PW_PLUS


長州と謎の海賊の長くミステリアスな関係

 日本近代史の裏面で暗躍したH・K・ドレークという〝海賊〟がいる。もっとも、本当の海賊ではない。ワタシが勝手にそういうイメージで捉えているだけ。まあ、「冒険的商人」ということでも別にいい。ただその行状は「商人」というよりは「海賊」と呼んだ方がよほどしっくり来る。加えて、名前が名前。そう、H・K・ドレーク。かの有名なイギリスの海賊、フランシス・ドレークとサーネームが同じ。どうしたって連想ゲームが働いちゃいますよ。ということで、まずはこの人物が日本近代史で果した役割を少しばかり紹介するなら――慶応元年、かの村田蔵六らが上海に渡って藩船・壬戌丸を売り払い、それによって得られた資金でゲベール銃をはじめとす大量の武器弾薬を調達し、長州に持ち帰ったという、あの時代としてはちょっと桁違いのスケールの密貿易をやってのけた、その片棒を担いだ人物が、誰あろう、H・K・ドレークなのだ。ここは石井孝が『増訂・明治維新の国際的環境』に記しているところを引くなら――

 慶応元年正月討幕派の政権獲得以来、長州藩は幕府への抗戦力を強化すべく、装備を近代化するには、武器を外国に仰ぐ必要があった。それはまさに、密貿易によって巨利を貪ろうとする冒険的な外国商人にとっては絶好の活躍の舞台であった。かかる冒険的商人の一人である米国人ドレークは長州藩に赴き、三田尻で藩船壬戌丸を三五、〇〇〇ドルで買入れる契約を同藩と結んだ。それにもとづき慶応元年二月九日(一八六五・三・六)、村田蔵六(大村益次郎)はじめ五〇名は、壬戌丸に搭乗し米国商船フィーパン(モニター)に曳航されつつ上海に向い、同地で壬戌丸の売却を了し、その代価でゲヴェール銃等を買入れ、フィーパンで帰ってきた。フィーパンが下関に着いたのは四月二日(四・二六)で同船はそこに一週間滞在し、積荷をおろしたのち長崎をへて清国に向った。長崎港口に二日間停泊中、同港の米国領事は船主に逮捕状を発したが、時すでにおそく実行できなかった。

 ふふ。最後の下りなんて、まさに海賊の面目躍如だね。しかし、そんな危機一髪(?)の場面に遭遇しながらもこの〝海賊〟はその後も頻繁に下関に寄港して長州に武器を提供し続けたとされる。このことは当時、横浜に滞在してニューヨーク・トリビューンに寄稿するなどしていたフランシス・ホールの日記(Japan Through American Eyes: The Journal of Francis Hall, 1859-1866)によって裏付けられる――

The Tee-pang, formerly the Monitor, an American armed steamer, has been repeatedly to Shimonoseki and is said to have supplied Chosiu with considerable quantities of arms and ammunition. The Tycoon's vessels have not been permitted to pass the straits of Shimonoseki since the affair of last summer. The Japanese openly talk of the new expedition to reduce Chosiu.

