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土方歳三と至道無難をめぐる走り書き

 栗塚旭の土方歳三は、確かに見た記憶はあるのだけれど、『新選組血風録』が1965年から66年にかけて、『燃えよ剣』が1970年。となると、いずれかのタイミングで、再放送で、というのが妥当かな。となれば、リアルタイムではじめて見た土方歳三は……藤竜也か。そう、大河ドラマ『勝海舟』の。しかし、最初に見た土方歳三が藤竜也というのは……これは尾を引くわ(笑)。藤竜也の土方歳三というのは、なんというのか、「土方歳三」を着崩したような感じ、とでもいうのかな。少し猫背。声は張らない。いつも囁くような口調。見回り中に不審人物を詰問する際も、ややビブラートのかかった小声で「鬢ずれがありますね」とかね。出番は少なかったけれど、虜になったもんですよ。中でも第37話の「こぼれ花」は白眉。祭の雑踏の中で出会った勝海舟と土方歳三が酒を酌み交わしながら――「花ならさしずめこぼれ花でしょうかねえ」。もう「花一輪」の世界ですよ。後にも先にもあんなやくざな土方歳三は藤竜也の土方歳三だけ……。

 さて、本題。思うところあって、江戸時代初期の禅僧・至道無難の教えをまとめた『至道無難禪師集』(公田連太郎編著)を読んだところ、開巻早々、こんな文言に遭遇――

しれは迷ひしらねは迷ふ法の道
なにかほとけの實なるらん
此歌の心明ならは、大道あらはるへし

 しれは迷ひしらねは迷ふ法の道――って、かの有名な(?)「豊玉発句集」にそっくり同じやつがあるよね。その隣には司馬遼太郎にからかわれた「恋の道」の句があって、なぜか線で囲んである。で、一般的には「法の道」の句は「恋の道」の句の改作とされているようなんだけど、そうじゃなかったんだ。豊玉宗匠は至道無難の道歌の上の句を改作して「恋の道」の句を詠んだということ。線で囲んでいるのは、こっちの方が自分の句であることを明示的に示すためでは? うん、どうやらこれでなぜ「恋の道」の句が線で囲んであるのかという〝謎〟が解明されたようだ(笑)。

 またこう考えるならば「豊玉発句集」に収められているのは全部で41句ではなく、40句ということになる。やっぱり几帳面な土方が41句などという中途半端な数にするはずはなかったんだ。

 しかし、至道無難の道歌を元に句を詠んでいたということは、土方歳三は至道無難――あるいは、「法の道」の道歌が収められた「卽心記」――を読んでいたということだよね。とするならば、土方歳三という男の思想的バックボーンを探る史料として「卽心記」を位置づけることもできるということでは? 多分、「卽心記」は土方歳三が読んでいたことが裏付けられる唯一の書。そう思って読み返すと、やたらと迫ってくるじゃないか――「いきなから死人となりてなりはてゝ/おもひのまゝにするわさそよき」。そもそもワタシが『至道無難禪師集』を読む気になったのもこの道歌の意味を知りたかったからなんだけど――

法語
一身の外は佛なり。たとへはこくうのことし。かるかゆへに、ゐはいのうへに歸空と書くなり。
一常に何もおもはぬは、佛のけいこなり。
一なにもおもはぬ物から、なにもかもするかよし。
いきなから死人となりてなりはてゝ
おもひのまゝにするわさそよき
諸行無常、是生滅法、生滅々已、寂滅為樂、此歌のこゝろなり。

 正直、よくわかりません。「卽心記」にはこんな下りもあるんだけど――

或人、地獄を問ふ。予云、なんぢが身にせめらるゝを云ふ。極樂を問ふ。身のめせなきを云ふ。佛を問ふ。身心ともになし。かれいはく、死人におなし。予云、生きながら死人になるをいふ。

 「仏とはどのようなものか?」と問われ、「身心ともになし」と答えた。すると、「それでは死人と同じではないか」と反問された。それに対して、「そう。仏とは生きながら死人になることである」――と、そう答えたというのだけれど……これは生半可な表現じゃないよねえ。普通の言語感覚だと、こうはならないですよ。椎名林檎も歌つてゐるぢやないか(と、なぜか旧仮名遣いで)――「いつも通り お決まりの道に潜むでゐるあきのよる/着脹れして生き乍ら死んぢやあゐまいかとふと訝る」。至道無難が「佛」の様態を表すものとして繰り出した言語表現がこちらでは獣心を失った家畜の生き様(歌のタイトル「獣ゆく細道」に引き寄せて言うならばね)を表すものとして使われている。でも、普通の言語感覚だと、そうなるよね。しかし、至道無難は違うんだよ、「いきなから死人となりてなりはてゝ/おもひのまゝにするわさそよき」――。これはなかなか現代の歌姫に歌える境地じゃありません……。

 しかし、土方歳三が「卽心記」を読み、この教えを心に刻んでいたと考えると、いろいろ腑に落ちることがある。たとえば――これはワタシがかねがね疑問に思っていたところで、あるいは土方歳三という人物を考えるに当っての最大の論点になりうるのではないかとも思っているのだけれど――土方歳三は生涯、「家」を持つことがなかった。彼は独身のまま35歳の生涯を終えているのだ。これは不思議ですよ。なぜって、「家」がなければ、たとえ「武士」になったところで、それは一代限りのもので、土方歳三の死とともにその身分は露と消えてしまうのだから。幕府から戴いた禄も「家禄」として引き継ぐことができない。これに対し、近藤勇には妻子がいた。また京都には妾もいた。誠に以て「武士」らしい「武士」で、もし徳川の世がもう少し続いていたら、「旗本・近藤家」は親から子へと正しく引き継がれていただろう。しかし、「旗本・土方家(あるいは内藤家?)」はそうはならない。土方歳三の代で絶えるしかない。一体彼はこのことをどう考えていたのだろう? 「家」を遺さずしてなんの「武士」か――と、そういう疑問が涌くわけだけれど……しかし、もしかしたら彼は何も信じていなかったのかもしれない。「家」ということも、「武士」ということも。所詮、全ては「仮」なのだ――

