貴兄が親父様にプレゼントした『自分史マニュアルメモリーノート』に終戦当時を振り返ったこんな質問とそれに対する答があります。
◆終戦の昭和20年8月15日、あなたはどこで何をされていましたか。またそのときの感想を述べてください。(当時は何才でしたか)
その時は軍隊で現役一年兵で仙台市の軍隊で「伝三三七七部隊」に居った。野砲隊であり、当時は山の中で何時か攻めて来るであろうとして山の中を切り開いて大砲を据え付ける陣地を作って居った時であった。その時の感想としては誠に残念であり悲しい気持でこれで日本も終りだと痛感した。その当時は21才であったが、これで我が人生も終りかと思ったものだ。
ここに登場する「伝三三七七部隊」について調べてみました。何やら暗号めいた不思議な文字列ではありますが、確かにこれは一種の暗号で、太平洋戦争中に陸軍が部隊名を秘匿する目的で用いた「通称号」というものだそうです。もう少し詳しく言うと、冒頭の「伝」は「兵団文字符」というもので、師団・独立混成旅団などの独立した作戦能力を持つ軍事単位に割り振られ、その下に「通称番号」を振って部隊を識別した。で、「兵団文字符」と「通称番号」を合わせたものが「通称号」で、それがつまり「伝三三七七部隊」。これを正規の部隊名にデコードすると第七十二師団隷下(という言い方をするそうです。しかし「奴隷」の「隷」ですよ。ま、「隷属」するという意味なんでしょうね)の野砲兵第七十二連隊――と、こうなります(ここまで調べるだけでも結構な手間を食った。ネトウヨ諸君からはそんなことも知らないのかと言われそうですが、ま、悪の帝国ニッキョーソが日本人をムチモウマイにしたと、そういうことで)。
では、この野砲兵第七十二連隊について『日本陸軍兵科連隊』(新人物往来社)を繙くと――
野砲兵第七十二連隊
通称号・傳三三七七 編成地・仙台 編成時期・昭和十九年四月四日 終戦時の上級部隊・第七十二師団 終戦時の所在地・保原町(福島県) 最終連隊長・岩本東三
本土決戦に備え、福島で第十一方面軍の機動打撃兵団砲兵部隊として、関東地区または青森方面への転用任務をもって作戦準備中に終戦となった。
え、本土決戦⁉ いきなりこの四文字に頭をガーンと叩かれたような気持ちになるのですが、親父様が書いている「何時か攻めて来るであろうとして」とは、つまりはそういうことなんですね。従来、小生は、親父様は召集はされたものの戦地に赴くことはなく国内で訓練中に終戦を迎えたと理解しておりましたが、必ずしもそうではなく、本土決戦に備えた「作戦準備中」に終戦となったと。ただ、ここで以降に記すことを若干前倒しして親父様が担った「作戦」について一言しておくと、↑に記されている「関東地区または青森方面への転用任務をもって」というのは、仮に米軍が「関東地区または青森方面」に上陸して来た場合はそちらに「転用」される予定だったということで、それが「伝三三七七部隊」のそもそもの任務だったわけではない。そもそもの任務は別にあった。しかし、それについて『日本陸軍兵科連隊』は何も記していない。実は↑に引いたのは同書に記されている「伝三三七七部隊」についての全文。誠に簡潔。同じ野砲兵連隊でも華々しい武功を挙げたり総員玉砕のような悲惨な末路を辿った連隊についてはそれ相応の文字数も費やして記述されているのだけれど、「伝三三七七部隊」についてはわずかに66字ばかりのしかも本来の目的から外れた転用任務について記すのみで、これで「伝三三七七部隊」について何かを語ったとは到底言えないと思うのだけど、しかしこうした事情は他の「軍記」の類いに当たったところで同じ(関連書としては『陸軍師団総覧』にも目を通しております)。あるいは敗戦のどさくさの中で関連資料が廃棄され「わらない」ということなのかもしれないけれど、しかしだったらそう書くべき。そうはせず読みようによっては読者をミスリードすることになりかねない「転用任務」について記してそれでヨシとするかのような態度からは「軍記」なるものの性格が透けて見えるような気もします。つまり「伝三三七七部隊」のような実際の戦闘に臨むことがなかった部隊については特に記す必要はなし。彼ら(軍事史家)が興味を示すのは(そして歴史に残そうとするのは)派手なドンパチを繰り広げた部隊についてのみ。「作戦準備中」に終戦となった部隊なんて語るに値せず――。そんな部分があるんじゃないのかと。ま、これは別に世に言う「ブサヨ」の下衆の勘ぐりということでもいいんですが。ともあれ、「軍記」なるものにおける「伝三三七七部隊」のプレゼンスは極めて希薄であると。
