さすがに当初の衝撃は薄らいではきたけれど、それでもあのカルロス・ゴーンの〝華麗なる大脱走〟はその「映画的」な仕掛けで人々の好奇心をそそって止まない。やれハリウッドの大物プロデューサーと面会しただの、Netflixと契約を結んだだのと真偽不明の噂が飛び交うのも、確かにこれは映画になりうるよなあ、と多くの人が思っているからで――なるでしょうね、遠からぬ将来に。ただ、1つ、ネックがある。それは、日産の幹部だとか東京地検特捜部の検事だとかいった日本側の登場人物を誰が演じるのか? さすがにケン・ワタナベは受けんでしょう。また、それ以外の日本人俳優も、自国の諸制度をいろいろディスりまくることになるであろう〝国辱的映画〟に出演してネットで袋だたきにはなりたくないだろうし。結局、日系アメリカ人俳優とか、アメリカでアクターズスクールに通いながらチャンスをうかがっている日本人の俳優の卵くらいで間に合わせることになるのでは? そういえば、1人、そういうのがいたよなあ。確か、アヤベとかなんとか……。
さて、話は150年前に遡る。実は方法も目的も全く異なるのだけど、同じようにフランス国籍の人物が同じように〝華麗なる大脱走〟を遂げた――とされる事例がある。この脱走劇の主役はジュール・ブリュネという人物で……あ、今、どこからか悲鳴が聞こえたような? いや、悲鳴じゃなくて、歓声か。その名前を聞いただけで、悲鳴にも似た歓声が上がる――、そんな人物というものが、歴史上には存在するものです。イタリアだとジュゼッペ・ガリバルディ、アメリカだとストーンウォール・ジャクソン、日本だと土方歳三あたりがそれに当る。そして、このジュール・ブリュネというのもそういう人物。まあ、カッコいいんだ。ワタシは全盛期のアラン・ドロンにぜひジュール・ブリュネを演じて欲しかったと思っているくらいなんだけど(ちなみに、アラン・ドロンには日仏混血のサムライを主人公とする『ブルーアイ』という映画の出演話があった。「この映画、紅毛碧眼の武将の勇猛果敢な戦いを描いた戦国絵巻である。九州の海岸に異人の女性が漂着する。珍しさも手伝って側室にした大名との間に、金髪青い目の子供が生まれる。いみきらう大名に捨てられたこの毛色の変わった子供を三船敏郎の家老が育てる。やがて、たくましい青年になった青い目のサムライが、姫と恋し合い、家老と共に馬上高く日本刀を振りかざして獅子奮迅の活躍」――というのが、当時、『キネマ旬報』に掲載されたシノプシス。うーん、見たいような、見たくないような。しかし、幸か不幸か、この企画は日の目を見ることはなかった。その理由は明らかになってはいないのだけれど、いかんせん設定に無理があるような。特に「九州の海岸に異人の女性が漂着する」というところがね。時代劇というよりもファンタジーに近い。そんなムリをして戦国時代の日本に「青い目のサムライ」を誕生させるよりも、アラン・ドロンが演じるのにうってつけの素材があったのに。そう、ジュール・ブリュネ。もしアラン・ドロンがジュール・ブリュネを演じ、仲代達矢あたりが榎本武揚を演じるということで企画が立てられていたら、案外、実現していたんじゃないですかねえ。その場合、土方歳三を演じるのは……?)、この〝華麗なる大脱走〟の場面なんてさぞやサマになったに違いない。ここは北海道在住のノンフィクション作家である合田一道氏の『大君の刀 ブリュネが持ち帰った日本刀の謎』(道新選書)より引くなら――
その日――、慶応四年八月十七日夜、横浜の駐日イタリア公使館で、新築祝いの夜会が催された。天皇政府の高官や各国公使館、領事館の公使、領事、陸海軍士官、それに商社員、日本の商人ら多数が集まった。
雨が降りしきり、港町特有のねばっこい夜のとばりのなかに万国旗がはためき、紅白の小さな提灯が揺らいでいた。
時刻が経過して、今夜のイベント仮装舞踏会に移った。参会の男女が意表をついた思い思いの仮装で登場し、音楽に合わせて踊るのである。熱っぽい興奮が会場を覆った。
わーっという喚声の中、奇妙な扮装のカップルが登場した。といっても男女ではない。大男同士の、しかも丁髷をつけ、和服の肩衣を脱ぎ、腰に刀を帯びた二人組が、ワルツに乗って踊りだしたのだ。
もちろん本物の日本武士ではない。一人は身長は五尺八寸ほど(約一メートル七五)、もう一人は六尺くらい(約一メートル八〇)。参会者が目を凝らして見ると、ダンスをリードしているのはフランス軍事顧問団副団長のブリュネ大尉であり、相手役を務めるのはカズヌーブ飼育伍長である。二人は曲に合わせて、くるっ、くるっ、と鮮やかな踊りを見せた。会場に拍手とどよめきが沸き立った。
音楽が終わるとひときわ大きな拍手が沸き起こった。二人はそのまま主催者であるイタリア公使の前に行き、日本武士を真似て深々と頭を垂れて挨拶した。また笑いが広がった。次に日本人席に行って同じように挨拶してから、参会者の間を通り抜けて、フランス公使ウトレーと顧問団長シャノワンヌの前に立った。そうして今度はフランス式に右手の掌を前面に見せて敬礼をした。
この敬礼は二人の訣別の挨拶であったが、少なくともウトレーにはわからなかった。だがシャノワンヌはブリュネらの気持ちを察知していた。真意を知らない参会者たちは、丁髷姿の二人の姿がいかにも珍妙だったので、また笑いが巻き起こった。
次の音楽が鳴りだした。参会者たちがまた華やかな踊りの輪を作った。
ブリュネとカズヌーブは扮装のまま会場を出た。田島金太郎が近づいてきて正面玄関へ案内した。ドアマンが駆けてきて、馬丁に轡を取られた三頭の馬が引き出された。三人は身軽にそれぞれの馬の背に飛び乗った。会場の喧騒はまだ続いている。三人はドアマンに会釈すると、田島、ブリュネ、カズヌーブの順で濡れた門外の闇へと走り去った。
まるで派手な舞台を見るような、見事な脱走劇だった。(略)
まったくねえ。ワタシにはノリノリでワルツのステップを踏んで見せるアラン・ドロンの姿が目に見えるよう……。ちなみに、↑と同じようなことは佐藤賢一の『ラ・ミッション 軍事顧問ブリュネ』(文春文庫)にも記されており、そこではこの日、催されたのは単なる仮装舞踏会ではなく、仮面舞踏会だったとされている。曰く「それも華やかなりし往事のヴェネツィアを偲ばせる、仮面舞踏会の趣向である。蝶の羽根を模した眼隠しが、派手な色遣いの羽根飾りをひらつかせる。あちらでは鳥の嘴を思わせる鼻が突き出され、こちらでは悪魔さながらに左右に二本の角が生え、この東洋の島国まで、よくぞ持ちこんだと思われるような仮面まで、ひとつやふたつではない」。まあ、『大君の刀 ブリュネが持ち帰った日本刀の謎』の描写もワタシには相当小説っぽいと思えるのだけど、やっぱり本物の小説は違う。もっとも、この日、催されたのがただの仮装舞踏会ではなく、仮面舞踏会だったということは公益財団法人「函館市文化・スポーツ振興財団」のHPで閲覧できるジュール・ブリュネに関する記事(なんでももともとは同財団が発行する『ステップアップ』という広報誌に掲載されたものだとか)にも記されていて――「横浜のイタリア大使館での仮面舞踏会にカズヌーフ伍長とともに出席し、舞踏会を抜け出して『開陽丸』に乗り込み榎本武揚の旧幕府脱走軍とともに箱館に入り、軍事顧問として従軍する」。そうなると、仮面舞踏会説(?)もあながち小説家の妄想とばかりも言えなくなる……? いずれにしても、ジュール・ブリュネがイタリア公使館で催された仮装舞踏会だか仮面舞踏会だかに参加して、言うならばそのドサクサに紛れて脱走した――ということはこうしてさまざまな文献・ネット記事に記されているわけで、ジュール・ブリュネの脱走の経緯は史実としてもそのようなものであったと考えたくなるところ。
