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祝『日本ハードボイルド全集』刊行
(と言いつつこんなことを書いてしまう。許せ)

 2021年4月23日、『日本ハードボイルド全集』第1巻「死者だけが血を流す/淋しがりやのキング」が晴れて刊行となりました。いやー、めでたい。1人のハードボイルド・ファンとしてこの刊行に携わったすべての関係者に最大級の敬意を表するとともに、併せて謝意も表するものであります。ありがたいありがたい。

 ――と、ハードボイルド・ファンのはしくれとして本全集の刊行開始にエールを送った上で……しかしだ、この第1巻「生島治郎集」に収録されている長編が『死者だけが血を流す』であることには、正直、疑問が。ここは素直に『追いつめる』で行くか、さもなくばデビュー作の『傷痕の街』とすべきではなかったか? また「鉄の棺」が収録されていないことにも疑問を覚える。初期生島作品の中でも最も硬質なハードボイルド・タッチを味わえるのはこの傑作中編ですよ。今、『日本ハードボイルド全集』と銘打ってこの日本の湿潤な風土にハードボイルドという「ドライな文学」を移植しようとした先人たちの業績を回顧しようとする時、その対象に「鉄の棺」が含まれないというのはありえない。「鉄の棺」は単に初期生島作品の中で最も硬質というだけではなく、日本人の手によって紡がれたハードボイルドの中でも最も硬質なハードボイルド・タッチを味わえる作品と言ってもいいくらいで、それがネグレクトされるというのはねえ……。仮にワタシが生島治郎を読んだことがないという若い読者に、だったらこれを読め、と1作だけ薦めるとするなら、迷わずに「鉄の棺」だな。

 もっとも、「鉄の棺」がとかく「感傷的」とされがちな生島ハードボイルドを代表しているかとなると、そうは言えないよなあ。そういう生島ハードボイルドの本質をも体現した代表作、ということで言うならば、『死者だけが血を流す』とともに表題作に挙げられている「淋しがりやのキング」になるんだろう。そうなると、収録長編が『傷痕の街』ではまずい、というのは理解できる。どちらも久須見健三作品となるので(さらに「チャイナタウン・ブルース」も入っている。うーん、「チャイナタウン・ブルース」も入れますか……)。だから、やっぱり『追いつめる』ですよ。ハードボイルド小説としてはじめて直木賞を受賞した画期的な作品。まさに日本ハードボイルドにとっての記念碑であり、金字塔。ちなみに、三好徹は生島治郎が亡くなった際、読売新聞に追悼文(2003年3月7日付け夕刊「生島治郎さんを悼む」)を寄稿し、その中で生島治郎の直木賞受賞を「〝偉業〟であった」と述べている。「というのは、彼のあと、わたし、陳舜臣、結城昌治、半村良とミステリー畑から直木賞を受ける作家が出たものの、全員その受賞作はミステリーではなかった。当時の選考委員にミステリーの理解者が少なかった(とわたしは思っている)という状況下で、生島だけが評価されたのだ」。こんなふうに同業者が特記するほどの出来事だったのだから、版元が「日本ハードボイルドの歴史を凝縮した全集」と自負する全集にその対象作品が収録されることがなかったのは、もはや1つの〝事件〟……?

