当地・富山に『喚起泉達録』なる書が伝わっている。富山藩で「御前物書役」などを務めた野崎伝助なる人物が越中の歴史に関る伝承を撰述したもので、成立は享保年間。なんでもこれ以前には越中に関係する「読むに値する旧記」はなかったとされ、本書が編まれることになったのも、そうした状況を残念に思った野崎伝助が自ら起草することを思い立ち、越中各地に足を運んで本書に記されたような伝承を採録したものという(桂書房版『越中資料集成11 喚起泉達録・越中奇談集』巻末「解題・喚起泉達録」より)。当然、伝承であるからして、創作も入り込むし、額面通り受け取るのが憚られるような(史書にしては「面白すぎる」)話も含まれるわけだけれど、でもそういうものも引っくるめてここにはその当時の越中に存在した〝空気〟が丸ごと封じ込められているのだと考えるなら、これは紛れもなく〝史書〟ですよ。こういうものをバカにしているようじゃ、本当の歴史は見えてこない。
――と、まずは『喚起泉達録』の史書としての価値をプッシュした上で――ただ、あまりにそうした面ばかり強調していると、この書の本当の魅力を見失うことにもなりかねない。この書の本当の魅力とは――物語としての魅力。『喚起泉達録』は永年、「荒唐無稽な伝説の累積・物好きの架空創作」(棚元理一著『「喚起泉達録」に見る越中古代史』序文)として軽んじられてきたとされ、それに対し、その史的価値を再評価しようというのが、この棚元氏をはじめとする最近の越中人のこの書に対するスタンスと言っていい。でも、そんな「荒唐無稽な伝説の累積・物好きの架空創作」を「荒唐無稽な伝説の累積・物好きの架空創作」のまま評価する姿勢があったっていいのでは? 実際、『喚起泉達録』は見事なイマジネーションのショーケースですよ。特に「巻之十三」に描かれた大若子命(おおわくごのみこと)による阿彦征伐なんてもう完璧な「剣と魔法の物語」。言うならば「大若子命サーガ」(笑)。いや、笑いごっちゃないって。ワタシが初めて『喚起泉達録』を読んだのはかれこれ10年以上前になりますが、当時もそういう印象を抱き、そういう切り口でこの奇書を紹介するブログ記事を書いてその魅力のアピールに務めたりしたのだけど、今に至るもこの思いは変わらない。そして、今一度、このことについて書いておいた方がいいかなと。というのも、今、Googleにお伺いを立てると、大若子命による阿彦征伐については結構、メンションがある。これは当時と大きな違い。当時はワタシともう1人くらいしかいなかった(もう1人の方は、自分くらいしかいないだろうと思っていたとかで、検索でワタシが書いた記事を発見して驚いておられたのを覚えている。当時、2往復くらいだったかな、メールのやり取りもしたもんです)。しかし、それを「剣と魔法の物語」として読んでいる様子はうかがえない。みんな真面目に越中の古代史を読み解く史料としている。でも、こんな豊かな物語世界を前にして、そんなクソ真面目でどうするのよ(笑)。ここは元ペーパーバック屋という立場で言わしてもらうなら――『喚起泉達録』は1冊丸ごとパルプ雑誌だと思え。そして「大若子命サーガ」は「越之中洲国」を舞台とした「剣と魔法の物語」として読め、と……。

ということで、まずは基本的な事実から。大若子命による阿彦征伐と言われても、普通の人にはなんのことやらわからないだろう。大若子命にしろ阿彦にしろ、ウィキペディアにも記事がないようなマイナーな存在で、知らなかったとしてもムリはない。ただ、大若子命に関しては一部人名辞典で「伝承上の伊勢神宮の初代大神主」とされていて、伊勢神宮外宮・豊受大神宮に伝わる「豊受大神宮禰宜補任次第」(『群書類従』第52巻所収)なる古文書にも記載がある。しかも、阿彦征伐についての言及もなされている――
