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三浦兄弟物語
(といっても「泰年」と「知良」ではない)

 『承久記』を読んでいて思ったんだけどね、三浦兄弟ってのはなかなかですよ。『鎌倉殿の13人』では権謀術数に長けた兄の三浦義村の方が準主役級でフィーチャーされることになりそうだけれど、弟の三浦胤義の方もスルーするのは惜しい。なにしろ、承久の乱では院の御所で最後の一戦をと目論むものの、なんと後鳥羽院に御所の門を閉じられて入れてもらえない。まるで『平清盛』で山本耕史が演じた悪左府頼長の末路を見るかのよう。しかも、そこからがまた……。御所への入門を断られた胤義は王城鎮護の東の要である東寺に立て篭もることになるのだけれど、『承久記』慈光寺本によれば、この際、兄との対面が実現している。しかし、胤義が「胤義思ヘバ口惜ヤ。(略)今唯人ガマシク、アレニテ自害セント思ツレドモ、和殿ニ見参セントテ参テ候ナリ」と熱く呼びかけるものの、義村は「シレ者ニカケ合テ無益ナリ」。そして、さっさとその場を立ち去ってしまうってんだから、こちらはまるで『真田丸』で山本耕史が演じた石田治部。もうね、どっちも山本耕史のために当て書きされたような役。実際に山本耕史が『鎌倉殿の13人』で演じるのは義村の方ですが、あの繊細な顔で冷然と言い放つんだろうな、「シレ者ニカケ合テ無益ナリ」……。そんなこんなで、三浦兄弟ってのはなかなかですよ。ただ、そう思うにつけても、2人はなぜ袂を分かつことになったのだろう? と。承久の乱から遡ること7年前に起きた和田義盛の乱(2人にとっては従兄に当たる和田義盛が北条打倒をめざして起こした乱)では2人は共同歩調をとっていたことが『吾妻鏡』で裏付けられる(一度は起請文まで書いて同心を誓いながら、いざ挙兵となるや「相議して(兄弟各相議云)」コトを北条義時に通報するという裏切り行為。もっとも、この時、胤義が兄に従ったのは本意だったのかどうか。むしろ、心ならずも、というところがあったのでは? というのが、まあ、本稿の結論でもあるのだけれど……)。一方、いわゆる「黒幕」であるかどうかは別として義村が重要な役割を演じていたことだけは間違いない実朝暗殺事件においては胤義の関与をうかがわせる痕跡は認められない。あるいはこの頃には彼らの関係には既に何らかの変化が生じていたのだろうか? いずれにしても、2人の間にはなんらかの確執が存在した、それは間違いない。

 それを裏付ける記載は『承久記』のそこかしこに認められる。中でもワタシが目を引かれたのは↓。三浦胤義は後鳥羽上皇の近臣である藤原秀康に誘われて挙兵計画(あえて「倒幕計画」ではなく「挙兵計画」としておきます。理由については「承久の乱#承久の乱は討幕目的であったのか?」参照。しかし、甘いよなあ。第一、義時だけを除くってのは倒幕よりも難易度が高い。いわゆる「相手の党に手を突っ込む」というやつで、昔の小沢一郎とか野中広務みたいな「剛腕」にして初めて可能なスゴ技。まあ、確かにこの時、藤原秀康はそれに類することをやろうとしたんだろうけどね)に参加することになるのだけれど、その際、秀康から「いかにして義時を討つべきか(如何ニシテ義時打セ可給御計ヤ候ベキ)」と言うならば戦術的なアドバイスを求められている。それに対し胤義はこう答えているのだけれど――

胤義、一天ノ君ノ思召立セ給ハンニ、何條叶ハヌ樣ノ候ハンゾ、日本國重代ノ侍共仰ヲ承リテ、如何デカ背キ進ラセ候ベキ、中ニモ兄ニテ候三浦ノ駿河守、キハメテ嗚呼ノ者ニテ候ヘバ、日本國ノ惣追補使ニモ被成ント仰候ハヾ、ヨモ辭申候ハジ、