 ということで、ここでもしワタシが『日本ハードボイルド全集』の編集委員だったら、という想定で第1巻「生島治郎集」の収録作品を選考するなら――

  • 追いつめる
  • 鉄の棺
  • 謀殺
  • 難民哀歌
  • 惨侠
  • 歯痛と決闘
  • 暗黒街道

 あえて久須見健三作品は外した。その代わり志田司郎作品が3作。これは、まあ、「志田司郎研究」なんてものを2本立てつづけに書いたばかりという事情も影響してはいるのだけれど、でもバランスは取れている。生島ハードボイルドの特徴を言い表すには例の「タフじゃなくては生きていけない。やさしくなくては、生きている資格はない」――というフィリップ・マーロウの名台詞を持ち出すのがいいと思うのだけれど、実際、生島治郎が生み出したヒーローたちは例外なくこの「タフ」と「やさしい」という相反する属性をオノレの中にコントロールの利かない〝虫〟として飼っており、「謀殺」は「タフ」という属性の、「難民哀歌」は「やさしい」という属性の格好の標本となっている。いささかアンビバレントな傾向を有する生島ハードボイルド全体の標本にもなると思うんだけどなあ……。それから「惨侠」は生島治郎には珍しい時代小説で、渡世人にあこがれて家を飛びだした百姓の小せがれが首尾よく国定忠治の子分になったものの、ほどなく半死半生の目に遭わされて赤城山から放り出されることになる顚末が一人称「おれ」で綴られている。初出は『小説NON』1990年5月号だそうですが、ワタシが読んだ日本文藝家協会編『平成二年度代表作時代小説』(光風社出版)では「作者のことば」としてフランスの「ミリュウ」(生島治郎は「身内」と書いて「ミリュウ」とルビを振っていますが、フランスの「裏社会」を「ミリュウ」とも呼ぶようで、そうした世界を描いた小説や映画も「ミリュウ」と呼ばれているらしい)の手法、視点を取り入れた「日本の『身内』小説」を試みたという創作意図が明かされており、その言葉の通り国定忠治の裏社会のボスとしての無慈悲さが際立つ作品となっている。また「歯痛と決闘」は上海の私立探偵・林愁介を主人公とする連作短編集『上海無宿』収録の1編で、こちらはネオ・ハードボイルドふうの風味が味わえる作品。ネオ・ハードボイルドの特徴は主人公が何らかの個人的問題(多くの場合はさほど深刻とも言えないような)を抱えていることだろうと思うのだけれど、この連作短編にもそんなネオ・ハードボイルドの特徴がよく表れている。「歯痛と決闘」の場合はその個人的問題がタイトルにもある「歯痛」ということになるわけだけれど、この1編がすぐれているのはそんなしょーもない悩みがちゃんとストーリーに活かされていること。そんな手練れの職人芸に酔いたい方にお薦め。そして最後の「暗黒街道」はマル暴のデカ・野守一造(通称「ヤモリ」)、元ショーガールで今は場末のバーのマダム・阿部舞子(通称「ダンス」)、ムエタイの心得がありながらアンダーグラウンドを嗅ぎまわってそのおこぼれに与って生きている岩切完二(通称「ラット」)の悪漢トリオを主人公とする連作短編集『暗黒街道』の表題作となっている1編。いわゆる「悪漢小説」ということになりますが、多分、この手のものを生島治郎が手がけるのは『悪人専用』以来では? で、スポーツニッポンに連載された『悪人専用』と違ってこちらは『週刊小説』に断続的に掲載されたもので、ページ数の関係もあってかいずれの作品もやや尻切れトンボという印象が拭えない。しかし、そうした欠点を補って余りある魅力があって、それが主役トリオのキャラ。もう立っている立っている。そして、四の五のリクツをコネ繰り回すこともなく、ただ悪事に勤しむ――という潔さが実に爽快で。こういうものを書けるってのは、よほどの「大人」ですよ。そういう意味では、自分は「大人」だと思う読者にお薦め、かな。

 それにしても、実際の『日本ハードボイルド全集』第1巻とは1編も被らないというのはなあ。別に狙ってやっているわけではないんだけどねえ……。

 ただ、この『日本ハードボイルド全集』は全巻、長編1+中短編という構成となることがアナウンスされており、第1巻ではその内の長編として『死者だけが血を流す』が選ばれたことに関してはそれなりの意義はある、とは思います。というのも、この異色の(とあえて言っておきましょう)ハードボイルドには主人公の造形や舞台の設定等にこの湿潤な日本の風土にハードボイルドを移植しようとして苦闘する生島治郎その人の姿を思い起させるようなところが多々あるので。これについては後ほど詳しく記したいと思いますが、そんな作品を「日本ハードボイルドの歴史を凝縮した全集」の第1巻に表題作として収載することにはそれなりの意義があるのは間違いないよね。また、出来だって決して悪いわけではない。じゃなきゃ『日本推理小説大系』に収録されたりこの『日本ハードボイルド全集』に収録されたりするわけがないもの。ただ、じゃあワタシが生島治郎を読んだことがないという若い読者に、だったらこれを読め、と言って『死者だけが血を流す』を薦めるかっていうと……まず薦めない。そうするのを躊躇わせるものが『死者だけが血を流す』にはある。それがなんなのか? ということを、以下、書いてみたい。

