『マーク・トウェイン ユーモア傑作選』(有馬容子・木内徹訳、彩流社)を読んでいたら卒然と思いついたんだけどね。例の高橋是清が自伝などで繰り返し語って聞かせた話――慶応3年、仙台藩の留学生として勇躍、アメリカに渡った当時、14歳の高橋是清こと和喜次少年ではあったが、あろうことか寄宿先の「鬼夫婦」によって「奴隷」として売り飛ばされた――という、高橋是清といえば、まずはこれ、という感じで世に広まっている、あの話。もしかしたらあの話って、一種の「ほら話」だったのではないかと。
ということで、まずは高橋是清が一体どういうことを語っていたか? これを簡単にまとめてみようと思うんだけど、ただ1912年刊行の『立身の径路』(丸山舎)と1930年刊行の『是清翁一代記』(朝日新聞社)では語られている内容が微妙に異なる。このことは「ある不良外国人に捧げる「時の娘」①」で指摘した通りで、おそらくはより事実に近いのが『是清翁一代記』で語られている方。一方、読んで面白いのは断然、『立身の径路』で語られた方で、ワタシが「ほら話」と言うのもこっちの方。ここでも『立身の径路』で語られた方を元にしたいと思うんだけど、まずは和喜次少年が弱冠14歳でアメリカに渡ることになった経緯から。その前段として、藩に選抜されて横浜で英語修業をすることになったという話や、その一環で外国商館(チャータード・マーカンタイル銀行横浜支店。ちなみに、当時、同支店で支店長代理を務めていたのがアレキサンダー・アラン・シャンドで、後にはパース銀行ロンドン支店長を務めるなどした人物。そして高橋是清が日露戦争の戦費調達のため渡英した際は外債引き受けを躊躇する銀行幹部の説得に当ったというのはよく知られた話。人生、何が幸いして、何が禍するかは、全くセオリーがありません……)にボーイとして住み込むことになったという話があって――
斯くの如く予は外國商館のボーイとなり、餘暇ある每に專心英語の修行を爲して居たのである。兎に角外國商館であるから、英語を習ふには此上も無い好都合である。然るに慶應三年予が十四歲の時、仙臺藩の富田鐡之助氏、勝安房氏等の勸誘に依つて洋行して勉强することゝなり、勝氏の息勝小六〔ママ〕、高木三郞氏等の諸氏も矢張り此の目的の爲めに外國に行くと云ふので、予は鈴木知雄氏と共に此一行に加へられるゝことゝなつたのである。
ただ、和喜次少年がまだ14歳と若年のため、藩の方ではアメリカでの「保護監督」役を必要とした。その便宜を図ってくれたのがユージン・ミラー・ヴァン・リードということになるわけだけれど――
……而して仙臺藩では予と鈴木氏の爲めに、其出發前當時各藩に鐵砲の賣込を爲し居たる米國商人ヴァンクード〔ママ〕なる者に、予等の渡米後に於ける保護監督に就いて相談する所あり。其結果として予等は桑港なるヴァンクードの兩親の家に寄寓することゝなって、我々と予の祖母は勿論送る者も茲に初めて心を安んじ橫濱港頭予等を乘せたる船舶の漸く動るぎ出したる時、予等は眞に前途の幸福を祝されたのであつた。然るに豈に計らんや、予等の出發前に予等に渡米後の爲めにとて先輩が計つて吳れたヴァンクードは予等が渡米後、却つて、予等をして難の渦中に投げ込んだのである。
ちなみに、高橋是清はヴァン・リードの素性について「當時各藩に鐵砲の賣込を爲し居たる米國商人」としているのだけれど、これはヴァン・リードについて広く流布している人物像と言っていい。しかし、福永郁雄「ヴァン・リードは〝悪徳商人〟なのか―横浜とハワイを結ぶ移民問題―」(横浜開港資料館・横浜居留地研究会編『横浜居留地と異文化交流 19世紀後半の国際都市を読む』所収)等を踏まえるならば、ヴァン・リードを武器商人と決めつけることにはよほど慎重であるべき。というのも、ヴァン・リードはまだオーガスティン・ハード商会の社員だった頃に武器を扱っていたことは同社の内部資料で裏付けられるものの、これはオーガスティン・ハード商会の社員としての仕事であり、かつ武器はオーガスティン・ハード商会という総合商社の取り扱い品目の1つだったに過ぎない。オーガスティン・ハード商会は決して武器商社だったわけではない。またヴァン・リードがオーガスティン・ハード商会から独立後に仙台藩と懇意な間柄になったこともさまざまな史料・文献によって裏付けられるものの、仙台藩と武器取引をしていたことについては裏付けとなる史料は見つかっていない。逆に明治3年に旧仙台藩が横浜外国商館から武器被服等を購入した後の未払い金残高を大蔵省負債課へ報告した書類控について紹介した大竹誠一「戊辰の役仙台藩武器被服等購入の一端」(『仙台郷土研究』通巻216号所収)を読むと、同書類控にはプロイセンやスイスなどの商館が番地入りで明記されているものの、ヴァン・リードの商館は含まれていないことがわかる。こうしたことから、「當時各藩に鐵砲の賣込を爲し居たる米國商人ヴァンクード」なる表現は確固たる裏付けがあるとは言えず、読者に誤った先入観を植え付けるもの――ということは、この際、ぜひ書いておこうかなと。