大若子命 一名大幡主命
右命天牟羅雲命子天波与命子天日別命第二子彦國見賀岐建與束命第一子彦田都久祢命第一子彦楯津命第一子彦久良爲命第一子也
越國荒振凶賊阿彦在天不從皇化取平仁罷止詔天標剱賜遣支即幡主罷行取平天返事白時天皇歡給天大幡主名加給支
垂仁天皇即位二十五年丙
辰皇太神宮鎭座伊勢國五十鈴河上宮之時御供仕奉爲大神主也
また、富山市呉羽町にある姉倉姫神社も大若子命ゆかりで、境内にある「延喜式内正一位姉倉比賣神社由来」には大若子命による阿彦征伐のことも記されている――
当社は延喜式内社の一つで、越中の社の中でも最も古い神社である。神社の創建の年代は明瞭ではないが、伝えによると第十一代垂仁天皇の御代、越中に阿彦の乱が起こり、大若子命が鎮圧においでになり、当社御祭神の霊夢を受けられ、陣所の四方に祠を建て天神地祇を祀り戦勝を祈願されたところ輝かしい勝利をおさめられた。
『喚起泉達録』によれば、阿彦征伐に手こずる大若子命の夢枕に姉倉姫(太古、越中に住まいしていた女神)が現れ、かつて大己貴命(おおなむちのみこと。『古事記』では大国主神の一名とされる。かつて越の国は出雲の勢力下にあり、越中は「大己貴命ノ作リ玉フ国」だった――というのが『喚起泉達録』が描く基本的な世界観)が越中を平定した際の故事を示して大若子命を勝利に導いた――というようなことが記されており、↑の「由来」が記す「霊夢」とはこのことを指しているものと思われる。『喚起泉達録』に記された「伝承」と地元神社に伝わる「由来」が見事に合致する、と言うことができる。
――と、史料からもそれなりにその痕跡を読み取ることができる大若子命による阿彦征伐ではあるのだけれど、『古事記』や『日本書記』には記載なし。どういうわけか「正史」はこの若き英雄の活躍を国造り神話からオミットしたのだ。もしかしたら日本建国に関る英雄はヤマトタケル1人で十分、ということだったのかもしれない。しかし、『喚起泉達録』はそんな大若子命による阿彦征伐について詳細に記述。おそらくは大若子命による阿彦征伐についてここまで詳細に記した書はこの『喚起泉達録』が唯一と思われる(なお、野崎伝助の孫に当る野崎雅明が文化12年に『肯搆泉達録』という書を著しており、この中でも大若子命による阿彦征伐について詳しく記してしている。しかも『喚起泉達録』からは読み取ることのできない「岩峅之堡」攻略のディテールまで。実は『喚起泉達録』は原本は失われ、不完全な写本が残されているのみという。大若子命による阿彦征伐についても、肝心要の「岩峅之堡」攻略の下りは残っていない。そのミッシングページを想像力で埋めたのが『肯搆泉達録』。ここでは『喚起泉達録』と『肯搆泉達録』を正続の関係と捉え、それらを一まとめにして「大若子命による阿彦征伐について詳細に記した唯一の書」とさせていただきます)。
で、この『喚起泉達録』に描かれたれ大若子命による阿彦征伐がもう完璧な「剣と魔法の物語」である――というのが本稿が声を大にして訴えたい唯一最大の論点(と書いて「アジェンダ」と読む? それにしても、面白い言葉の使い方があるもんだなあ、「弘中のアジェンダ入りしました」ですか……)なんだけど、まずはその「剣と魔法の物語」なるものについて。言うまでもなく「剣と魔法の物語」とは、ヒロイック・ファンタジーなるものの呼称としてかのフリッツ・ライバーが考案したものですが、そのアーキタイプと目されているのがロバート・E・ハワードの「コナン(Conan the Barbarian)」シリーズ。ここはデイヴィッド・プリングル編『図説ファンタジー百科事典』(東洋書林)が解説するところを引くなら――
