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悪王子って、何?

 ねえねえ、オカムラ、悪王子って、何?

 チコちゃんにそう聞かれても困らないように、「悪王子」について調べて見た。まず、「悪王子」の名を冠した社(神社)は日本各地にある。おそらくネットで検索して最も頻繁にお目にかかることになるのは、現在、京都の八坂神社の境内摂社となっている悪王子社だろうと思われるのだけど、これ以外にもわが富山にもあれば滋賀にもあるし、静岡にもあれば千葉にもある。ところが、そんな「悪王子」ないしは「悪王子信仰」について記した記事はウィキペディアにもないし、図書館の参考書コーナーに陣取って各種レファレンス(『広辞苑』とか『日本大百科全書』とか。また神道関係ならば『神道事典』とか『日本神名辞典』とか)に当っても軒並み空振り。そんな中、辛うじて「悪王子」について記しているレファレンスとして挙げることができるのが『日本国語大辞典』。さすがは『日本国語大辞典』! と褒め称えるに吝かではないのだけれど、ただそこに記されているコトは不十分にもほどがあるというか――

あく-おうじ ‥ワ
ウジ
【悪王子】〘名〙①強く荒々しい王子。*浄瑠璃・用明天皇職人鑑(1705)職人尽し「『なふもったいなや、鬼の様なる悪王子。〈略〉まっぴら御免』と逃げ出るを」②歌舞伎芝居で、乱暴で悪い王子の役。また、その役に用いる鬘(かつら)。*楽屋図会拾遺(1802)下「鬘品目、〈略〉悪王子(アクワウジ)〈時平、もりやのたぐひにて登友十丸など用るなり〉」

 浄瑠璃や歌舞伎に「悪王子」という役があるというのは、へえ、なんだけど、でもこれだけ? 神社の「悪王子」や「悪王子信仰」は? 浄瑠璃や歌舞伎の「悪王子」なんかよりよほどポピュラーだと思うんだけど……? しかし、愚痴ってみてもしょうがない。かくなる上は自分で何とかするしかない。というわけで、何とかしたところ――まず1つ、ウン? という事実が。全国に存在する悪王子社、普通だったら、それらはすべて同じ信仰であるはず――同じ社号を冠しているわけだからね。ところが、そうではないんだ。神社によって信仰の形態が違うのだ。具体的に何がどう違うかというと――祭神が違う。八坂神社の悪王子社について言えば、祭神は「素戔嗚尊(スサノオノミコト)の荒御魂」とされている。で、これは滋賀県に伝わる悪王子信仰も同様。全国の日吉神社の総本山である日吉大社の境内にも悪王子社が鎮座しているのだけど(なんでもかつては日吉大社を構成する「山王二十一社」の「下七社」に悪王子社が数えられていたらしい。『太平記』巻18「比叡山開闢の事」には延暦寺が創建された際に勧請された21社の中には悪王子社が含まれていたことが記されている。ただ、現在では「竈殿社」に取って代わられている模様)、『神道大系 神社編』29「日吉」によれば、これも祭神は「素戔嗚尊奇魂」。なお、日吉大社では「悪王子」を「あくおうじ」ではなく「あしおうじ」と読むらしい。またそれに伴って「悪王子」ではなく「愛志王子」とか「阿志王子」と表記されている史料も見受けられる。これは、まあ、「悪王子」という禍々しい表記を嫌ったんだろうけれど、それにしても「愛志王子」ですか……。また滋賀県内には他にも悪王子社を摂末社とする神社があって、滋賀県野洲市中主町にある兵主(ひょうず)大社がそれ。末社である「兵主二十一社」の内の3社が悪王子社。その内の1社(現・木部神社)の祭神が「素盞嗚尊」で、残る2社(現・吉地神社と現・比利多神社)の祭神は「五十猛命(イソタケルノミコト)」。このイソタケルとはスサノオの子とかで、『日本書紀』では天を追放されたスサノオとともに出雲國の簸の川上に在る「鳥上之峯」に到ったとされている。一方、わが富山の二上山に鎮座する悪王子社は祭神を「地主神」としているのだけど、由来として記されている「悪王子伝説」なるものがスサノオによるヤマタノオロチ退治と同工異曲と言っていい内容。実態としては、スサノオによるヤマタノオロチ退治が越中を舞台にローカライズされたものと見ていいのでは(追記:もっとも『古事記』には「是高志之八俣遠呂智。毎年來喫(是ニ高志ノ八俣遠呂智、年毎ニ來テ喫フナル)」と書かれており、ヤマタノオロチは高志=越の国からやって来るとされている。だったらこっちが本家本元である可能性も? ちなみに、ヤマタノオロチの正体を大和王朝に帰化しない製鉄集団の一族とする説がある。「魔物の正体は、二上山を七巻き半もする大蛇で、その傷口から吹きこぼれた血が草木を燃やして麓へと流れ落ち、現在の山道となりました」という記載は「たたら製鉄」で炉から流れ出した銑鉄を連想させる。二上山の近くを流れる小矢部川では砂鉄が採れることも知られており、それを原料に二上山で「たたら製鉄」が行なわれていた可能性もなくはない。「高志之八俣遠呂智」の正体はもしかしたら……)? で、これらを悪王子信仰のタイプAとしよう。そして、これらとは異なるタイプBが存在する。それが静岡県と千葉県に伝わる悪王子信仰で、こちらが祭神としているのは「軻遇突智神(カグツチノカミ)」、ないしは「火之御子神(ヒノミコノカミ)」(「火之御子神」については『神道事典』には記載がないものの、『静岡縣神社志』によれば「火之御子は火之迦具土神を指し」云々)。スサノオをセンターとするタイプAとは明らかに異質。こうなると悪王子信仰は大きくスサノオを祀るものとカグツチを祀るものに分けられるということになるのだけど――