 ということで、維新〝回天〟のウラに謎の海賊あり――と言ってもいいと思うんだけど(わざわざ「謎の」と芳しい冠を冠して呼ぶのは、その素性が全く不明なため。何しろ、どれだけ調べたってH・K・ドレークという名前のファーストイニシャルとミドルイニシャルをデコードすることさえ叶わないのだから。唯一わかったのは、当時、上海にH.K.Drake & Co.という自前の商社を持っていたことだけ。これは香港のデイリー・プレス社から刊行された1865年版のThe Chronicle and Directory for China, Japan and the Philippinesで裏付けが取れる。ちなみに同書には日本在住の外国人商人についてのデータも記載されていて、長崎の項にはかの有名なトーマス・ブレーク・グラバーがやっていたGlover & Co.も載っている。本人以下、16人の名前が記載されているので当時としてはそこそこ大きな会社だったことがわかる)、ただ長州とH・K・ドレークの関係はなかなかに複雑で。というのも、この両者の関係は時の経過につれて敵→味方→敵と二転三転したことがうかがえるのだ。ワタシがH・K・ドレークという人物に興味を惹かれるユエンでもあるんだけど、以下、この長州と〝謎の海賊〟の長くミステリアスな関係について少しばかり――。まずは元治元年6月――というから、ドレークと長州側が壬戌丸の売買契約を結ぶ8か月前。1隻の外国船が長州藩領の深川湾に侵入した。なんでも箱館から長崎に向う途中だったとか。ところが、折からの荒天に想定以上の日数を費やしてしまい、燃料が尽きてしまった。そこで燃料と飲料の提供を求め、深川湾に侵入した――というのがコトのあらまし。これに対し、対応に当った現地の役人は藩上層部の判断を仰ぐとしてとりあえず回答を保留したようだ。しかし、その夜の内に沿岸では何やら慌ただしい動きが見られるようになって、そのことは外国船の側でも気がついていた模様。そして、案の定。長州側は夜明けを期して一斉に砲撃を開始。これに対し、外国船も応酬。長州側の砲撃はほとんど目標を外したものの、外国船側の砲撃は確実に目標を捕え、民家十数戸を破壊したと伝えられている。

 この出来事、『防長回天史』にもごく簡単ながら記載があって――

……七日外艦一隻大津郡黄波戸浦に入る土兵之れを砲撃す彼れ亦應戰し民家爲めに彈丸に毀壞するもの十有餘戸蓋し米船の箱館より長崎に向かふの途次來て薪水を求めんとせしなり八日北に向て去る當時頗る海警に勉む故に此の一小變も飛報山口に蝟集し藩内爲に騷然たり尋て令して沿岸砲臺なきの地に陸戰準備を行はしむ……

 で、ここに登場する「外艦」というのが、何を隠そう、まだフィーパン(あるいはティーパン)と名前を変える前のモニター号なのだ。これについてもフランシス・ホールの日記で裏付けることができるし、当時のニューヨーク・タイムズにも相当詳しい記事が掲載されているんだけど、ここではよりオフィシャルな典拠史料という意味で、時の在日本アメリカ公使、ロバート・プラインが本国の国務長官、ウィリアム・スワードに宛てた1864年8月8日付け至急報告第49号を紹介することにしよう――

LEGATION OF THE UNITED STATES,
Kanagawa, August 8, 1864.

SIR: I have the honor to inform you that the American steamer Monitor, on the 19th July, entered one of the ports of the Prince of Choshu, on the western coast of the province of Nagato, and was fired at by one of his batteries. The letter of the United States consul at Nagasaki and the protest of the officers of the steamer sufficiently set forth the facts.

I received the copies of the letters while at Yedo, and immediately had a conference with governors for foreign affairs sent to me for that purpose by the ministers. The original letters in the overland mail despatched by the governor of Nagasaki did not reach me till the evening before my departure from Yedo. The Japanese governors very properly asked me to wait till they had received letters from the governor of Nagasaki, before entering further into the consideration of the subject, engaging, however, to make a speedy and satisfactory settlement of the matter.

I made no claim, nor do I feel disposed to make any in favor of the owners of the vessel, one of whom was on board at the time.

While I have no reason to distrust the truth of the declarations that they were destitute of coal, and that they were obliged to go into the harbor, I cannot forget that while here in 1863 the same vessel entered a port in the territories of Satsuma; and it would be unwise to encourage owners of vessels brought to this country for sale to enter the ports of hostile Daimios, or any ports not open to trade.

I have the honor to be, sir, very respectfully, your most obedient servant,

ROBERT H. PRUYN,
Minister Resident in Japan.
Hon. WILLIAM H. SEWARD,
Secretary of State, Washington.

