永井路子の『炎環』を読んだ。ついヒト月ほど前には島内透の『春の口笛は殺しを呼ぶ』を読んでいた男がなんでこんなことになるのか、自分でも呆れているところではあるんだけれど……最も楽しめたのは、やっぱり「覇樹」だね。なるほど、北条義時というのはこういう男だったのかと。確かに小栗旬には向いているかもしれない。終始、「四郎」という輩行名で呼ばれていることに伴う頼りなさと、そんな人物が徐々に本性を露にして行ってついに覚醒に至る瞬間の鮮かさ。小栗旬なら十分に演じられるだろう。それと、三浦義村もなかなかだよねえ。この一筋縄では行かない権謀家を山本耕史が演じると思うとゾクゾクする。悪左府頼長以来の当たり役となることは間違いない。ちなみに、永井路子は『つわものの賦』で義村――つーか、義時と義村だな、実態としては――を評して「権謀――といって悪ければ緻密な計画性に富み、冷静かつ大胆、およそ乱世の雄たる資格をあますところなく備えたこの男は、武力に訴えることなく、終始北条一族を、振廻しつづけた。政治家的資質とスケールにおいて僅かに上回ると思われる北条義時すら足を掬われかけたこともしばしばだった」。そんなスケールの大きな2人のつわものがバチバチに火花を散らせる「覇樹」は完璧なるピカレスク小説と言っていい。正直、こういうものを予想していたわけではないんだけれど、でもこういうものを読みたかったんだ……。
ただ、そんな「覇樹」ではあるんだけどね、実朝暗殺事件の絵解きはねえ……。実朝暗殺事件というのは、検索でこの記事にたどりついた方には今さら説明するまでもないことでしょうが、そうじゃない方もいるだろうと思うので一応、説明しておくと、建保7年(1219年)1月27日、鎌倉幕府3代将軍・源実朝が右大臣昇任を祝う鶴岡八幡宮拝賀の最中、同宮の別当で2代将軍・源頼家の次男(または三男)の公暁(読みは「くぎょう」ではなく「こうき(ぎ)ょう」が正しいらしい。確かに幕末の東叡大王・公現も読みは「こうげん」)に襲われ、首級を挙げられたという事件。『吾妻鏡』によれば、その際、公暁は「別当阿闍梨公暁、父の敵を討ち取ったり(別当阿闍梨公暁討㆓父敵㆒)」と叫んだとされ、さらに義村に使者を遣わして「我こそは東国の長である。速やかに計らうべし(吾専当東関之長。早可㆑廻㆓計議㆒)」と伝えたという。それに対し義村は「お迎えの使者を差し上げます(可㆑献㆓御迎兵士㆒)」と答えつつ、義時に事態を急報。義時はためらうことなく誅殺すべしと下知。義村は手練れの長尾定景を差し向けて討ち取った――というのが、事件の凡の流れ。で、「覇樹」ではこの事件の黒幕が三浦義村だったとしているんだよね。なかなかに挑戦的な仮説で、公暁と義村の関係(義村は公暁の乳母夫だったとされる)など、それなりに説得力のあるデータも示されている。ただ、仮に義村がこの事件の黒幕だったとしたら、当然、彼なりの思惑があってコトを仕掛けたわけだけれど、その思惑って? 実朝に恨みを抱く公暁に実朝を討たせ、後継の鎌倉殿に据えた上で自らはその後見人として実権を握る? いやいや、そんなのムリでしょう。衆人環視の中で将軍の首を刎ねた人物がその後継に座るなんて、できるはずがない。そんなの、鎌倉の御家人たちが許しませんよ。じゃあ、義村の思惑って? これについては、ハッキリとは記されていないのだけれど、次のシーンを読めば大体の所はわかる。その日、義村は所労と称して私邸に閉じこもっていた(義村が拝賀を欠席していたことは『吾妻鏡』で裏付けられる)。そして、ちょうど義時が事件の一報を受けとったその頃、彼もまた一報を受けとっていた――
そしてまさにそのとき……。
御所の東にある三浦義村の館でも、この日の惨劇の舞台に遂に登場しなかった義村そのひとが、大鎧に身を固め、飛雪の舞う庭に目を据えていたのである。
――将軍家御落命!