しかし――と、音読ならばここで声のトーンを張り上げる――軍事史家はいざ知らず、その時代、その部隊と個人的な関わりを持ったものにとってはそれが勇名をはせた部隊であろうがなかろうが何かしら「語るべき理由」はあったのだと思われます。実は「軍記」の類いにつづられた「伝三三七七部隊」の消息は誠に限られたものなのだけれど、「軍記」という文脈からは少し外れた、むしろ「銃後」の風景の中で捕えられた「伝三三七七部隊」の姿ならば少なからず採集が可能。そういうものをひとつひとつ手繰って行くことによって「伝三三七七部隊」の活動実態と彼らに託されたミッションの全貌――とまでは言わないけれど、アウトラインくらいは見えてきた――と、以下、そういう話をしたいと思うのだけれど……。
まず『日本陸軍兵科連隊』にある「終戦時の所在地・保原町(福島県)」という記載を手がかりに現在の福島県伊達市保原町(旧伊達郡保原町)が1987年に刊行した『保原町史』に当たるとこうある――
戦局の雲行きがいよいよおかしくなり、本土決戦が避けられない状況にいたって、本土決戦のための軍隊の配備がなされた。
まず、学校は軍隊の兵舎としてもっとも利用し易い構造になっているので、中等学校が学業を中止し、勤労動員に通年出動になると、そこを兵舎として軍隊が常駐することが多かった。保原でも県立保原中学校は、生徒が勤労動員に狩り出された後は、本土防衛の軍隊が駐屯することになった。このほかにも、直接保原町内ではないが、高子沼の南側にも、急造の仮兵舎を作って「伝」部隊が駐屯した。
この県立保原中学校は現在の保原高校。その保原高校が2002年に創立80周年を迎えた際に刊行した『県立保原高等学校創立八十周年記念誌』の「年表」には「昭和20年3月」の出来事として――
伝部隊本校校舎に駐屯(先遣隊は昭和一九年、伝三三七七部隊、正式名称は野砲兵第七二連隊、連隊長岩本東三中佐、保中に連隊本部と第二大隊)
さらにはこの保原中学校の卒業生であり、当時、青年団員として伝部隊の施設設営などにも協力したという人物が保原で活動する郷土史研究会の会報『郷土の香り』(保原町文化財保存会)の中で当時を振り返った回顧録をつづっていることがわかった。第44集(平成23年刊)収録の「野砲兵第72連隊の思い出 保原に兵隊がやってきた」がそれ。著者は鈴木一榮氏。
太平洋戦争末期の昭和20年3月、国土決戦防衛計画に基づき吾が保原町と梁川町に野砲兵第72連隊が配置、駐屯することになった。
宮城県仙台市より途中、野営一泊した部隊が乗馬の将校を先頭に数百名の兵士と軍馬に牽引された二十数門の野砲車と数十輛の弾薬車が金輪のガラガラとした音をたてながら入ってきた。当時の保原中学校に連隊本部と第二大隊本部を設置し、梁川高等女学校には第一大隊本部を設置した。中学校校長室は連隊長室となった。
金輪のガラガラとした音をたてながら入ってきた――というあたりは当時、実際にその目で見、その耳で聞いたものならではの臨場感。著者の鈴木一榮氏は当時16歳。東京空襲で焼け出された甥の話を聞いて「戦争は負けた」という祖父と家の前で口論する血気盛んな軍国少年だったらしい。そんな鈴木氏の目に映った「伝三三七七部隊」の保原町駐屯記――
