いかんなあ。わが妄想癖もいよいよ「病膏肓に入る」……。
このところ、前田慶次(あるいは、前田慶次郎)のせいで図書館に日参する破目になっている(それにしても、どの図書館もタイヘンだ。おちおち本も読んでいられない。実際、利用時間には制限がかけられていて、「概ね30分」とかね。もう酒場だって営業時間の制限が撤廃されてるんですよ。なんかさあ、ただ本を読んでいるだけなのに、とってもイケナイことをしているような気分になってきて……)。それもこれもこの人物をめぐっては一筋縄では行かない謎がいくつもあるからなんだけれど、それにしたってたかだか「あとがき」のためにこれほど図書館に日参させられる破目になろうとは……。
今日、一般に流布している前田慶次のイメージが隆慶一郎の小説『一夢庵風流記』、ないしはそれを元に描かれた原哲夫の漫画『花の慶次』に由来することは論を俟たない。一介の〝ふへんもの〟をサブカル的なアイコンにまで押し上げたのは『花の慶次』のお手柄なんでしょうが(「なんでしょうが」――とは、つまりはワタシは『花の慶次』を読んでいないということです。もうマンガを貪り読むトシでもないしね。つーか、あちらこちらで見かける慶次のヴィジュアルからは違和感しか持てなくて。慶次ってもっと大人でしょう? 成熟した大人の男ですよ。酸いも甘いも噛み分けた大人の男が傾いているところが魅力だと思うんだけど……)、それだって『一夢庵風流記』があったればこそ。前田慶次にまつわるモロモロの社会現象の原点はだから隆慶一郎の小説『一夢庵風流記』だということになる。そういう意味では『一夢庵風流記』は『竜馬がゆく』や『燃えよ剣』に匹敵する小説と言えるのかも知れないね。今や坂本龍馬と土方歳三って幕末の二大ヒーローと言っていいと思うんだけど、その人気の由って来たるユエンが『竜馬がゆく』と『燃えよ剣』という司馬遼太郎がほぼ同時期(『竜馬がゆく』は1962年6月から1966年5月まで『産経新聞』夕刊に連載。『燃えよ剣』は1962年11月から1964年3月まで『週刊文春』に連載)に書いた小説であるのはこれまた論を俟たない。司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を書かなければ今日の坂本龍馬人気はなかったし、『燃えよ剣』を書かなければ今日の土方歳三人気はなかった。同じように、隆慶一郎が『一夢庵風流記』を書かなければ今日の前田慶次人気はなかった。いや、人気云々以前に、知名度がね。隆慶一郎は『一夢庵風流記』のあとがきで、冒頭、こんなことを書いているんだけど――「前田慶次郎は現代では極めて知名度の低い人物である」。今、これを読むと、え? てな感じなんだけど、でも隆慶一郎がそう書いているということは、そうだったのだろう。いや、待てよ、ワタシが前田慶次という人物を知ったのも、『一夢庵風流記』だったような気が。はっきりとそうであると断言できるわけではないけれど、そうであった可能性もなきにしもあらず……?