 まずはザックリとしたプロットを紹介することから始めよう。主人公の牧良一は中国からの引き揚げ者で、引き揚げ後は母の生れ故郷である富沢市(架空の市。一応、富山市と金沢市を掛けているんだろうね。ただ、戦災に遭っていないとか、街の真ん中を天野川という川が流れているとか説明されているので、ほぼ金沢市と見ていいでしょう)で伯父である牧喜一郎の家で養育された。しかし、華やかな外地で育った牧にとって「北陸の京都と呼ばれるその古い街」は決して住み心地の良いところとは言えなかった。「一年中のほとんどを長靴をはいて過ごすことになる」湿った気候風土、容易に他所者を受け入れようとしない因循な人間関係、そして日本の典型的な家父長然とした牧喜一郎による家族支配――。そうしたものに反発した牧は高校を卒業すると「十万円だけを持って」家を飛びだし、東京に出る。そして、「ありとあらゆるアルバイト」をやって学資を稼ぎ、大学にも進学した。しかし、卒業時は大不況の真っ只中で、なかなか就職先は見つからない。そんな中、ある飯場で起きたいざこざに飯場の代表として口を利いたことがきっかけとなって暴力団・常磐会に出入りするように。そして「いつの間にか」若い者頭になっていた。そんな中、常磐会は北陸に進出することになる。この際、北陸の富沢市出身という理由でその先兵として送り込まれることになったのが牧。早速、地元やくざの資金源となっているパチンコ業界のおえら方との会談に臨んだ牧はそこで思いかけない人物に遭遇することになる。伯父の牧喜一郎だった。牧喜一郎は市議会議長として権勢を振るう一方、富沢市のあらゆる名誉職といくつかの会社の顧問を兼務しており、パチンコ業界に対しても絶大な影響力を誇っていたのだ。この時も甘い蜜の香りを嗅ぎつけてしゃしゃり出てきたわけだけれど、しかし伯父との関係を絶ったはずの牧にとってその交渉相手となることは耐えられるものではない。「あんたはこの会合に顔を出し、また政治資金のツルにでもするつもりだろうが、そうはいきませんよ。あんたがこの話し合いにからんでいるなら、ぼくは手を引く」。そう言ってさっさとその場を立ち去ってしまうのだ、常磐会の大幹部が止めるのも聞かず……。こうして常磐会との関係も絶った牧はその足で牧喜一郎の政敵と目される進藤羚之介を訪ねる。かねてから牧は進藤の評判を耳にしていて、彼が小耳にはさんだ噂話によれば進藤は富沢市議会を永年に渡って壟断してきた牧喜一郎に果敢に戦いを挑んでいるというのだ。そんな進藤に興味を覚えた牧は自分の目でその人物を見きわめてやろうと訪ねたわけだが、当の進藤は牧喜一郎など歯牙にもかけていない様子。進藤によれば、牧喜一郎は「この地方の政界で一生を終る人だ」。それに対し、自分はもっと上をめざしていると言う。そんな進藤から牧は思いもかけない提案を受ける。「どうだね、きみ。わたしのところで働いてみないか」。つまり、自分の秘書にならないかというのだ。「え、ぼくはヤクザですよ」。「しかし、もうクビになったんだろう?」。まあ、そんなやりとりがあって、とりあえずその場は「もう一晩考えさせて下さい」と返事を保留するものの、その時点で牧は進藤の秘書になることを「八分通り決心している自分に気がついていた」。それほど彼の目に映った進藤羚之介という人物は魅力的だった。まあ、進藤が牧喜一郎を歯牙にもかけていない、というのが彼が進藤に惹かれた理由でもあるんだろうな。で、進藤との〝面接〟を終えた牧は進藤邸を退出するわけだけれど、そんな彼を待ち受けていた男がいた。牧に弟分として仕えていた梶村安吉だった。常磐会に三行半を突きつけるかたちになった牧に常磐会が放った鉄砲玉が安吉だったのだ。「これでもおれはやくざのはしくれだ。どうせ、かないっこなくても、兄貴をここで刺さなくちゃ、弟分として仲間に顔を合わせられねえ」。そう言ってドスを腰だめにして突進してく安吉を牧は右肩ではね上げると同時にドスを持った手を掴んで揉み合う内に……。呻く安吉。そして、「兄貴、腕はたしかだな」。その腹からは黒い血が(夜なので血は黒く見える)とめどなく流れ出していた……。ちなみに『死者だけが血を流す』というタイトルは直接的にはこの場面に由来する。生き残ったものが負った傷(右肩ではね上げた時に負った切り傷)は時が経てば癒える。しかし、死んだものはいつまでも生き残ったものの記憶の中で血を流しつづける……、そんなような意味。ともあれ、こうして牧はたったさっきまで自分に仕えていた弟分を殺めることとなったわけだけれど、その後に行われることとなった裁判は意外な展開を見せることとなる。なんと進藤が牧を「暴力団にただ一人で立ち向かう英雄」であると持ち上げるキャンペーンを繰り広げ、それに乗せられた世論に引きずられたか、裁判官は牧の行為を正当防衛とする弁護側の主張を全面的に受け入れて無罪判決を下すのだ。その瞬間、特別弁護人として同席していた進藤は牧に走り寄り、2人はガッチリ握手。その姿を写した写真は翌日の新聞紙面を飾ることとなり、進藤も牧も一躍時の人に。そして、以後、2人は政治家と秘書としてまずは県議選を戦い、そして今、いよいよ進藤がめざしてきた衆議院選挙(と書かれているわけではないのだけれど、不信任案可決を受けての解散総選挙だとされているので衆院議員選挙以外にはありえない)に臨むことに。しかし、北陸という保守的な風土で繰り広げられる選挙はたまさかの人気くらいで押し切れるものではなく、選挙戦は壮絶な金権選挙の様相を呈して行く。そんな苛烈な戦いは遂にテロ事件を誘発。なんと、進藤邸が焼き討ちされ、進藤の妻・由美が命を落してしまうのだ。自分がそばにいながら――、そう悔む牧は単身、犯人を追って孤独な戦いを繰り広げていく……。

 えーと、「ザックリとしたプロット」という割には結構な長文となってしまったのだけれど、読んでもらえばわかるように、『死者だけが血を流す』というのはそんじょそこらのハードボイルドとはワケが違うのだ。主人公が大卒のインテリヤクザというだけでも相当にユニークで、なんで大学出てヤクザやってんの? ということをちゃんと説明する必要があるし、ヤクザだった人間が政治家の秘書になるというのもこれまた相当にぶっ飛んだ展開で、その経緯も説明する必要がある。その上でようやく主人公が向き合うことになる事件の話になるわけで――まあ、紹介者泣かせですよ。でも、これでワタシがこの作品を「異色のハードボイルド」と言った理由はわかってもらえたはず。要するに、紹介者が手を焼くくらいのプロットだということで。