 この報告を受け、アメリカ政府は当時、徳川幕府の発注でアメリカ国内で建造されていた軍艦2隻について、既に完成している1隻(日本側により富士山丸と名付けられたスループ艦)については日本回航を差し止め、建造中のもう1隻については建造中止という、言うならば経済制裁を科すことになる。『防長回天史』が言うところの「一小變」がとても「一小變」には止まらない2国間の外交問題に発展したわけだけど(長州側とすれば、決して意図したわけではないにしても、してやったり?)、そのきっかけとなったモニター号がそのわずか1年後には一転して長州と手を握り、東シナ海を股にかけた大掛かりな密貿易を仕掛ける――、まったく〝海賊〟のやることはよくわからない。ただ、まあ、歴史上、海賊なるものが時に応じて立場を変え、それによって歴史の帰趨にまで影響を及ぼしたという例はどれだけでもある。わが国の歴史を例に取れば、壇の浦の戦いにおいて源氏方に加勢した熊野水軍(一名「熊野海賊」)なんかがそれに当る。熊野水軍を率いていた別当湛増はそれまでは平氏方だったものの、一転して源氏方で壇の浦の戦いに参戦。これにより源氏の勝利に大いに貢献したとされている。だから、前年に派手な砲撃戦を演じた相手と翌年には一転して手を握るというのは、それはそれで海賊らしいと言えるのかもしれない。

 もっとも、そもそもこの元治元年の事件には一般に言われているのとは違う側面があった可能性もある。この点についてはロバート・プラインもモニター号が1883年には薩摩藩領にも侵入(?)していたことを指摘した上で、ドレーク側の言い分に疑問を呈しているのが興味深いんだけど、ここではまたそれとは別の理由で、この時の深川湾〝侵入〟が単に燃料補給のための緊急避難措置ではなかった可能性について指摘したい。というのも、実はドレークと長州藩には元治元年6月以前の段階で既に接点があったのだ。これは小田村伊之助という、当時、藩の聞役として長崎に派遣されていた人物(2015年の大河ドラマ『花燃ゆ』で大沢たかおが演じた人物。一般的には維新後に名乗った楫取素彦の名で知られている)が本国に宛てた報告(日本史籍協会編『楫取家文書』所収)の中に記している事実で、小田村が現地で聞き取った事件のあらましを記した上で――

全體右船は當二月長崎港にて造作を加へ其節九斤ライフル砲取入の談判せし船にて吾等は度々乘入たる事も有り六七十馬力の蒸氣船にて乘組も三十人には滿申す間布と思はれたり

 「九斤ライフル砲取入の談判」というのがいまいち判然としないんだけど、あるいは「九斤ライフル砲取引の談判」ということだろうか? 報告書には「積來りたる九斤ライフルへ葡萄彈を込み放つ中に」ともあって、同船には「九斤ライフル砲」が積み込まれていたことがわかるので、小田村伊之助らがその「九斤ライフル砲」に目をつけ、譲渡を申し入れたという可能性も考えられる。またその「九斤ライフル砲」だが、ニューヨーク・タイムズの記事では、モニター号に搭載されていたのは2門のParrott rifled gunsとされていて、とするならば「パロット砲」と呼ばれるもの。1861年にアメリカで開発された前装施条砲で、南北戦争中は南北両軍で広く使用されたという。また日本でも会津戦争において松代藩が鶴ヶ城攻撃に使用したとかで、そういう当時、最新の軍事ガジェットだったとすれば小田村伊之助らが目をつけたとしても不思議はない。ただ、そうだとすると、何と皮肉な話であることか。それから4か月後、長州がモニター号から浴びせかけられることになる30発とも言われる砲弾はまさにその「パロット砲」から放たれたものなのだから。