さて、その『一夢庵風流記』のあとがきである。実は『一夢庵風流記』のあとがきには、この冒頭の1行以外にも、え? となるような下りがある。はたして『一夢庵風流記』を読まれた方でこのことに気がつかれている方がどれくらいいらっしゃいますかねえ。案外、気づかずにスルーしている方が多いのでは? 何を隠そう、ワタシがそうだった、30年前は(それにしても、驚きますですよ、『一夢庵風流記』を初めて読んだのがもう30年前なんてなあ……)。しかし、今回、久しぶりに読み返してみたところ、へえ、そうなの? と。で、少しばかりGoogleにお伺いを立ててみたところ、あれ、話が違うんじゃないの? と。一体これはどういうことなんだろう……と、いろいろやっているうちに、ちょっとこれは見過ごしにはできんなあ、と。そして、緊急事態宣言明けの図書館に足を運び、お目当ての本に目を通したところ――え? いや、え⤴ とにかく、およそ容易ならざる事態に遭遇する破目に……。
ということで、まずは『一夢庵風流記』のあとがきのモンダイの下りを読んでいただくことにしましょう――
私がこの前田慶次郎と最初にめぐり逢ったのは、遠く戦前のことだ。私は旧制高校の生徒で、ボードレール、ランボオ、ベルレーヌの詩に耽溺するかたわら、時代小説を片っ端から濫読していた。その頃、誰かがこの慶次郎について書いたものを読んだのだが、一種の貴種流離譚の印象しか残らなかったように思う。加賀前田家の縁戚だということから生じた錯覚だった。
次の出逢いまでにはかなりの時間がかかった。戦後、映画の仕事をするようになり、その仕事の中で石原裕次郎のプロダクションで司馬遼太郎氏の原作で『城取り』のシナリオを書くことになった。この主人公が前田慶次郎だった。映画の仕事ではよくあることなのだが、この時もシナリオを書く段階で原作が出来ていない。短いストーリイがあるだけである。もちろん司馬さんの責任ではなく、石原プロ側がなんらかの事情で映画の完成を急いでいたためだ。そのために原作もなく、なんの史料もなく慶次郎を書く破目になった。当然出来は悪く、私は恥じた。終った段階で史料を探し始めるという逆の作業をすることになった。そして見つけたのが『日本庶民生活史料集成』に蔵められている慶次郎の旅日記だった。
この本は私の中にあった慶次郎のイメージを一変させたと云っていい。
ま、まだまだ続くのだけれど、とりあえずこの辺にしておきましょう。で、この中にちょっと見過ごしにできない謎が含まれているのだけれど、おわかりになるでしょうか? 隆慶一郎が旧制高校の生徒だった頃に読んだ「誰かがこの慶次郎について書いたもの」が、具体的には何を指すのか? まあ、それも気になるところではありますよね。でも、別に見過ごしにできないほどの謎ってこともないでしょう。それに、多分、それは海音寺潮五郎が書いた『戦国風流武士』で間違いないでしょう。ウィキペディアの「前田利益」の記事の「主題とする作品」を見ると、前田慶次を主人公とする小説で戦前に刊行されたものは『戦国風流武士』だけ。念のため、確認したところ、初版である文松堂版の刊行は1941年。なので、隆慶一郎が旧制高校の生徒だった頃に読んだという説明とも合致する。だから、そもそもこれは謎ですらない。あと、多分、これは説明しなくてもおわかりだろうとは思うのだけれど、念のために書いておくなら、隆慶一郎が映画『城取り』のシナリオを書いた後に「見つけた」という「慶次郎の旅日記」とは、一般に「前田慶次道中日記」と呼ばれているもので、市立米沢図書館が所蔵。現在は米沢市教育委員会より翻刻版が刊行されておりますが、1969年には三一書房版『日本庶民生活史料集成』にも収録されており、隆慶一郎が読んだのもこの『日本庶民生活史料集成』によって。いずれにしても、この「慶次郎の旅日記」もワタシの言う「ちょっと見過ごしにできない謎」には当らない。で、それ以外で↑の記載の中で「ちょっと見過ごしにできない謎」と言えそうな部分はといえば……「石原プロ側がなんらかの事情で映画の完成を急いでいた」という部分? うん、それも関係する。それも、確かに関係する。ただ、ポイントはそこではないのだ。ポイントは――その前。石原プロ製作の映画『城取り』について「主人公が前田慶次郎だった」と述べている部分。これがですねえ、違うんですよ。違うということが、わかったのだ。ここは『キネマ旬報』1965年3月上旬号より「略筋」の冒頭部分を紹介するなら――