 さて、ワタシはこの小説の主人公の造形や舞台の設定等にこの湿潤な日本の風土にハードボイルドを移植しようとして苦闘する生島治郎その人の姿を思い起させるようなところが多々あると書いたわけだけれど……もうわかりますよね。まず、主人公・牧良一の造形が相当程度、作者である生島治郎その人のプロフィールを反映している。生島治郎も上海からの引き揚げ者だし、引き揚げ後は一時期、母の郷里である石川県金沢市で暮していた。その後、父の就職に伴って横浜に転居した彼は旧制神奈川県立横浜第二中学校(1948年、新制の神奈川県立横浜第二高等学校に改組)を経て1951年、早稲田大学第一文学部英文学科に入学することとなるのだけれど、卒業時は「なべ底不況」と呼ばれる大不況の真っ只中で、空前の就職難に苦しみ、どうにか知り合いの美術評論家・植村鷹千代が主宰するデザイン事務所に拾ってもらった――という経緯は自伝的エッセイ『片翼だけの青春』にも記されている。しかし、牧良一の場合はそんな救いの神も現れず、結局、拾ってくれたのは暴力団・常磐会だったということだね。いずれにしても、牧良一の人物造形は相当程度、生島治郎その人のプロフィールを反映したものだと言っていい。そんな人物が「一年中のほとんどを長靴をはいて過ごすことになる」湿った気候風土、容易に他所者を受け入れようとしない因循な人間関係、そして日本の典型的な家父長然とした牧喜一郎の家族支配に反発して「長い草鞋を履いた」はずの郷里に見えない力に操られるように舞い戻ることとなり、単身、孤独な戦いを繰り広げていく――というわけだから、その姿そのものがこの湿潤な日本の風土にハードボイルドという「ドライな文学」を移植しようとして苦闘する生島治郎その人のすぐれたメタファーとなっている、というのはもう明らかですよね。当然、生島治郎はそうしたことを意図してやっている。そのために、わざわざこんな紹介者泣かせのプロットを練り上げた――と、そう考えていいでしょう。

 で、こうしたことを指摘した上でだ、ここでもう1つ、この件に関連して指摘しておきたいことがある。この『死者だけが血を流す』が刊行される2年前の1963年に刊行され、翌1964年度の日本推理作家協会賞に輝いた河野典生の『殺意という名の家畜』と本作にはいくつかの点で共通する要素が認められる。その1つはどちらも地方都市を舞台としていること。『死者だけが血を流す』が舞台とするのは「北陸の京都」とされている架空の都市・富沢市。一方、『殺意という名の家畜』の場合は四国の香川県が舞台となっている(当初は東京が舞台となっているものの、ちょうど半分あたりに達したところで香川県に舞台が移る)。そして、北陸が生島治郎にとってのある種のホームグラウンドであるのと同様、四国もまた河野典生にとってのホームグラウンド(河野典生は高知県高知市出身)。要するに『死者だけが血を流す』も『殺意という名の家畜』も自らがホームグラウンドとする地方を舞台に創作されたハードボイルド小説であるということであり、『死者だけが血を流す』がこの湿潤な日本の気候風土にハードボイルドという「ドライな文学」を移植しようとして苦闘する生島治郎その人のすぐれたメタファーとなっているのと同様、『殺意という名の家畜』も同じようなミッションの下に創作された作品であると見なすことができる。実際、河野典生は宝石社版『殺意という名の家畜』のあとがきでこう記している――「私はこの作品で、推理小説のジャンルの一つである正統派ハードボイルドを、我が国の風土の中に、定着させる試みをしてみました」。

 ね、だから、『死者だけが血を流す』も『殺意という名の家畜』もほぼ同様のミッションを担って創作されたものだと言っていい。ただ、結果はどうか? ワタシの見るところ、生島治郎は見事にミッションを達成して見せたと思う。それは、ほぼ全編(党公認の根回しのために上京する以外は。まあ、あそこはなくてもよかったかなあ……)、北陸というこの湿潤な日本的風土の中にあってもとりわけて湿潤な土地を舞台としながら、最後まで変わらぬハードボイルド・タッチを貫き通すことに成功していることによって明らか。しかし、河野典生の方は……。いや、『殺意という名の家畜』の場合も前半は独特の(正直、あのぶつ切れの文体はどうかと思うけどね)ハードボイルド・タッチを堪能することはできる。しかし、舞台が東京から四国に移った途端、雰囲気が一変してしまうのだ。たとえば、こんな描写があるのだけれど――

 その男は、塩田作業用の鍬を使って、まんべんなく海水の塩分を付着させるため、砂地を反転させる作業をくり返していた。しかし、遠くからの目には、肩を落として、何か考えにふけっているような姿勢に見えるのだった。
 傾いた陽が、男の長い影を砂に落としている。都会の喧騒になれた私の目には、男が、何か刑罰に従事しているように見えた。前方に見える瀬戸内海のやさしい静けさや、屋島の濃緑の曲線が、その中で孤独のうちに使役されている人間のいらだたしさを、助長しているように、思えるのである。

