実はヒマラヤスギについて書くつもりだったのだけれど(これについては別に書きます。しばしお待ちを)、あれよあれよというような展開があって、メタセコイアについて書くことになってしまった。ま、ちょうどそういうシーズンではあるしね(例の韓流ドラマの影響で、今やメタセコイアといえば冬の風物詩。お隣石川県の金沢市でさる不動産会社が手がけているニュータウンの並木道なんて雪ともなればチュンサンとユジン気取りのカップルでそりゃあもう……)。
言うまでもなくメタセコイアは「生きている化石」などと呼ばれているヒノキ科の落葉針葉樹で、1941年に当時、京都帝国大学理学部講師だった三木茂が第三紀の「植物遺体」(三木茂の造語。半化石状態のものを指す)の中から発見した。当然、この時点では絶滅種という扱い。それが中国四川省の奥地で「生きている」ことが発見されたのは1946年のこと。もっとも、実際にその木が発見されたのはもう少し前で、それは奇しくも1941年のこと。発見したのは国立中央大学(後の南京大学)森林学科教授の干鐸。しかし、その時はちょうど冬季ということで既に葉は落ちており、標本の採集もなされなかった。その後、1944年には政府の森林局の職員が現地(四川省磨刀渓村)に派遣されて標本が採集され、この年、国立中央大学森林学科教授に就任していた鄭萬鈞の元に届けられた。しかし、鄭萬鈞はそれが新種である可能性が高いという判断には至るものの、メタセコイアであるとは鑑定できなかった。というのも、鄭萬鈞は三木論文を読んでいなかったのだ。実は三木論文が掲載された学術誌(『日本植物学輯報』第11巻)は戦争による郵便事情の悪化に伴ってほとんど届いていなかった。そんなこともあって鄭萬鈞は、それがメタセコイアであるとは鑑定できなかったわけだけれど、新種である可能性は高いとは見ていた。そこで1946年になって改めて助手を磨刀渓村に派遣して標本を採集、それを北京にある静生生物研究所に送って所長の胡先驌に鑑定を依頼した。そして、胡先驌は三木論文を読んでいたのだ。なんでも三木茂と胡先驌は面識があったらしい。標本を見た胡所長はすぐに三木論文を思い出した。そして、そこに記載されたメタセコイアの特徴と標本を比べたところ――間違いない、これはメタセコイアである! かくてメタセコイアは「生きている」ことが世界に向けて発信されることになるわけだけれど(なお、鄭萬鈞と胡先驌の連名で正式に新種の発表がなされるのはもう少し後で、それは1948年のこと)、しかしこの2つの「発見」が織りなすドラマは天の配剤とでもいうか。もし三木茂による最初の「発見」がないまま2つめの「発見」があったとすれば、それは単なる新種の発見に止まる。それはそれでニュースではあるだろうけれど、世界を駆けめぐるほどのビッグニュースになったかどうか。鄭萬鈞と胡先驌による「発見」が、文字通り世界を駆けめぐるビッグニュースとなったのは、三木茂による1つめの「発見」があったから。つまり、既に絶滅したものとして学術誌に記載されていた樹種が中国の奥地で「生きている」ことが発見された――と、このサプライズが鄭萬鈞と胡先驌による「発見」をまさに世界を駆けめぐるビッグニュースにしたのだ。だから、おそらくはこう言ってもいいだろうと思うんだけど――もし三木茂の1つめの「発見」がなければ、メタセコイアがこれほど有名になることはなかっただろうし、これほど世界に広まることもなかっただろう。必然的にチュンサンとユジンが愛を確かめあう場所が韓国・南怡島のメタセコイアの並木道――ということにもならなかった(はず)。1941年と46年、2つの「発見」が織りなしたミラクル……。