 これがなんとも面妖と言うか。なぜ同じ悪王子神社でありながら、こういう異なる2つのタイプが存在するのか? 考えられるのは、どっちかがオリジナルでどっちかがそのバリエーションというパターン。では、タイプAとタイプB、どっちがオリジナルか? 文化は都から地方に伝播する――と考えるなら、京都の八坂神社に伝わるタイプAがオリジナル。ただ、どうもこのケースは違うらしい。タイプBがオリジナルでタイプAがそのバリエーションと考えられるフシがある。というのも、タイプBには香取神宮の第1摂社とされる返田(かえだ)神社が含まれるので。この返田神社について『千葉縣香取郡誌』(千葉県香取郡役所)の記すところを引くなら――「創建詳らかならざるも其舊社なることは古文書に徵して知る可し古來本社を稱して返田惡王子神社とも云へり」。またこの返田神社とともにタイプBの悪王子信仰を伝える静岡県富士宮市阿幸地にある悪王子神社(こちらは明治4年までは富士山本宮浅間大社の境外末社だったという。ウィキペディアの「富士山本宮浅間大社#摂末社の変遷」参照)も相当古い。なにしろ創建は貞観5年(863年)というのだから。これに対し、八坂神社も創建は656年と伝わっており、これだけを取るならばタイプAも相当古いと見ることができるのだけど、ただ今は八坂神社の境内に境内摂社として鎮座する悪王子社ではあるけれど、元々は下京区東洞院通四条下るにあったとされ、平成10年には同じ場所に新たに悪王子神社として再建されている。その地に建てられた高札(「悪王子社と祇園祭」)によれば――「悪王子社は素戔嗚尊を祀る八坂神社の摂社で、天延二年(九七四)東洞院通四条下る西側に建立されました」。しかし「豊臣秀吉の命で烏丸五条に移され、この地を元悪王子町、移転地を悪王子町と呼ばれるようになりました。悪王子社は明治十年より現在の八坂神社境内に鎮座されていますが、当町内にあるのが本当で、土地所有者の御好意で平成十年四月悪王子社の分霊を頂きここにお祀りすることができました」。当町内にあるのが本当で――とは、婉曲表現を好む京都人としては異例なくらいにストレートな物言い? ともあれ、その「本当」の悪王子社の創建は天延2年(974年)だというのだ。つまり、創建年が不明な返田悪王子社は措いておくとしても、創建年が貞観5年(863年)とハッキリしている静岡県富士宮市阿幸地にある悪王子神社と比べても相当、新しいということ。もっともこれは今回、ワタシが大いに(と、ここはゴチックで強調させていただきましょう。多分、悪王子信仰について記された論文と言えるものは、これが唯一だと思われます)参考にさせていただいた樽谷雅好「『悪王子』考-平安京からの使者-」(『二上山研究』第3号〜第6号)で知った事実なのだけれど、悪王子神は藤原氏によって篤く信仰されていたという。鎌倉中期に編纂された山王神道の書である『耀天記』(『神道大系 神社編』29所収)によれば――

