富山県中新川郡上市町の山の中に稲という名の集落がある。いや、あった。今、その地を訪ねても生活の気配は感じられない。県道から分岐した薄暗い林道を下っていくとほどなく目に飛び込んでくるのは「廃村」という現実を突きつける無残にも崩れ落ちた家屋(跡)。それを横目に急カーブを右に折れると左手には石造りの鳥居。しかしどう猛に繁茂した枝々に遮られてどうかすると見逃してしまいそう。それでも何か魅入られるようなものがあって足を踏み入れると2基の狛犬の姿も。しかしその先にあったはずのお社は基礎部分のみを遺してきれいサッパリなくなっている。そして、その代りと言うにはあまりにも不似合いな妙に真新しい標柱が1本。正面には「稲村神明宮旧跡」の文字。また側面には「平成十六年十月三十一日」という日付。あるいはこの日付こそはこの地が人間の住み処であることを停止したその日付なのかもしれない……。
かつてこの稲村を含む上市川沿いの10か村(眼目新・極楽寺・釈泉寺・稲・東種・西種・水上・田蔵・骨原・千石)は大岩街道沿いの5か村(湯神子・堤谷・須山・湯崎野・湯上野)、早月川沿いの5か村(折戸・中村・下田・蓬沢・伊折)とともに白萩村という行政単位を構成していた。昭和42年には東洋大学民俗研究会がその旧白萩村を対象にフィールド調査を行っており、その報告書『富山・旧白萩村の民俗』には稲村のざっくりとした成り立ちも記されている。それによれば「相州から来た道林次郎右衛門が、この地を稲村にかたどって名づけたといわれる。道林次郎右衛門・久保藤兵衛・若宮六兵衛の三人が、村の草分けといわれている。現在戸数十五戸で、うち八戸が道林性である」。ちなみに↑の鳥居と狛犬だけが遺された旧稲村神明宮は「道林伝右エ門家のウチ神」という。
さて、明治20年代にその道林家を拠点にこの地で鉱山開発に取り組んだ男がいる。男の名は小林一生。もとより地元の人間ではない。それどころか、富山の人間ですらない。生まれは丹後の国与謝郡宮津町で、父は宮津藩医・小林柳庵。「幼より學を好み奇才を以て郷黨に推さる年甫めて十一京都の人中沼了三氏に漢學を學び大阪開成所に入て英學を修め大阪法律研究所に於て法律學を講習し明治九年七月代言人試驗に及第して其業に從ひ眞誠懇篤事務に鞅掌したり」――とは『立身致富信用公録』なる書に記されたプロフィールの一節。ちなみに「代言人」とは今で言う弁護士のこと。「詭弁を弄すること。また,その人」(『大辞林』)を意味する「三百代言」とは元々は「資格のない代言人(弁護士)をののしった語」(同)だったとか。ともあれ、代言人という職業がこの国に誕生したその年(代言人を免許制とする「代言人規則」が定められたのが明治9年)に代言人となった小林は13年には長野県上田市の代言人組合会長となり、翌年には富山県に移ってここでも会長を務めた。
ところが、そんな人物がどういうわけか鉱山開発に興味を示し、白萩村稲村地内における試掘願を提出したのは明治20年9月のこと。そして翌21年2月には現在の「北日本新聞」の前身に当る「中越新聞」に次のような広告を掲載し、その鉱山開発に臨む〝覚悟〟を語っている――
私ハ現在経営中ナル鉱業ノ目的ヲ達セサル間ハ、如何様ニ止ミ難キ御交際上ト雖モ決シテ当地ノ花街ヘ足踏セサル事ニ決心致候故、今後辱知諸君ヲ御誘引致サヽルハ勿論又御誘ヲモ下サレザル様堅ク御断申上候、尤他日事業ノ成リタル節ハ決シテ御誘引ヲ辞セサルノミナラス時トシテハ又御誘ニ申ス可シ
もっとも、こうした事実は『立身致富信用公録』のプロフィールには記されていない。同書では小林を評して「法律家出身の事業者」としているのだけど、どういうわけか事業家としての事績については何も記していない。それを補ってくれるのが栗三直隆「代言人小林一生の事績―その富山県時代―」(『富山史壇』175号)。当時の新聞記事を発掘してこの決して著名とは言えない人物の富山県時代の事績をほぼ明らかにした労作。正直、ワタシは小林一生という人物がこのような評伝を献ぜられるほどの人物とは思っておらず、明治時代に越中の山中にたまさかの足跡を残した一匹の「山師」――くらいの認識だったのだけど、そーですか、「当時の代言人の光と影を自ら体現した人物」ですか……。