野砲部隊、文字通りのけん引力一個大隊二百頭余りの軍馬は神社や寺院に分散し、境内中の急造の馬小屋で飼育されていた。神明宮(宮下、後に市街地で空襲の恐れがあり、大泉熊野神社に移転)、薬師堂(鉄砲町)、丸山観音(野崎)、私たちの小幡部落の熊野神社境内でも本殿拝殿の周囲に近在の山から切ってきた松丸太などで作った馬小屋に数十頭の軍馬が飼育されていた。神社前の小幡青年会館は小兵舎となり、佐藤軍曹以下(上等兵一名、一等兵十数名)の分隊員が常駐し、馬の世話をしていた。食事は部隊より兵士二名が長い棒に飯盒を下げて運んでいた。食事は粗末で量も少なく、兵士の中には飼育用の高梁(こうりやん)を民家で煮てもらい腹を満たしていたという。ある晩、上等兵と一等兵四人が我が家に立ち寄った。祖父が祖母に握り飯などを作らせ与えた。祖父が「セガレモ上等兵で今満州にいる」と言った。その後、兵士たちは出征軍人の家に来てはよくないと思ったか、以後来なくなった。
その飢えた兵士の中にわれらが親父様も――と想像をめぐらしたとしてもあながち突飛ではないと思うのですが、しかし結論から言うとそこに親父様はいなかった。ここで親父様の「陸軍戦時名簿」の登場となります。世にそういうものがあるというネット情報を仕入れ県庁の厚生部でもらったきたものですが、その履歴の欄を見るとこうある――
昭和二十年三月二十二日傳作命甲第十七號ニヨリ福島縣伊達郡梁川町ニ移駐
実は親父様は野砲兵第七十二連隊第三中隊所属(これも「陸軍戦時名簿」にある)。とすると第一大隊。鈴木手記にもありますが、保原中学に腰を下ろしたのは連隊本部と第二大隊。第一大隊は保原町の隣町である福島県伊達郡梁川町(現伊達市梁川町)の梁川高等女学校(現梁川高校)を本部にした。そこで以後は梁川町関係の資料に当たることになるわけですが、そうすると今度はやはり同地で活動する郷土史研究会の会報である『郷土やながわ』(梁川町郷土史研究会)に当事者による回顧録が収録されていることがわかった。しかもこれが頗る読みごたえがある。何しろ20ページにも渡る力作で、編者があとがきで「論考」「臨場感あふれる労作」と形容するのも頷ける。その「論考」とは第13号(平成16年刊)収録の「伝部隊のことども―風化していく伝部隊の想い出―」、著者は山際健次郎氏。何でも伝部隊駐屯時は梁川国民学校の六年生だったそうですが、当時の愛国少年にとって兵隊さんはヒーロー。この原稿執筆当時、山際氏は古希に届こうかという年齢だったと思われますが、少年時代そのままの眼差で伝部隊との“出会い”を振り返っている――
伝部隊の兵士達が、ポチポチと姿を見せ始めるようになったのは、昭和十九年の初秋九月の末頃だったと思う。「ポチ・ポチ」というのは、彼らは小グループにわかれ、しかも間を置いて町に現われていたからである。
しかし少人数とはいえ、軍服姿の兵士達が町にやって来たことは大きな話題となり、「兵隊サマがやって来た」というニュースは、またたく間に町中に広まっていった。
(略)
小生意気な中学生と違って、我々小学生は大人の世界に飛び込むのが実にうまい。すぐに大人の思惑を読み取って、すんなりその世界に入っていく。こうしたテクニックにかけては子供は正に天才的である。
人一倍好奇心の強かった私などもその好例で、年下の子分達を引き連れて、すぐにこの兵士達と仲良しになった。
兵士達は二、三のグループにわかれ、役場の人に案内されながら、当時町内のあちこちにあった倉庫を調べている風だった。恐らく兵站物資集積のための予備調査だったのだろうが、長い曹長剣を吊った班長ドノは、何故か特に偉いように感じられた。
またこんな一節もある――
人も寝静まった寒空の道を、ザック、ザックと規則正しい軍靴の音を残して行進する小部隊の靴音が堪らなく心強く感じられ、私達は安心して眠りについたものだった。当時は警防団も人手不足で、恒例の夜警巡回も無くなっていたから、余計に兵士達の軍靴の音が心強く感じられたのだろう。
行進中、兵士達は良く「伝部隊の歌」を歌っていた。「北風嵐吹き荒れて……」に始まり、「……大詔かしこみて、決然立ちし伝部隊」に終わるこの部隊歌は中々の名調子で、その低くおさえた歌声が、寒空の中でかえって力強く響いていくのだった。
私は今でも時としてこのメロディを口ずさむことがある。余程この伝部隊への想い入れが強かったのだろうと思う。