第一報は逸早く入った。
――よし!
義村の潮焼けした頬を大きく肯いた。
――社頭は大混乱。
――よし!
――別当は無事鶴岡を立退かれた模様。
――よし!
が、彼はまだ動かずに一つの報せを待っていた。供奉の侍と公暁配下の僧徒の小ぜりあいなどは逐一伝わって来たが、彼の待っている報せはなかなか入って来ない。遂に待切れずに彼は尋ねた。
――四郎はどうした。北条四郎は……
――四郎の安否はわかりません。
続いてまた報せが来た。
――四郎は……小町の館に居ります。拝賀の始まる直前、ひそかに座をはずしてしまったらしうございます。四郎と思ったのは仲章の死体でした。
「う……む、む」
義村は鎧の草摺を掴んで唸った。
賭けは敗れたのである。
なんと、義村はひたすら「一つの報せ」が届くのを待っていたというのだ。その「一つの報せ」とは、四郎こと北条義時の安否。有り体に言えば、公暁が首尾よく義時を討ち果たしたという報せ……。ということで、義村の真の狙いは、当日、「前駈」(『吾妻鏡』建保7年正月27日の条に鶴岡八幡宮までの行列の陣容が記されており、「前駈」として列挙された20人の中に北条義時を指す「右京権大夫義時朝臣」という名前が見える。なお、三浦義村は自身の代役として息子を出席させていたようで、実朝が乗った牛車を意味する「檳榔車」に次いで列挙された10人の「随兵」の中に「三浦小太郎時(朝)村」という名前が見える。この「随兵」というのは、言うならばSPのようなものだと思うのだけれど、10人もSPが付いていながら、なぜやすやすとテロリストの接近を許したのか? 実は『吾妻鏡』には事件発生後の描写としてこんなことが記されている――「其後随兵等雖㆑馳㆓駕于宮中㆒。(略)無㆑所覔㆓讎敵㆒」。つまり、事件発生後、直ちに随兵らが駆けつけたものの、既に「讎敵(仇敵)」の姿は見当たらなかったというのだ。どうやら、事件発生当時、随兵らは実朝の側にはいなかったらしい。神事の場には、軍人は入れなかったということか? そして、まさにその「警備の弱点」をテロリストに狙われた、ということになるようだ。ただ、いまいちわからんのは「随兵等雖馳㆓駕于宮中㆒」ですよ。この下り、五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』では「随兵らが馬で宮寺に駆けつけたが」とされているのだけれど、馬で駆けつけなければならないほど離れたところにいたらSPの用をなさんでしょう……)として将軍の側に控えているはずの義時を屠ることだった――と永井路子は言っているわけだね。とすると、公暁は、その目的のために利用されただけ、ということになる。次期将軍は貴方様だと吹きこんで実朝暗殺を唆しつつ、その血に汚れた手で同時に義時も殺すよう仕向ける――、こうして自らの手を汚すことなく最大の政敵を葬る……。
うーん、悪いやつだ(笑)。ただ、この彼の思惑はすんでのところで失敗する。引用文中にもあるように、義時はコトが起きる直前、ひそかに座をはずしてしまっていたので(これについては後ほど改めて)。そして、公暁は源仲章なる人物を義時と誤認して斬り殺してしまう。これじゃあ、ミッションは失敗と言っていい――ミッションの真の目的が義時暗殺だったとするならね。さて、そう悟った瞬間、義村はどうしたか? 態度を一転させるのだ。何食わぬ顔で義時に事件を通報し、公暁を成敗する側に回る。しかし、義時は義時でそんなのすべてお見通し。すべて見通した上で、こちらも知らぬ顔を通している。で、表面上は将軍暗殺という非常事態の処理に協力して当たっているというね。そんな2人を小栗旬と山本耕史が演じるのかと思うと、もうね……。