ともあれ、この「代言人小林一生の事績―その富山県時代―」によれば、小林は明治22年12月には「旧富山藩士安達敬直や浅野総一郎らと競願するように上新川郡白萩村稲村及び東種地区内約十七、二九〇坪の鉱山借区願を提出、翌二三年一月末に許可された」。明治20年以来取り組んできた鉱山開発がいよいよ事業として動き始めた――そういう状況だったと言えると思うのだけど、ところが小林はその年の6月には鉱山を売却。せっかく浅野総一郎(かの浅野セメントを核とする浅野コンツェルンの創始者。ちなみに『上市町誌』によれば浅野は同じ時代、同じ白萩村の下田で金山を経営していたという)という強敵に競り勝って手に入れた鉱山だったのに、なぜ? どうも小林は鉱山開発で多額の負債を抱え込んでいたようで、「二三年(一八九〇)初頭から鉱山の売却先を探し始めた」。ということは、鉱山借区願が許可されて直ぐに売却先を探し始めたということで、よほど負債に苦しんでいたということだろうか? また小林は同年7月1日投票の第1回総選挙に富山県第1区から立候補しており(結果は得票率6.20%で惨敗)、そのための運動資金を確保する必要もあったのかもしれない。いずれにしてもこうして小林の稲村における鉱山開発はいささか中途半端かたちで終わりを告げることになるのだけど――実はこの消化不良に終わった試みはある思いがけない成果をもたらすことになる。それが、白萩隕鉄の発見――と言われてもピンと来ない方でも、かの榎本武揚がそれを元に世界でも製造例が稀な「流星刀」を作って時の皇太子(後の大正天皇)の「御丁年ノ御祝儀」として献上した――と説明すれば、ああ、と思い当たる節があるのでは? 実はあの白萩隕鉄を発見したのが小林一生なのだ。

もっとも、小林一生を白萩隕鉄の発見者とするのにはいささかの疑問も。というか、少なくとも彼が実際にその手で白萩隕鉄を拾い上げたわけではないのは確か。では、そもそも白萩隕鉄発見の経緯はどういうものだったのか。実はそれについては全く異なる2つのストーリーが伝えられている。ここでは富山県天文学会の機関誌『光年』第60号(1980年12月発行)に掲載された倉谷寛「白萩隕鉄調査報告」からその発見の経緯をめぐる下りを紹介すると――
昔の記録からこの隕鉄のたどった由来をまとめてみると,この隕鉄は明治23年(1890)4月当時の表示で,富山県中新川郡白萩村・稲,すなわち上市川上流で小林一生氏が発見したことになっているが,この小林氏は当時富山市の代言人(弁護士)をしていて,この山奥へ銀銅鉱の発掘をするためにやって来ていた。そうして当部落の道林八郎右衛門の家に事務所を置き,ここで寝起きしていた。道林氏は部落の中では知識人で,何事もよく理解し,とくに算術に秀れていたとのことで,村人からは尊敬を受けていた人だったという。
ところである日のこと(この日は不明),道林松之助という人(八郎右衛門氏の親せきにあたる人だろうか?)が葛芋(くずいも)掘りに上流の山中に行き,その帰り途で,川の中で色の変わった重い石を拾った,おそらくこれが川の中で容易に発見されたのは,この物体が赤黒色だったことと,一方,川底は水流のため,おたがいに摩滅して球状となった白色の石塊で満たされていて,その中にあったからだろうと想像されている。彼が23㎏近くもある重い鉄塊を拾い上げて,これを部落まで持って帰るにはかなりたいへんなことだったろうと思われるが,それにもまけず持ち帰ったのは,やはりその姿・形がよほど異様なものに見えたからなのだろう。
(略)
彼はこれを八郎右衛門宅に持って行き,これが小林氏の手に渡ったものであろう。一説によれば,小林氏が鉱山試掘中,同氏のもとで働いていた中村定次郎氏が上市川上流の砂礫中で発見したものともいわれている。