「剣と魔法の物語」という用語は、1960年代初期にフリッツ・ライバーが造り出したものであるが、その用語が示すタイプの小説は、その数十年前からすでに存在していた。その用語はそもそも、テキサス州の作家ロバート・E・ハワード(Robert E. Howard)の作品、特に、1930年代『ウィアード・テールズ』に掲載していた、狂戦士コナンという向こう見ずな男の物語を指し示すためのものだったのである。古代キンメリア出身の筋骨隆々の戦士、コナンは、現代の神話的人物のひとりとなり、人気画家フランク・フラゼッタ(Frank Frazetta)によってペーパーバックの表紙に描かれ、あまたの画家たちの手によって(略)マーベルコミックスとなり、ボディー・ビルダーのアーノルド・シュワルツェネッガー(Arnold Schwarzenegger)によって、映画のスクリーンにも登場した。文化的偶像としてのコナンの成功は類を見ないものであったが、とりわけ、最初の単行本が出版されるおよそ十年も前に、その生みの親たる作者が自殺したことによって、この作品は人々の記憶に刻まれたのである。ハワードのヒーローは、連載そのままの形として最初で最後の長編、『竜の時代』(The Hour of the Dragon, 1935〜36連載;単行本『征服王コナン』 Conan of Conqueror, 1950)に登場する以前から、それこそさまざまな短編や小説を通じて、血で血を洗う闘いを繰り返してきた。
しかし、わざわざ「ボディー・ビルダーのアーノルド・シュワルツェネッガー」って書く必要はありますかねえ。え、その前の「筋骨隆々の戦士」と対句にするためだろうって? なるほど。万が一にもシュワちゃん(や「剣と魔法の物語」というジャンルそのもの)への軽蔑を表すものではないと……。なお、フランク・フラゼッタが描いたペーパーバックの表紙というのは、たとえばコレ。1960年代を象徴する「文化的偶像」ですが、その後、その作風はボリス・ヴァレイホによって引き継がれ、やはり「コナン」シリーズのペーパーバックの表紙を飾ることになる。
――と、以上、前置きとしても随分長々と書き連ねましたが、ここらでいよいよ野崎伝助が書き記す物語世界に入ることにしよう。まず話は崇神天皇の御代に遡る。未だ皇化に応じない北陸道を平定すべく(この時代、既に出雲はいわゆる「国譲り」を経て大和の軍門に降っていたものの、そうした中央政界における権力構造の変化はまだ北陸道までは及んでいなかったという状況かな?)、崇神天皇は大彦命(おおひこのみこと。第8代孝元天皇の第1皇子とされるので、崇神天皇からするならば伯父ということになる)に対し「北陸道に行き、若し教を受けざる者あらば、乃ち兵を挙げて伐て」と命令。大彦命はこの命を受けて北陸道に下向、若狭を経由して越中岩瀬に上陸、神通川を溯って伊豆部山の麓・杉野(現在の富山市婦中町辺り)に布陣します。この事態に各地の豪族は戦火を交えることなく帰順。大彦命は地元豪族の中から手刀摺彦(たちずりひこ)なるものを指名して統治を託すと、越後、会津と転戦して翌年には帰京します。しかし、この時、戦火を交えることがなかったことで地元豪族の勢力は温存され、後の反乱の芽を残すことに。