――と、確かに魅力的な絵解きではあるのだけれど、ただミステリーの絵解きとした場合にはどうか? これで読者を納得させられるか? させられないだろうなあ。だって、あまりにもリスクが高すぎるもの、三浦義村にとってね。もし公暁がしくじって生きたまま捕えられ背後関係をゲロしたらひとたまりもないじゃないか。義村ほどの男がそんな危ない橋を渡るだろうか? しかもだ、義村からするならば公暁って〝掌中の珠〟なんじゃないの? もし本当に彼が公暁の乳母夫だったのなら(実はこの点については異論も投げかけられている。高橋秀樹著『三浦一族の研究』という本では諸史料の記載を検討した上で「義村が公暁の養育責任者だったという記事にはなんらかの混乱があるような気がしてならない」。というのも、史料を読み込むと、義村は公暁ではなく、その異母弟である禅暁の乳母夫であった可能性が見えてくるのだ。ま、あまりにもややこしい話なので、ここではこれ以上踏み込みませんが、一応、そういう異論が投げかけられているということで)。だって、どれだけでも使いようがあるじゃないか。なにしろ、公暁というのは2代将軍・源頼家の実の子なんだから。三浦義村ほどの男ならば、いずれ公暁を奉じて一勝負することだって可能なはず。それこそ、公暁を将軍の座に就け、自分がその後見人として実権を握るというね。そのために彼が暗躍するということはあっても、当の公暁に手を汚させてどーすんのよ。喩えて言うならばだ、赤川大膳が天一坊に将軍吉宗を暗殺させるようとするようなもの。そんな愚かなことを義村ほどの男がするはずがない。義村にとっては、公暁という切り札を握っているだけで十分なアドバンテージで、それをこんなかたちで無駄遣いするようなことは決してしないだろう。三浦義村というのは呆れるほど冷静な状況判断のできる人物で、それは和田義盛の乱や承久の乱での対応に余すところなく表現されている(和田義盛の乱では同族の誼もあって固く同心を約束し、起請文まで書いたにもかかわらず、ただ闇雲にコトを急ぐばかりの従兄のふるまいに勝ち目がないと見たか、いざ挙兵となると一転して義時に通報という挙に出る。また承久の乱でも実の弟で検非違使として在京中だった胤義から決起を促す密書を受けとるものの、やはり義時に通報。ちなみに、永井路子は『つわものの賦』でこの行動を高く評価。「すこし極端な言い方をするならば、承久の乱の決定的瞬間はここにあると思う」として、「(この行動が)たとえ、彼らしい打算から出たとしても、私はこの処し方に、東国武士としての義村の大きな存在意義を感じる。東国武士にとって、この際何が必要か、何を守り、何と戦うべきか、彼の眼は歴史の流れを見誤まることはなかったのだ」。うん、だからね、昨今の「推し」ブームについて言うならば、決して今に始まった現象ではないわけで……)。であるならば、彼にとっての〝掌中の珠〟であるはずの人物に殺人というミッションを課すなんてことは。それは、目の肥えた探小読みを納得させられる絵解きではない。
じゃあ、どんな絵解きなら? これがねえ、なかなか……。まず考えられるのは、公暁の単独犯行説だよね。ハッキリ言っちゃえば、この人、逝っちゃってたでしょう。だって、凶行のあと、このお坊さんは実朝の首を持ち去り、食事の間も手放さなかったというんだから。明らかに精神状態がおかしくなっていた、そう見て間違いない。だから、これは狂気に駆られた男の暴発――、それがまずまず合理的な筋書きではあるのだけれど……ただ、これはダメなんだ。というのも、公暁単独犯行説とは相容れない事実があれやこれや。たとえば、ウィキペディアの「源実朝」によれば、事件当日の朝、大江広元(『鎌倉殿の13人』では栗原英雄が演じることになっている役。これもハマリ役だろうなあ)は「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」――と、主君に対し涙ながらに腹巻(今で言えば防刃ベストか?)の着用を求めたというんだ。へえ、と思って『吾妻鏡』で確認したところ、確かにそれを裏付ける記載がある――