「昔の記録から」としつつ、まずは道林松之助なる人物が葛芋掘りに行った帰途、上市川の川の中で拾ったというストーリーを比較的詳しく紹介。その上で「一説によれば」として小林一生の下で働いていた中村定次郎なる人物が鉱山試掘中に上市川の砂礫の中で発見したという全く異なるストーリーもごく簡単に紹介しているのだけど、どちらのストーリーでも小林一生が直接の発見者でないのは明らか。ただ、後者のストーリーの場合は小林がやっていた鉱山試掘中に彼が使役する人夫が発見したというのだから、広い意味では彼を発見者とすることもできないことはない? ただ、前者の場合は……。それにしても、なぜこういう全く異なるストーリーが伝えられているのか? 実はそれぞれのストーリーには典拠となる資料がある。しかも典拠としてより信頼が置けそうなのは後に出てくる中村定次郎を実際の発見者とする説の方。というのもその典拠とは明治28年になって小林から白萩隕鉄を買い取ることになる当の榎本武揚が明治35年に『地学雑誌』という地学会発行の学術誌に寄稿した「流星刀記事」なのだから。曰く「此星鐵の由來を略記せんに明治二十三年四月富山縣上新川郡稻村大字白萩村〔ママ〕に於て同縣士族小林一生なる人鑛山試堀中同氏使役の坑夫中村定次郎なる者白萩村を貫流する上市川上流の砂礫中に於て本塊を拾ひ得たれども」云々。これに対し道林松之助を発見者とする説の方はそれから約40年後の昭和16年になって村山翠渓というアマチュア天文家が自らが所属する東亞天文協会の機関誌『天界』に寄稿した「天降の靈劍―建國劍:世界の至寳―流星刀」が元となっている。で、一方が地学者の顔も持っていた(榎本はオランダ留学中、鉱物学も学んでいる)当事者が書いたものであり、もう一方はそれから40年近く経ってから一介のアマチュア天文家が書いたもの――という事実関係を踏まえるなら前者を重視するのが当然――ということになりそうなのだけど、そうとも言い切れない理由があって。というのは、村山翠渓は「天降の靈劍―建國劍:世界の至寳―流星刀」を書くに当ってわざわざ現地まで足を運んで村の古老に聞き取り調査を行っているのだ。話を聞いたのは当時72歳の久保松次郎という老人(『富山・旧白萩村の民俗』で稲村の「草分け」の1人として挙げられている久保藤次郎の末裔か?)。記事によれば「同老は矍鑠,頭腦明晰,應答確實,信を措くに足る」。その松次郎翁が語った白萩隕鉄発見の経緯こそは倉谷寛が「昔の記録から」としつつ記しているストーリーというわけなんだけど――なんでも村山翠渓という人は富山の人ではなく、兵庫県尼崎の人だったとかで、そんな人物がわざわざ富山の山奥まで足を運んで聞き取り調査を行ったというのだから、いやー、大したものですよ。これには村山定男(元国立科学博物館理化学研究部長。ちなみに同じ村山姓ではあるけれど村山翠渓とは血のつながりはない模様)も『日本アマチュア天文史』(恒星社厚生閣)において「同記事によれば,落下地に足を運んで調べてあり,また榎本が時の皇太子(大正天皇)に献上した大刀について宮内省に問い合わせたりしてその熱心ぶりがうかがわれる」。ということで、今では白萩隕鉄発見の経緯は村山翠渓が行った聞き取り調査の線に沿って記載されるのがスタンダードとなっている模様。
ただ、そうなると、榎本が「流星刀記事」に記した事実関係はどういうことになるのだろうか? 中村定次郎という具体名まで挙げてその発見の経緯が記されているのだけど……。まず言えるのは、おそらくそれは榎本が白萩隕鉄を買い取るに当って小林一生から聞かされた話を記したものであろうということ。榎本は白萩隕鉄を買い取るに当って当然、その由来を問い質したはず。それに対し小林が説明したのが「流星刀記事」に記されたような事実関係だったのでは? しかしその内容は昭和16年になって村山翠渓が行った現地聞き取り調査の結果とは大いに異なっていた――とするならば、もしかしたら小林は虚偽の事実を榎本に吹き込んだのかもしれない。でも、なんで? 自分を白萩隕鉄の発見者とするため? まあ、当然、それはあるだろう。あわよくば自分の名が日本天文史に記録されることになるかもしれない、そのチャンスを逃す手はない。でも、はたしてそれだけだろうか? 自らを白萩隕鉄の発見者と認知してもらえるような虚偽のストーリーを作り出すに当っては、もう一歩踏み込んだインセンティヴとなるようなものがあったのではないか? それは……ズバリ、所有権。実は榎本は白萩隕鉄を「数千円」で買い取ったとされている(諏訪兼位「榎本武揚―地学者でもあった幕末・明治の政治家―」参照)のだけど、それがどれくらいの値段だったかというと――明治28年の大卒の初任給が20円(ソースはこちら)。