 実に印象深いシーン(まさに「シーン」としか言い様がない。それこそ映画の一場面のような)。でも、これってハードボイルド? どっちかというと、社会派では? それこそ、松本清張とか水上勉とか、あの辺。実際、四国編(と名付けられているわけではないんだけどね)には生活保護を受けながら暮している被害者(と目される女性)の母親なんてのも出てきて、これも完全に社会派のモチーフ。さらにですね、主人公(岡田晨一)は事件解明の手がかりを求めて四国に向うことになるのだけれど――「二十一時発の急行「瀬戸」は、十四番線に入っていて、一等の座席は完全にふさがっていた。今から指定券を手に入れるのは、不可能だったので、私は十二番線の臨時急行第二瀬戸へまわることにした」。なんとも細かい話で、もしかして急行「瀬戸」と臨時急行「第二瀬戸」を使ったトリックでも仕掛けようっての? そんな鉄道トリックのパスティーシュ(?)はさらに高じて――「犯人が十六日または十七日にそれを知ったとすれば、上京して、松井を殺害する時間は、列車時刻表のやっかいになるまでもなく、充分に残されていたのだ」。まあ、この辺になると河野典生も完全にパロディとしてやっているんだとは思うんだけれど――ただ、四国に舞台を移してからの『殺意という名の家畜』はとてもハードボイルドとは思えない、むしろ社会派ミステリもどきとでも呼びたいくらいですよ。つーか、いくらなんでもやりすぎだって、田舎で生活保護を受けながら暮している母親とか、一人で塩田を耕している老人とか。で、これは生島治郎が作り出した架空の市・富沢市に1字を献上する富山という因循な環境に暮らす1人のハードボイルド・ファンとしての信念を持って申し上げるのだけれど、「推理小説のジャンルの一つである正統派ハードボイルドを、我が国の風土の中に、定着させる試み」とは、こんないかにも「日本的」な情景をモチーフとして取り込むことではない。そんなのは社会派に任せておけばいいんだ。それよりもこの黴が蔓延るようにして人間の精神を蝕んでくる「風土」というやつの浸透圧に抗って、むしろ「外敵」としてソレに立ち向かうこと――、その中からはじめて「日本的ハードボイルド」は立ち上がってくるのだと――。

 そして、生島治郎の「風土」との向き合い方がまさにそのようなものだった。生島治郎という人はこの北陸の湿潤で因循な環境に対して敵意にも似た感情をその心底に持ちつづけた人だったと言っていい。たとえば、『死者だけが血を流す』にはこんな描写があるのだけれど――

 牧は眼をつぶった。
 おびえた眼つきをし、栄養失調で蒼くむくんだ頬を寒さに鳥肌たてながら歩いてゆく少年の姿がありありと目に浮ぶ。
 十三の時の牧自身の姿だった。
 その頃、彼は中学一年生で、冬の朝を憎んでいた。雪が降り積むと、市電は動かず、学校までの一里近い道を歩いていくより仕様がなかった。ひもじさに眼がくらみそうになりながら、穴のあいた靴をいたわりいたわり、白い朝を歩きつづけた。
 歩いていると、はじめはあてどない憤りが胸の中でくすぶりはじめ、やがて、その憤りさえ寒さに凍りついてしまうと、あとはただ一刻も早く学校へたどり着くことだけが願いだった。
 しかし、着いてみても、凍った身体を暖めるものがなにひとつあるわけではなかった。窓ガラスは破れ、雪まじりの風が容赦なく吹きこむ教室には、ストーヴも火鉢もない。生徒たちは、ふるえながら、机にすわっているだけだった。

 これとほぼ同様のことを生島治郎は自伝的エッセイ『片翼だけの青春』でも語っており、↑の記載はほとんど生島治郎その人の回想と言ってもいいくらい。そして、言うまでもなく生島治郎=牧良一がこの北陸の一都市で13歳の時に覚えた「あてどない憤り」とはただ単に慣れない雪国の気候に由来するものではない。それよりも「風土」としか呼びようのないもの。湿潤で因循で容易に他所者を受け入れようとしない、そんなこの土地特有の――。上海という国際都市で生れ育った生島治郎こと小泉太郎少年にとっては、この移住者を「旅の人」と呼んで自分たちと区別して扱う北陸という土地の「風土」になじめるはずがない。そして、そんな「風土」と「自分」との間の不和・軋轢をそのまま物語にぶち込んだからこそ『死者だけが血を流す』は紛うことのない「ハードボイルド」として屹立することができたのだ。『殺意という名の家畜』がついぞたどりつくことのできなかった地平で……。

 ――と、『死者だけが血を流す』と『殺意という名の家畜』という2編のハードボイルド小説をこんなふうに位置づけたところで、少しばかり妙なことを書きたい(これについては書こうかどうか迷ったのだけれど、ま、ヒマを持て余した人間というのはこんなことを考えてしまうものだというサンプルとして……?)。まず『死者だけが血を流す』にこんな下りがあるのだけれど――

 牧は電話を切った。ボックスから出ると、いきなり手をつないだアベックにぶつかった。二人だけの幸福を突然絶ち切られた男女は、非難の眼ざしで牧を眺めた。日頃はなんでもないそんな眼つきが、今はひどくこたえた。
「失礼」
 ぶっきらぼうにあやまると、牧は大またで舗道を歩いていった。ふいに、自分が群を離れた家畜のように感じられた。自分自身の意志で群をはなれながら、またその群に還りたがっている家畜だ。