及㆓御出立之期㆒。前大膳大夫入道参進申云。覚阿成人之後。未㆑知㆓涙之浮㆒㆑面。而今奉㆓昵近㆒之處。落涙難㆑禁是非㆓直也事㆒。定可㆑有㆓子細㆒歟。東大寺供養之日。任㆓右大将軍御出之例㆒。御束帯之㆘。可㆘令㆑着㆓腹巻㆒給㆖云云。
また、義時の挙動もおかしい。既に記したように、義時はこの日、参賀の御列に加わっていたものの、直前になって持ち場を離れているのだ。「覇樹」によるならば、彼は実朝の剣を捧持して側に控えていたものの、ふと一座の中に公暁の姿がないことに気がついた。彼の脳裏には、過ぐる夏、同じ鶴岡八幡宮で見た公暁の異様な姿が思い浮かんでいた。その公暁がいない。さらには、三浦義村も……。以下、「覇樹」の当該箇所より――
この日四郎は実朝の剣を捧持してその側近にあった。鶴岡の楼門の前の神橋のあたりで車を降りた実朝は、楼門から社殿まで隙間なく連ねられた篝火に、黒い束帯姿をくっきりと泛びあがらせなながら、雪を踏んで社殿前の石階を昇って行く。それに続いて石階を上りきった四郎は、ふと社殿の廻廊に押し並ぶ人々の顔を見た。山城行光等の奉行役、神官、僧官すべてこの前の通りに顔を揃えている。
が、その中に公暁の顔はなかった。夏の夕陽を避けようともせず、射るような瞳で実朝を追っていた公暁の姿を、瞬時、四郎は廻廊の燭の輝きの中に探すふうであった。が、あの異様な熱と異様な暗さを漂わせた公暁の俤はどこにもない。
定めの座についた四郎は静かにあたりを見廻した。傍らには五郎が控えていたが、三浦義村の顔は見えない。義村は所労だと言って随行を辞し、代りに長男小太郎を随兵に差出している。萌黄威の鎧を着た小太郎が、小桜威の鎧のわが子太郎泰時と並んでいたのを四郎は思い出していたのかもしれない。奥で小憩している実朝が着座して儀式が始まるまでにはほんのちょっと間があった。それぞれの座で緊張と軽いざわめきが混じりあっていたその時、ふと四郎は眉間を抑えた。
「如何なされました」
隣にいた随行のひとり、源仲章がそっと声をかけた。
「いや」
うつむいたまま四郎は答えた。
「冷えたとみえて気分がすぐれぬ。暫時休息して参る」
剣を、といって仲章に渡すと四郎は席を起った。まだ一座は静まってはいず、近くの人以外は、四郎の起ったのさえ気づいてはいなかった。儀式の装束を脱ぎすて、奥の局でちょっと横になった四郎が小町の館に戻ったのはそれから間もなくである。
椿事はその間に起った。
へえ、こういう場合でも「椿事」って言うのかあ。「椿事」ってもう少し軽い変事を指す言葉と思っていたけれど。それこそ、あの阪神タイガースが首位を独走しているというような……。ともあれ、こうして彼は直前になって凶行の場から姿を消しているわけだけれど、言うまでもなくこれも永井路子の創作ではない。裏付けとなる記述は『吾妻鏡』にちゃんとある。ちなみに、実朝の右大臣昇任を祝う拝賀という晴れの舞台を中座した理由については、事件後の2月8日の条として大倉薬師堂の戌神のお告げがあった、なんてことも記されている。なんとも言い訳がましい。いかにもウラがありそうな……。いずれにしても、彼は直前になって凶行の場から姿を消しているのだ。これはどう考えたって不自然で、こうしたあれやこれやの事実を繋ぎあわせるならば、実朝暗殺は決して突発的な出来事ではなかった――というのはほぼ間違いない。彼らは「知っていた」のだ。少なくとも、何かがありそうだという予感のようなものは皆一様に抱いていた。だから、その日の朝、広元は涙ながらに防刃ベストの着用を求めた。また義時は突然の体調不良を訴えてコトが起る直前に持ち場を離れた。さらに義村に至ってはあらかじめ所労と称して欠席を決め込んでいた……。