一惡王子事、
成仲宿禰云、二宮第三王子者、惡王子事也、當社者、長門入道寂超俗名爲經之曾祖父定國所崇也、
或說云、惡王子者、アラ人神也、日野氏先祖有國宰相所崇也、

 この中に藤原定国(従三位・大納言)と藤原有国(従二位・参議)の名前が見える。特に注目は藤原定国で、というのもこの人物が亡くなったのは延喜6年(906年)とされるので。そんな人物が悪王子(神)を「崇め奉っていた」ということは、東洞院通四条下るに悪王子社が建立された時点では既に京のインテリ層の間では相当程度、悪王子信仰が広まっていたと考えることができる。ただ、その信仰の受け皿となる神社は天延2年までは存在しなかった。これは間違いない。こうなると、悪王子信仰は外から京都に持ち込まれたもの、と見なすことができる。では、それはどこから? それはやはり静岡や千葉――当時の国名で言うならば、駿河や下総――から持ち込まれたと考えるべきでは? つまり、〝鄙離る〟東国で誕生した信仰が京都に移入され、都の文化の干渉を受けて独自の発展を遂げた上で、そこからさらに滋賀(近江)や富山(越中)に伝わった――と考えるのが、まずまず順当ではないか?

 さらに、こういう前提で悪王子信仰の伝播を捉えるなら、なぜ祭神が違うのか? という問にもそれなりの答を提示することができる。それは、信仰としてより古型であると考えられるタイプBが祭神とするのが火の神であるカグツチであること。ここで改めてカグツチなるものについて『神道事典』が記すところを紹介するなら――

カグツチ
迦具土神(記)、軻遇突智(命)(紀)
〈別名〉火之夜芸速男神、火之炫毘古神(記)、火産霊(記)
 火の神。『古事記』および『日本書記』の一書によれば、イザナミはこの神を生むとき陰部が焼かれ、それがもとで亡くなった。怒ったイザナギが剣でこの神を切り刻んだところ、剣についた血からタケミカヅチほかの諸神が生まれた。また、殺されたカグツチの死体からは、山を表すさまざまなヤマツミの神が生まれた。

 有史以来、富士山が何度も大噴火を繰り返してきたことは数多の史料が伝えるところで、わかっているだけでも482年頃に1回、781年に1回、800年〜802年にかけて数回、そして864年(貞観6年)の大噴火(貞観の大噴火)。また磐梯山も806年に大噴火。これによりそれまで2,000m以上あった富士山型の山から現在のような山容になったと言われる。これ以外にも685年には浅間山が大噴火したという形跡もあるという。こうした天地轟々たる世情にあって火の神たるカグツチを祀ることによって「火を噴く山々」の静かならんことを祈願して建てられたのが「阿幸地の悪王子神社」や「返田の悪王子神社」と考えることができる。しかし、こうして生れた悪王子信仰は都へ持ち込まれると全く似て非なるものに姿を変えた。なにしろ祭神がカグツチからスサノオに変わったのだから。多分、これは畿内には「火を噴く山々」など存在しないことが理由だろう。そこで、カグツチと同じく〝荒ぶる神〟ではあるものの、より神話としてポピュラーなスサノオに祭神を変えることによって信仰として生き延びた――と、粗々こういうことだったのでは? あるいは、そうなる過程では、「悪王子神」を篤く信仰する藤原氏によるプロデュースでもあったのかも知れない。