さて、話を引用部分に戻して――そんな(どんな?)ヴァン・リードによって投げ込まれることになった「難の渦中」なんだけれど――ここからが、まあ、名調子というのかな、「ヴァンクードの家には豫て聞きたる如くに、老夫婦が居るばかりであつたから、千萬里外の異鄕に在つて宛がら慈親(おや)に邂逅したらん如き心地して、樂しみ勇んで專心一意學業に其の身を委ね、以て將來故國に錦衣を飾らんことを夢見て居たのである」が――
然るに予等が第二の親とも思つて居た此の老夫婦は、實に人面を冠りたる獸類であつたのである。予等が此の家に到るや事々物々悉く豫期に違ひ、學校に通學することは愚か、家に在つて勉強することすら許されぬ。朝から晩まで、室内や庭園の掃除や、或は買物及び炊事の手傳いなどをさせられて、酷使せられ、其食事と云へば、麺麭二片と葡萄數粒とを給せらるゝのみであつた。加ふるに其の晝食の折には必ず屋外に於て犬と共に食事をさせられたのである、何んたる無法の待遇であらう。宛ら狐につまゝれし如しとでも云はうか、故國を出る時には此那筈ではなかつた。然も大藩の留學生として、渡米したのであるが、計らずも斯かる鬼夫婦の虜となり、藩より送附し來るべき筈の學費は、何うなつたものか、更に分からず、今や宛がら奴隸の境遇に陷り苦慘を嘗めねばならぬのである。
さあ、出てきました(笑)。「然るに予等が第二の親とも思つて居た此の老夫婦は、實に人面を冠りたる獸類であつたのである」だの「其の晝食の折には必ず屋外に於て犬と共に食事をさせられたのである」だの。そして、遂には「今や宛がら奴隸の境遇に陷り苦慘を嘗めねばならぬのである」……。しかもだ、話はこれで終わらないのだ。その後、和喜次少年は「オークランドの富豪ブラウンの家」に引き取られることとなるのだけれど、ここでも「幾んど目も回る許りに立ち働かねばならぬ事」となり、遂には辛抱し切れなくなって暇乞いを求めるものの、ここで衝撃の事実を告げられることになる。すなわち――「而して主人に予は三箇年間奴隷として売られて來た事を告げられた」。売り飛ばしたのは、言うまでもなく、かの「鬼夫婦」である「ヴァンクード」の両親。かくて――
勉學修行の爲ならば、如何なる艱難にも堪え又如何なる窮境にも忍べとは、幼時から養祖母の訓戒であつたから、予の豫て覺悟して居た所であつたけれども、憎むべきは彼のヴァンクードである。故國に於て先輩が將來を托したのは、豫をして此奴隸生活をせしめ吳れとの爲めではない。然るに土地の事情も知らず言葉も通ぜぬを幸ひとして、斯くも欺いて聞くだに忌々しき奴隸に賣り飛ばさんとは、故國の人々が知つたら、さぞや驚くであらう。
――と、こう続くわけだけれど、これを読んでアナタはどう思われるでしょうか? いやー、大変な目に遭ったもんだねえ。それにしても「ヴァンクード」ってなんてヒドイやつなんだ――と思うの当然だろうけれど……でも、ちょっと違和感も覚えません? 違和感、あるいは、少しばかり話ができすぎてるぞ、という疑念のようなもの。実際、語り口(『立身の径路』は高橋是清が語ったことを菊池暁汀なる人物がまとめたもの。菊池暁汀は国立公文書館オンラインで検索すると、他にも大隈重信の『青年訓話』、安田善次郎の『富の活動』など、政財界の大物に取材した著書を多数刊行していることがわかるものの、詳しい素性は不明。『立身の径路』の「編者言」では「予が同郷の先輩男爵高橋是清氏」と書いているので、宮城県出身ということだけはわかりますが、宮城県図書館の「地域資料関係記事索引」や河北新報オンラインで検索してもヒットせず。うーむ)は至って流暢で、むしろ流暢すぎるくらい。おそらくは相当に話し込み、作り込んだものに違いない、という妙な確信のようなものをワタシは覚えたりもするのだけれど……どう? そう言われれば、そんな気もしてくるのでは……?