さらに、そうした思いをより強くさせられるある論文が存在する。もしかしたら↑に列挙した文献・ネット記事のネタ元もこの論文ではないかとワタシは睨んでいるのだけれど(「函館市文化・スポーツ振興財団」の記事には実際に参考資料として記載されている)――それは『史學雜誌』第34編第12号に掲載された「箱館役に現れたる日佛關係の考察」。執筆者は田保橋潔。大正から昭和前期にかけて活躍した歴史学者。ちなみに生まれは函館だという。そんな地元に縁の歴史学者が書いた「箱館役に現れたる日佛關係の考察」の中にこんな下りがあるのだ――
八月十四日、鎭將府が神奈川府知事と佛英兩國公使との協定に基き、佛國陸軍敎官解傭手當及び歸國旅費として、墨銀二萬兩一千百七弗四十仙、及び一分銀四千六十八個(墨銀に換算して約二千弗)を至急すると共に、ロッシュの殘した事業中、最も累をなすかの如く見えた陸軍敎官招聘の事も、表面では一段落を告げた。首席敎官シァノワンは、歸國挨拶として、品川灣に碇泊、虎視眈々たる舊幕府海軍副總裁榎本釜次郞武揚和
泉守を旗艦開陽に訪うた。恰も此時榎本麾下汽船長鯨に潛伏中の會津藩士柏崎佐一〔ママ〕、米澤藩士稻葉某より、奧羽列藩に於て、陸軍敎官を招聘したき旨、榎本に内議があつたので、榎本はその旨シァノワンに語り、密かに慫慂するところがあった。(此際シァノワン、會米兩藩士と會見し、招聘條件を協定するまでには至らなかつたらしい。)
シァノワン去つて幾何ならず八月十七日夜橫濱伊國公使館に於て、特命全權公使ラ・トゥール伯(Conte de la Tour)主催の假裝舞踏會が催され、殘留佛國陸軍敎官亦招待を受けた。此夜陸軍砲兵大尉ブリュネー(Brunet)以下四名は、其行方を蹈ました。(略)
ね、さすがにブリュネとカズヌーヴがサムライのコスチュームで参加しただの、いわんやそれが仮面舞踏会だった――などということは書かれていないけれど、イタリア公使館で「假裝舞踏會」が催され、ブリュネらも招待されたということはキッチリ記されている。そして、その後、行方を晦ました――。ま、当日、脱走したのはブリュネ以下4名だったとしている点は史実とは反するものの、これが書かれたのは大正12年ですからね。多少、史実との齟齬があっても。とはいえ、なにしろこれは『史學雜誌』に掲載された歴とした学術論文。当然、典拠もしつこいくらいに示されていて、↑に引いた部分だけでも4か所について典拠の明示がある。つまり、記載全体としては決して信憑性が疑われるようなものではないということ。で、ここで気になるのは、ブリュネらがイタリア公使館で催された仮装舞踏会に参加した後、行方を晦ましたとする部分の典拠は何かということだろうと思うのだけど――それは「降伏人榎本釜次郎糺問書(降賊糺問書所収)」だとされている。つまり、榎本釜次郎こと榎本武揚の供述調書だというんですね。明治2年5月18日、黒田了介率いる「官軍」の軍門に降った榎本武揚ら「箱館共和国」の首脳は6月30日には東京に護送され、江戸城外・辰ノ口にあった兵部省軍務局糾問所の揚屋に収監された。そして、その後、都合3度に渡って兵部省の取り調べ(糺問)を受けていることがわかっている。ここに挙げられている「降伏人榎本釜次郎糺問書(降賊糺問書所収)」とはその供述内容をまとめたものであると考えられ、そうしたものに基づいているのなら、もうその信憑性を疑う理由は全くない――ということになりそうなのだけれど……
ところがだ、ここでワレワレは意外な事実を突きつけられることになる。まず、問題の「降伏人榎本釜次郎糺問書(降賊糺問書所収)」は読むことができるか? できる。外務省調査部編/日本国際協会発行の『大日本外交文書』第2巻第3冊に収録されているので。ただし、史料名は「降伏人榎本釜次郎糺問書」でも「降賊糺問書」でもなく、「降賊糺問口書」(あるいは単に「榎本釜次郎ノ口書」)。なんでも江戸時代、被疑者などの供述を記録したものを「口書」と言ったらしい。ともあれ、この「降賊糺問口書」は榎本らに対して行われた取り調べの内容をまとめたものではあるのだけれど、実は取り調べたのは兵部省ではない。刑部省。しかも、そうするよう求めたのは外務省。それは、この史料の件名が「外務省ヨリ刑部省宛 箱館賊徒ニ荷擔セシ仏蘭西人ニ關シ松平太郎等更ニ訊問方請求ノ件」とされていることからわかる。箱館戦争後、外務省はフランス軍人が「賊徒」に加わっていたことを問題視し、フランス政府に対し厳正な処罰を行うよう求めている。この取り調べもその外交交渉の交渉材料とすべく行なわれたものだったと考えることができる。ま、だからこそ『大日本外交文書』に収録されているわけだね。で、実はこの「降賊糺問口書」の中で榎本はブリュネらが脱走した経緯について田保橋潔が記すのとは少しばかり異なる話をしているのだ。以下、「降賊糺問口書」の内、ブリュネらが「徳川家臣団」に合流することになった経緯について語った部分のみを紹介すると――
一(ブリウ𛂘)橫濱ヲ脫候ハ本國エ歸ルノ模樣致シイタリヤノ(ミニストル)宅ヘ參リ芝居相催其混雜ニ紛レ脫シ候由後テ咄有之候ヲ承候得𛂦全ク自己ノ存寄ニテ相脫シ候事カト被存申候右故カ函館江參リ候テモ何レモ忍ヒ隱レ和服ニテ頭巾等冠リ罷在候得共後ニハ軍艦ノ士官ノ者ニハ密ニ逢候趣ニ御坐候