 ――と、とりあえずこれで悪王子信仰なるものについては、それなりの交通整理はできたとは思うのだけど、ただ、これだけではチコちゃんの納得は得られないはず。つーか、ワタシ自身が納得できない。チコちゃんが(あるいはワタシが)知りたいのは、悪王子って、何? ということなのだから。悪王子信仰とは、元を辿れば、火の神であるカグツチに対する信仰である――ということになるわけだけど、しかし、なぜかそれは「悪王子信仰」として世に広まっている。「火を噴く山々」の静かならんことを祈願して建立された神社が悪王子神社と名付けられ、その信仰自体も「悪王子信仰」として世に広まっているという不思議。いや、不思議ですよね。これを不思議だと思ってもらわなければここから先に進めないのだけど――ウン、不思議だよね、と、そう思ってもらったことにして――なぜカグツチ信仰はカグツチ信仰としてではなく、悪王子信仰として世に広まったのか? これは、単純化するならば、なぜカグツチは「悪王子」と言い換えられたのか? という問題でもある。別にカグツチでいいではないか。それでも十分、カッコいいんだから。カグツチ、あるいは火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)、あるいは火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)、あるいは火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)……。そのままでも十分にカッコいい火の神をなぜ東国の人々は「悪王子」と言い換えたのか?

 さて、ここから本稿の本題。なぜそのままでも十分にカッコいい火の神を東国の人々は「悪王子」と言い換えたのか? という問に対する、ワタシが導き出した1つの仮説を提示することとしたい。その仮説とは――実は東国の人々はカグツチを「悪王子」と言い換えたわけではないのではないか? カグツチを祀る神社が「悪王子神社」と呼ばれているのは、実に単純な理由から……。

 まず、悪王子信仰としてはより古型と考えられるタイプB。このタイプBの悪王子信仰の起源はどこか? これについては、考えられる神社が2つある。それが、既に紹介した静岡県富士宮市阿幸地にある悪王子神社と千葉県香取市返田(「かやだ」と読む。一方、神社の名前は「かえだ」。ややこしい)にある返田神社。阿幸地の悪王子神社については創建が貞観5年であることは既に記した。一方、返田神社については確たることはわからないものの、前述『千葉縣香取郡誌』では「創建詳らかならざるも其舊社なることは古文書に徵して知る可し」。多分、悪王子信仰の起源はこの2つの神社のどちらかと考えて間違いない。では、「阿幸地の悪王子神社」と「返田の悪王子神社」のどっちが先でどっちが後か? これについて樽谷雅好氏は「富士山麓(駿河)から下総へと『カグツチ』神すなわち『悪王子』が勧請された、と見てよいのではないかと思う」。しかし、この見立てについてはワタシは異論がある。「阿幸地の悪王子神社」の創建年として伝わる貞観5年とは奇しくも「貞観の大噴火」の前年。有史以来、噴火を繰り返してきた富士の山の静かならんことを祈願して「阿幸地の悪王子神社」が建立されたのは間違いないだろうけれど、なんとその翌年に富士山が大噴火。もうご利益もあればこそ。そういう状態でその祭神を下総の人たちが勧請しようと思いますかねえ。むしろここは「阿幸地の悪王子神社」が「返田の悪王子神社」の祭神を勧請したと考えた方が自然。で、そう仮定するならば、「返田の悪王子神社」こそはすべての悪王子信仰の〝火元〟ということになる。では、その「返田の悪王子神社」はなにゆえ社号を「悪王子神社」としたのか? ずばり、「返田の悪王子神社」はその鎮座する場所にちなんで「悪王子」と名付けられのではないか?