ということで、この『立身の径路』で語られた内容についてワタシは上述「ある不良外国人に捧げる「時の娘」①」では、いささか「話を盛りすぎ」との思いを禁じえない――と、率直な印象を吐露させていただいているのだけれど――さらに踏み込んで、これって高橋是清一流の「ほら話」――アメリカでヤーン(yarn)とかトールテール(tall-tale)とか呼ばれているやつ――だったのではないか――と『マーク・トウェイン ユーモア傑作選』でマーク・トウェインが繰り出す数々の「ほら話」を読んでいるうちに。実際、「然るに予等が第二の親とも思つて居た此の老夫婦は、實に人面を冠りたる獸類であつたのである」とか「其の晝食の折には必ず屋外に於て犬と共に食事をさせられたのである」なんてのは典型的な「ほら話」の話法ですよ。
ここで「ヤーン」ならびに「トールテール」について少しばかりご説明すると、いずれも日本語に翻訳するなら「ほら話」ということにはなる。ただ、この2つには結構な違いがあって、まず「トールテール」から説明するなら、これはアメリカの建国神話ともされるポール・バニヤンに関る数々の伝説なんかがそう。ポール・バニヤンが斧で岩山を叩くと深い割れ目ができて、そうしてできたのがグランド・キャニオンである――式の、いかにも「ほら話」って感じのやつで、話す方も聞く方もお互いにそうとわかった上で、その途方もなさ(tallには「〈話などが〉大げさな, 信じられない」という意味がある)を楽しむというタイプの「ほら話」。一方、「ヤーン」の方はそれがホラなのかどうかが必ずしも判然としない。ちょっと半信半疑のところもあるけれど、もしかしたら本当かも知れないと思わせられるところもあって、それだけについ引き込まれてしまう、というタイプのやつ。マーク・トウェインの「ベイカーの青かけす綺談」(原題はJim Baker's Blue Jay Yarn)なんかがまさにそれ。もっともアオカケスが喋るんだからホラに決まってるんだけど……。こうした「ヤーン」と「トールテール」の関係について加藤秀俊は「アメリカ社会におけるtall-taleについて」で「yarnは一般的にバカ話であるが、そのなかで、到底ありうべかざるような極端なバカ話は“tall-tale”ないし、“tall-story”と呼ばれる」と整理。つまり、「ヤーン」本来の馬鹿馬鹿しさがある閾値を超えて真-偽の二元論を超越してしまったようなものをトールテールと呼ぶ、ということかな? で、この解釈に基づくなら、高橋是清が『立身の径路』で披露して見せたのは「ヤーン」の部類だろうね。またリーダーズではyarnについて「⦅くだけて⦆(しばしば誇張された旅行などの)みやげ話」と説明していて、そうそう、まさにそれだよなあ……と、ワタシなんかはガッテンしちゃうんですけどねえ。
ちなみにだ、マーク・トウェインが一躍、その名を全米に知らしめることになったほら話の傑作「キャラベラス郡の名高い跳び蛙」は1865年に書かれており、実際にカリフォルニア州キャラベガス郡のエンジェルス・キャンプというところにあった宿の酒場でベン・クーンという老人から聞いた話が元になっている。実はカリフォルニア州というのはほら話のメッカのような場所だったのだ。その上で、和喜次少年が同州に滞在していたのは1867年9月から1968年10月まで。つまり、高橋是清はマーク・トウェインと同じ時代、同じ場所に充満していた空気を吸って帰ってきた、ということになる。そんなことを考えるなら、高橋是清が『立身の径路』で披露した語り口とマーク・トウェインのほら話を比較して論じるという視点があっても面白いんじゃないかと思うんだけどなあ。きっと相当にユニークな比較文学論に仕上がるはず……? なお、高橋是清が滞在していた当時、当のマーク・トウェインは例の『赤毛布外遊記』の元となる周遊旅行に同行してヨーロッパ・中東を旅行中で、その旅の報告(The Holy Land Excursion)が当時、サンフランシスコで発行されていた日刊新聞、デイリー・アルタ・カリフォルニアに週1くらいの頻度で掲載されていた。もしかしたら和喜次少年も目にしたことがあったかも?