ブリュネらはイタリア公使館(あるいは公使宅)を訪れ、そこで催された(あるいは、催した? 「芝居相催」は、自分たちが芝居を催した、と読めないこともない。ただ、いくらなんでもそれはリアリティに欠けるかなあ……)「芝居」を見物、「其混雜ニ紛レ脫シ候由」――と述べているのだ。つまり、イタリア公使館で催されたのは「假裝舞踏會」ではなく「芝居」。ま、「假裝舞踏會」も「芝居」も同じようなものだとは言えるのだけれど、でもたとえばエイブラハム・リンカーンはフォード劇場で『われらのアメリカのいとこ(Our American Cousin)』の観劇中に撃たれて死亡した。これをフォード劇場で催された仮装舞踏会に参加中に撃たれて死亡した――としたら、もう明らかな歴史の改竄でしょう。そう考えるならば、供述人が「芝居相催」と述べているのを勝手に「假裝舞踏會が催され」と変えてはイケマセン。歴史学者たるものが、なんでこんな改竄を行いましたかねえ。あるいは、「芝居」よりも「假裝舞踏會」の方が映える、とでも思ったか……? それと、もう1つ、ここでどうしても思わざるを得ないのは、現在、世に広く流布している仮装(面)舞踏会説のネタ元がこの「箱館役に現れたる日佛關係の考察」であると考えるならば(なお、あえて書いておくならば、合田一道氏は冒頭の引用部分に続いてこんなことを書き加えている――「以上はブリュネらの脱走を手引きした田島金太郎の回顧談及び、降伏後、榎本が述べた『降伏人榎本釜次郎糺問書』を根拠にしている」。しかし、既に記したように、榎本の供述をまとめた史料は「降賊糺問口書」または「榎本釜次郎ノ口書」であり、「降伏人榎本釜次郎糺問書」ではない。有り体に言うならば、「降伏人榎本釜次郎糺問書」とは田保橋潔が誤って記した史料名ということになる。そんなものを「根拠」に挙げているということは……合田氏が直接の典拠としたのは実在する榎本武揚の供述調書である「降賊糺問口書」ではなく、それを元に記された「箱館役に現れたる日佛關係の考察」であると考えるのが合理的)、東京帝國大學文学部仏語学科卒の歴史学者が大正12年に『史學雑誌』に書いたことが、その後、何人によっても訂正されることがないまま今日まで流布し続けてきたということになる。これはですねえ、いろいろ思わざるを得ないところではありますよ。確かに『史學雑誌』は「わが国の歴史学の総本山・史学会」(という言い方を、ワタシもしております――『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』でね)の刊行であり、そこに掲載された論文の記載内容を疑うというのはいかにもハードルが高かった――ということでしょうかねえ……?
ともあれ、以上のような事実を踏まえ、ワレワレは今、「箱館役に現れたる日佛關係の考察」の記載内容を次のように訂正する必要がある――
シァノワン去つて幾何ならず八月十七日夜橫濱伊國公使館に於て、特命全權公使ラ・トゥール伯(Conte de la Tour)主催の芝居が催され、殘留佛國陸軍敎官亦招待を受けた。此夜陸軍砲兵大尉ブリュネー(Brunet)以下二名は、其行方を蹈ました。(略)
また、当然、これに伴って記事冒頭で紹介した「ジュール・ブリュネ脱走の一幕」についても相応の修正は必要とはなるのだけれど、それでも相当に「華麗」であることは変わりないよね。なにしろ、イタリア公使館(もしくは公使宅)で催された芝居の混雑に紛れて脱走したというのだから。もう十分に〝華麗なる大脱走〟と言っていい――よね? もし将来、ジュール・ブリュネを主人公とする映画が作られることになったら、絶対にこのシーンは入れて欲しいと強く望むところであります。
――と、本当ならこれでこの記事を締めくくってもいいところなんだけどね(実際、ボリューム的にもこれくらいがちょうどいいくらい)。でも、残念ながら(?)そうはならない。まだまだ続く。むしろ、こっからが本稿の本題(!)。というのもですね、「箱館役に現れたる日佛關係の考察」の問題の部分を↑のように訂正したとしても、それでジュール・ブリュネの脱走劇の真実にたどり着いたかといえば、そうは言えないのだ。なぜなら、ジュール・ブリュネの脱走に関して、一部文献で榎本が刑部省の取り調べに対して語ったことと全く異なる事実関係が記されていることをワタシは知っているので。ここは1968年に刊行された高橋邦太郎著『お雇い外国人⑥軍事』(鹿島研究所出版会)から引くなら――
しかし、フランス人の血には、昔のガリア魂というものがある。二千年も前に怒濤のようなローマの大軍に、小勢ながら勇猛果敢に立ちむかって、刀折れ矢尽きるまで戦い抜いた英雄ベルキントリスを先祖にもつ誇りを身につけている。よし、薩長土の連合軍が強大でも、必ず勝たしてみせると考えた。
(略)
とうとう慶応四年(一八六八)八月十九日、幕府側に組して戦うことに踏み切った。この決行の口実には、同窓の友人、海軍技師のベルニーを横須賀に訪問するという名目をつかい、ひそかに同志の伍長カズヌーブを連れて品川沖に停泊中の榎本武揚の率いた幕府艦隊に投じた。このとき、陸上を行くのは人の目につきやすいので、横須賀造船所で修理中だった幕府蒸気船「神速丸」に乗って品川沖に来たのである。
まず、日付が違う。田保橋説だとブリュネが脱走したのは8月17日。しかし、こちらでは8月19日。2日のタイムラグがある。また、経緯も違う。全然。なにしろこちらにはイタリア公使館で催された芝居(あるいは仮装舞踏会)なんてことは一切出てこない。「同窓の友人、海軍技師のベルニーを横須賀に訪問するという名目」で隊を離れ、品川沖の榎本艦隊に合流したというのだ。残念ながら同書では典拠については何も記されていないのだけど、ただ著者の高橋邦太郎氏はジュール・ブリュネの研究家としても知られる在日フランス商工会議所副会頭のクリスチャン・ポラック氏が「ブリュネの人と生涯」(中央公論社版『函館の幕末・維新 フランス士官ブリュネのスケッチ100枚』所収)で「日仏文化交流史の権威」「偉大なる博学のユマニスト」と評するような人物。またそもそも日本政府の給費留学生として来日した同氏がジュール・ブリュネという人物を知るきっかけとなったのが高橋氏と出会ったことだったという。なんでもこの「偉大なる博学のユマニスト」はブリュネを「日本のダルタニヤン」としてポラック氏に紹介したとか。なるほど、「日本のダルタニヤン」ですか……。ともあれ、当のフランスからやって来た学究がここまでのリスペクトを捧げる人物が書いているんだ、当然、然るべき典拠に基づいて書いているに決まっている。ところが――そんな人物が紡いだ「ブリュネ脱走の一幕」が榎本供述に基づくストーリーと大きくかけ離れている……。
ね、モンダイでしょ? 高橋説は何を典拠に記されたものなのか? そして、田保橋説と高橋説のどっちがより史実に近いのか? ちなみに、田保橋潔が東京帝國大學文学部仏文科卒なら高橋邦太郎も東京帝國大學文学部仏文科卒。ジュール・ブリュネの脱走劇をめぐる2人の「東大王」の激突……? ともあれ、そういうようなこともありまして、これはワタシのようなモノにとっては到底、スルーすること能わざる「今そこにあるナゾ」。いや、「今」に限った話ではなく、もう久しくね。ジュール・ブリュネという人物に興味を持って以来、このかた――と言ってもいいかも知れない。ただ、これまでこの件はワタシには手を出せないものと諦めていた。というのも、そのためにはフランス語の文献・史料を読まないことには話にならないだろうと思うので。しかし、ワタシのフランス語の能力と言ったら。えーと、語末の子音字で無音となるのは……(苦笑)。そんな人間に一体どうして手出しができようか?