 常陸国土浦の国学者・色川三中が田制研究の資料とすべく、香取神宮とその社家の所蔵する文書を影写し、家別に編集した『香取文書纂』なる全62巻からなる古文書のコレクションがある。その巻16にこんな文書が収められている――

返田之あくわうじの御神田參反小之内貳反は以前かい/\させ申候上は子細あるまじく候又壹反小はあんどさせ申候上はきやう二郞におき候ては異儀申まじく候尙々身之しそんにおいても異儀を申事はあるまじく候仍爲後日證文狀如
  應永十六年つちのとの
うし
貳月四日 なはわ八郞入道花押

 返田の「あくわうじ」(原文では「悪王子」と傍注が付してある)の神田3反の内、2反は以前、買い返したものであり、残る1反は安堵(そのまま?)ということで異議はございません――。ま、そんなような内容? で、注目は冒頭の「返田之あくわうじの御神田」。これを素直に読むならば、「あくわうじ」とは明らかに地名。もしかしたら返田(やはり『香取文書纂』所収の文書には「萱田」と記されているものも見られる)という大字の中に「あくわうじ」という小字があったのかもしれない。これは、その「あくわうじ」の神田をめぐる土地取り引きの記録――。

 神社の社号と地名の関係はなかなかに微妙で、たとえば香取神宮は香取市にあるわけだけれど、これは立地する場所の名前が神社の名前になったというよりも、神社の名前が立地する場所の名前になったと考えた方が自然。従って「返田之あくわうじ」も悪王子神社があるからそう呼ばれていた、という事実関係だった可能性も十分に考えられる。ただ――読者は「悪路王」をご存知だろうか? 正体不明の蝦夷(えみし)の族長で、古記録に名前が見えるものの、一体何ものなのかは、これまでさまざまに論じられてきたものの、未だに確たることはわかっていない。ただ、その「悪路王」という蠱惑的な名前(さしずめ「悪王子」の父王⁉)については、元となった語があって、その音に「悪路」という字を当てたというのはほぼ確実で、しかもその元となった語というのは地名ではないか? という有力な説がある。ここでは主唱者の喜田貞吉が大正4年に日本歴史地理学会主催の講演(「蝦夷の馴服と奥羽の拓殖」。日本歴史地理学会編『奥羽沿革史論』に収録)で述べたところを紹介するなら――

……さて此の達谷窟で田村麿が惡路王を滅ぼしたといふ、其の惡路といふのは、蝦夷地の地名でありまして、其惡路の酋長でありますからして、惡路王と言つたのでありませう。いやな文字を用ひて居りますが、是は何も惡ひ王ぢやと云ふ意味では無い。とかく夷狄に對して、故らに賤む樣な文字を使ふのは支那古來の習慣で、それを我國にも眞似たのでありませう。支那人が日本の事を倭奴と言つたり、北の夷狄を匈奴と言つたりする如くに、殊更に惡路と書いて、蝦夷を賤んだのでありませう。本名は阿久利といふ。陸奧守源賴義が、膽澤の鎭守府から、多賀の國府に歸る時に、阿久利川で貞任亂暴の一件があつた。いづれ此の地方の名に違いない。其の阿久利卽ち惡路でありませう。吾妻鏡に名馬阿久利黑といふのがありますが、是も此邊から出た馬でありませう。阪上刈田麿及び東人等が、馬を飼ふ術に達して居た話は澤山あります。阿久利にも古く良馬が出たのでありませふ。さて此の惡路が蝦夷の地名であるといふことは、他にも種々な物に見えて居りますが、一の例を申すと、發心集に心戒上人跡を止めざる事の條の中に、斯う云ふ事があります。「其後此の國へ歸りて都あたりは事に觸れて住みにくしとて、夷があくろ・津輕・壺のいしぶみなどいふ方にのみ住みけるとかや」とあります。惡路は津輕や壺などと共に、皆蝦夷地の地名である事がわかります。平家物語にも平宗盛が捕虜になつた時、どうか生命が助かり度いといふ事を述べた處に、「大臣殿世に嬉しげに思して、さるにつけても御淚を流し給ひ、いかなるあくろ・つがろ・壺の名をも、夷が栖なる千島なりとも、甲斐なき命だにもあらばと思ひ給ふ」とある。まだ外にもさういふ例はあります。
 要するに惡路は地名であります。(略)