 しかし、こうしてモニター号には事前に長州藩士らが訪れ、ことによると武器の売買交渉まで行われていた可能性があることを考えるなら、6月の深川湾〝侵入〟も言われているような燃料を求めての緊急避難的なものではなく、石井孝言うところの「冒険的商人」による〝営業活動〟だった可能性も見えてくるのだが。それが思いがけなくも砲弾の応酬という結果となったのは、まだ元治元年6月という時点ではそこまでの機が熟していなかったということだろう。既に長崎で外国船の視察を行うほどには西洋のテクノロジーに目を向けていた長州ではあったが、さりとて後に藩の基本方針となる「開国倒幕」に踏み切れていたわけではない。長年、ドグマとしてきた「攘夷」という看板を下ろすのは、それほど容易なことではなかった。この時も十年一日のごとく「攘夷」を断行し、手痛いしっぺ返しを食らうことになった……。ちなみに、長州が4か国連合艦隊によってボコボコにされるのはこれから2か月後のこと。そしてこの出来事こそは長州をして「攘夷」を断念し、「開国倒幕」へと踏み切らせる決め手となるのだけど――こう考えるならば、元治元年6月のモニター号の深川湾〝侵入〟とはほんの少しだけ早過ぎた冒険だったということになるのかもしれない。そして、深川湾の事件にこういうウラがあったと想定するならば、その翌年に両者が一転して東シナ海を股にかけた大掛かりな密貿易のパートナーとして歴史に登場するのも、それはそれで腑に落ちるとは言える……?

 さて、とにもかくにもこうして現象的にはfoeからallyへと立場を変えた長州とH・K・ドレークではあるのだけれど、その関係は再び反転することになる。それが、1885年のこと。奇しくもこの年、日本では伊藤博文を内閣総理大臣、山県有朋を内務大臣、井上馨を外務大臣とする第1次伊藤内閣が発足しているのだけど、そんな主要ポストを長州閥で占めた事実上の長州政権が誕生した年、H・K・ドレークは日本政府を訴えているのだ(ただし、訴えた時点では伊藤内閣は発足していない。しかし、伊藤が宮内卿、山県が内務卿、井上が外務卿なのだから、長州閥が政治を牛耳っていたという点では何ら変わりはない)。しかし、一体何が理由で? これがなんと、元治元年の事件で被った被害の賠償を求めて――というのだから、驚かされる。最初、この事実を知った時、ワタシは、年は何かの間違いではないかと思ったくらいなのだけど、間違いない、1885年。H・K・ドレークは事件から21年も経ってから、当時、被った被害の賠償を求め、〝かつての仲間〟を訴えたのだ。やっぱり〝海賊〟のやることはよくわからない……。