 牧が自分を「群を離れた家畜」に喩えているわけだけれど……これ、どー思います? なんか、『殺意という名の家畜』を念頭にそれを模倣した記載のようにも思えるんだけれど。ただ、そう断定するのがためらわれる事実があって。とゆーか、センサク好きの好奇心を刺激する事実。実は当の『殺意という名の家畜』にはただの1度も「家畜」という言葉は出てこないんだよ。これはちゃんと確認したので間違いない。つーか、『殺意という名の家畜』というのは妙な小説でね、タイトルと内容が合っていない。最後まで読み通しても、一体なんでこの小説のタイトルが『殺意という名の家畜』であるのかが一向にわからない。要するに、タイトルが回収されていないわけですよ。その一方で『死者だけが血を流す』には↑のような記載があって、作中における牧良一の行動を考えるなら仮にこの小説のタイトルが『殺意という名の家畜』であったとしてもさして違和感を覚えることはないだろう。こうなるとですね、いろいろな妄想をめぐらしたくなるところではないか。ただ、まずは客観的な事実を提示しておくなら――生島治郎は作家に転身する前は早川書房の編集者だった。そんな彼が手がけた仕事に日本人作家の書き下ろしによる「日本ミステリ・シリーズ」がある。その1冊として刊行されたのが河野典生の『群青』。つまり、生島治郎は河野典生の担当編集者だったのだ。このことは角川文庫版『陽光の下、若者は死す』巻末の「年譜風あとがき」にもちゃんと記されている。しかし、この「日本ミステリ・シリーズ」を最後に生島治郎は早川書房を退社。当人の弁によればこのシリーズは「さまざまな推理小説的手法を使った、さまざまな推理小説のジャンルを日本の推理作家たちに切り拓いてもらうべく」企画したものだったというのだけれど「ハードボイルド小説だけは、日の目を見ることはなかった」(『名探偵ただいま逃亡中』所収「海外ミステリ小説が私の教科書だった」より)。どうやらこの時の状況は「笛吹けど踊らず」という有り様だったようで、自身も同シリーズから『風は故郷に向う』を出している三好徹によれば「編集者小泉太郎がいかに問いて回っても、本気でやってみようという作家はいなかった」(「生島治郎さんを悼む」より)。だったらオレがやってらろう――と考えたというのが、まあ、いかにも生島治郎らしいかなと。ちなみに、この時の心境を「この日本では不毛と称されているジャンルを自ら開拓してみようという大望を抱き」云々と綴ったエッセイもあるらしいのだけれど、残念ながら現物にはお目にかかれていない。講談社文庫版『傷痕の街』の解説でその一節を引用しておられる権田萬治氏にもメールで問い合わせたのだけれど、確認するには至らず。どなかたご存知の方はいらっしゃいませんかねえ。権田氏はエッセイのタイトルを「遠く果しない目的に向って」とされているのだけれど……。ともあれ、こうして編集者から実作者に転じた生島治郎が第1作として世に問うたのが『傷痕の街』(1964年)であり、第2作が『死者だけが血を流す』(1965年)だったわけだけれど……一方、河野典生が「推理小説のジャンルの一つである正統派ハードボイルドを、我が国の風土の中に、定着させる」との野心を胸に『殺意という名の家畜』を世に問うたのはちょうど生島治郎が早川書房を退社した1963年。この時系列の妙が、なんとも……ということで、こっからは純然たる妄想ということになるわけだけれど、おそらく生島治郎は早川書房を退社する時点で既に第1作の『傷痕の街』はもとより第2作の『死者だけが血を流す』の構想も練り上げていたのでは? 安月給(なんでも初任給は8000円だったとか)とはいえ、ミステリ分野では老舗と言ってもいい出版社にあって重要な地位を占めるまでになっていた彼がその身分を抛つ以上、よほどの準備はしていたはず。一方の河野典生は上述「年譜風あとがき」で「文体の確立に、もっとも苦心した」と記すなど、『殺意という名の家畜』を生み出すまでには相当の苦労があった様子。ことによると同作の執筆をめぐってかつての担当編集者である生島治郎に相談したこともあったのでは? さらには、なかなか良いタイトルが思い浮かばなくて――と、苦しい胸の内を明かしたり。それに対し、生島治郎は、だったら『殺意という名の家畜』ってのはどうだい? 一応、今書いている『傷痕の街』の次に書こうと思っている小説のタイトルとして用意したものなんだが、もう1案あってな。自分としてはそっちの方も悪くないと思っている。とはいえ、『殺意という名の家畜』も捨てがたい。なんなら、お前、使ってくれよ。へえ、『殺意という名の家畜』ですか。いいですねえ……。

 ――というような会話があった、というのは、筆者の全くの妄想なので、良い子の皆は真に受けないように(笑)。さて、既にここまでで相当の長文になってしまいましたが、ここまで読んだ限りではワタシがなぜ生島治郎を読んだことがないという若い読者に、だったらこれを読め、と言って『死者だけが血を流す』を薦めるかっていうと、まず薦めない――と言うのかが理解できないはず。ほとんど薦めてるようなものなのに? それは確かにその通りで、ワタシとしても薦めたいのはやまやまなのだ。だけど、そうするのを躊躇わせるものが『死者だけが血を流す』にはある。それがなんなのか? ということを、いよいよ明かすことにしましょう。それは、この小説が「地方都市の腐敗した選挙戦を冷徹に描く」(カバー裏)ものでありながら、その「腐敗した選挙戦」なるものの描写がただのポンチ絵に堕しているというほとんど致命的と言ってもいいような欠陥を抱えているため。たとえば、こんな場面があるのだけれど――

