきつけて、かなり長いペローからの引用文を「訳してみたまえ」といった。なんともいえない不愉快な、なめた態度だ。大体市河三喜は(と呼び捨て――引用者)、廊下で会って、こっちが頭を下げても、かえって首をそらせて見くだしながら通りすぎるという癖があった。いわれるままにペローを訳したのはいいが、やはりあがっていたらしく、バタに当るフランス語のbeureを、チーズと訳してしまった。すぐにフロマージュ……と誤訳に気がついたが、その時の市河教授の薄笑いは、意地悪そのものだった

 本当に「くやしさいっぱい」。この話はさらにつづきがあって、市河三喜が勝ち逃げよろしく研究室を去った後、辞書で件の語の不定法を調べた(実際に辞書を引いたのは豊島与志雄という。豊島与志雄も辞書を引かなければ分からないほどの「ひどい不規則変化」だったと言いたいんだね)中島健蔵は、「悪気はなく、仕かえしのつもりでもなかったが」、市河教授の教室に飛び込み「あれはショワールでした」。これが「不用意に教授の顔を逆なでした結果になった」。何しろ、仏文の副手に質問したことが学生にバレてしまったのだから。後に市河三喜は中島健蔵の講師委嘱に関する教授会でただひとり反対票を投ずることになるのだけれど、「人間の関係が一たびこじれだせばきりがない」(奥本大三郎)。ちなみに奥本大三郎は市河三喜を「自分たちの高校の禿頭の英語の先生」とダブらせているのだけれど、禿頭でこそなかったがワタシの高校のモリタだって……。

 と、振り返えればこの種の人物、誰しもひとりやふたりは思い浮かぶと思うのだけど。事件から何十年も経って「故人のことをとやかくいいたくはないが」と断りつつ「とやかく」書かれてしまうのも、結局はご当人の「不徳の致すところ」。ただ――ただねえ、ふたりがかりというのが。しかも、これは英文派と仏文派の鞘当てでもある。ここは立場上、市河三喜に助勢したいところなのだけれど――実は市河三喜って斎藤秀三郎の弟子なんだよね。「一夏『正則』の夏季講習に通って斎藤先生の出られるクラスを撰んで出席した」云々ということは、大村喜吉著『斎藤秀三郎伝』にも載っている。弟子とは師匠を真似るもの。「こっちが頭を下げても、かえって首をそらせて見くだしながら通りすぎるという癖があった」なんて、伝えられる斎藤秀三郎のイメージそのもの。曰く「人に対して豪放磊落時に傲慢無礼」。結果、多くの敵を作ってしまうのも師匠譲り。

 そう考えれば、なかなか憎み切れないところもある。もっとも、「傲慢無礼」は受け継ぎつつ「豪放磊落」はどこかに置き忘れてきたようで、中島健蔵の誤訳に対しても「馬鹿! 何だその訳は」と一喝しておけば後腐れもなかっただろうに、つい意地の悪そうな薄笑いを浮かべてしまったのは「人間・市河三喜」が出てしまったとしか……。

2013.01.23

 この際だ、やはり斎藤秀三郎の弟子で「傲慢無礼」を絵に描いたような男がもうひとりいるので、この男のことも書いちゃえ。その名を茂木祖一郎というのだけれど――

「おい、君は大学を出たんだってね。」

 と、茂木さんはいきなりそんな風に呼びかけるのである。呼びかける場所は、たいてい会社の茶呑場であった。

「そうです。」

 と、呼びかけられた方は、当然のことながら一応は胸を張って、誇らしげに答える。

「じゃア英語はさぞかしうまいもんだろうね。いや、これは失礼。うまいにきまっている。ところで、ぜひひとつご質問さして頂きたいんだが――」

 ここにいたって、たいていの新入社員は、この年寄のくせに、課長でも部長でもなし、まして重役でもなさそうな、痩躯短身、見るからに狷介らしい面魂の茂木さんを、うさん臭げに眺めるのである。

「鶏群の一鶴、という言葉は、英語で何んと訳すのですかね。」

「さア――」

「おや、ごぞんじない? 残念至極。では、もっとくだけて、あばたもえくぼ、ってのはどうです?」

「そんなむつかしいのは困ります。」

「おや、何がむつかしいもんかね。ちょっともむつかしくないね。実にやさしい。ラブ・イズ・ブラインド。」

「あッ。」

「わかったらしいね。大学を出ても何んにも知らんらしいね。困るね。もっと勉強し給え。」

 うーむ。ワタシがもしこの「新入社員」だったら、「あばたもえくぼ」くらいなら、もしかしたら。でも、「鶏群の一鶴」はとても無理。ランダムハウスで調べたら a Triton among [or of] the minnows だそうです。なぜか鳥の喩えが魚になっちゃうんだね。仮に a crane among fowls と逐語訳したら、「茂木さん」はどんな反応を示したんだろう?