 この説を援用して、「悪王子」とは返田神社が鎮座する「返田之あくわうじ」の「あくわうじ」に「悪王子」の字を当てたもの、と考えることはできないだろうか? ここで先に示した論点を再確認するなら、富士や浅間や磐梯といった「火を噴く山々」に苦しめられてきた東国の人々がその静かならんことを祈願して火の神たるカグツチを祀るに当って、祭神であるカグツチを「悪王子」と言い換えなければならない理由は何もないのだ。また現に「返田の悪王子神社」にしろ「阿幸地の悪王子神社」にしろ、祭神は「軻遇突智神」または「火之御子神」とされている。決して「悪王子神」ではないのだ。にもかかわらずその社号が「悪王子神社」であるというのは――それが鎮座する場所が「あくわうじ」であり、その「あくわうじ」に「悪王子」の字を当てて悪王子神社になった――という仮説は、それなりに説得力があるのではないかと思うのだけど、どうだろう? ちなみに、以上の仮説は悪王子信仰の起源が「返田の悪王子神社」ではなく「阿幸地の悪王子神社」だったとしても十分成り立つ。「阿幸地の悪王子神社」の鎮座場所である「阿幸地」について『角川日本地名大辞典』では「地名は悪王子神の祠があったことに由来する」。しかし、これは逆だと考えることもできるはず。つまり、「阿幸地」という地名が先にあって社号はそれにちなんだもの、という考え方。「阿幸地」の読みである「あこうじ」に「悪王子」という字を当てた……。

 悪王子信仰が京都に移入され、その名前を冠した神社が建立される程度には人々に受け入れられた理由の1つにはそのネーミングの力(魔力)があったのではないかとワタシは考えている。悪王子――この怪しくも蠱惑的な名前。これがあったからこその受容ではなかったのかと。また「悪王子」という名前は布教という点でも何かと都合がよかったに違いない。というのも、「悪王子」という名前は「神が王子の姿をとって現れる」という「王子信仰」の一種のようなイメージを抱かせるので。事実、日吉大社にまつわるさまざまな霊験譚を描いた『山王霊験記絵巻』には王子(童子)姿の悪王子が描かれたものもある(細見美術館所蔵。なお、現存する『山王霊験記絵巻』の中でも王子姿の悪王子が描かれているのは細見美術館本だけのようで、日枝神社本を収めた中央公論社版『続日本絵巻大成』12「山王霊験記・地蔵菩薩霊験記」には含まれていない)。しかし、本来、「悪王子」と「王子信仰」には何の関係もないのだ。「王子信仰」のメッカと言ってもいい熊野には「○○王子」という社が100以上もあるのだけれど(これを総称して「九十九王子」と呼ぶ。「九十九」は実際の社の数を表すのではなく、多数あることの比喩)、その中にも「悪王子」という社はない。それもそのはず。「悪王子」とは、単に神社が鎮座する場所である「あくわうじ」(もしくは「あこうじ」)に「悪王子」の字を当てただけ――と言ったら、チコちゃんは納得してくれるかなあ……。


越中総鎮守射水神社摂社・悪王子社①
越中総鎮守射水神社摂社・悪王子社②
越中総鎮守射水神社摂社・悪王子社③

付記 本稿の執筆に当っては高岡市児童文化協会・樽谷雅好氏の「『悪王子』考-平安京からの使者-」(二上山総合調査研究会編集委員会編『二上山研究』第3号〜第6号)に多大の恩恵を蒙りました。ここに改めて明記した上で、心よりの感謝を申し上げます。