手刀摺彦が新体制への移行を急ぎ過ぎたこともあって、反乱の機運は徐々に熟して行きます。そんな中、頭角を現してきたのが阿彦峅(あびこたけし)。この〝凶賊〟の素性について『肯搆泉達録』(『喚起泉達録』ではなく、孫の野崎雅明が書いたやつ。『喚起泉達録』には阿彦の詳しい素性は記されていない)では「布施の神、倉稲魂命の胤、布瀬比古の後、東條彦の孫なり」――としているのだけど、そう言われてもさっぱりわからない(笑)。ま、布施とは現在の黒部市布施地方を指すと捉えるなら、その地に根を張る豪族だったということか? ただ、倉稲魂命は『日本書紀』では須佐之男命と出雲の神・大市姫命の間に生まれたとされていて、その「胤」というからには決して生れは賤しくはない。しかし、『喚起泉達録』におけるその人物描写はとてもそのようなものではない――
……阿彦峅父ノ国主没タル後ハ岩峅ニ居住セシガ己ガ勇ニ誇人ヲ蔑大彦命帰洛ノ後ハ世ニ恐ル者ナシト身ヲ懶惰ニナシテ奢侈日夜ニ募朝暮荒酒色テ暫クモ農業ヲ不顧適モ是ヲ諌ントスル者アレハ眼ヲイカラシ艮時ニ打殺仮ニモ己ニ乖者ハ扯拆捨ユヘ人皆怖ハナヽキ欲心熾盛ノ凶賊較ルニ人ナク本ヨリ敵スルニ及バザレバ猛意ノ族ト云レシモカレガ強気ニ攔レ今ハ嗟ノ裡見テ侫媚ルヲ所全トセリ故ニ何㕝モ彼ガ云侭ナレバ世ニ我有テ人無ト擘ヲ張弥嗜㆑酒只殺伐ヲ明暮ノ弄ビ物トナシケルハ身毛堅バカリ也……
棚元理一氏が『「喚起泉達録」に見る越中古代史』でも述べているように、「反乱者を極悪非道な者、形相魁偉な怪物とするのは伝承物語に共通した表現方法」。それにしても、「只殺伐ヲ明暮ノ弄ビ物トナシケル」――とは何と花のあるキャラであることよ! しかもこの〝荒ぶる凶賊〟の配下には女丈夫・支那夜叉(阿彦の姉)、その子・支那太郎をはじめとして、強狗良(ごうぐしら)、大谷狗(おおたんく)、石走天狗(いわはしりてんぐ)、鬢荊坊(びんばらぼう)、乱波岱(らんばとんび)、栃谷舅(とっこくじい)――と、梁山泊もかくやという英雄豪傑が勢揃い。これはたまりませんですよ(笑)。このネーミングだけでも「大若子命サーガ」がいかに豊かな物語世界であるかがおわかりいただけるのでは? ともあれ、そんな花も実もある豪傑連中が新体制に不満を持つ地元豪族を糾合して手刀摺彦に反乱。大彦命帰京後に行政機構として設けられた「越之十二城」を相次いで急襲。この事態に手刀摺彦は都に使者を送って救援を要請。事態を重く見た垂仁天皇は天牟羅雲命(あめのむらくものみこと)の8世の孫に当る大若子命を派遣することを決定。ここに越中の古代史を彩る一大ヒロイック・ファンタジー「大若子命サーガ」が幕を開けることになる――と、まあ、口上としてはこれくらいで十分かな。
で、これが「剣と魔法の物語」であるというからには、当然、剣が出てこなければならないわけだけれど――出てきます。それが「標剱(みしるしのけん)」。最初に引いた「豊受大神宮禰宜補任次第」にもチラリと出てきますね。そう、「標剱賜遣支即幡主罷行」云々。大若子命が北陸道に派遣されるに当って帝から賜ったのが「標剱」。では、「標剱」は物語においてどういう活躍をするのか? 『喚起泉達録』によれば、越中に下向した大若子命は自ら大軍を率いて阿彦党が立てこもる「岩峅之堡」を攻めるものの、あと一歩というところで突如、大水に見舞われて一転、窮地に。ちなみに、この突然の出水による戦局の転換、『喚起泉達録』にはたびたび登場。何となくご都合主義という気もしないではないのだけれど、棚元理一氏は「往古は、灌漑用の堤が高地に沢山作られていた」として、「城攻めを受け絶望的段階になってしまった時、田畑の荒廃を顧みず貴重な堤の堰を切り放って、敵を水攻めにする戦術があったのではなかろうか」と指摘。ま、そういうことにしておきましょうか。で、どうにか高台に逃れた大若子命ら一行ではあるのだけれど、今度は火攻めの脅威に晒される。この絶体絶命の窮地を救うのが「標剱」――