戦国末期の慶長五年。秀吉亡きあと、世は徳川へと移行し諸大名は家康のもとに走った。そんな風潮の最中、不敵な面魂の一人の若武者が、世の流れに背を向けて、旅立った。黒皮の陣羽織に長剣を背負った、車藤三である。
なんと、映画『城取り』の主人公は車藤三という人物なのだ。この車藤三が、当時、会津を所領としていた上杉景勝に加勢し、徳川方の伊達政宗が築いた多聞山城の乗っ取りを図って奇想天外な戦いを繰り広げる――というのが映画のざっくりとしたシノプシス。で、この車藤三を当時、日本映画界を代表するスターだった石原裕次郎が演じた。また車藤三に協力する俵左内を千秋実が、敵役の赤座刑部を近衛十四郎が、同じく敵役の渋谷典膳を宍戸錠が演じた。さらに配役表を見ると「若侍」という役柄で藤竜也も出ていたことがわかる。へえ、あの藤竜也が若侍をねえ……。ともあれ、映画『城取り』の主人公は前田慶次郎ではない。車藤三という人物なのだ。
いや、役名が車藤三というだけで、そのモデルが前田慶次郎だったのでは? と、あるいはアナタはお考えになるかも知れない。実はかくいうワタシも最初はそういうふうに考えた。しかし、そういう解釈は成り立たないことがほどなく判明した。隆慶一郎も書いているように映画『城取り』は司馬遼太郎の小説を原作としており、その小説を読むとその可能性は完全に否定されるのだ。
ということで、今度はその小説『城をとる話』の出番となるのだけど――まずこの小説そのものに謎がある。というのも、この小説は日本経済新聞夕刊に1965年1月から7月まで連載された後(ちなみに、映画の公開日は1965年3月6日。つまり、その時点でまだ「原作」は連載中だった。隆慶一郎があとがきで書いている「シナリオを書く段階で原作が出来ていない」とはこういう事情を指している)、同年10月には光文社のカッパ・ノベルズから新書版として刊行。しかし、それきり再刊されることはなく、永らく〝幻の小説〟とされていた。それがようやく光文社文庫から再刊の運びとなったのは2002年のことなのだけれど――つまりだ、『一夢庵風流記』が書かれた1989年時点では『城をとる話』は絶版状態だったのだ。司馬遼太郎という当代屈指の人気作家の小説が永らく絶版状態にあったというのは、もうそれだけでも十分に謎と言わなければならない。しかし、幸いにも現在は光文社文庫に収められているので入手は容易――かと思いきや、わが家から最寄りの本屋2軒ではいずれも在庫切れ。どっちも結構大きな本屋なんですがねえ……。ということで、これも図書館のお世話になることにしたわけだけれど――そうすると作中では主人公である車藤左(小説ではこういう名前になっている)の素性について相当詳しく記されており――「かつて太閤が健在なころ、車藤左は佐竹家の伏見屋敷にいた」。また「車氏は常陸の名族である。常陸国多賀郡車村から出ている」。さらに「現在の地理では、水戸市の北方十里、茨城県北茨城市西北郊のあたりで、昔はこの一帯を車郷といった。車氏はその車郷からおこり、代々佐竹氏につかえた」。こうなると、どう考えたって前田慶次郎とは無関係。前田慶次郎は、前田と名乗ってはいるものの、出身は滝川氏で、前田利家の兄に当る前田利久の養子となって前田姓となった。当然、滝川氏の出身なのだから、生まれは近江国である可能性が高い(中村忠雄著『米沢史談』では「天文十年(一五四一年)の頃尾州海東郡荒子に生れた」とされている)。いずれにしても、常陸国多賀郡車村を出身地とする車藤三(あるいは車藤左)とは似ても似つかないプロフィールの持ち主ということになる。
にもかかわらず隆慶一郎は『一夢庵風流記』のあとがきで「この主人公が前田慶次郎だった」――と書いているわけですよね。これは一体どういうことなんだろう? よもや隆慶一郎の勘違いということはないはず。だって、この『一夢庵風流記』のあとがきで書いていることというのは、彼が『一夢庵風流記』を書くことになった、言うならば「そもそも話」なのだから。つまり、映画『城取り』は(彼の説明によれば)前田慶次郎が主人公であるにもかかわらず、「原作もなく、なんの史料もなく慶次郎を書く破目になった」。当然のことながら出来は悪く、「私は恥じた」。そこで、既にシナリオ執筆という彼の仕事は終わっていたにもかかわらず、慶次郎に関する史料を集め始めた。そして、『日本庶民生活史料集成』に蔵められている慶次郎の旅日記に出逢った。そして、この本が彼の中にあった「慶次郎のイメージを一変させた」。ということで、ここは↑に続く部分も紹介することにするなら――