 そこで進藤は、にやりと笑い、前にのりだすと前島のひざをたたいた。
「選挙は勝てば官軍よ、前島さん。当選すれば、当の連中と手をにぎるぐらい訳はない。また、ここの連中がどうさわごうと、当選してからのわしの身柄は上野さんが預ってくれる。その話合いはついとるんや。その証拠に……」
 と云って、進藤が牧の方へふりかえり合図をすると、牧は手許にひき寄せたボストンバックから紙包みを出して、進藤に渡した。進藤は紙包みをやぶり、札束を畳の上へ投げだした。
「これは上野さんからの差し入れや。これであんたたちも後のことは心配ないやろ」
 しかし、前島はまだ不安の色をかくさなかった。
「まあ、その戦術は効果があると思いますわ。けれども、選挙はこれだけの金(タマ)ではやれんでしょう。公認がとれなければ、金(タマ)を出してくれる人もおらんし、とても、あの遠井には太刀討ちできんぞね」
「そうです。この二日ばかり、市の在の方へ由美さんと一緒に歩いてみたんやけど、遠井はもうずい分派手に手をうってますわ。やれ温泉旅行だ、お祭りの寄附だと云うて、金をばらまいとる。この辺の農家じゃ、みんなが遠井が配った手ぬぐいをぶらさげて畑へでとるぐらいですわ。先生、これはよっぽど腹をすえてかからんと、えらいことになりますぞね」
 田辺も額に汗をにじませながら強調した。

 対立陣営(遠井派。ちなみに、遠井はトルコ風呂の建設で大儲けした成り上がりとされている)が派手にカネをばらまいて有権者の買収を図っている――。そういう選挙の実態が明かされているわけだけれど……しかし、実際のところ、カネで票が買えるものだろうか? カネで票田(地盤)は買えるかもしれない。でも、カネで票は買えないのでは? 例の前法務大臣が関った選挙違反事件でもカネを配った相手は地元の県議や市議たち。これはつまり票田(地盤)を買おうとしたわけだよね。なんでもこうした行為は「地盤涵養行為」として公職選挙法における買収行為とは分けて考えられる傾向があるらしい。しかし、ねえ、20万、30万というカネを配ってそれが「地盤涵養行為」としてお咎めを受けないとしたら、公職選挙法なんて全くのザル法だと言わざるを得ませんよ。幸いにも、と言うべきか、前法務大臣の事件の場合は受けとった側が(検察側との事実上の司法取引の結果として?)選挙目当ての買収という認識があったと供述したことなどが決め手となって「地盤涵養行為」との言い逃れは通用しない流れとはなっているようなんだけれど……ともあれ、あれほどの大規模な選挙違反事件であっても、カネは票田を買うために使われたのであって、直接、票を買うために使われたわけではない。しかし、『死者だけが血を流す』では票を買うために使われている……。

 また『死者だけが血を流す』には加倉井弘之という選挙参謀が登場するのだけれど、この選挙参謀が繰り出すのが怪文書を駆使した選挙戦術。それも、まあ、田舎の選挙ではあることではありましょうが(昨年、当地で行われた知事選でもあった)……ここはあえてこの選挙参謀に少しばかりダメ出ししておきましょう(笑)。そもそも北陸のような保守的な地盤にあって最も有効な選挙戦術は何か? それは、徹底的な「ドブ板選挙」ですよ。とにかく、歩いて歩いて歩きまわる。そして、握手握手握手ですよ。確か田中角栄の言葉だったと思いますが、政治の世界には「握手した人数以上の票は出ない」という格言があるとか。その田中角栄の愛弟子と目される小沢一郎サンが民主党の代表や幹事長だった時代に指南した選挙戦術もそうしたベタなドブ板戦術だった。そして、とにもかくにも彼はそうした選挙戦術を駆使して一度は自民党を倒したわけだよね。いかに「ドブ板選挙」が有効かということですよ(そういえば、選挙中はわが家の前の路地にも民主党の若い候補者が入り込んできて、小沢サンに教えられたとおり全力ダッシュで住民の元に駆け寄っていたっけ。そのタッタッタッとスニーカーがアスファルトを蹴る音が家の中にいても聞こえたもんだ……)。そして、それこそがこの国の選挙のリアリズムであると考えた時、『死者だけが血を流す』に描かれた選挙戦なんてもうポンチ絵にしか見えませんよ。