ところが――だ、今回、カルロス・ゴーンの脱走劇についてフランス国内での反応はどんな感じなんだろう? と思って、フランスのニュースサイトに掲載された記事を読んでみたんだよね――Google翻訳にかけて。これが、精度が悪くってねえ――フランス語→日本語だと。とても読めたもんじゃありません。ところが、フランス語→英語を試してみると、これがほぼストレスなく読むことができるんだ。これは、へえ、ですよ。同じインド・ヨーロッパ語族だと言語間の壁もそれだけ低いということなんだろうか? しかし、これだけの精度で自動翻訳が可能となると、言っちゃなんだけど、もうフランス語→英語(その逆も)の翻訳家なんて仕事がなくなりますよ。自動翻訳で対応可能なら、わざわざ翻訳家に仕事を頼む理由はなくなるもの。しかも、早晩、AIは異なる語族間の言語の壁も乗り越えると仮定するなら……これは由々しき事態ですよ、翻訳家にとってはね。最近、流行りの論法で行くなら――翻訳作業がAIによって置き換えられる時、翻訳家は「ユースレス・クラス」に転落する……。ただ、とりあえずこの件は置いておいて――フランス語→英語だと、これだけの精度で翻訳が可能だとするなら、ジュール・ブリュネに関するフランス語の文献・史料であっても、ネットに上がっているものであるならば、十分、ワタシにも読みこなすことができるということになる。そう思った瞬間、にわかに視界が開けてきたような気になったものだ。で、早速、ジュール・ブリュネに関してフランス語で書かれた閲覧可能な文献とか史料とかがないものかと探したところ――あった。François-Xavier Héon(読みは「フランソワ=グザヴィエ・エオン」でいいかな?)という現役のフランス軍の将校(中佐)が2010年にStratégiqueという季刊誌(なんでもInstitut de Stratégie Comparéeなる研究機関が発行する雑誌らしい)に寄稿したLe véritable dernier Samouraï : l’épopée japonaise du capitaine Brunet。ちなみに英訳はThe real last Samurai: the Japanese epic of Captain Brunetとなる。まずはこの記事? 論文? ま、評伝というのがいちばん近いかな? の冒頭部分をGoogle翻訳による英訳で示すなら――
In 2003, a film called The Last Samurai was released, a major Hollywood production which had some success. The hero, a young American captain played by actor Tom Cruise, sided alongside rebellious Japanese warriors to help them in the desperate fight against the better-equipped troops of their emperor. What the wind blows is that the hero is inspired by a character who did exist and that he was French! It was therefore appropriate to reestablish this cinematic approximation and to reclaim an atypical figure in our military history.
まず、実に滑らかな英文であることがおわかりいただけるはず。これならばストレスなく読み進むことができますよね。その上で、2003年制作のハリウッド映画『ラストサムライ』でトム・クルーズが演じたアメリカ人大尉(ネイサン・オールグレン)が実在のフランス人に「インスパイアされた」ものであることを記した上で、その「実在のラストサムライ」の実像をここに明らかにしたい――というようなことが記されている。まあ、あの映画でトム・クルーズが演じた役が「実在のラストサムライ」ことジュール・ブリュネに「インスパイアされた」ものであるということは当時から言われていて、ウィキペディアでも「トム・クルーズが演じる主人公ネイサン・オールグレンのモデルは、江戸幕府のフランス軍事顧問団として来日し、榎本武揚率いる旧幕府軍に参加して箱館戦争(戊辰戦争(1868年 - 1869年))を戦ったジュール・ブリュネである」。もっとも、ワタシが見るところでは、ネイサン・オールグレンとジュール・ブリュネにはほとんど共通点はないけどね。そもそもネイサン・オールグレンがともに戦うのは榎本武揚ではなく、西郷隆盛をモデルにしたとされる勝元盛次なる架空の人物。一方、ジュール・ブリュネが実際に戦った箱館戦争で旧幕府軍が対峙した新政府軍の陸軍参謀を務めていたのが薩摩の黒田了介。その薩摩で陸軍掛(幕府の役職に当てはめれば「陸軍奉行」)を務めていたのが西郷隆盛なのだから、ジュール・ブリュネとネイサン・オールグレンでは立ち位置が全く逆ということになる。それでいてジュール・ブリュネに「インスパイアされた」と言われてもねえ……。しかし、とにもかくにも世間ではそういうことで話が通っているので、ここでもそういうことにしておいて――このフランス軍の現役将校による評伝は、そんなハリウッドの〝ブロックバスター〟(なんでも製作費は1億4000万ドルとか! 興行成績とかじゃなくて、製作費がですよ。あの映画で、どこにそんなお金がかかりましたかねえ……)でもフィーチャーされようなきわめて「映画的(cinematic)」な生涯の概要を再現しようとするものである――ということになる。
で、問題はだ、この評伝によってジュール・ブリュネの脱走の経緯にまつわる謎を解き明かす手がかりが得られるかどうかなんだけど――まずこの評伝でジュール・ブリュネの脱走の経緯についてはどのように記されているか? こう記されている――
This October 4, under the pretext of a visit to the Franco-Japanese arsenal of Yokosuka where his comrade Verny works, Brunet leaves the buildings of the French mission of Yokohama and joins with Cazeneuve the buildings of the taikounale fleet anchored in the bay of Shinagawa, off Edo.