この短い旅日記の中にいる慶次郎は、学識溢れる風流人でありながら剛毅ないくさ人であり、しかも風のように自由なさすらい人だった。したたかで、しかも優しく、何よりも生きるに値する人間であるためには何が必要であるかを、人間を人間たらしめている条件を、よく承知している男だった。確かにさすらいの悲しさは仄かに匂うけれど、そこには一片の感傷もなく、人間の本来持つ悲しさが主張低音のように鳴っているばかりである。
いやー、すばらしい文章です。特に「したたかで、しかも優しく、何よりも生きるに値する人間であるためには何が必要であるかを、人間を人間たらしめている条件を、よく承知している男だった」というあたりね。「人間を人間たらしめている条件」って、なに? それこそは、「優しさ」でしょう。つまりだ、「あなたのようにしっかりした男がどうしてそんなに優しくなれるの?」と訊ねられて、フィリップ・マーロウはこう答えるわけですよ――「しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きている資格がない」(清水俊二訳)。きっと隆慶一郎は「前田慶次道中日記」の中にフィリップ・マーロウを見たんでしょう……。
えーと、話が逸れた。ともあれ、こうして隆慶一郎は前田慶次郎の魅力に取り憑かれることになる。そして、「以後私はこつこつとこの男の史料集めにかかった」――
それにしてもとぼしい史料だった。だがその中で私は漸くこの男の別の一面を見た。恐ろしいいたずら好きなのだ。それこそ身を滅ぼしかねない、いや、絶対に滅ぼすにきまっている場合でも、あるいはそれだから尚更、途方もないいたずらをやってのけるのである。
それが私にとっては前田慶次郎の決定的魅力になったと思う。いつかこの男を書きたい。それが私の執念になった。
そして、遂にその「執念」は実を結ぶことになったわけだけれど――こうした一連の流れを踏まえた時、その発端となった出来事に勘違いが含まれるなんてありえない話でしょう。つまり、彼は確信を持って書いているわけだ、司馬遼太郎原作の映画『城取り』について、「この主人公が前田慶次郎だった」と。常陸国出身で佐竹氏に仕えた車藤三(あるいは車藤左)なる人物を前田慶次郎であると――。
ということで、ここでもう一度――これは一体どういうことなんだろう? これについての最も手っ取り早い説明は、映画『城取り』は石原プロ側がなんらかの事情で映画の完成を急いでいたために、司馬遼太郎の原作がまだでき上がる前に撮影が行われることとなり、シナリオも原作の内容を十分に踏まえたものとはなっておらず、半ば隆慶一郎(当時は池田一朗)のオリジナルに近いもので、主人公のキャラクター設定等も彼の判断で前田慶次郎をイメージして行われた――というね、まあまあ、手っ取り早い割にはこれはこれで十分に得心が行くというか。で、これで手を打つというのも1つのテではある。ただ、はたしてそれでいいのか? と思わせられるある事実がある。実は司馬遼太郎は『城をとる話』の中で主人公である車藤左の素性に関連してもう1つ重要な情報をぶっ込んで来ているのだ。しかも、これが容易ならざるというか。ここは一切の忖度なしで司馬遼太郎が記していることをそのまま書き出すなら――
車氏についてさらに余談をいおう。車氏はその一族から善七という者を出した。関ケ原の役後、江戸に潜入し、ひそかに乞食のむれを組織化して徳川氏への復讐をくわだて、善七自身、家康を刺そうとして江戸城にしのび入り、露顕してとらわれた。家康は車善七の豪胆にあきれ、処刑するにしのびず、乞食頭とした。以来徳川三百年のあいだ、乞食をする者はこの車善七の鑑札が要った。このため、諸国で車姓を名乗る家は他姓にあらため、こんにちでもひどく希少な姓になっている。
ウィキペディアで「車善七」について調べると、こうある――「江戸時代の江戸浅草の非人頭が代々世襲した名前」。さらに「同家の由緒については諸説あり、確定していない」としつつ、『地方凡例録』なるものを典拠に「元祖は佐竹家の家老車丹波守義照の子車善七郎という説」について紹介――
常陸国の戦国大名佐竹家の家老車義照は関ヶ原の戦いで西軍に加わることを進言した。結果として敗れ、佐竹家は秋田に転封となった。義照はこれを不服として水戸城を奪還する企てを起こす。これが幕府に露見し、捕らえられ磔となり、善七郎は浪人となった。その後、徳川家康の暗殺を企てて捕らえられるが、許されて非人頭となった。