……其隙ニ四将ハ命ト共ニ山ニ添野ノ高キニ至リ暫精神ヲ息ムル所ニ思ハザルニ四方一度ニ火發テ山林野草天ヲ焦燃上リ黒煙十方ニ充満其火ノ急ナルヿ四将モ防クニ術ナク既ニ命ノ側近ク燃來ル賊等續テ込カヘシ事ノ体危ク見ケル時命ノ帯シ玉フ標剱自抽テ傍ナル草ヲ薙攘是故ニ命ノ側ニ火ノ不㆑至危ヲ出玉ヘリ御剱ノ光空ニ靉靆上リ冷風發テ賊ニ向テ吹燎原焔ンニ成テ悉ク賊ヲ焼賊徒驚逃走ニ火ニ燔レ或ハ御剱ニヤブラレ一人モ不殘死タリケリ所々散乱シ諸将并佳人等モハヤ集ル火モヲサマリ無㆑程野ハ静ニ成タリケリ故ニ標剱ヲ草薙ノ御剱トモ称奉ルトカヤ……
えー、日本の神話に詳しい方なら、これと同じような話が『古事記』や『日本書記』に記されているのをご存知のはず。そう、ヤマトタケルが相模国で火攻めに遭った際、持っていた「天叢雲剣」が独りでに草を薙ぎ掃い、それによって窮地を脱することができた。ために「天叢雲剣」は以後、「草薙剣」と呼ばれるようになった――という、まあ、格別、日本の神話に詳しくなくても、それくらいは知っているって? あれと瓜二つ。実は似ているということで言うならば、阿彦征伐に手こずる大若子命の夢枕に姉倉姫が現れ……という話だって、紀伊国攻略に手こずる磐余彦尊(神武天皇)の夢に高皇産霊尊が現れて「天神地祇を敬い祀れ」と告げた、という「神武東征」のエピソードにそっくり。まあ、それだけ記紀が魅力的な物語体系だってことでしょう。だからいろんな物語で〝シェア〟される。これもそうしたものと思えばいい……。
次に、「剣と魔法の物語」と言うからには、魔法が出てこなければならないのだけれど……出てきます。手刀摺彦の配下・甲良彦舅(こうらひこじい)なるものがようやく賊徒を追いつめたものの――
……山上ニ鼓ヲ打㕝頴ニシテ忽雲発リ四天ニ蔽ル終ニ被㆓黒雲瞑㆒テ阿彦谷狗ヲ見失フ甲良歯喫シ怒ツテ周章賊徒ヲ薙倒シ残ルハ奴等追散シ馬ヲ扣テ佳人ヲ纏ルニ炎火忽チ向㆑天飛雷ハ叢ニ有テ草根発テトモニ鳴ジ前後事疑テ只困㆓羅網裏㆒ガ如佳人ノ乱ヲ理ント欲レドモ否極方ニ泰㕝ナクシテ慕風肌ヲ削リ鮮香胸中ニ臭ク途ヲ需ントスルニ只如㆑波㆓長江濶㆒サシモノ甲良彦魔術ノ深キニ犯サレテ暫時唖デ竚ケリ……
なんとなく「魔術」って近代語、それこそ、英語のsorceryの翻訳語かなにかという印象がするんだけれど、でもこうして江戸時代中期の文献に登場するからには、もともと日本語にあった言葉ってことかなあ。ともあれ、こうしてヒーロー(大若子命)がいて、ヴィラン(阿彦)がいて、剣があって、魔法がある以上、「大若子命サーガ」を「剣と魔法の物語」と見なすには十分なんだけれど、これにさらにダメ押しというか。実はワタシは1つの物語が「剣と魔法の物語」であるためには、もう1つ必要な要件があると思っている。それは、エロチシズム。これについては『図説ファンタジー百科事典』にも間接的な表現ながら記されていて――「剣と魔法もののジャンルは、そのファシズムや性差別主義、その他あらゆる罪な態度によって非難されたが」云々。このことは「コナン」シリーズが掲載された『ウィアード・テールズ』がどのようなカバーで〝ラッピング〟されていたかを思い起せば容易に理解できるはず(と言われてもピンと来ない方はコレをご覧いただければ)。また、「コナン」シリーズのペーパーバックの表紙を飾ったフランク・フラゼッタやボリス・ヴァレイホのイラストからも見て取れる。ワタシ的には、ボリス・ヴァレイホのイラストと「剣と魔法の物語」ほど親和性の高い組み合わせはないのではないかとさえ。で、「剣と魔法の物語」なるものをそのようなものと捉えるなら、この要件も「大若子命サーガ」は満たしている。征討軍と阿彦党が一進一退の死闘を繰り広げる中、誰よりも征討軍を手こずらせたのが阿彦峅の姉・支那夜叉――