えーと、ちょっと話が逸れたかな。ともあれ、メタセコイアの「発見」は、優に1つの物語だった。なお、「メタセコイア」という名前なんだけど、「メタ」は「後の」とか「超越した」という意味のギリシャ語由来の接頭辞なので、字義通りに捉えるならばメタセコイアはセコイアよりも新しい、ということになるはず。そう、かの「ハイペリオン」(アメリカ・カリフォルニア州のレッドウッド国立公園に生えている樹高世界一の木。「ハイペリオン」というニックネームで呼ばれている)に代表される、あの〝世界爺〟より。しかし、斎藤清明著『メタセコイア 昭和天皇の愛した木』(中公新書)によれば、メタセコイアを日本に広めるに当って重要な役割を果した(詳細は後述)カリフォルニア大学古生物学教室のラルフ・W・チェイニー(Ralph W. Chaney)は「メタセコイアのほうがセコイアよりも古い時代の特性がみられる」として独自にDawn Redwoodという英名を付けた(なんでも「メタセコイア・グリプトストロボイデス」という学名では新聞記事向きではないと言うサンフランシスコ・クロニクルの記者に対して、植物学では祖先種に「あけぼの(dawn)」という言葉を使うことがある、と応じたことがきっかけだったとか)。また和名もこの英名に由来するアケボノスギ。地球史の夜明けにすっくと立つ1本の木――、そんなイメージを抱かせて、ワタシはこの和名はなかなか良いと思うし、昭和天皇がこの木を愛したとされるのも、この和名あればこそではないかと思うんだけど(なお、本稿のタイトルは昭和天皇が昭和62年の歌会始でお詠みになられた御製――「わが国のたちなほり来し年々にあけぼのすぎの木はのびにけり」から頂いたものです。おわかりですよね?)、どういうわけかこの木はこの和名で呼ばれることはほとんどなく、いささか誤解を招きかねないメタセコイアという呼称が一般化している。じゃあ、だからダメか――というと、そうでもない(笑)。というのも、「メタ」という接頭辞が醸し出すどこか超自然的(メタフィジカル)な感じがこの植物のパブリックイメージに合ってるというか。実は、ワタシがメタセコイアと聞いて真っ先に思い浮かべるのは、河野典生の『街の博物誌』。河野典生はわが国におけるハードボイルド小説のパイオニアの1人と目される作家ではあるけれど、決してハードボイルド・プロパーというわけではなく、蔵原惟繕監督の1960年の作品『狂熱の季節』(日本ヌーベルバーグの知られざる傑作。国内以上に国外での評価が高く、アメリカのCriterion Collectionより発売されたThe Warped World of Koreyoshi Kuraharaに収録。英題はThe Warped Ones)の原作となった「狂熱のデュエット」のような〝ビート小説〟もあるし、幻想小説もある。つーか、むしろこっちの方が河野典生という作家の本領で、それに比べればハードボイルドなんて……? またこの作家に関して注記しておくべき事項としては、初出誌に掲載されたきりとなっている作品が少なくないこと。「ビートならでは夜のあけぬ若者ども」(『別冊アサヒ芸能』1960年11月号)とか、一体どうしたら読めるんだと……。『街の博物誌』はそんな河野典生の幻想小説における代表作で、1970年代という奇妙な時代を背景にさまざまな動植物にまつわる奇想が〝博物誌〟の体裁で記されている。その第1話で取り上げられているのがメタセコイア。「日曜日ごとに、歩行者天国でにぎわう繁華街を訪れる一組の家族。彼らは他人には見えない車道のそこかしこから生えるメタセコイアの成長を見るためにやってくる」――というのがハヤカワ文庫版のカバー裏に掲げられたブラーブの1節。ね、このメタフィジカルな感じ。メタセコイアじゃなければ、こうした世界観はまず紡げない……。
――と、まあ、こんなこともあって、やはりこの木はメタセコイアという名前でよかったのかなと。さて、そんなメタセコイアではあるんだけれど、今や日本各地の公園や街路でごく普通に見かけると言っても過言ではない。かつては絶滅種と見なされ、中国奥地で現存していることが発見された際には驚きを以て受け止められた「生きている化石」が日本各地でごく普通に見かけるくらいまで普及するに当っては一般的には次のような物語(?)があったとされている。ここはメタセコイアの普及に中心的な役割を果たした大阪市立大学がメタセコイア化石発見から75周年に当る2016年に企画した記念イベントのための告知より引くなら――