 さらに言えばだ、進藤が戦っているのが衆院議員選挙だというのがねえ……。実は進藤羚之介は元を辿れば藩の家老だったという家柄の現当主ということになっていて、自宅は重要文化財にも指定されている。しかし、進藤は選挙資金を手当するために代々伝わる書画骨董を処分してしまうだけではなく、遂には自宅の売却まで決断する。これがねえ……。確かに、男が一世一大の大勝負に出ようという時にはそういうことだってするかもしれない。しかし、彼が戦っているのはたかが(とあえて言いましょう)衆院議員選挙ですよ。衆院議員選挙の「北陸A選挙区」(ちなみに定数3らしい)を一新人候補として戦っているだけ。仮に当選したって、当分は何の意思決定にも参加できない陣笠議員。仕事といえば、対立政党の議員の演説にヤジを飛ばす「ヤジ要員」だったり、委員会採決に当たって挙手することが仕事の「挙手要員」ですよ(ちなみに、こうした仕事を任務とするぺーぺー議員を称して「陣笠議員」と呼んだのはかの中江兆民だそうです。で、ちなみのちなみで書いておくなら、中江兆民は藩の留学生として長崎にいた頃、坂本龍馬と親交を結んでいる。なんでも龍馬に頼まれてたばこを買いに走ったこともあったらしい。言うならば、中江兆民は坂本龍馬に師事していた。そして、そんな中江兆民に師事していたのがかの幸徳秋水。つまり坂本龍馬→中江兆民→幸徳秋水という思想の流れがあるわけだけれど、そんなことを自称「令和の坂本龍馬」たちは知っているんでしょうかねえ……?)。そんなものになるために重文指定された自宅を売り払うなんて……。これが、たとえば、富沢市の市長選挙とかだったら、話はずいぶん違ってくるんだけどね。一応は土地のボスを決める選挙なので、男が乾坤一擲の大勝負を懸ける戦いとは言えるだろう。また、市長選挙とした方が舞台を「富沢市」という架空の都市にした意義もあろうというもの。言うならば、富沢市ってポイズンヴィルなんだよ。ダシール・ハメットの『血の収穫』は『死者だけが血を流す』と同じく架空の都市であるポイズンヴィルを舞台とした小説なのだけれど、物語がほぼその中で完結しているという明確な特徴を持っている。途中、サンフランシスコにあるコンチネンタル探偵社の支社から応援のオプが駆けつけたりはするものの、場面がサンフランシスコに移ることはない。物語空間は完全にポイズンヴィルに限定されているのだ。物語のために設定された架空の都市とは1つの実験空間。である以上、全てはその中で完結すべき。そして、そんな1つの閉じられた実験空間である架空の都市で繰り広げられる市長選挙とはその限られた空間における頂上決戦、ということになる。それがいかに熾烈なものとなるかは『血の収穫』を読めば明らか。買収合戦がエスカレートして行って、遂には自宅を叩き売ってでも――ということにだってなるかもしれない。そして、最後はとんでもない奇策に手を染めることにも……。

 ――と、ワタシが『死者だけが血を流す』を推せない理由を縷々書き綴ってきたのだけれど、これを一言で表すならば「政治が書けていない」ということになるのかな(同じような言い回しとして「女が書けていない」とか「人間が書けていない」というのがある。そのバリエーションとお考えいただければ)。で、実はこれは『死者だけが血を流す』に限った話ではないんだよね。ハッキリ言って、ワタシは政治なり政治家なりというものが納得のできるかたちで書き込まれたハードボイルド小説を読んだことがない。『殺意という名の家畜』にもI市の市長というのが出てくるのだけれど、「尾高勝栄は、地元選出の保守党議員が高校大学を通じての同窓だったため、保守党の資金援助の面から千葉派の切り崩しに成功した。そして、前哨戦に約一千万円を投じて、連日の招宴をくり返した」。どうやらハードボイルド小説においては政治家というのは派手にカネをばらまいて票を買うものと相場が決まっているらしい。また原尞の『そして夜は甦る』にもいささかげんなりさせられる政治家が出てくる。こちらは、富沢市だとかI市だとかいった架空の都市ではなく、東京都が舞台で、その政治家というのも東京都知事なんだけれど、これがまあ誰が読んでも実在の元東京都知事Iを思い浮かべるであろうベタな造形で、同じく実在の映画俳優を思い起させる弟と組んで票目当ての派手なパフォーマンスを仕掛ける。しかし、そのパフォーマンスというのがもう『西部警察』かよ⁉ というようなちゃちなシロモノで――「確かに銃声はした。あなたは転倒した。晃司氏はあなたを抱き起こした。あなたのシャツの胸は赤く染まっていた。現場から不審な車は逃走した――確実なのはそれだけです。あなたの胸部に銃弾が撃ち込まれるところを眼にした者はいない。俳優の晃司氏、監督の滝沢氏、小道具係だった鄭允泓、それにあなた自身も演出や演技のことは熟知しておられる。これだけ映画のスタッフがそろっていれば、あの程度のトリックは何とでもなったはずだ」。しかし、仮にも東京都知事選挙ですよ。常にマスコミの眼が注がれる中でそんな見え透いたトリックが通用するかってんだ。一体、政治だとか選挙だとかというものをどー考えてんだ……。

 しかし、こんなことを書いていたら、急に不安になってきたな。今後、刊行される『日本ハードボイルド全集』(全7巻)の収録作品に政治家が出てくる作品ってないよね? その手の作品がかくも多いというのは紛れもない事実だけれど、そんな作品ばかり集めて団塊世代のルサンチマンをさらけ出す結果に終わることだけはぜひとも避けていただきたく……。