……中ニモ支那夜叉尋ナル髪ヲ八方ニ吹乱シ一丈余リノ樫ノ棒ヲ手元軽ケニ打振テ向者ヲ幸ニ微塵セズト云㕝ナシ佳人等是ニ膽ヲケシ敢テ近付者モナシ甲良此ヲ見テ悪キ女メ己逃サジト鉾ヲ捻テ飛蒐ル夜叉モ得タリト棒ヲ交火花ヲ散シテ戦シガ甲良勝ツテ突伏シニ鉾先シランデ身ニ不㆑通甲良怒テ打ケルニ夜叉カ髪風ヲ渦マキ甲良ガ顔ヲ蔽カクス其隙ニ夜叉起直リ棒ヲ延テ打ントス佐畄太舅此急ナルヲ遥ニ見テ飛カ如クニ馳來甲良ヲ隔テ會釈モナク突臥ル佐畄太之鉾ハ名銅ナレハ何カハ是ニタマルベキ夜叉ガ高股ヲ突貫ク……
夜叉ガ高股ヲ突貫ク――。支那夜叉がいかに「形相魁偉」とはいえ女性であることを思えば、この描写にはある種の嗜虐性――エロチシズムのようなものも嗅ぎ取れるのでは? いざ支那夜叉にとどめを刺さんとするものの、鉾先シランデ身ニ不㆑通。それが、遂には夜叉ガ高股ヲ突貫ク。あるいは貫いたのは「鉾」ではなく佐畄太舅(さるたじい)の……。
――と、こう見てくると、「大若子命サーガ」が十分に「剣と魔法の物語」たる要件を満たしていることはご了解いただけるのでは? 本稿の冒頭でも記したように、現在、『喚起泉達録』はその史料的価値を再評価しようという試みがなされている。実際、大若子命による阿彦征伐については当地にゆかりの神社が存在し、また豊受大神宮に伝わる「豊受大神宮禰宜補任次第」にも記載があることから、全くの創作とは考えられない。当然、大若子命による阿彦征伐について詳細に記した唯一の書である『喚起泉達録』から汲み取るべき歴史的真実というやつは間違いなく存在するだろう。ただ、歴史的真実を汲み取ることに傾注するあまり、その物語的要素が余計なものとして排除されてしまうことになってはツマラナイ。それは、この豊かな物語世界を殺してしまうことになるだろう。だって、考えても見てくれ。『喚起泉達録』に記されたようなことが、全くの創作とは考えられないにしても、同時に、記された通りの話が伝承として伝わっていたということも、ワタシにはちょっと考えられない。元となる伝承があったとしても、記されたものには、相当、野崎伝助による脚色が施されていると見ていいのでは? しかも『喚起泉達録』以外には大若子命による阿彦征伐についてここまで詳しく記した文書は存在しない。つまり、野崎伝助が参考文献としうるものは事実上、皆無だったと見なしていい。である以上、描かれた物語の相当部分は野崎伝助のオリジナルであると考えていいのでは? そう考えるなら、すごいじゃないか。だって、支那夜叉だの支那太郎だの強狗良だの大谷狗だの石走天狗だの鬢荊坊だの乱波岱だの栃谷舅だの、みんな自分で考えたってことですよ。どんだけイマジネーション豊かな人物だったのか。『喚起泉達録』はその史料的価値が評価されるとともに、その物語的価値も評価されるべき。むしろここは元ペーパーバック屋という立場で言わしてもらうなら――『喚起泉達録』は1冊丸ごとパルプ雑誌だと思え。そして「大若子命サーガ」は「越之中洲国」を舞台とした「剣と魔法の物語」として読め、と……。