『城をとる話』の主人公・車藤左は常陸国出身で佐竹氏に仕えていた。そして、伊達政宗が築いた帝釈城(映画では多聞山城)の乗っ取りを企てる。これは、↑に記された佐竹家家老・車丹波守義照の事績を彷彿とさせる。違うのは、車義照が水戸城の奪還に失敗して磔になっているのに対して、小説の車藤左は帝釈城の乗っ取りに成功すること。従って、『城をとる話』がフィクションであるのは明らか。しかし、小説中の登場人物である車藤左が歴史上の実在人物である車義照をモデルとしていることは明らかであり、かつその車義照の子こそは江戸の「非人頭(乞食頭)」である初代・車善七である……。
さあ、今頃アナタの胸のあたりに相当に重苦しいものが垂れ込めているはず。かくいうワタシもそうです。しかし、とにもかくにも考証(?)を続行することにして――さて、ここで隆慶一郎が『一夢庵風流記』のあとがきで書いていることに戻ることにしよう。彼はその中で石原プロ製作の映画『城取り』のシナリオを書くことになったとして、「この主人公が前田慶次郎だった」――と記しているわけだけれど、事実は違っており、映画『城取り』の主人公は車藤三という人物。にもかかわらず彼は「この主人公が前田慶次郎だった」――と記しているわけだけれど、このことと司馬遼太郎が『城をとる話』に記した車氏にまつわる「余談」とは何か関係があるのだろうか? ある、と考えないといけないでしょう。そこに何の関係性も見出さないようなものは、「豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ」ですよ。これは、当然、あるって。端的に言えば、石原裕次郎が演じるのがそのような人物であってはまずい。これは、もう、絶対的にまずい。石原裕次郎ってのは、当時の日本映画界を代表するスターですよ。そんなスターが江戸の「非人頭」となる人物の父(をモデルとする人物)を演じるなんて――。ありえんでしょう。それはもう、当の石原裕次郎がどう思うかという以前に、製作陣の総意として、そうですよ。だから、本来ならば、差し替えるべきだったのだ、別の人物に。映画の撮影が始まる前にね。しかし、隆慶一郎も書いているように、「石原プロ側がなんらかの事情で映画の完成を急いでいた」。そのため、映画の撮影はまだ原作が日本経済新聞に連載中に始められた。つーか、『城をとる話』は1965年1月から7月までの連載。一方、『城取り』は1965年3月に公開されているので、もしかしたら連載が始まる前に撮影が始まっていた可能性も? ちなみに、光文社文庫版『城をとる話』巻末の解説「『城をとる話』と石原裕次郎」(松前洋一)によれば、『城をとる話』は石原裕次郎のたっての希望で最初から映画の原作とするために書かれた小説だという。で、石原裕次郎がこの依頼のために東大阪の司馬家を訪ねたのは1964年の晩春の夕方(みどり夫人の記憶による)。ということは、それからほぼ1年後には映画は完成し、公開まで漕ぎ着けているわけだけれど……えらい〝急ぎ働き〟ですよ。ということで、原作の執筆が間に合わなかった。結局、司馬遼太郎が映画のために協力できたのは「何人かの登場人物と短いプロットの構成だけだった」。このあたりは隆慶一郎の証言とも符合する。彼も「短いストーリイがあるだけである」と書いているので。いずれにしても、映画『城取り』は小説『城をとる話』の完成を待たずに撮影が始まっており、言うならば見切り発車でスタートした。これがすべての元凶。おそらくはね。で、以下は完全なる筆者の妄想になるのだけれど――『城をとる話』の解説に記されているように、石原プロは司馬サイドから「何人かの登場人物と短いプロットの構成」については提供を受けていた。しかし、その中では主人公の詳しい素性までは記されていなかったのではないか? せいぜい名前が車藤左で、佐竹氏に仕えていたことくらい。で、これだけならば何の問題もないので、このキャラクター設定とプロットに従って池田一朗(隆慶一郎)はシナリオを書き上げた――役名もそのまま車藤左で。そして、映画の撮影は始まった。一方、1965年1月からは原作の連載も始まった。おそらく連載は映画の撮影を追いかけるかたちで進んだのではないか? 連載が完結したのは7月なので、どうしたってそうなる。当然、石原裕次郎らは映画の撮影に臨みつつ、原作の連載を読むというかたちになった。これはなかなかシュールな状況には思えるのだけれど、しかし隆慶一郎が『一夢庵風流記』のあとがきで書いていることを信じるならば、「映画の仕事ではよくあることなのだ」。とはいえ、そんなふうに余裕をかましていた(?)のも初めのうちだけ。ほどなく映画班は目を疑うような記述に遭遇することになった。それが、↑に引いた車氏にまつわる「余談」の部分。え、「乞食頭」? 「このため、諸国で車姓を名乗る家は他姓にあらため、こんにちでもひどく希少な姓になっている」? 司馬さん、そんな話、聞いてませんよ……。