メタセコイアは、理学部附属植物園の園長も務めた三木 茂 博士(元 大阪市立大学教授)が1941年に化石として発見した植物です。その後、中国で生きているメタセコイアが見つかり、1946年に「メタセコイアが生きていた」と発表されて世界の人々を驚かせました。1950年に、アメリカの研究者から100本の苗木が大阪市立大学に事務局があったメタセコイア保存会に贈られ、全国の大学や自治体に配布されました。その一本は理学部附属植物園に植えられ、今も元気に育っています。保存会はその後も挿し木で苗木を増やして全国に頒布し、メタセコイアを広めました。全国の公園や学校で見られる多くのメタセコイアは、保存会によって頒布されたものです。1949年に最初に日本に贈られたメタセコイア苗木は皇居に植えられ、昭和天皇がことのほか好まれた木としても知られています。メタセコイアは戦後の日本に明るい話題を提供し、その普及は戦後日本の復興の歴史と重なります。
ここには記載がないものの、1950年に100本の苗木を「メタセコイア保存会」に寄贈したアメリカの研究者こそは↑で紹介したラルフ・W・チェイニー。1946年、鄭萬鈞と胡先驌によってメタセコイアが中国四川省の奥地で「生きている」ことが発表されるや、自ら現地に赴くなど、この「植物学における世紀の事件」(チェイニー自身の言葉という)に並々ならぬ興味を示し、現地で入手した種を播種してその育成に尽力した。そして、そもそもの発見者である三木茂の功績を讃え、自らが育成した苗木を日本に寄贈することを思い立ち、その受け入れ母体として設立されたのが「メタセコイア保存会」。空路の途中、ハワイでは冷蔵庫に入れて一時保管するなど、慎重を期して空輸された100本の苗木が羽田空港に到着したのは1950年2月28日のことだった。これらはまず東京に50本、京都に50本というかたちで分けられ、そこからさらに各地の大学や植物園、自治体などに配布されたことが上述『メタセコイア 昭和天皇の愛した木』に記されているのだけれど、実はそのうちの1本が当地富山にある(らしい)。1989年に刊行された『追録・宇奈月町史 自然編』に「栃屋の大メタセコイア」として紹介されているのがそれで、曰く――「この樹木は栃屋の田中忠次宅の庭にある。昭和25年に、東大教授の篠遠喜人より寄贈を受けて、県内ではもっとも早く植えられたものである」。田中忠次というのは「富山のファーブル」とも評されている人物で、教員生活の傍ら富山県産の昆虫の研究に努め、『富山県産昆虫目録』など多くの著書を残した。『メタセコイア 昭和天皇の愛した木』に記された配布先を見ると、東京大学理学部に8本とあるので、あるいはそのうちの1本を田中氏が個人的に譲り受けたということなのかも知れない。ともあれ、こうしてメタセコイアは日本各地で植えられることになったわけだけれど、こうした経緯を1行のセンテンスに昇華して――戦勝国であるアメリカの学者と敗戦国である日本の学者が協力して、焦土となった日本にメタセコイアの苗を植えた――とするならば、どうです? かの「ステッセルのピアノ」にも通じる、なんとも美しい話ではありませんか。しかもチェイニー博士はまず最初に昭和天皇に献上したというのだ。これは日本人の心に刺さりますよ……。
ところが、この「100本の苗木」(以下、もはや1つのストーリーと化しているという意味で、括弧で括ることにします)にまつわるストーリーについていろいろ調べたところ、メタセコイアの普及をめぐって実に意外な仮説が存在することがわかった。実はメタセコイアが日本全土に広まるに当っては↑に記されたよく知られた物語の他にもう1つの知られざる物語があったらしいのだ。これは(これも? メタセコイアとなると、なにかとこの大学発の情報が多くなる)大阪市立大学の岡野浩教授が「メタセコイアが織りなす文化創造」(『都市生態と文化創造 阿倍野から広域的ネットワークを構築する』所収)と題する小論で提起しているもので――
ここでは、大阪市立大学の田中記念館前にあるメタセコイアに焦点を当て、数年前から温めてきた一つの仮説を示したい。チェイニー(カリフォルニア大学バークレー校)が培養した100本の苗が進駐軍を経由して日本政府に送られたほか、進駐軍が自らの手で植えたものが田中記念館の玄関前の庭、さらには自衛隊の駐屯地などにいまも存在しているという仮説である。