身の業のつきはてぬれは何もなし
かりにほとけといふはかりなり

 なんと「佛」まで「仮」だというのだ。ならば「家」などなにほどのものか。もしかしたら彼は徳川家も信じていなかった可能性がある。だから近藤勇とは違って徳川幕府崩壊によっても意気阻喪することがなかった……。また彼は「罪」を怖れなかった。土方歳三が「鬼の副長」としてあれほどの粛正に手を染めえたのはこう自分自身を客観視していたからではないか――

思ふまゝにこのみにつみをつくらせて
ちこくの中へつきおとすへし

 すべては「仮」なら罪もまた「仮」……。さらに言えば土方は故意に「思想」を退けた気配がある。それは山南敬助や伊東甲子太郎に対する敵意からそれとなく読み取れるのだけれど――

萬事のもとは信なり。信のすたるもとは智なり。此智より何のみちもすたれり

 そう彼は信じていた。そして隊士たちにもただ信ずることを求めた……。そんな「鬼の副長」は厳しい「法度」を作って隊を統率したことが知られているわけだけれど、実は至道無難も「法度」を作っている――

我菴門徒中に法度之事
一坊主は天地の大極惡也。所作無くして渡世す。大盜人也。
一修行果滿ちて人の師とならんとき、天地之重寶也。萬渡世の師のみ有り。大道の師まれなり。
一一紙半錢、をろかにする事なかれ。
一平常、身をつゝまやかにして、身のためにする事なかれ。法てき佛てきは身なり。
一人よりものをうくる事、毒藥とおもへ。大道成就之時、人のをしむものをうくへし。其人をたすくるゆへなり。
一修行之内、人にうたれふまるゝとき、過去にてわかなす業つくると悅ふへし。
一一夜をあかすとも、亭主のきる物かる事なかれ。すみによりかゝりてふすへし。大かたはふくすに入れて持ちて行くへし。やくそくの日、あめ雪にも行くへし。
一大道成就せさるうち、女をちかつくへからず。
一心さしなき家にとまるべからず。
右九ケ條常にまもるへし。外は古德の語にあり。

 もちろん、至道無難はこれらの「法度」に背いた場合(至道不覚悟⁉)は「切腹申付ベク候也」――とは書いていないわけだけどね。ただ、第一條の「坊主は天地の大極惡也」は、新選組が元治2年に屯所を西本願寺に移し、境内で大砲の訓練をしたり、食料とするために豚の飼育も行ったり――というような「乱暴狼藉」を働いたとされることを考えた時、なかなか興味深い。もしかしたら土方歳三の意識の根底には「坊主は天地の大極惡也」という至道無難の言葉が木霊していたのかも……?

 さて、最後にちょっと突拍子もない(?)ことを考えてみたいのだけど――まず、東京・日野の土方歳三資料館には榎本武揚が土方歳三の甥・土方隼人の求めに応じて揮毫したとされる扁額が所蔵されいる。記されているのはこんな言葉――

入室伹清風

 読みは「にゅうしつしょせいふう」。意味するところは「歳三という男は、部屋に入ってくると清らかな風が吹くような、そんなさわやかな人物だった」――と土方歳三資料館では説明しているのだけれど(土方歳三資料館日記「榎本武揚と歳三さん」参照)、ただ「伹」がねえ。この字、大修館書店版『大漢和辭典』を引いても「つたない。にぶい」とか「あさい」という意味しか載ってないんだよね。一方、同じ音で人偏のない「且」だと「ここに」とか「まさに」とか。「入室ここに清風」「入室まさに清風」。まあ、どっちでもそれなりに意味は通ずるよね。よもや榎本武揚が字を間違えた、というようなことは……? ともあれ、土方歳三は「部屋に入ってくると清らかな風が吹くような、そんなさわやかな人物だった」――と、榎本武揚はその人柄を評した。その上で、「卽心記」にこんなことが記されているのだけれど――

大道を心かけん人は、萬法のあくはみな身のなすわさとして、天外地外、古今未來、へだてなきものあり、これをよくしりて、その一をまもれは、をのづから身の業つきて淸淨になる事、うたかひなし。

 土方歳三が本当に榎本武揚が書くような人だったとして、なぜ彼は死に臨んでそのような人でありえたのか? それは、彼のそれまでの行いはすべて「行」だったからではないか? 文久3年に幕府の浪士組徴募に応じて京に上って以降の彼の行いはすべて「行」だった。事実、彼は「家」を持つことはなかった。それは「出家」していたということでもある。「出家」とは何か? 「卽心記」に曰く――「常の家を出、三衣一鉢にして樹下石上の住居するさへ、眞の出家といひかたし。眞の出家にのそみふかくは、我身は八萬四千の惡あるものなり。其中に大將とかしつく、色欲、利欲、生死、嫉妬、名利、此五つ也。よのつねにして退治しかたし。晝夜悟を以て一々に身の惡をほろほし、淸淨になるへし」。土方歳三がどのような「悟」を拓いたのかは知らない。しかし、彼が「色欲、利欲、生死、嫉妬、名利、此五つ」を「退治」していたのは間違いない。そうでなければ、死に臨んでそれほど「淸淨」でありえた理由が見えてこない……。