さて、以上、記してきたことがどの程度、読者のご賛同を得られたかはわかりませんが、とりあえず一定の賛同を得られたと仮定して――しかし、高橋是清が『立身の径路』で披露して見せたような話が本当に「ほら話」だったとしたら、その餌食にされたヴァン・リードにとってはとんだ災難。もっとも、『是清翁一代記』の記載内容なども踏まえるならば、ヴァン・リードの父(James Henry Van Reed)が藩から受け取った金を着服したのはどうやら事実らしい。さらには、本人はあくまでも留学生のつもりだったにもかかわらず、当時、アメリカに数多くいた中国からの出稼ぎ労働者(いわゆる「苦力」)同様の扱いを受け、遂には3年年季のハウスボーイとして「売り飛ばされる」(なお、念のために書き添えておくなら、和喜次少年は本当に売り飛ばされたわけではない。実態としては、和喜次少年が内容をよく確認しないまま契約書にサインしてしまった、というのが正しいでしょう。ただ、それを当時、14歳の少年の落ち度とするのはあまりにも公平性を欠く。ここはやはり大人の側の責任が問われるべき。ワタシもそこまでユージン・ミラー・ヴァン・リードの肩を持つつもりはない……)ことになったのもまた間違いのないところでしょう。だから、すべてが全くのほら話ということはありえない。ただ、それだけならば(『是清翁一代記』に記されている程度のことならば)、14歳で右も左もわからない異国に放り込まれた少年が経験することになった苦労話、ということで終わっていたのでは? むしろ「艱難汝を玉にす」で、この時の苦労があったからこそ後の名財政家・高橋是清がある、という、四方八方収まりがいい――というか、これこそがこのエピソードの本来の受容のされ方ではないの? とワタシなんかはそう思うんですけどねえ――かたちに収まっていたのではないかと。
しかし、それがおそらくは聞き手を楽しませることを目的に腕によりをかけた〝ヤーン〟として紡がれ(yarnの本来の意味は「織り糸」)、「然るに予等が第二の親とも思つて居た此の老夫婦は、實に人面を冠りたる獸類であつたのである」だの「其の晝食の折には必ず屋外に於て犬と共に食事をさせられたのである」だの。こうなると、ただの苦労話では済まない。昨今の世の中を見てもわかるように、人は「正義」に駆り立てられる生き物。ここはどうしたってそうした状況をもたらしたユージン・ミラー・ヴァン・リードの責任追及に向かわざるをえませんよ。その結果としての〝炎上〟。「ある不良外国人に捧げる「時の娘」①」で記したように、ユージン・ミラー・ヴァン・リードは今日、日本近代史に希代の「不良外国人」としてその名を刻んでいるわけですが、その原因の一端を作ったのが高橋是清がことあるごとに語って聞かせた奴隷話であるのは間違いないところ。しかし、それが高橋是清一流の「ほら話」だったとするならば、やはりこれはユージン・ミラー・ヴァン・リードにとってはとんだ災難と言わざるをえない。彼にはこの件で高橋是清をBPOに訴える権利がある……?