植えられた時期としては、朝鮮戦争が始まる1950年から1951年にかけてであるが、これはアメリカを起点に欧州をはじめとする世界各地に送られた時期にあたる。また、京都の桂や宇治にある自衛隊駐屯地では多くのメタセコイアを見ることができるが、現地調査と広報に残されている史料などから、占領軍が植えた可能性が高いと思われる。さらに、オレゴン大学に所蔵されているチェイニー文書から、日本政府に送られた100本の苗木のほかに、GHQが主体的に日本に植えたものが存在していたことも窺われる。その他、植えられた時期は少し後になるものの、東富士演習場やその近くの富士教育研修所にもメタセコイア並木が見られるし、東京・立川基地に隣接する昭和記念館の正面には4本のメタセコイアが均等に配置されている。
また、桂支所のシンボルマークとして3本のメタセコイアが使われている。桂駐屯地のHPの筆頭にもメタセコイアを掲げていることを合わせれば、非常に重要な意味を持っていることは確かである。
なんとなんと、メタセコイアの普及をめぐっては、「100本の苗木」とは別に、「GHQが主体的に日本に植えたもの」が存在している可能性があるというのだ。しかも、その場所は、現在の自衛隊の駐屯地(かつての占領軍の駐屯地)。この意外と言えばあまりにも意外な仮説に、しばしワタシの灰色の脳細胞は判断停止状態に。なにしろ、やれ東富士演習場だの立川基地だの桂駐屯地だの。『街の博物誌』に描かれた平和この上もない世界観からはあまりにもかけ離れている。これじゃあ、河野典生ではなく、柘植久慶だよなあ……。でも、これって本当なんでしょうか? 岡野教授は、現在、桂や宇治にある自衛隊駐屯地に生えているメタセコイアは、「現地調査と広報に残されている史料などから、占領軍が植えた可能性が高いと思われる」――としているのだけれど、ここはハッキリとしたエビデンスを示してもらわないとなあ……と、そんなことをぶーたれていたワタシの脳裏に、ふと昔読んだ新聞記事の記憶が。確かあの記事にGHQの将校についての記載があったはず……。そう思い当たって、県立図書館の新聞雑誌閲覧室でコピーしてきたのが↓。当地の主力紙である北日本新聞の2009年5月3日付け26面、「砺波チューリップ公園 メタセコイア 花のまち見守り60年」と見出しを打たれた記事――

砺波市花園町にある「砺波チューリップ公園」のメタセコイアは「日本で最も早く植えられたメタセコイア」で、それは県立農事試験場出町園芸分場(現県農林水産総合技術センター園芸研究所)の元職員、西井謙治さんが昭和24年4月に「連合国軍総司令部(GHQ)の将校」からもらった5本の苗木のうちの1本である――。10年前、この記事を読んだときには、このうちの「日本で最も早く植えられたメタセコイア」という部分ばかりに目が行ったのだけど、↑に引いた岡野仮説を踏まえた上で読むならば、いやいや、注目すべきは、それが「連合国軍総司令部(GHQ)の将校」からもらった5本の苗木のうちの1本であるという方。考えるに、なぜその時、GHQの将校はメタセコイアの苗木を持っていたのか? それは彼ら自身が駐屯地内にメタセコイアの植樹を行っていたからに違いない……。はたして岡野教授がこの事実をご存知かどうかはわからない。しかし、岡野教授が「数年前から温めてきた」という仮説を見事に裏付けるものとは言えるはず。ただし、岡野教授はその時期を「1950年から1951年にかけて」としているのに対して、記事では西井さんがGHQの将校からメタセコイアの苗木をもらったのは昭和24年、つまり1949年だったとしている。「1950年から1951年にかけて」なら、既にチェイニールートで苗木が日本に入ってきており、GHQの将校が苗木を持っていたとしても不思議はない。しかし、西井さんはその時期を1949年4月だったと証言しており、それがゆえに記事では砺波チューリップ公園にあるメタセコイアを「日本で最も早く植えられたメタセコイア」としているわけだけれど、はたして1949年4月という時点でGHQの将校がメタセコイアの苗木を持っているなどということがありえたのか? 持っていたとしたら、一体どういう経緯で?