 まずは事ここに至った経緯から説明しようと思うのだけど、そのためには日本が下関戦争の賠償金として支払うことになった300万ドルというビッグマネーについて少しばかり説明する必要がある。この300万ドルは下関戦争に参加した英・仏・蘭・米の4か国に配分――言うならば、山分けされることになった。アメリカに配分されることになったのは約78万ドル。で、実はアメリカ政府はこの78万ドルのほぼ全額を最終的には日本に返還することになる。それは1883年のこと。なぜこんなことになったかといえば、アメリカは78万ドルという金額を「他に相当するものがない(without substantial equivalent)」と受け止めていたということがある。この「他に相当するものがない」というのは、ウィリアム・スワードが下院外交委員長に宛てた書簡に記された文言なんだけど、確かに文久3年の下関事件(アメリカが戦艦ワイオミングで下関を攻撃した事件。翌年に4か国連合艦隊が下関を攻撃した下関戦争とは区別してこう呼ばれているそうです。しかしこの呼び名じゃいささかコトが矮小化されてしまうような。ここは第1次下関戦争とでも呼ぶのが妥当では? それを下関事件とは……まさか自身の生国がかつて〝アメリカ様〟と戦争したなんてことは「なかったこと」にしてしまいたい時の最高権力者の意向を歴史界が〝忖度〟した結果じゃ……?)のきっかけになったペンブローク号砲撃事件に対する賠償金としてアメリカが受け取ったのは1万ドル。それと比べれば桁違いの金額。果してアメリカがこれほどの金額を受け取る資格があるのか? ということが、まずアメリカ側の本音としてあった。これに加えてこういう事実を指摘しておくのもいいかも知れない。アメリカは1854年の下田条約以来、日本に対してはメンターのごとくふるまっており、それは特にタウンゼント・ハリスの公使時代に顕著だった。その1つの例としてハリスの秘書兼通訳だったヘンリー・ヒュースケン殺害事件に対する対応を挙げることができる。なんでも生涯、独身だったハリスはヒュースケンをわが子のように可愛がっていたとされ(もっとも、当のヒュースケンは何かとハリスの意向に逆らうところがあったらしい。ハリスの忠告を無視して夜遅くまで出歩くなどというのもそんな〝反抗〟の1つ。そしてその結果としての悲劇的な事件……。〝父〟の忠告を無視して夜遊びを繰り返した揚げ句、命を落した〝子〟――、ヘンリー・ヒュースケン殺害事件をそんなふうに捉えればなかなか面白いかなーと思ってるんだけど、ま、全くの余談です)、その〝わが子〟が殺されたとあっては、本来ならば烈火のごとく怒り狂ってもおかしくないところなのだけど、ハリスの幕府に対する対応は至って抑制的なものだった。これは開国という難しい政治判断をした幕府が困難な国内状況に直面していることを慮ったものだったとされる。こんな当時のアメリカと日本の関係をメンターとメンティーの関係にあったと考えればわかりやすいのではないかとかねがねワタシは考えているのだけど、ところがそんなメンティーから78万ドルという巨額賠償金を〝毟り取る〟ことになったのが下関賠償条約。そりゃあアメリカとしてはいろいろ思うところはあったでしょう。え、そんなふうに思うくらいなら、そもそも受け取らなけりゃいいじゃないかって? しかし、当時のアメリカには他の3か国と足並みを揃える以外の選択肢がなかったのだ。なにしろ下関賠償条約が調印された1864年当時、アメリカは南北戦争の真っ只中。とても外交で独自性を発揮できる状況ではなかった。4か国連合艦隊による下関攻撃からその後の和平交渉に至る一連の政治プロセスにおいてアメリカが主導権を発揮するという場面はほぼなかったと言っていい。その結果、「他に相当するものがない」ような巨額の賠償金を受け取る結果に……。ただねえ、だからといって返しますかねえ。だって、ちゃん下関賠償条約に基づいて支払われた金なのだ。返還しなければならない理由は何もないと言っていい。それを、時間がかかったとはいえ、ほぼ全額返金するに至ったというのは、これは世界の外交史においても稀な出来事なんじゃないでしょうか? そうした決定に至った心理的側面を掘り下げていくと、ふとこんな考えが頭をよぎったのだけど――当時の日本がどこぞで言われているような周囲の大人に負けないように懸命に背伸びする「少年の国」だったとするなら、当時のアメリカは己の思い描く〈正義〉に真っすぐに突き進む正義感あふれる「青年の国」だった……?

 えーと、少しばかり話が逸れた。いずれにしてもアメリカは下関賠償条約に基づいて受領した78万ドルのほぼ全額を日本に返還することになるのだけど、ただその決定には時間を要した。なにしろ、日本が賠償金の払い込みを完了したのが1874年、アメリカが日本への返還を決定したのが1883年なのだから。その間、アメリカ議会では賠償金の扱いをめぐる議論が延々と続けられた。なにしろ、78万ドルだ。そりゃあいろんな思惑が働くさ。決して全ての議員が返還に賛成していたわけではない上に、返還するにしても、やれ利息はどうするだの(賠償金は「日本賠償金基金」として国務省で管理され、合衆国登記公債に投資されていた。そしてその運用益と利子で倍以上に膨れ上がっていた)、アメリカ側が受領すべき理由のある分を差し引いた残りを返還すべきという意見もあって、実は最終的な結論もそういうことで落ち着くのだけれど、今度は、では何が受領する理由のあるものかという議論になって、それが延々と議論を長引かせた理由でもあるのだけど――さて、賢明なる読者はもうおわかりのはず。この受領すべきものは受領すべきという議論の中にわれらが(?)H・K・ドレークが登場するのだ。つまり、H・K・ドレークは78万ドルの一部をモニター号が深川湾の事件で被った被害の賠償に当てるよう、代理人を立てて申し立てたのだ。元治元年の事件は下関戦争とは直接の関係はない。しかし、その一報は横浜で4か国連合艦隊による下関攻撃に向けた最終調整が行われていた最中に伝わっており、アーネスト・サトウは『一外交官の見た明治維新』で長州攻撃に向けた「さらに新たな名分」が加わることになったと記している。従ってH・K・ドレークが「日本賠償金基金」から自分たちが被った被害の賠償金を供出するよう求めたことにはそれなりの正当性があったと言えるだろう。ただし、最終的にはドレーク側はこの請求を取り下げている。それがこの問題のポイントなのだけど――ともあれ、そうしたこともあって賠償金を日本に返還するための法案は1883年2月22日、遂に議会で可決されることになる。そして、これですべては一件落着のはずだった。ところが、それからちょうど2年が経過した1885年2月になってコトは思いもかけない展開を遂げた。なんとドレーク側が日本側の約束不履行を言い立てて国務省に対し日本側と協議に入るよう申し入れたのだ。ドレーク側が言うには、日本側とドレーク側が結んだ合意に従って賠償金は「日本賠償金基金」の返還後、速やかに支払われることとなっており、そもそも彼らが賠償金の請求を取り下げたのは、そういうことで日本側と話がついたからだというのだ。ところが、速やかに支払われるはずだった賠償金はドレーク側の再三の求めにもかかわらず、今に至るも支払われない。納得できないので、日本側にかけあって欲しい――と、粗々こういうような内容。