 そんなの簡単だって。上皇様(一天ノ君)がお立ちになれば、侍たるもの従わないはずがない。中でも兄の三浦駿河守はきわめて「嗚呼ノ者」なので日本国惣追捕使にでもしてやると言えばよもや拒むことはないだろう……。ま、そんな感じなんだけれど、注目は「嗚呼ノ者」ですよ。「嗚呼」は「鳴滸」とも書いて「おこ」と読む。意味はなかなか奥が深いようで「日本における道化的精神をさぐるのにきわめて重要な語」という指摘もありますが(出典は「コトバンク」)、通常は「おろか」とか「愚鈍」という意味で、つまりは「愚か者」だと言っているんだよね。これがなんとも面妖で。三浦義村という男のふるまいを眺めていて「不可思議者」(藤原定家)とか「権謀の人」(永井路子)とかいう印象を受けることはあっても「嗚呼ノ者」という印象を受けることはないんだよねえ。また『承久記』というのはあくまでも物語なので記されていることが史実であるという保証は全くない。むしろ、相当程度の創作が混じり込んでいると考えるべき。実際、冒頭で紹介した東寺でのやりとりも『承久記』の流布本として知られる古活字本にはない。古活字本では胤義は兄との対面を望むものの結局は果たせない(「但シ宇治ハ大勢ニテ有ナリ、大将軍ノ目ニ懸ラン事モ不定也」)。ま、現実とは往々にしてそんなもので、慈光寺本の描写はほとんど創作と見なすべきでしょう。だから、兄を「嗚呼ノ者」と呼んだという慈光寺本のこの記述も大いに眉に唾して読むべきだとは思うのだけれど……ただ、本稿ではあえてそういう場面が本当にあったと仮定して話を進めたい。そうすることで、いろいろ見えてくるものがあるのでね。

 ということで、三浦胤義は兄を「嗚呼ノ者」と呼んだ。あの切れ者をなぜか「愚か者」であると。当然、そう呼ぶにはそれなりの理由があったのだろう。そして、そのことと彼が上皇方に与して鎌倉に謀叛を起こすこととなったのには関連がある――、そう考えていいだろう。本稿では、その消息――というか、三浦「義村」と三浦「胤義」(だから「泰年」と「知良」ではないんです、ハイ)という2人の坂東武者にまつわる「物語」を読み取りたいと思っているのだけれど……。

 結論から言えば、それはもう1つの「佐幕」と「尊王」の物語なのだろうと。いや、義村が鎌倉幕府を支える支柱のきわめて太い一本であり、一方の胤義は京方の中心人物(と鎌倉からは見られていた。北条政子は上皇挙兵という報に動揺する御家人たちに頼朝以来の恩顧を訴えて義時の下に団結するよう仕向けたというよく知られたエピソードがありますが、『吾妻鏡』が伝えるその演説では「今、逆臣の讒言によって道理に背いた綸旨が下された。名を惜しむ者は、速やかに秀康・胤義らを討ち取り、三代にわたる将軍の遺跡を守るように」(五味文彦・本郷和人編『現代語訳吾妻鏡』より)――と、胤義は藤原秀康と並ぶ京方の中心人物という位置づけだった)であったわけだから、これが「佐幕」と「尊王」の物語であるのはことさら声を大にして言うようなことではない。そんなのわかりきったことだって? いや、意外とそうじゃないんじゃないかな? 普通、「佐幕」だの「尊王」だのというタームを耳にして思い起こすのは幕末(という呼び方もねえ。なにも幕府は徳川幕府だけではない。鎌倉幕府もあれば室町幕府もある。そして、それぞれの幕政末期の物語がある。『麒麟がくる』ってのは、あーた、室町幕府の幕政末期=幕末の物語ですよ……)でしょ? でも、佐幕派と尊王派が国の舵取りをめぐって抗争を繰り広げたのは(徳川幕府の)幕末だけではない。三浦兄弟が敵と味方に分かれて戦った承久の乱がまさにそうだし、元弘の乱だってそう。これに中大兄皇子らが蘇我氏を倒した大化の改新も加えるなら(ちなみに「維新」という言葉が初めて使われたのがこの時で、『日本書紀』の大化2年3月の条にある「天も人も合應へて厥(そ)の政(まつりごと)惟れ新なり」がそうだとか。しかし、これを見ても明らかなように、「維(惟)新」とは天皇親政をめざした政治革新の謂。そして、今、この2文字を冠する政治勢力が存在するわけだけれど、しかし彼らが天皇親政をめざしているとは聞いたことがない。それで「維新」とはこれいかに……?)、日本の歴史というのは長ーいスパンで見るならば、天皇という「神聖な権力」と豪族や武家という「世俗的な権力」との間である種の政権交代がくり返されてきた歴史と捉えることができるのでは? とワタシはかねがね考えていて、それは基本的な立場を異にする2つの政治的思潮があるということでもある。それが「佐幕」と「尊王」ということになる。そして、三浦義村は「佐幕」に立った。一方の三浦胤義は「尊王」に立った――、そう2人の政治的立ち位置を整理した時にはじめて弟が兄を「嗚呼ノ者」と呼んだ理由も見えてこようというもの。おそらくだ、弟の眼には兄は北条の支配体制の中での出世に汲々とする権力亡者と見えたのだろう。三浦義村は畠山重忠の乱では畠山重保(重忠の嫡子)を由比ヶ浜に誘き寄せて謀殺するとともに畠山一族の稲毛重成父子、榛谷重朝父子を重忠を陥れた首謀者として誅殺している。また実朝暗殺事件でも北条義時に命じられて実行犯である公暁を誅殺する役割を担っている――三浦義村こそは公暁が誰よりも頼りとした人物だったにもかかわらず(三浦義村は公暁の乳母夫だったとする見方が有力で、永井路子は『炎環』などでそれを前提に物語を紡いでいる)。こうした自らの手を汚すことをも厭わない〝忠勤〟が認められたか、義村は建保6年には侍所所司、承久元年には駿河守に任じられるのだけれど、そんな兄の姿に弟がどんな思いを抱いたか? 若い胤義(義村も胤義も生年が不明なので2人の年の差も判然としないものの、義村が9人兄弟の次男、胤義が9男であることがわかっているので、いずれにしても相当に年は離れていた)のことだ、大体の想像はつく。あるいはだ、ここは想像力を逞しくするならば、そんな兄の姿を見かねた弟は「もうこんなことは終わりにしましょう、兄上。そして、今こそ北条打倒に立ち上がるべきです。一度は起請文まで書いて義盛殿と北条打倒を誓い合ったではありませんか」――と。しかし、兄は弟の呼びかけを一蹴した上で「シレ者」と罵倒した。一方、弟は弟でそんな兄を「嗚呼ノ者」と蔑んだ……。