 で、賢明なる読者諸兄姉はおわかりだと思うけど、↑に引用したのはある小説の一節。源氏鶏太の「英語屋さん」。源氏鶏太はこの作品で1950年上半期の直木賞を受賞(ちなみに、源氏鶏太は富山出身なんだけど、去年は生誕100周年。でも、地元でもあまり盛り上がんなかったなあ。生誕100周年という絶好のタイミングを逃した今、最早再評価は望み薄? まあ、「サラリーマン小説の第一人者」という評価は不動でも、今やその「サラリーマン」が絶滅危惧種というんでは……)。何でも著者の体験に基づいた作品とかでモデルとなった人物もいるらしい。おそらくは「茂木さん」のような「卓越非凡」な英語の使い手で、↑の「新入社員」のようにいささか意地の悪い「口頭試問」でいたぶられた人物も実在したということかもね。お気の毒に。ただ――実際に小説を読んでもらえばわかるのだけど、本当に「お気の毒」なのは実は「茂木さん」の方なんだよね。

 茂木さんは会社の職員でなくて、嘱託であった。二十年前に入社したときからそうなのである。これは茂木さんにとって生涯の痛恨事であったようだが、普通の職員でも停年が満五十五歳で、それを過ぎても在職する場合は、嘱託となる内規があるので、近頃は身分上の不平不満を洩らすことだけは遠慮するようになった。しかし、それだからといって、満五十五歳までに職員にして貰えなかったという不平不満が、茂木さんの胸底から完全に払拭されたと安心するのは早計である。職員と嘱託では、賞与は勿論のこと、退職慰労金にだって雲泥の差があるばかりでなく、毎朝印判を押す出勤簿の順序も、茂木さんは昨日入社したばかりの女事務員より後になっていた。

 ね、お気の毒でしょ? そりゃあ誰かターゲットを見つけては「不平不満」をぶつけたくもなる。それが↑に引いたような新入社員に対する「口頭試問」となるわけだけれど――実はこの「茂木さん」が小説の中では「斎藤博士の正則英学塾」出身という設定なんだ。しかもそれが最終学歴。大学と名の付くものは出ておらず、「大学どころか小学校を出て、あとは斎藤博士の正則英学塾に学んだだけである」。当初、物語では「そのあと、どんな苦労をして英語を勉強したのか不明」とされているのだけれど、主人公(風間京太)がひょんなことから「茂木さん」と仲良くなり(というか、「子分」になる)聞き出したところによれば、「それからシナにわたり、新聞記者をやったり、シナ浪人の真似ごとをしたりしているうちに、英語の実力に磨きをかけ、やがて、日本に戻って来て、会社嘱託となったのである」。ほう、なかなかの「快男児」ではないか。

 ところが、会社内での評価は「快男児」からはほど遠い。ついたあだ名は「英語屋さん」。一応、「さん」はついているが、相手を立てるニュアンスはない。むしろ、見下すというか、茶化すというか。ただの便利屋。会社としても、その英語力は必要とするものの、その人物は必要としない。そんなところ。ところが、そんな人物になぜか主人公は惹かれるものがあって――と、以後、この作家ならではの「ペーソスあふれる物語」が綴られて行くわけだけど、ただ、本当にこの小説、例えば小島政二郎が直木賞の選評で述べたごとく「作品の底にペーソスがあって生きる作柄」なんだろうか? ワタシの評価はちょっと違う。いいですか? 茂木祖一郎は斎藤秀三郎の教え子なんだ。この小説が書かれたのは1950年。その時点で57歳の嘱託社員とすれば、「正則英学塾」に通ったのは1910年代。まだ「英語界の元老」は健在。つまり、茂木祖一郎は直接、斎藤秀三郎の教えを受けている。

 茂木祖一郎が斎藤秀三郎から学んだもの。ひとつは、その「傲慢無礼」な態度。よほどカッコよかったんだろうな、その自信に裏打ちされた「傲慢無礼」とも見える一挙手一投足が。だから市河三喜も茂木祖一郎も真似た。そしてもうひとつがその自信の裏付けともなった「猛勉強」。一方が「世間で謂う非常な勉強家の三倍以上も勉強した」と言われるほどの勉強家なら、もう一方も「わしは支那以外の国へはいったことがないのだ。生命を打ち込んで、死物狂いで勉強したればこそ、今日の自信が得られたんだ。英語を天職としていられるのだ」。これぞ斎藤イズム。「英語屋さん」には最後に見事その英語力でさる重役の鼻を明かす痛快なエピソードが用意されているのだけど――だから、この「英語屋さん」とは、学歴もない、海外留学経験もない(実は斎藤秀三郎も海外留学経験がない)、しかし「師匠」斎藤秀三郎の教えを糧に「英語屋」としてタフに生き抜いた男の物語――そう読みたいんだけど……。