この状況にプロデューサー(『キネマ旬報』によると、プロデューサーは石原プロモーション社長である石原裕次郎と中井景という人物。どうやら石原裕次郎にとっては右腕的存在だったようで、『太平洋ひとりぼっち』や『黒部の太陽』では「企画」、『栄光への5000キロ』では「製作」として名を連ねている)以下の製作スタッフは頭を抱え込んだに違いない。石原裕次郎に「乞食頭」の父親を演じさせるわけにはいかないもの。とはいえ、既に撮影は進んでおり、3月6日という公開日も迫っていた。今さら撮り直しなんてとてもじゃないけれど。困った、本当に困った……。そんな中、誰かがこんなことを言った――「せめて主人公の名前だけでも変えられればなあ。そうすれば、原作とは別人ということで対外的には説明がつく。でも、言っちゃってるもんなあ、車藤左(くるま・とうざ)と」。
これに対し、即座に反応したのが、東京から急遽駆けつけた池田一朗だった。彼は、こう言ったのだ――「だったら、読みはそのままで、字を変えましょう。たとえば、車藤三(くるま・とうざ)。読みは同じなんだから、撮り直しの必要もない。そのくせ、字が違うのだから、原作の主人公とは別人、という言い分も成り立つ。その上で、映画化に当っては原作とは全く異なる人物をモデルにキャラクター設定を行いました、ということにすればいい」。これを聞いて、プロデューサーも――「なるほど。で、その人物とは?」。これに対し、若き脚本家がしばし沈思黙考の上、答えた人物こそは――前田慶次郎。「前田慶次郎も車義照と同じく主家を出奔した後、上杉家に仕え、慶長出羽合戦に参加しています」。「前田慶次郎? 聞いたことがないな」。「海音寺潮五郎が『戦国風流武士』という小説に書いています」。「ほう、海音寺潮五郎が……。よし、わかった、それで行こう。映画『城取り』で石原裕次郎が演じる車藤三のモデルは前田慶次郎。いや、映画『城取り』で石原裕次郎が演じるのは前田慶次郎」。
かくて、石原プロは、以後、対外的なプロモーション等においては、映画『城取り』で石原裕次郎が演じるのは前田慶次郎である――という立場を取り続けた。そして、1989年、このアイデアの言い出しっぺである池田一朗改め隆慶一郎が前田慶次郎を主人公とする小説『一夢庵風流記』を上梓すると、そのあとがきでやはりこの〝ストーリイ〟を披露して見せた。すなわち――「戦後、映画の仕事をするようになり、その仕事の中で石原裕次郎のプロダクションで司馬遼太郎氏の原作で『城取り』のシナリオを書くことになった。この主人公が前田慶次郎だった」。一方、大のお気に入りだったという石原裕次郎(光文社文庫版『城をとる話』巻末の解説によれば、司馬遼太郎は「竜馬を演ってもらうんなら、裕ちゃんしかおらんな」とまで語っていたという)のために一肌脱ぎながら、結果的に思わぬ迷惑をかけることになった司馬遼太郎は(しかし、なんで石原裕次郎主演の映画のために書いた小説の主人公を車丹波守義照なんかにしましたかねえ。石原裕次郎が演じるにふさわしい人物はほかにもどれだけでもいただろうに。不思議だ……)、その後悔から生前は『城をとる話』を再刊することを許さなかった。その禁が解かれようやく再刊がなされたのは、司馬遼太郎の七回忌も明けた2002年のことだった……。
ということで、わが妄想癖もいよいよ「病膏肓に入る」……。
余談 ところで、司馬遼太郎は『城をとる話』でこんなことを書いているわけだけど――「以来徳川三百年のあいだ、乞食をする者はこの車善七の鑑札が要った。このため、諸国で車姓を名乗る家は他姓にあらため、こんにちでもひどく希少な姓になっている」。でも、その「ひどく希少な姓」を持ったある国民的ヒーローをワレワレは知っていますよね。つい昨年もデジタル技術を駆使した新作が公開されたばかりの。あの国民的ヒーローの出自って……?