これについては、いろいろ調べてはみたものの、何とも言いがたい、というのが正直なところ。ただ、実は1948年中には既に種子は日本に入ってきていた。前述『メタセコイア 昭和天皇の愛した木』によれば、1947年から48年にかけてハーバード大学附属アーノルド樹木園の園長であるエルマー・D・メリル(Elmer D. Merrill)が鄭萬鈞からメタセコイアの種子を入手しており、アーノルド樹木園で播種・育成するとともに、種子についてはイギリス・エジンバラのロイヤル・ボタニック・ガーデンなどにも配布された。そして、1948年には当時、東京大学理学部植物学科植物分類学講座の助教授だった原寛にも寄贈されている。原はその種子を翌1949年3月(あえて太字としたのは、西井さんが植えたとする時期よりも1か月早いことを強調するため。つまり、砺波チューリップ公園にあるメタセコイアを「日本で最も早く植えられたメタセコイア」とすることは、タッチの差で、できない、ということになる。ただ、富山県内ではいちばん早い、1949年4月だからね。つまり、例の「栃屋の大メタセコイア」が「県内ではもっとも早く植えられたものである」というのは、間違い、ということになる。ま、別に早けりゃエライってものでもないわけだし……)に播種し、数本の発芽を見た。そうして育った苗はその後、小石川の東京大学理学部附属植物園などに植えられたというのだけれど、もしかしたら、これと同じ時期、同じルートでGHQにも種子が寄贈されていた――という可能性はあるか? とはいえ、あまりにも話が漠然としすぎている――とは言えるのだけど……。
ただ、その時期はさておき、GHQが駐屯地内に苗木を植えるなどしてメタセコイアの普及に一役買っていたというのは、もう間違いないでしょう。問題は、なぜGHQはそんなことをしたかなんだけど……それを考えるに当ってまずGHQの組織について少しばかり。この占領下日本の事実上の中央政府で農林業など第1次産業を管轄していた部局を天然資源局(NRS=Natural Resources Section)という。日本と朝鮮(1910年の「韓国併合」に伴い、この時点では朝鮮も日本の一部という扱いだった)における農業、林業、漁業、鉱業に関する施策・活動について最高司令官に報告・助言することを任務としており、GHQによる戦後改革で最も成功した改革とされる農地改革(農地解放)の指令原案を起草したのがこの部局。そして、そのNRSで局長を務めていたのは古生物学者でもあったヒューバート・G・スケンク(Hubert G. Schenck)という人物。ちなみに、ファミリーネームは「シェンク」ではなく「スケンク」と発音することが米国地質学会(Geological Society of America)のウェブサイトで公開されているMemorial to Hubert Gregory Schenckに記されている。なんでもルーツはオランダだそうなので、あえて「シェンク」ではなく「スケンク」と発音することにこだわっていたとするならば、よほどオランダ人の血を引くという自らのルーツに強い誇りを持っていたということだろうか? で、仮にGHQにあってメタセコイアを駐屯地内に植樹しようという運動(?)が展開されていたとするならば、それを推進していたのはこのスケンクではないか? というのも、例のチェイニーから贈られた「100本の苗木」を管理・配布するために設立された「メタセコイア保存会」、その顧問には矢部長克(東北大学教授/古生物学者)、郡場寛(京都大学教授/植物学者)などと並んでスケンクが就いていたのだ。