高橋邦太郎氏が記しているのとほぼ同様の内容。で、高橋氏はジュール・ブリュネ脱走の経緯を記すに当って典拠とした史料を示してはいなかったのだけれど、フランソワ=グザヴィエ・エオンはどうか? 示している(典拠として示しているわけではないのだけれど、結果的にそうなる)。しかも、それはなんと当のジュール・ブリュネが軍事顧問団の団長であるシャルル・シャノワーヌ大尉に宛てて認めた書簡なのだ。ここは評伝に掲げられたものをそのまま(つーか、Google翻訳によって得られた英訳だけどね)紹介するなら――
I have the honor to send you my resignation, which I submit to His Excellency the Marshal Minister of War. Under the pretext of this trip of a few hours, which you authorized me to make in Yokohama, at my school friend Verny's, director of the Franco-Japanese arsenal, I am leaving for a completely different destination. Although I am convinced that you cannot accept my resignation provisionally, I take full responsibility for the fact, by leaving without warning you in advance. The reasons that urge me are so admissible, that by adding to them the extenuating circumstances of our distance from France preventing us from waiting for an acceptance, and of our very particular service outside the active army, I put all my hope in the indulgence of HE the Marshal Minister of War and that of His Majesty the Emperor.
[…] I will confine myself to telling you that the force of the circumstances having led to the unfortunate withdrawal of our mission, I believe myself capable of repairing the failure suffered by French policy on this occasion.
[…] The Confederation of the North renewed my instances; his princes, friends of France, declare that they need my advice and have all promised to obey me: risking my future as a French civil servant, I have confined myself to ensuring modest and honorable means of subsistence for the part of the Japanese, and only I want to try to be useful to our friends in this country.
[…] I have no illusions about the difficulties; I face them resolutely, determined to die or to serve the French cause well in this country.
ね、ジュール・ブリュネ脱走の経緯に関してフランソワ=グザヴィエ・エオンが記していることの根拠となったと思われる記載が含まれている。間違いなくフランソワ=グザヴィエ・エオンは――そして、高橋邦太郎氏は――このブリュネ書簡の記載を根拠にジュール・ブリュネの脱走劇を描き出してみせたのだ。
で、そうなるとだ、榎本武揚の供述を元とした田保橋説は俄然、旗色が悪くなってきたような。だって、ジュール・ブリュネの脱走の経緯を当のブリュネが書簡の中で語っているわけだから、何人もそれを否定しようがない。榎本武揚が糺問所の取り調べで一体何を供述していようが、当人の証言に勝るものではありえないはず。そもそもだ、榎本はブリュネらがどうやって隊を脱走したのかを知り得たの? いや、まあ、知り得た可能性はあるかな。ブリュネらフランス軍人の通訳としてこの一件に密接な関わりを持った田島応親(冒頭の引用文中に田島金太郎として登場する人物)が大正9年に史談会で行った証言の速記録である「田嶋應親君の函館戰爭及其前後に關する實歷談」(原書房版『史談会速記録』第40巻所収)によれば、ブリュネらを招いたのは榎本であり、そんな彼からすればブリュネらの合流は「百万の援軍」を得たにも等しい慶事だったに違いない。きっとワインでも振る舞って大歓迎したことだろう。で、もしかしたらその席でブリュネが自らどうやって隊を脱したのかを雄弁に物語って――場合によったら、イタリア公使館で催された芝居の一場面をカズヌーヴと2人で演じて見せて――その場にいたものたちの喝采を博した――なんて場面だってあったかもしれない。うん、これはいかにもありそうな筋書きだ。そう考えるならば、榎本がブリュネらの脱走の経緯を知っていたとしても不思議はないか。ただ、そのことを認めたとしても、当のブリュネが書簡の中で語っている〝事実〟には勝てんでしょう。つまり、ジュール・ブリュネの脱走の経緯をめぐっては、当人の書簡の記載内容を踏まえた高橋説が正しいということに……。
ただ、そうなると、榎本供述はどういうことになるの? 榎本が虚偽の供述をした? 一般論で言えば、そういうことはありうるだろう。しかし、そうするにはそうする理由がなければならない。たとえば、ブリュネらに累が及ぶことを避けようとしたとか。でも、ブリュネらはイタリア公使館で催された芝居の混雑に紛れて脱走した――と供述することが、そうした目的に叶うかといえば……。また、榎本は会津藩士の柏崎才一と米沢藩士の稲葉某から「内議」があった陸軍教官の招聘についてシャノワーヌに「慫慂」したと供述したとされている(そうした事実を裏付ける記載は確かに「降賊糺問口書」にもある)。これって、ブリュネばかりではなく、シャノワーヌにも累が及びかねない、相当に踏み込んだ供述では? もしそれが全くの虚偽の供述だったとしたら、一体なんで榎本はそんなことをしたんだ? と、別の疑問が浮上してくる。だから、むしろここは榎本は全てをありのままに(彼が知り得た事実のままに)供述したと考える方が合理的。ただ、そうなると、ブリュネらがイタリア公使館で催された芝居の混雑に紛れて脱走したということになって、ブリュネ書簡の記載との間にどうしようもない矛盾が生じることに……。