 『承久記』慈光寺本によれば、胤義は藤原秀康から挙兵計画への参加を誘われた際、秀康から先祖伝来の地である三浦や鎌倉を振り捨て都で宮仕えしているのには何か訳があるのだろうと訊ねられているのだけれど……以下、ここは原文でお読みいただくことにしよう――

……能登守申樣ハ、判官殿、三浦・鎌倉振棄テ都ニ上リ、十善ノ君ニ宮仕ヘ申サセ給ヘ。和殿ハ一定心中ニ思事マシマスラント推スル也。一院ハヨナ、御心サスガノ君ニテマシマス也。此程思食事有ヤラント推シ奉。殿ハ鎌倉ニ付ヤ付ズヤ。十善ノ君ニハ隨ヒマヒラセシヤ。計給ヘ判官殿トゾ申タル。判官ハ此由聞、返答申ケルハ、神妙也トヨ能登殿。胤義ハ先祖ノ三浦鎌倉振捨テ都ニ上リ、十善ノ君ニ宮仕マヒラスルハ、心中ニ存事ノ候也。如何ト申セバ、胤義ガ妻ヲバ誰カト思食。鎌倉一トハヤリシ一法執行ガ娘ゾカシ。故左衞門督殿ノ御臺所ニ參テ候シガ、若君一人出來サセ給テ候キ。督殿ハ遠江守時政ニ失ハレサセ給ヌ。若君ハ其子ノ權大夫義時ニ害セラレサセ給ヌ。胤義契ヲ結デ後、日夜ニ袖ヲ絞ルムザンニ候。男子ノ身也セバ、深山ニ遁世シテ念佛申メレ、後生ヲモ吊マヒラスベキニ、女人ノ身ノ口惜サヨト申シテ、流淚ヲ見ニ付テモ、万ヅ哀ニ候也。三千大世界ノ中ニ、黄金ヲ積テ候共、命ニカヘバ物ナラジ。勝テ惜キハ人命也。ワリナキ宿世ニ逢ヌレバ、惜命モ惜カラズ。去バ胤義ガ都ニ上テ、院ニ召サレテマイリ、謀叛起、鎌倉ニ向テヨキ矢一射ヲ、夫妻ノ心ヲ慰メバヤト思ヒ候ツルニ、加樣ニ院宣ヲ蒙コソ面目ニ存候ヘ。