 これに対し、アメリカ国務省が日本公使館に問い合わせたところ、日本側は「そのような約束をした事実はない」と回答したとされる。それどころか、そもそも日本側には元治元年の事件についての資料が存在しないと、これは井上馨名義で回答している。しかし、これはちょっとおかしいんじゃないのかなあ。仮に外務省にはないとしても、長州にはあるでしょう。現に小田村伊之助の報告書のようなものだって存在するのだから。また山口県文書館で検索すると、「アメリカ船長門大津郡黄波戸浦漂着始末」など、関連すると思われる文書の存在も確認できる。よしんば文書の存在が確認できなかったとしても、元治元年6月の事件と聞けば心当たりがあるはずですけどねえ……? また日本側がドレーク側の主張するような出来事について、「そのような約束をした事実はない」と回答したという点についても、それはなかなか苦しいんじゃないの? というのがワタシの率直な印象。というのも、国立公文書館・アジア歴史資料センターにはこの件に関する文書が「千八百六十四年下ノ関ニ於テ砲撃ヲ受ケタル米国船『モニトル』号船主要償一件」としてまとめられていて、オンラインでも閲覧できるようになっているのだけど、その中にはドレーク側が問題を国務省に持ち込むに当って提出した関係者の宣誓陳述書も含まれている。そしてその1つにチャールズ・ランマン(Charles Lanman)という人物によるものがあるのだ(→コチラ)。実はこのチャールズ・ランマンというのは1873年から1882年までワシントンの日本公使館で秘書官を務めていた人物で、しかも単に秘書官を務めていたというだけではなく、かの津田梅子を11年もの間、ジョージタウンの自宅に寄宿させていた。なんでも津田梅子はランマンの妻・アデラインを「アメリカの母」とまで慕っていたとか。そんな日本にきわめて近い立場の人物が会談の内容をはっきりと認めているのだ。こうなると、ドレーク側が言うような約束はあったと考えるしかないのでは? ちなみにランマンの宣誓陳述書によれば、日本側とドレーク側の会談は当時の日本公使である吉田清成の要請で行われたという。しかもこの要請は自らの帰国が決まったことを受けてセッティングされたとかで、吉田清成としては何とかして自分の任期中に問題の解決を図りたいと考えていたことがうかがえる。吉田清成がいかに熱心に「日本賠償金基金」の返還に取り組んでいたかは、チャールズ・ランマンが1883年に刊行したLeading Men of Japan(日本の指導的立場にある59人の人物について紹介した本。チャールズ・ランマンの〝知日派〟としての面目躍如と言っていいような内容)の中で吉田清成について記すに当ってわざわざ次のようなエピソードを書き加えていることからも十分に裏付けることができる――

It may also be mentioned as an evidence of Mr. Yoshida's quiet and unobtrusive influence in Washington, that Congress should have made and treated with the most friendly consideration the proposition to return to Japan a certain sum of money known as the Shimonoseki indemny Fund. Of course, as this is altogether an American affair, Mr. Yoshida, has had nothing to do with it excepting so far as the giving of information on the subject when required to do so; but while his idea of propriety have prevented him from discussing the merits of the question, he took pleasure in manifesting to those concerned his warm appreciation of all that had been uttered in debate, published in the papers, or been done in Congress in regard to the proposed restoration.