同じ軍歌をめぐる記述でも例えば『保原町史』の「これら軍隊の配置は、軍の方針としてはあくまでも本土決戦に備えての配置だったのであろうが、毎日町内を軍歌を高唱しながら行進されていると、町民としては複雑な気持であった」という「戦後民主主義」のフィルターを通して描かれたそれと比べた場合、こっちの方がずっと生き生きしているように感じられるのはそれだけ小生も「右傾化」しているということでしょうか? ともあれ、昭和19年の末から半年あまり山際少年は伝部隊の「兵隊サマ」と濃密な交流を持った。少年の目に映った伝部隊の兵士は密造酒に顔を赤らめて軍用車を運転したり、夜半、兵舎を抜け出して町内の娘を追い回したり、はたまたダイナマイトを仕掛けて川で魚を捕ったり(このエピソードについては鈴木手記にも記載あり。つまりはそれほど食うものがなかった)。いささか本土決戦を前にした「作戦準備中」にしては弛緩気味とも感じられるのだけれど、しかしそれもあながち責められないと思わせる事情があったらしい。というのは、実はそれらの兵隊は主力部隊が去った後に町に残された留守部隊。主力部隊は当時の宮城県名取郡岩沼町(現岩沼市)に移駐して陣地構築に従事していた。『日本陸軍兵科連隊』をはじめとする各種軍記の類いがオミットする伝部隊が担ったそもそものミッションとはこの岩沼における陣地構築作業。この事実を伝えてくれるのは山際健次郎氏が敢行した伝部隊幹部への電話インタビュー。原稿執筆当時、まだ「伝三三七七部隊」の連隊長・岩本東三中佐と第二大隊長・岩城秀一郎少佐は健在だった。そして「盲蛇に怖じずとばかり、持前の強心臓で早速にダイヤルを廻してみた」結果、実現したそのインタビューから、まずは岩本東三中佐との会話。部隊には総勢1,200名近い兵員がいたという話につづいて――
[問] それにしても、両町にはそれぞれ数百名規模の兵隊さんが駐屯していたわけですね。
[答] いいえ、そんなにはいませんでした。というのは連隊の主力は当時岩沼に移駐し、陣地構築に従事していたので、残留していたのは兵器や馬匹の手入れをする要員と連隊本部要員位のものでした。全兵力の三分の一に満たなかったと思いますよ。もっと少なかったかなあ。
また岩城秀一郎少佐とのインタビューではもう少し突っ込んだやりとりも交わされていて――
[問] 岩沼の陣地構築は、本土防衛作戦が、水際迎撃から内陸地迎撃に変更されたからでしょうか。
[答] いいえ、九州地区ではそうだったかも知れませんが、東北では最初から内陸地迎撃作戦が立てられていました。
[問] それにしても、仙台湾沿岸の防衛には相当の兵力が必要と思われますが。
[答] 戦術的には複数師団が必要だと思います。
その中で私達は岩沼地区に坑道を掘り、そこに火砲を引き込んで対応する予定だったのです。
[問] それにしても、砲兵が工兵になったような感じが致しますが。
[答] そんなことはありません。火砲の特性は、我々砲兵が一番良く知っています。火砲陣地の構築法についてもまた然りです。
[問] 構築中、馬や大砲も同行したのでしょうか。
[答] 連れて行きませんでした。特に馬匹の手入れは大変ですから、連れて行けば作業能率が下がってしまいます。その分、留守部隊の苦労は大変だったと思います。
留守部隊の苦労は大変だったと思います――。つまりそれは置いてきぼりを食って馬匹の世話や武器の手入れに明け暮れる隊員の士気を維持するのが「大変だった」と、そういうことを言っているわけですね。ともあれ「岩沼地区に坑道を掘り、そこに火砲を引き込んで対応する予定だったのです」――、親父様が書き遺していた「当時は山の中で何時か攻めて来るであろうとして山の中を切り開いて大砲を据え付ける陣地を作って居った時であった」とは、正にこのことに違いありません。生前、われわれにも一切語ることなく、言うならば墓場まで持って行ってしまった親父様の軍隊生活の実像がようやく見えてきたようです。