ということで、浮上してくるのが、御家人共謀説。言い出しっぺは五味文彦であるとされる。でもねえ、これもワタシは納得が行かないんだよね。理由は、義村黒幕説と同じ。鎌倉の御家人連中が共謀して実朝排除をめざすにしても、なぜその実行を公暁に托すのか? あまりにもリスクが高すぎる。もし公暁がしくじって生きたまま捕えられ背後関係をゲロしたらひとたまりもないというのは、義村黒幕説でも御家人共謀説でも同じ。仮に義時や義村が事前に共謀の上、実朝の排除を図るにしたってもっと確実な方法はどれだけでもあるだろう。それこそ毒殺という方法だってあっただろうし、「落馬」というテだってある。どういう「理由」だろうが、でっち上げようと思えば簡単だろう。ましてや公暁などという完全に逝っちゃってる男の手を借りなければならない理由なんてさらさらない。ただ、その一方で、鎌倉幕府の半公式記録である『吾妻鏡』が御家人共謀説を疑いたくなるような事実を書き留めているのもまた事実。確かに『吾妻鏡』には事実を曲げた「曲筆」が多いとは言われている。でもそれは幕府にとって都合の悪いことを当たり障りのないものに書き換えるという作業であって、これは逆だもん。さり気なく幕府要人の共謀を匂わせるという……。だから、むしろこれは「曲筆」というよりも『吾妻鏡』の編纂者(五味文彦は『吾妻鏡の方法』で太田時連や長井宗秀という名前を挙げている。太田時連は『鎌倉殿の13人』では小林隆が演じることになっている三善康信の子孫。また長井宗秀は大江広元の子孫。へえ、大江広元の子孫がねえ……)が思うところがあって事の真相が浮き彫になるような記述をこっそりと埋め込んでおいた、と考えた方が。たとえばだ、〝彼〟の心中に最も大きなカタマリとしてあったのは実朝への同情。相手は、他でもない、その歌才を高く評価された源実朝なのだから。小林秀雄や吉本隆明のような後代の文人がそうだったように、一人の文官として実朝に寄せる思いは人一倍だったに違いない。そんな〝彼〟は公暁の単独犯行説(これが鎌倉幕府の公式見解ということになるのかな?)には納得していなかった。この事件には必ずや裏がある。それこそは義時と義村という当代屈指の権謀家2人が共謀して実朝を排除したというストーリー。そのヒントを『吾妻鏡』のそこかしこに埋め込んでおいた……。
うん、あり得るな。そうなると、やっぱり共謀説かねえ……。ただ、義村黒幕説だろうが御家人共謀説だろうが、なぜ実行犯が公暁なのか? というそもそもの疑問はクリアできていない。ここをクリアしないことにはいかなる説も説得力を持ちえない。源実朝暗殺の真相を描いた歴史考証ミステリー『実朝暗殺考』が読者の支持を得られるかどうかは偏にこの一点にかかっていると言っても過言ではない。ここは探小読みとしてのプライドを賭けて(?)この難題に挑むなら……たとえばだ、計画は公暁が立てた。しかし、事前に義村には伝えていた(ここでは義村は公暁の乳母夫だったという定説を採用する)。義村は熟考の上、計画を義時や広元に伝えた(これは、和田合戦や承久の乱に際しての義村の行動パターンと完全に一致する)。その上で、公暁の野望をよしとはしないものの(つまり、公暁を実朝の後継の鎌倉殿とはしない)、五味文彦が記すような理由(従来考えられていたように実朝は北条氏の傀儡ではなく、むしろ将軍親裁を進めつつあった、というのが五味説。さらに実朝は朝廷との連携も打ち出していた。そんな実朝の動きに危機感を抱いた義時と義村は手を結んで実朝とその近臣にして都とのパイプ役でもある源仲章の排除を図った――というのが五味氏が『吾妻鏡の方法』で提示している実朝暗殺事件の絵解き)であえて計画は阻止しないことで一決した――ということならばどうか? もちろん、事が成った暁には公暁は始末するという合意の下。
義時「公暁はどうする」
義村「オレが片づける」
沈欝な表情でそのやりとりを聞いている広元……。