――と、こうしてワレワレはいよいよのっぴきならない日本近代史のアポリア(というほどのことでもないんですが)に追い込まれることになったわけだけれど――このアポリアに対してワレワレはどう向き合えばいいのか? 要は、この一見、相矛盾するような2つのストーリーを矛盾なく取り込んだストーリーラインを見出せばいいわけだ。田保橋説と高橋説、そのどちらか一方を切り捨てるのではなく、その両方を矛盾なく取り込んだストーリーラインを。しかし、そんなストーリーラインがありうるものだろうか? そんな2人の「東大王」のどっちも面目を失わずにすむような都合のいいストーリーラインが……? さあ、カンの良い読者は既にお気付きのはず。今、こうしてこんな記事を書いているということは、この記事の書き手はそんなストーリーラインを見出したということですヨ(心境的にはここでビックリマークを打ちたいくらいなのだけど……自重)。以下、筆者が見出したそのオドロキのストーリーラインを開陳させていただくことにしましょう。
きっかけは、Google翻訳で得られたブリュネ書簡の英訳である。その問題の下りをよくよく読み返してみたところ、あれ……? おそらく問題の下りを素直に訳すならこうなるのではないかと思うのだけど――
あなたが横浜のわが学友にして仏日造兵廠の責任者であるヴェルニーの家でおこなってよいと許可して下さった数時間の船旅を口実として私は全く異なる目的地に向かいます。
自分の英語力を信じるなら、問題の下りはこういう意味になる。しかし、フランソワ=グザヴィエ・エオンはこういう意味には取っていない。それは、彼が記すジュール・ブリュネ脱走の経緯を読めば明らか。ここは↑で引いた英文を拙訳で示すなら――
この10月4日、ブリュネは彼の僚友であるヴェルニーが働く横須賀の仏日造兵廠を訪ねるという口実で横浜のフランス使節団の施設を出て、カズヌーヴとともに江戸沖合の品川湾に停泊する徳川艦隊に合流した。
ブリュネの書簡では、シャルル・シャノワーヌに許可された「数時間の船旅」を口実に――となっているのだけど、その目的地は記されていない。しかし、フランソワ=グザヴィエ・エオンは「彼の僚友であるヴェルニーが働く横須賀の仏日造兵廠を訪ねるという口実で」と書いていて、「数時間の船旅」なるものの目的地は「横須賀の仏日造兵廠」だったと解釈していることがわかる。確かにブリュネの書簡にも「仏日造兵廠」のことは記されている。しかし、それはヴェルニーの素性を説明するための語句としてであり、しかもその「仏日造兵廠」が横須賀にあるとも書かれてはいない。もっとも、ヴェルニーが建設の指揮を執っていた「仏日造兵廠」は横須賀にあったわけだから、そこは情報の補足ということでいいだろう。しかし、ブリュネはその「横須賀の仏日造兵廠」に行くとは書いていないのだから。いや、実際には行った。高橋氏が書いているように、ブリュネらは横須賀に待機していた榎本艦隊の神速丸という艦船で品川沖の榎本艦隊に合流している。このことは、神速丸乗組の一等士官だった内藤清孝の手記「蝦夷事情乗風日誌」(田中彰著『北海道と明治維新 辺境からの視座』所収)によっても裏付けられる。だから、横須賀まで行ったことは間違いない。しかし、フランソワ=グザヴィエ・エオンの解釈はそうした史実に引きずられ過ぎているのではないか? ブリュネが書いているのは、あくまでもシャルル・シャノワーヌに許可された「数時間の船旅」を口実に「全く異なる目的地」に向かうということであり、その「数時間の船旅」の目的地がどこであるかは書かれていない。それは単なるクルーズだったかもしれない。横浜湾内を周航するクルーズ。実は、これについては後ほどくわしく説明したいと思うのだけど、そういうことであってもシャノワーヌが許可した可能性はありうるのだ。いずれにしても、それは単なる「口実」なのだから、目的地がどこかなんて大した問題ではない。問題なのは、その「船旅」の真の目的地であって、それこそは神速丸が待機している横須賀であり、榎本艦隊が停泊している品川沖であり、ひいては「北部連合(The Confederation of the North)」がテリトリーとする東北日本――ということになる。
ただ――以上、ツラツラともっともらしいことを書き連ねてきたわけだけれど、所詮、ワタシがテキストとしているのは、Google翻訳で得られた英訳。しかし、問題の下りをフランス語の原文で吟味すると事情は若干違ってくることはここで正直に書いておく必要がある。実は問題の下りのフランス語の原文はこういうものなのだけれど――
Sous prétexte de ce voyage de quelques heures, que vous m’avez autorisé à faire à Yokohama, chez mon camarade d’école Verny, directeur de l’arsenal franco-japonais, je pars pour une destination tout autre.
これは謙遜でもなんでもなく、ワタシのフランス語の理解力なんて高が知れている。ただ、この一文に解釈についてならばワタシには多少のアドヴァンテージがあると言っていい。というのも、この一文の解釈で大きな鍵を握るであろう単語は英語にも取り入れられているので。その単語とは、chez。文章の中ほどに出てくるchez mon camarade d’école Vernyのchez。このchezについてリーダーズではどういう訳語を示しているかというと――「…の家[店]で[に]」。本来、「…の家[店]で」と「…の家[店]に」では全然意味が違うのだけど、このフランス語由来の前置詞の場合、その両方の意味を包摂しちゃってるわけですね。ただ、Google翻訳で得られる英訳は明らかに「…の家[店]で」という意味に取っている。しかし、「…の家[店]に」という意味に取ることもできるわけで、その場合は文章の解釈が全く違ってくる。そもそもこの場合はchez以下は直前の関係詞節の修飾語ではなく、その前の「数時間の船旅」の目的語と受け取るべき。つまり――「あなたが横浜でおこなってよいと許可して下さったわが学友にして造兵廠の責任者であるヴェルニーの家への数時間の船旅を口実として私は全く異なる目的地に向かいます」。そして、これはフランソワ=グザヴィエ・エオンが示している解釈とほぼ同じ。つまり、件の一文は、フランス語の原文に即すならば、フランソワ=グザヴィエ・エオンが示しているような解釈も可能だということになる。これについて、ワタシがあるフランス語関係のHPを運営しておられる方にお尋ねしたところ、この一文の場合、chezは「…の家[店]に」と解釈するのが自然ではないか、というお話でした。ただ、文法的には「…の家[店]で」と解釈することも可能とのことなので、後は実際の状況などに照して、どう解釈するのが合理的か? という判断の問題になるんだろう。で、まさに実際の状況に照した場合、「…の家[店]で」と解釈した方がずっと合理的なのだ。