 慢性的な財政難に苦しんでいた当時の日本としては、「日本賠償金基金」の返還は何としても実現したい政治課題であり、外交の最前線でその対応に当っていたのが吉田清成。そんな吉田からするならば、賠償金の支払いを求めてドレーク側が繰り広げていたロビー活動は気になるものだったに違いない。このことはやはりアジア歴史資料センターに所蔵されている当時の外交文書からも裏付けられる。吉田清成から時の外務卿・寺島宗則に宛てた明治9年8月12日付け「別啓第七号」(賠償金を日本側に返還するための法案の審議状況を報告したもの)にはこんな一節も認められる――「其三ハ此償金ヲ返還セントナラハ先年防府福川港ニ於而モニートル(船名)ノ砲撃セラレシヿアリ□□其損害ヲモ此償金中ゟ引去ランヿヲ請求セシモノアリ」。それが吉田が帰国する明治15年(「枢密院高等官転免履歴書」によれば吉田清成が帰国したのは明治15年1月28日。なお、ランマンの宣誓陳述書によれば、日本側とドレーク側の会談が行われたのは前年の秋)まで未解決のまま持ち越しとなっていたのだから吉田ならずとも気を揉むところではあっただろう。そして、この問題が解決しない限り、賠償金法案の議会通過は望めないとするなら、この際、チャールズ・ランマンが宣誓陳述書に書いているような裏取り引き(... and that said Cowie was assured if he would withhold action in Congress that the claims would be settled and paid promptly by the Japanese Government upon the passage of the Indemnity Bill)を持ちかけるというのは、客観的に見ても十分にありうることだったのではないか?

 しかし、日本側はそうした裏取り引きの存在を全面的に否定した。またアメリカ国務省も最終的には日本側の言い分を認め、1888年4月13日付けで国務長官名でドレーク側の代理人であるジョージ・カーウィーに対し、国務省としてはもうこれ以上、この件の協議を日本側に求めることはないと通知している(同書簡を収めたIndex to the executive documents of the House of Representatives for the second session of the fiftieth Congress, 1888-'90の当該ページ)。そして、これ以降、ドレーク側がこの件で何かアクションを起こしたというようなことは、少なくとも史料の上はうかがえない。しかし、ワタシには、これでH・K・ドレークが引き下がったとはなかなか思えない。もしかしたら、記録に残らないかたちでなおも交渉が続けられたということだってありうるのでは? だからこの件が最終的にどういうかたちで決着したかは「わからない」ということにしておこうと思うんだけど――それにしても、なぜ日本側は客観的に見て「あった」としか思えない裏取り引きを全面否定したのだろうか? ワタシには、そこには時の外務卿である井上馨の意向が働いていたとしか思えない。間違いなく彼はH・K・ドレークという人物を知っていた。また維新〝回天〟のウラ側で長州とH・K・ドレークがどのようなことを行っていたのかも。そんな彼からするならば、ドレーク側の要求はおよそ受け容れがたいものだったのではないか? なぜなら、元治元年の事件でモニター号が被った被害なんてとっくにペイしていたはずなのだから――慶応元年以降、長州とH・K・ドレークが組んで行った密貿易によって。にもかかわらず今頃になって元治元年の事件の賠償を求めるなんて――。吉田君、せっかく話をまとめてくれた君には申し訳ないが、この話はなかったことにさせてもらうよ。薩摩出身の君は知らないだろうが、ドレークはもう十分に見返りを得ているのだ。これ以上、長州があの男に払う金はびた一文ない――と、そう、吉田清成・外務大輔に告げる井上馨の双眸には過去を引きずるものの憂愁が揺らめいていた……。