それにしても、「百姓ノ持タル國」ではなく、「百姓ノ持タル國ノヤウ」――とは、実悟という人、至って正直な御仁だったと見える。そりゃあ、坊主の立場からすれば「ノヤウ」としか言えんだろうなあ。これについてはご当所の石川県が昭和2年に刊行した『石川縣史』でもこんなふうに記しているのだけれど――「彼等の上には、假令その要求の充分に滿たされざるまでも、常に自家の權利を主張して貢賦を納れしめんとする本家領家の徒あり。信仰上の絕對權力たる本願寺あり。本願寺によりて派遣せられ、命令下達の任に當る御山の坊官あり。本願寺に屬して敎義宣傳を職とする大寺小坊あり。平時に於いては僧徒の顧問となり、戰時に於いては交戰部隊の指揮官たる土豪浪士の類あり。これ等のものは、その社會に於ける地位、皆土民の上に臨む所の命令者なり。故を以て農民が第三級以下たり、被治者たり、勞役者たることは、一向一揆の政治に於いても、亦富樫氏の守護時代と毫も異なることあらず」。ま、そういうことだよね。「百姓ノ持タル國」というのがあまりにもキャッチーなので独り歩きしちゃったんだろうけど、別に中世の日本に仏教的な共生思想に貫かれた〝農業コミューン〟が出現したわけではないんだ。あるいは、このあたり、いわゆる「進歩的知識人」と言われる人たちが世論をミスリードしてきたという側面があるのではないか。むしろ「進歩的知識人」と言われる人たちこそ、この歴史的悲劇を痛みを以て見つめるべきだったのでは?
この歴史的悲劇――。15世紀末から各地で澎湃と沸き起こった一向一揆なるものが最終的にどういう結末を迎えたかを客観的に見つめるなら、そう言わざるをえない。以下、その一端を見て行きたいと思うのだけど――最初に血祭りに上げられたのは伊勢長島の門徒衆だった。元亀2年、天正元年と2度までも信長軍の猛攻を跳ね返した伊勢長島の門徒衆ではあったが、3度目はそうは行かなかった。天正2年7月、7万とも8万とも言われる大軍団の動員に成功した信長は4方向から伊勢長島に猛攻をかけ、8月上旬の時点で門徒側は長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の5つの城に籠城を強いられていた。以下、『信長公記』が記すところを引くなら――
八月二日 之夜以外風雨候其紛に大鳥居籠城の奴原夜中にわき出退散候へと男女千計被切捨候
八月十二日 𛁈のはせ籠城の者長島坊主にて御忠節可仕の旨堅御請申の間一命たすけ長島へ被追入去程に 木目峠に取出を拵 樋口を被入置候處如何樣の含存分候し哉覽取出を明退妻子を召列候て甲賀をさしてかけ落候を 羽柴筑前守追手をかけ途中にて成敗候て夫婦二人の頸 長島御陣所へ持せこされ候也 今度長島長陣の覺悟なく取物も不取敢
七月十三日に 島中の男女貴賤不知其數長島又𛂞屋長島 中江三ケ所へ逃入候既三ケ月相拘候間過半餓死仕候
九月廿九日 御侘言申長島明退候餘多の舟に取乘候を鐵砲を揃うたせられ無際限川へ切すてられ候其中心有者ともはたかに成伐刀計にて七八百計切而懸り伐崩し御一問を初奉り歷々數多討死小口へ相働留主のこ屋/\へ亂れ入思程支度候てそれより川を越多藝山北伊勢口へちり/\に罷退大坂へ迯入也 中江城 屋長島の城 兩城に在の男女二萬計幾重も尺を取付籠被置候四方より火を付燒ころしに被仰付屬御存分 九月廿九日 岐阜御歸陣也
「男女千計」だの「男女二萬計」だのというとてつもない数字がしれっと出てくるあたりがなんとも……。ともあれ、これにより伊勢長島の一揆勢は壊滅。そして、明くる天正3年、今度は越前の大地が血に染まった。この時点で越前の一揆勢は本願寺から派遣された坊官(事実上の「守護」)と門徒衆の内部対立を抱えて既に内側から崩壊しつつあったらしい。『越州軍記』には「我等粉骨ヲ盡シテ此國ヲ討取ルニ。何トモ不知上方衆カ下リテ。國ヲ恣ニ致ス事所存ノ外ナリト云テ腹立」――なんて記載も見える。だから、ね、「百姓ノ持タル國」なんて幻想なんだって。身も蓋もない言い方をするならば、実態は「坊主ノ持タル國」だった……。ともあれ、これを好機と捉えた信長がまたしても大軍を率いて乗りこんできた。そして伊勢長島の事態に勝るとも劣らない惨劇が繰り広げられることになる。『越州軍記』ではその模様を次のようにレポート――