まず、件のchezを「…の家[店]で」と取った場合、この一文の前半部分が「あなたが横浜のわが学友にして仏日造兵廠の責任者であるヴェルニーの家でおこなってよいと許可して下さった数時間の船旅を口実として」となるのは疑問の余地はありませんよね。ただ、これは実際の状況に照すならば非合理ではないか? とお考えになる方もいるはず。というのも、ヴェルニーが建設の指揮を執っていた「仏日造兵廠」は横須賀にあったわけだから。レオンス・ヴェルニーという〝お雇い外国人〟が近代日本に果たした役割は何かといえば、それは横須賀造船所を建設したことに尽きると言っていい。ちなみに、ワタシはごく短期間ではありますが横須賀に暮していたことがありまして。京急の横須賀中央駅の東口を出て地元では「平坂」と呼ばれている急坂を5分ばかり上った上町1丁目あたりに下宿があった(ちなみのちなみで書いておくならば、山口瞳が『血族』で描いたかつての「柏木田」遊廓は上町3丁目あたりにあった。軍艦の乗組員や造船所の工員たちが平坂を上って通ったわけですね)。当時のワタシは常に腹を空かせた野良犬で、仕事を終えて横須賀中央駅に帰り着くや、駅ナカの売店で黄金焼を2つばかり買って、それを平坂を上り切る前に食い終わっていた。それほど腹を空かせていた。でも、懐かしいな。そういえば、駅前のガード下には小さな古本屋があって、あそこで『フランソア・ヴィヨン全詩集』を買ったんだっけ……。そういうワタシの目から見ても、横須賀におけるヴェルニーのプレゼンスは実に顕著なものがあると言っていい。かつての横須賀造船所である米軍横須賀基地を望む汐入町の海岸には「ヴェルニー公園」なるものが整備されているし、その公園内にはヴェルニーの胸像も設置されている。ヴェルニーと横須賀の〝絆〟はそれほど強いということ。こういうことを考えても、件の下りを「横浜のわが学友にして仏日造兵廠の責任者であるヴェルニーの家で――」と解釈することはいかにも非合理――ということになりそう。ここはやはり「わが学友にして仏日造兵廠の責任者である(横須賀の)ヴェルニーの家への――」ではないの……? でも、実は件の下りを「横浜のわが学友にして仏日造兵廠の責任者であるヴェルニーの家で――」と解釈する余地は十分にあるのだ。まず、日本とフランスの合弁で建設されたのは横須賀造兵廠だけではない。規模は小さいながら、横浜にも造兵廠が作られているのだ。このことは『お雇い外国人⑥軍事』にも記してあって、ヴェルニーが起草したという計画の原案によれば――「日本政府の船廠起立に先だち至急施行を要するものは一の工廠を横浜に設け現時所有の工作機械(米国より購入せしものを云う)を据附け以て艦船修理の工を起し併せて其邦人をして西式工業を習肄せしむるに在り」。同書によれば、ヴェルニーは小汽船を買い入れて横浜から横須賀に物資を運んでいたらしい。また宮永孝「ヴェルニーと横須賀造船所」(法政大学社会学部学会『社会労働研究』第45巻第2号)によれば、横須賀にはヴェルニーのために官舎が建てられていたことが日本側の資料で裏付けられるというのだけど、実はヴェルニーは妻を伴って来日していた。上海領事ブルニエ・ド・モンモラン伯爵の末娘、マリーというのがその女性で、ヴェルニーはこのマリーと1867年4月22日、上海で結婚式を挙げている。そして、「それがすむと新婦をともなって横須賀にもどってきた」。しかし、当時の横須賀がただの漁村だったことを考えるなら、はたして妻ともども官舎で暮していたかどうか。妻だけは生活環境の整った横浜に住んでいたのではないか? その場合、ヴェルニーは横須賀の官舎とは別に横浜に私邸を持っていたということになる。もう1つ。ブリュネが隊を脱走したのは旧暦の8月17日ないしは19日とされるわけだけれど、『お雇い外国人⑥軍事』によれば、8月1日にヴェルニーがかねて本国に注文していた「灯台用機械」が送られてきているという。これを受けヴェルニーは明治新政府の役人に必要書類を提出して建設の裁可を求め、部下を観音崎に派遣して工事を始めさせている。当然、これに関る明治新政府との事務折衝は横浜で行ったはず。政府の出先機関があったのは横浜なのだから。
――と、こうした諸々の事実を踏まえるなら、ブリュネが脱走した8月時点でヴェルニーが横須賀にいたと決めつけることはできない。横浜にいた可能性だって十分ありうる。むしろ、灯台建設の件に着目するなら、横浜にいた可能性の方が高いのではないか? しかも、慶応4年8月と言えば、既に軍事顧問団の帰国は決定済み。駐日公使ウートレーが顧問団の中止を決定したのは7月28日、明治新政府が顧問団の給与ならびに帰国費用を支払って事業を清算したのは8月15日。この時点で顧問団はいつでも帰国可能な状況になった。そして、実は顧問団が帰国するためのフランス汽船はその翌日の8月16日にはもう横浜港に入港しているのだ。これは当時、横浜で発行されていたJapan Times' Overland Mailという英字新聞に掲載されている横浜港の出入港記録からわかる事実で、この日、フランス船籍の蒸気船、モンギャル(Mongal)号が横浜港に入港しているのが確認できる。当然、燃料の補給なり所定のメンテナンス等は必要だから、すぐには出航することはできないけれど、遠からず出航準備は整うはず。また、事実、顧問団の第1陣は8月30日には帰国の途に就いていることがクリスチャン・ポラック氏が書かれた『絹と光 : 知られざる日仏交流100年の歴史』(アシェット婦人画報社)に記されている(なお、団長のシャノワーヌを含む第2陣は9月13日にアメリカ汽船で帰国の途に就いている。こういう変則的なかたちとなったのは、ブリュネらの脱走という不測の事態を受け、ギリギリまで帰国を先延ばししようとした結果では?)。つまり、顧問団の帰国はもう本当に目前に迫っていたわけで、当然、そうしたことはヴェルニーも知っていたはず。そして、ヴェルニーとブリュネがエコール・ポリテクニークの学友(生まれはヴェルニーが1837年12月2日、ブリュネが1838年1月2日なので、ただの同窓ではなく、同級生)だったことを思えば、そういう状況で何ごともないかのごとく横須賀で工事の指揮を執っていられるはずがないじゃないか。また、当然、彼は友人が熱い「ガリア魂」の持ち主であることは知っていたと想定するならば、もしや――という思いに捕らわれることだって十分にありうるだろう。そりゃあ、居ても立ってもいられなかっただろう。だから、8月時点でヴェルニーは横浜にいた。絶対に(ちなみに、上述「蝦夷事情乗風日誌」によれば、神速丸は5月の時点で、ハッキリとそう書かれているわけではないのだけれど、おそらくは修理のために横須賀の造兵廠に預けられている。そして「七月廿九日神速丸乗組トシテ横須賀ヘ行キ『ベルニー』ヨリ請取」とされていて、この時点ではヴェルニーは横須賀にいたことが裏付けられる。しかし、「灯台用機械」が到着したのはその翌日なので、8月時点でヴェルニーは横浜にいたという仮説が「蝦夷事情乗風日誌」の記載によって妨げられることはない)。そうなると、件の一文で使われているchezを「…の家[店]で」と取って「横浜のわが学友にして仏日造兵廠の責任者であるヴェルニーの家で――」と解釈することはなんら非合理ではない、ということになる。むしろ、そう解釈した方が合理的。
で、このことを確認した上で、さて、その場合、実に興味深い可能性が見えてくるのではないか? ブリュネはシャノワーヌに向かって「あなたが横浜のわが学友にして仏日造兵廠の責任者であるヴェルニーの家でおこなってよいと許可して下さった数時間の船旅を口実として」――と書いているわけだけれど、これはつまりブリュネとシャノワーヌがヴェルニーの家で話し合いを持った、ということ示唆している。その話し合いの結果、シャノワーヌがブリュネに対して「数時間の船旅」を許可した――ということになる。これは一体どういうシチュエーションなのか?