もしかしたら「100本の苗木」が検疫をすんなりと通過できたのもスケンクの配慮があったからかもしれない(同様の指摘は岡野教授もしている)。またスケンクは戦争中の中断を経て1947年に天皇・皇后両陛下の臨席を得て再開された「愛林日」の中央植樹行事(今日の全国植樹祭に当る)にも関与していたことが知られていて、1970年に刊行された『国土緑化20年の歩み』(国土緑化推進委員会)によれば「G.H.Q.側からは天然資源局スケンク局長、ドナルドソン林業部長はじめ部員、第8軍係員とその家族20数名が参列した」。ここにスケンクと並んで名前の挙がる「ドナルドソン林業部長」とはハロルド・B・ドナルドソン(Harold B. Donaldson)という人物で、この人物もなかなか気になるところではあるのだけれど、残念ながら詳しいプロフィール等は不明(『林業技術』という雑誌の1951年10月号に「講和條約調印に際して日本の林業家各位へ」と題したドナルドソン名義のメッセージが掲載されている)。いずれにしても、こうした諸々の事実を踏まえるならば、メタセコイアを駐屯地内に植樹しようという取り組みの推進役となっていたのはスケンクないしは彼に率いられたGHQの天然資源局と考えていいのでは? もしかしたら、北日本新聞の記事に登場するGHQの将校とはスケンク本人である可能性も? 富山県農事試験場の出町園芸分場がチューリップの新品種開発に取り組んでいることを知って視察に訪れたという可能性は大いにありうるのでは? なにしろ、チューリップと言えばオランダ、オランダと言えばチューリップ、だしね。
それにしても、なぜスケンクは駐屯地内にメタセコイアを植えようなんて思い立ったのだろうか? これはもう妄想の範疇とはなるのだけれど――メタセコイアは、既に絶滅したと考えられていた樹種。それが、中国の奥地で現存していた。つまり、死んだ、と思っていたものが、甦った、ということになる。言うならば、メタセコイアは「復活」したのだ。このことに、古生物学者であったスケンクが大いに感じ入ったであろうことは想像に難くない。そして、そんな彼の主導でメタセコイアの苗木が日本各地の占領軍の駐屯地内で植樹されたとするならば――そこに込められたのは日本の「復活」を願うメッセージ――、そう考えていけない理由があるだろうか? ここで改めて振り返るならば、三木茂がメタセコイアを発見したのは、第2次世界大戦が勃発した1941年。そして、中国四川省磨刀渓村で「生きている」ことが確認されたのは、戦争が終結して間もない1946年。もうこれは「復活」のシンボルとならない方がどうかしている! もしアナタの町の自衛隊の駐屯地(それは、多くの場合、かつての占領軍の駐屯地である)にひときわ高いメタセコイアの木が生えているとすれば、それは今から70年前、1人の陸軍中佐兼古生物学者が「復活」のメッセージを託して植えたもの……。

付記 もしくは少し長めのキャプション 北日本新聞の記事で「日本で最も早く植えられたメタセコイア」とされている木に添えられた案内板。ここでも「これが日本一古いメタセコイアとも言われる」と記載。植えられているのは砺波チューリップ公園の南門から入ってほどない木立の中。それにしても、あんなに立派な新聞記事になったというのに公園側は何もしなかったのか、公園内に設置された地図にもこの木のことは何も記されていない。当時と同じく、この「由来などを記した小さな案内板」がこの木に関る唯一の〝記念碑〟。新聞って、意外と影響力がないんだね。そう思いません? 朝日裕之サン(笑)。(2020年2月9日撮影)