現在はその1万倍に当る20万円なので、当時と今の貨幣価値を1:10000とすると、え、数千万円⁉ 小林一生としては棚から牡丹餅というか、とんだ不労所得を得たということになるのだけれど、ただこの〝商取引〟、小林が白萩隕鉄の正当な所有者であってはじめて成立する話。じゃあ、はたして小林は白萩隕鉄の正当な所有者だったと言えるのか? なんでも現代では隕石の所有権は民法239条1項の規定(「所有者のない動産は、所有の意思をもって占有することによって、その所有権を取得する」)に従って所有権は発見者のものとなるらしい。とはいえ、榎本が小林から白萩隕鉄を買い取った明治28年当時はまだ明治民法も制定されておらず、隕石の所有権をめぐる事細かな規定などなかった思われる。しかし、まあ、そこは社会常識というか、自然法(?)に従って発見者=所有者という扱いだったと考えていいのでは? いずれにしても小林一生としては白萩隕鉄を榎本に売り付けるためにはまず自らがその発見者=所有者であることを榎本に納得させる必要があった――、これは間違いないはず。しかし、既に見たように、仮にその発見の経緯が村山翠渓が久保松次郎から聞き取った通り、道林松之助が葛芋掘りに上市川上流の山中に行き、その帰途、川の中で拾ったという経緯だったとするなら、どう拡大解釈したって小林一生は白萩隕鉄の発見者とはならない。発見者は道林松之助。所有権も当然、道林松之助にあるということになる――道林松之助と小林一生の間で所有権の移転が行われていない限り。しかしこれが榎本が記すように鉱山試堀中に小林が使役する中村定次郎が拾ったという経緯だったとしたら小林を発見者=所有者としても話は通る。で、正にそういうことにして小林は自らを白萩隕鉄の正当な発見者=所有者であると榎本に認知させた。その上で彼はそれを「数千円」という大金で榎本子爵に売り付けることに成功した……。
ま、全くの想像の産物ではあるのだけど、これで一応の説明はつくような? ただ、冥界の小林一生はいろいろ言いたいことがあるだろうなあ。そんな彼のために(?)一言だけ付け加えておくと、この人物の存在なくして白萩隕鉄が世に出ることがなかったのは間違いのないところ。道林八郎右衛門がどれだけ「部落の中では知識人で,何事もよく理解し,とくに算術に秀れていた」としても、よもやそれが宇宙から飛来したとは思いもしなかったはず。である以上、農商務省の技官によって分析され、鉄隕石であると鑑定されるというようなことはどう転んだって起こりえなかった。おそらくはただの奇岩として道林家に死蔵され、もしかしたら今頃はあの廃虚と化した集落跡のどこかで人知れず苔に覆われて眠っていたかも? そんなことを考えるなら、小林一生の功績は大。
さて、現在、旧白萩村の千石地区に当る中新川郡上市町千石にある千石神社の境内には「白萩隕鐡之碑」なるものが建っている。稲村ではなく千石にあるのは上市川上流の山中に葛芋掘りに行き、その帰途、川の中で拾ったという久保松次郎の証言を元に発見場所が稲村よりも上流の千石地内と推定されていることがその理由なのだけど、ワタシはもう1つ理由があるのではと思っている。それは千石地区が昭和50年着工、同61年完成の上市川第二ダムのダム湖(早乙女湖)の底に沈んでしまっていること。かつて宇宙から飛来した小物体が発見され、それを元に世界でも製造例が稀な「流星刀」が作られた、そのゆかりの地が今はダム湖の底に沈んでいる――、これほどロマンをかき立てられるストーリーもない。またロケーションも抜群。千石神社の境内からはダム湖を一望することができる。一方、稲村の方はといえば、旧稲村神明宮跡がかつてそこに集落があったことを辛うじて伝えているのみで、それとても野生の猛威に晒されて遠からず自然に帰ってしまうのではないかというような心細さ。ましてや白萩隕鉄とのゆかりをうかがわせるようなものは何もない。
しかし、かつて小林一生が鉱山開発を行ったのが正に稲村であり、昭和16年になって村山翠渓が聞き取り調査を行ったのも稲村。そしてその聞き取り調査の結果として稲村の住人である道林松之助が葛芋掘りに上市川上流の山中に行き、その帰路、川中で拾った「色の變つた重い石」こそは白萩隕鉄――という、今日、伝えられている白萩隕鉄発見の〝真相〟が判明したことを考えるなら、この旧稲村集落跡こそは白萩隕鉄と「流星刀」をめぐるロマンのど真ん中……。