さて、ここで田保橋説だ。榎本供述に基づく田保橋説では、ブリュネらは8月17日にイタリア公使館で催された芝居の混雑に紛れて脱走したということになっているのだけど――注目は、その日付を8月17日としていること。しかし、実際にブリュネらが神速丸で榎本艦隊に合流したのは8月19日。2日のタイムラグがある。ここにですね、ブリュネとシャノワーヌが(おそらくは19日に)ヴェルニーの家で話し合いを持ったという可能性を投げ入れた時、そこから見えてくる1つのストーリーライン(仮説)というものがありうるのではないか? それは、この2日間、ブリュネらは横浜のヴェルニーの家に潜んでいた――という可能性。しかもこの仮説はある事実を念頭に置いた時、よりその可能性を強くアピールしてくるよう。その事実とは――ブリュネらには横須賀までの移動手段を確保する必要性があった、という事実。実際、田島応親は史談会での談話で「橫濱を出帆して橫須賀に渡り、橫須賀から又途中漁船に乘つて、風浪を侵して夜中窃に幕府の軍艦囘陽丸に乘込みまして、仙臺まで連れて行きました」――と語っている。横浜から横須賀までは海路だったのだ。そうなると、俄然、クローズアップされてくることになるのが、ヴェルニーが小汽船を買い入れて横浜から横須賀に物資を運んでいたという事実。ブリュネらはこの小気船で横須賀まで行くことを考えた――というのは、いかにもありそうな可能性でしょ? しかし、そのためには、全てを打ち明けてヴェルニーの協力を得る必要がある。おそらくはイタリア公使館を抜け出したブリュネとカズヌーヴはその足でヴェルニーの家を訪れ、突然の来訪に驚く友人に全てを打ち明けた。とまどうヴェルニー。しかし、切々と自らの思いを訴える旧友の熱情に遂にヴェルニーは……。
かくて2人は、当面の潜伏場所と横須賀までの移動手段を確保した。しかし、どれだけ慎重にことを行ったつもりでも、所詮は狭い居留地内でのこと。2人がヴェルニーの家に潜んでいるという事実はほどなくシャノワーヌの知るところとなったと考えよう。そして、19日、シャノワーヌはヴェルニーの家を訪れた。言うまでもなく、ブリュネとカズヌーヴに脱走を思い止まるよう説得するため。外国人が他国の内戦に干渉することの不当性。そのことによってフランス外交が蒙るであろう損害。そして、なによりも隊を脱走することは軍人として許されざる重罪であり(新選組なら切腹です)、2人が重い責任を負うことになることは火を見るより明らかであること……。説得材料はどれだけでもある。そして、残された書簡等からは、シャノワーヌがブリュネに非常に同情的であったことがうかがえることも踏まえるなら、その説得はすこぶる真情に溢れるものであったろう――と、そう想定しよう。それは十分にブリュネの心に届いた。そして、最終的にブリュネはシャノワーヌの説得を受け入れた。しかし、ここで彼は意外なことを口にした。なんと、数時間の外出をお許しいただきたいと。怪訝な表情を浮かべるシャノワーヌにブリュネは――「ヴェルニー君の船で湾内を一巡りしたいのです。もう2度と訪れることはないであろうこの美しい国の光景をこの目に焼きつけておきたいのです」。既に記したように、この時点で顧問団の帰国は決定済みであり、帰国の足となる蒸気船も横浜港に着いていた。そういう状況でブリュネは彼が愛した日本という国との別れを惜しむ惜別のクルーズをしたいと申し出たのだ。あるいはこの際、ブリュネは最後の思い出に横浜の町を絵に描いておきたいのです――と、そんなことを言ったかもしれない。よく知られているようにブリュネは軍人らしからぬ(いや、ポラック氏によれば、ブリュネが卒業したエコール・ポリテクニークでは「デッサンや絵を描く能力にも高いものが求められた」という。「写真機のない当時、情景を正確に素描する能力は、陸軍士官にとって必須のものだったからである」――ということだそうです)絵心の持ち主で、日本滞在中にも多くの水彩画やスケッチ画を描いている。当然、シャノワーヌはそういうことも知っていたはず。――となると、無下に断ることもできない。しばしブリュネの目を探るように見つめた上で――「わかった。2時間だけ時間を与えよう」。「ありがとうございます。大尉殿の温情に感謝いたします」。こうしてブリュネはカズヌーヴとともにヴェルニーの船で日本との別れを惜しむ数時間のクルーズに出ることになった……。しかし、実際にはブリュネはこの「数時間の船旅」で横須賀に向い、待機していた神速丸(7月29日に内藤清孝に引き渡された神速丸がなぜ8月19日に横須賀に待機していたのかは謎。その事情を物語る史料には未だお目にかかれず)に乗り換えて品川沖の榎本艦隊に合流することになる。そして、そこから「全く異なる目的地に向かいます」とシャノワーヌに書き送った――と、こういうストーリーラインを描き出すなら……どうです? 榎本供述に基づく田保橋説とブリュネ書簡に基づく高橋説、この一見、相矛盾する2つのストーリーを矛盾することなく1つのストーリーラインに取り込むことができるのでは? ちなみに、このストーリーラインの場合、問題となるのは、ブリュネに「数時間の船旅」を許可したシャノワーヌがブリュネの真意を察知していたのかどうか? これはねえ、なかなか微妙ですよ。シャノワーヌという人は、残された肖像写真を見ると、いかにも大人物といった風貌で、なかなかこの人を騙すのは難しいのではないか? しかし、その度量ゆえに騙されたふりをしてくれる可能性なら、ある? その一縷の望みにかけてブリュネは言ったのかもしれない――数時間だけ私に時間を下さい、もう2度と訪れることはないであろうこの美しい国をこの目に焼きつけておきたいのです――、そんなブリュネの申し出にシャノワーヌが許可を与えたとするならば……?
付記 もしくは少し長めのキャプション ブリュネが描いた水彩画。前景に屯するのは幕府軍とされる。構図の妙、動きのあるポージング。軍人の手遊びとは思えないクオリティが見て取れる。描かれたのは1867年とされるので、だとするなら、当時、大坂城にいた徳川慶喜に謁見するために上坂する際に描いたものだろうね。オーギュスタン・デシャルム中尉が伯父に宛てた手紙によれば、謁見の際、ブリュネは「羽飾りのついたカワウソの毛皮の高帽、飾り紐付き黒のドルマン、金線と飾り紐付き黒のズボン、腰には交差した羽飾りの上に皇帝の鷲紋章を戴く平鞄」という出で立ちで、「皆、騎馬姿で馬具一式も輝くばかりの華やかさ」だったそうだ(クリスチャン・ポラック著『絹と光 : 知られざる日仏交流100年の歴史』より)。また、もう1つ特筆すべきは、ブリュネはこの際、徳川慶喜の肖像画を描いていること。しかもそれは立像だった。将軍の立像を描くことは、儀礼上、禁じられていたというが、慶喜が許したということだろう。そして、この格別の配慮で彼は軍事顧問団の信頼を勝ち取ることに成功した。後にブリュネらが隊を脱して「徳川家臣団」と行動を共にすることになるのも、この際、慶喜が示した格別の配慮がそれと自覚されないまま影響力を発揮していたという可能性も……?