ということで、ここでわれわれも親父様とともに梁川から岩沼へ“移駐”することになりますが、宮城県岩沼市と言えばあの東日本大震災の被災地。津波で滑走路が土砂で埋め尽くされ使用不能となった仙台空港は岩沼市にあります。また岩沼市西方に鎮座する千貫(せんがん)山にはかつて大津波に流された舟がてっぺんの松にひっかかったという伝承があって、しかも伊達政宗が徳川家康に語った話として『駿府政事録』なる書物に記載されているそうです。千貫山の標高は191メートルあるそうなのでいくら何でもそのてっぺんの松に舟が引っかかることはありえないと思われるのですが、とは言え地層調査によれば過去には中腹まで津波が遡上した痕跡もあるとかで、東日本大震災を経験した今となってはあながち「ホラ話」とも言い切れない――そんな見方もあるとか。
で、どうやらこの千貫山こそがわれらが“センチメンタルジャーニー”の到達点。まずは『岩沼市史』より伝部隊に言及した部分を引くと――
二十年も四月になると、岩沼小学校を始め、岩沼周辺の各小学校の校舎の一部には、本土決戦に備えた陸軍部隊(伝部隊)が駐屯し、二の倉から閖上、蒲生に至る海岸線には、米軍の上陸に備えた第一線部隊が配備された。しかし、兵隊の中には小銃をもたない丸腰の兵隊もいた。また、千貫から愛島、高館にかけての高地には、防空監視所や対空機関砲陣地などが設けられたが、八月に入って、広島と長崎に原爆が投下され、次いで、ソ連が対日宣戦布告をして、満州、朝鮮に侵攻してくるに及んで、遂に日本も戦争継続を断念し、八月十五日、ポツダム宣言を受諾し、戦争は終った。
さらに、このとき、伝部隊が兵舎とした岩沼小学校(伝部隊駐屯当時は岩沼国民学校)の創立百周年記念誌『蛍雪百年』にはこの当時を振り返った学校関係者の回顧談が収録されていて、その名も「兵舎となった校舎のことなど―思い出すまま―」と題した当時の教頭・勝又憲質氏の回顧によれば――
これは昭和二十年に入ってからのことだと思います。或る陸軍の部隊が学校に駐屯したことがありました。その頃は護仙部隊とか暁部隊とかいう呼び名の部隊があったようですが、これは何という部隊だったかトンと思い出せません。或る日(二・三月頃と思います)部隊の係の将校が学校に来まして、校舎の一部を使用し駐屯したいというのです。当時知事からは「軍から校舎使用の要請があった場合は、授業に支障のない限りにおいて協力するように……」という趣旨の通達もあったことですので、先生方とも協議し、更に役場・地方事務所(県の出先機関)等に連絡の上、旧校舎(当時は中学舎と呼んでいた)に若干の空教室もあったから、授業中は校庭で訓練等をしないことを条件に、何教室かを貸与したことがありました。その部隊は、どんな使命を帯びて駐屯したのかは知る由もありませんが、新編成の部隊らしく、兵器もあまり持たず基礎的な訓練も十分とは言えないようでした。朝は大てい生徒が登校する以前に何処かへ出向いて行きました。噂によると、本土決戦に備えて千貫の山に陣地を構築しているのだということでした。
現在、千貫山を含む高館丘陵一帯は「高館・千貫山緑地環境保全地域」に指定され、宮城県のHPによれば「地域内には古くからの寺社・仏閣や遺跡など歴史を感じさせるものが多く、それが豊かな自然の中にほどよく溶け込んで、古代のロマンを訪れる人の心に静かに語りかけてくれます」。またトウホクノウサギ、ニホンリス、ホンドタヌキ、ホンドイタチなどの動物やサンコウチョウ、ノスリ、フクロウ、アカゲラなどの鳥類。あるいは国蝶であるオオムラサキ、さらにはカブトムシ、ミヤマクワガタ、カナブン、アオオサムシなどの甲虫類。もし小生が岩沼市民ならば間違いなく自然観察のフィールドとして日参したであろうその豊かな里山に、今、当時の痕跡は何か残っているのでしょうか? 小生が話を聞いた岩沼市役所の担当者によれば「わからない」。残っていない、というのではなく、残っているのかいないのかも含めて「わからない」。少なくとも「戦争遺跡」のようなものとしては保存されてはいないことだけは確かなようです。しかし、保存されていようがいまいが、紀元95年の津波の痕跡さえ残っているくらいなのだから、たかだか70年ばかり前の人間の営為の痕跡が全く残ってないなんてことはありえない。そう思って望む千貫の山の峰々はどこまでも青く眩しい……。