去程ニ。大坊主一揆等山林嶺森ノ間ニ隱レ居タル事有ヘシ。搜シ出シ誅罸スヘシト下知ナサレケレハ。安藤伊賀守。塙九郞左衞門尉。佐久閒甚九郞。不破河内守。篠岡兵庫助以下二万余騎討立テ。西方。越知。峯。織田。庄。本鄕。山家。糸崎浦三里ノ濱村々里々馳向テサカス中。海道ハ羽柴筑前守。惟任日向守。柴田修理。稻葉伊與守。丹羽五郞左衞門尉此等ヲ始トシテ三万三千余騎。先長崎邊ニ支へタリ。大野郡宅良三尾河内ヘハ。前田。佐々。瀧川。武藤。桑原黨。坂井黨ヲ大將トシテ。都合三万五千余騎土橋近邊ニ馳向。惣シテ此勢押通ルニ。元來無躰ノ兵トモナレハ。民屋ハ沙汰ニ不及。神社佛閣燒拂ヒ。木草ノ一本モナカリケリ。十万余ノ勢トモ馳散テ。嶺々谷々岩ノハサママテ搜シ。妻子トモヲ殺害シ。手足ニ薪ヲユヒ付テ火ヲ付ケ。地ヲカヘシ穴ヲホル事太多シ。
また『信長公記』ではこの時の門徒側の犠牲者数についてちょっと信じがたい数字を挙げているのだけど――
八月十八日 柴田修理惟住五郎左衞門津田七兵衛兩三人鳥羽の城へ取懸責破五六百斬捨られ候
金森五郞八 原彥次郞 濃州口より郡上表へ相働 によう とこの山より大野郡へ打入數ケ所小城共攻破數多斬捨諸口より手を合放火候依之國中之一揆既致廢忘取物も不取敢右往左往に山/\へ逃上候推次第山林を尋捜而不隔男女可斬捨之旨被仰出八月十五日より十九日まて御着到之而諸手より搦捕進上候分 一萬二千二百五十余と記すの由也御小姓衆へ被仰付誅させられ候其外國々へ奪取來男女不知其員生捕と誅させられたる分合可及三四萬にも候し歟
伊勢長島の犠牲者が(数字で明示されているだけで)2万。越前の犠牲者が3万から4万。右肩上がりは経済の指標だけにしてもらいたい……。その後、天正8年には織田信長との間で10年に渡って繰り広げられていた石山合戦の和睦が成立し、顕如は石山本願寺を退去。また本願寺による加賀統治の拠点だった尾山御坊も柴田勝家の手に落ちることに。ここに長享2年、富樫政親を倒して以来、100年近く続いた「百姓坊主ノ持タル國」は終りを告げることになる。しかし、それでも信長は本願寺門徒への攻撃をやめなかった。天正9年には佐々成政が越中の本願寺勢力の拠点だった瑞泉寺を焼き討ち。この当時、瑞泉寺は寺の周りを土塁で囲むなど、要塞化されていたものの、佐々軍の猛攻の前に一宇残らず焼け落ちたとされる(なお、現在、現地には富山県林業技術センターの推定で樹齢450年から530年とされる「松島大杉」が聳え立っており、かつその場所というのは要塞化された瑞泉寺の追手門のあたりに当ると説明されている。とするならば、この大杉だけは焼け残ったということになる。誰か書かないかねえ、「杉の木は残った」)。そして天正10年には尾山御坊の陥落後もちっぽけな山城(鳥越城)に籠もって抵抗を続けていた白山麓・山内の門徒が織田方の佐久間盛政に攻められ、最終的には300人余りが磔となるという惨劇。それが白山麓の寒村の出来事であることを考えるなら、ほとんどジェノサイドと言っていい。この出来事については、「やった側」には史料が残っていない。しかし、「やられた側」には残っている。それが『石川縣史』が掲げる「白山略記」なるもの――
石川郡吉野邑長平三郎、貞享二年由緒帳に云。先年加賀國一揆大将の内、山奥の大將鈴木出羽、能美郡二曲の城に居申處、柴田修理殿御たばかり、御殺し被㆑成候へば、加賀國御手に入申候へども、牛首組能美郡拾六ケ村、石川郡吉野村・佐良村・瀬波村・市原村・木滑村・中宮村、能美郡尾添村、〆二拾三ケ村の者ども、六七年の間柴田殿へ付不㆑申候處、牛首組拾六ケ村御入相成候て、石川郡吉野村・吉岡村の境へ、柴田殿御向候處、牛首組御味方仕候付、七ケ村の者共まけ、則吉野より尾添村迄之者共、三百人餘御とらへ、はりつけ御あげ被㆑成、其後七ケ村御たやし被㆑成、三ケ年の間荒地に成申候。