 自分の妻は二代将軍・源頼家の愛妾で若君(禅暁)を生んだが、頼家は北条時政に殺されてしまった。さらに若君もその子の義時に殺されてしまった。自分は先夫(頼家)と子を北条氏によって殺されて嘆き悲しむ妻を憐れに思い、鎌倉に謀叛を起こそうと京に上った……。かいつまんで言えば、そういうことになるかな。で、これが史実なのかどうかは、例によってなんとも言えない。『承久記』古活字本には「大番ノ次デ在京シテ候ケレバ」とあり、大番役として上京したまま任期が明けてもそのまま京に留まっていたと読み取ることも可能で、案外と事実はそんなところじゃないかと思うんだけれど、ただ任期が明けても京に留まっていたとしたら、それはそれでやはり考えるところがあっての行動、というのは間違いないだろう。で、こっからは多分に「結論ありき」の行論となることを自覚しつつ――端的に言うならばだ、彼にとっては京こそは日本の中心だったのだ。言い方を変えるならば、彼の意識の中には京=朝廷を頂点とするヒエラルキーが存在していたということ。三浦胤義はそういう価値観の中に生きていた。それは、秀康から北条打倒の方策を問われ「一天ノ君ノ思召立セ給ハンニ、何條叶ハヌ樣ノ候ハンゾ、日本國重代ノ侍共仰ヲ承リテ、如何デカ背キ進ラセ候ベキ」と実に楽観的な見通しを語っていたことからも容易に見て取れる。彼の中には京=朝廷を頂点とするヒエラルキーが厳然として存在していた……。

 しかし、三浦義村は違った。三浦義村や北条義時には1つの明確なビジョンがあった。それは京から遠く離れた坂東の地に独自の権力を樹立すること。それは、京=朝廷を頂点とする権力構造を相対化するもう1つの頂点を作ること――と言い換えてもいいかもしれない。この点で三浦義村と北条義時は完全に一致していた。だからこそ彼らは手を携えて数々の謀略を仕組んだ。しかし、そんな兄の姿が弟の眼には全く別の姿で映っていた。それは、鎌倉という小さな権力構造の中での出世に汲々とする権力亡者の姿。兄のふるまいはすべてそのためのもの――。弟は兄をそんな人物と見ていたからこそ日本国総追捕使というエサを与えれば必ず食いつくだろう、と京方に進言したのだ。しかし、それは全くの見当違いだった。それは、弟が遣わした使者を兄が即刻追い返していることからも明らか。日本国総追捕使というエサなど兄には何ほどのものでもなかったのだ。義村にとっての大事は何だったのか? ここは永井路子が書くところを引こう。永井路子は『つわものの賦』で「すこし極端な言い方をするならば、承久の乱の決定的瞬間はここにあると思う」として、「(この行動が)たとえ、彼らしい打算から出たとしても、私はこの処し方に、東国武士としての義村の大きな存在意義を感じる。東国武士にとって、この際何が必要か、何を守り、何と戦うべきか、彼の眼は歴史の流れを見誤まることはなかったのだ」。この見方にワタシは全面的に賛同するものであります。三浦義村という「清濁併せ呑む」という慣用句で片づけるにはあまりにもダークな一面を持った人物がそれでも一個の「つわもの」として歴史に名を残すこととなったのは実にこの時のふるまいゆえだろう。

 一方の三浦胤義だ。彼は京=朝廷を頂点とする権力構造の中に生きていた。あるいは、そこから一歩も抜け出すことができなかった、という言い方もできるかもしれない。そして、兄やその「盟友」である北条義時の真意をついに理解できないまま鎌倉に対して謀叛を起こし最後は西山の木嶋(現・京都市右京区太秦の木嶋坐天照御魂神社)で2人の子とともに自害して果てた(さらに三浦の祖母に預けていた5人の幼子も1人を残して処刑された。その刑場跡とされる場所には、大正12年、地元有志によって建てられたとされる「忠臣三浦胤義遺孤碑」が今も残されているのだけれど、Google Mapのストリートビューで見ると、その場所というのが……)。しかし、三浦胤義が体現した思潮は伏流水となって流れつづけ、遂には奔流となって歴史の前面に踊りだす時がやって来る。元弘3年5月、後醍醐天皇の挙兵に呼応した足利高氏は幕府の京都支配の拠点である六波羅を攻め落とし、新田義貞は鎌倉に攻め込んで北条基時は戦死、北条高時以下800余人は北条家の菩提寺である東勝寺で自害。ここに京から遠く離れた坂東の地に独自の権力を樹立するという北条の夢は140年間で潰えることとなるわけだけれど、それをリブートして見せたのが徳川家康であり、その治世(パックス・トクガワーナ)も270年に達しようとした時、再び京に「錦の御旗」を翻す政治勢力が登場して――とこの国の歴史を天皇という「神聖な権力」と武家という「世俗的な権力」との間である種の政権交代がくり返されてきた歴史と捉えるならば、三浦兄弟をめぐる物語はことのほか奥が深い……。