ちなみに、この出来事を描いた『鳥越城炎上』(吉村正夫著/能登印刷出版部)という小説があって、石井岳龍が映画化の可能性を探っているという。へえ(この「へえ」は、へえ、あの石井聰亙がねえ、の「へえ」)、と思う一方で、はたして監督が思い描くような映画になりますかねえ……。
――と、こうしてその結末を書き出せば、一向一揆は本願寺門徒に大変な悲劇をもたらしたということは否定すべくもない。いや、一向一揆の名で語られているものはここに列挙した以外にもあり、それに伴う犠牲者もばかにならない。そして、こうした日本各地で起きた一向一揆で亡くなったおそらくは数万という数の善男善女たちは浄土真宗などという教えに教化されることさえなければ「ブーツを履いて死ぬ」ようなことは決してなかったであろう人たち。そういうことを考えるなら、本願寺が負うべき責任は大と言わざるを得ないのではないか? これは決して〝被害者叩き〟ではない。浄土真宗は近代においても同じことをやっている。1943年、浄土真宗本願寺派第23代門主・大谷光照は門徒に宛てた「消息」で――「凡そ皇国に生を受けしもの、誰か天恩に浴せざらん。恩を知り徳に報ゆるは仏祖の垂訓にして、またこれ祖先の遺風なり。(中略)殊に国家の事変に際し、進んで身命を鋒鏑におとし、一死君国に殉ぜんは誠に義勇の極みと謂つべし」(岩波ブックレット『浄土真宗の戦争責任』より)。宗門のトップが吹き鳴らした勇壮なる進軍ラッパ……。こうした門主自ら繰り広げた積極的な戦争加担について浄土真宗の2つの教団は1990年代(入力ミスじゃないですよ。1990年代。それまで頬っ被りを決め込んでいた)に入って相次いで「謝罪」している。しかし、第2次世界大戦中の戦争責任を認めるのなら、一連の一向一揆に伴って数万という数の門徒が亡くなっていることに対する〝戦争責任〟だって当然、あるだろうという話。そういう話が蓮如を持ち上げる知識人から聞えてこないのは不思議。
ただ、それはそれとして、門徒たちの行動も解せない。加賀一向一揆最後の戦いとなった鳥越城の戦いなんて、一体何のために戦われたのか。既に顕如は石山本願寺から退去し、本願寺による加賀統治の拠点だった尾山御坊も柴田勝家の手に落ちている。もう戦いの帰趨は決したのだ。そういう状況でちっぽけな山城1つ(という印象を持たざるをえませんよ、現在、現地に復元されている構造物を見れば。つーか、印象としてはフィールドアスレチックのための野外施設。これでジップラインでもあれば本当にそんな感じですよ……)にこだわって何になるのか? 早晩、柴田の手勢が襲ってくるのは火を見るよりも明らかで、そうなった場合、抗する術なんてあろうはずがない。難なく落とされて、その後に待ち受けているのがどのような苛烈な仕置きであるかは伊勢長島や越前の例からも想像がついたはず。しかし、門徒たちはちっぽけな山城を文字通り死守しようとした……。ここではっきり言わせてもらうならば、ワタシはこの戦いから石井岳龍が「演出ノート」で述べているような「圧倒的に優位だが無差別な暴力も生む『グローバリゼーション』を前にして、素朴でオリジナルな『マイノリティー』はいかにして戦えるのか、そしてどう生き延びていけるのか、という現代的なテーマ」なんて読み取ることはできない。むしろ読み取れるのは「玉砕」でしかコトに決着をつけられないわが国柄におなじみのメンタリティ。そして、浄土真宗はここでもその思想的バックボーンになったという苦い確信。ああ、「百姓ノ持タル國」なんてなにほどのことがある。所詮、全ては「仮」なのだ。「百姓ノ持タル國」も「仮」。そんなものにイノチを懸けてなんになる……。