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去る剛の者なれば
〜元祖「霊長類最強女子」秘伝〜

 おもしろいことがわかった。巴御前は晩年を三浦義村の庇護の下に暮していた可能性があるのだ。

 そもそも巴御前の晩年については『平家物語』では描かれていない。『平家物語』では巴御前は宇治川の戦いで敗れて落ち延びる木曾義仲に従い、最後の5騎になっても討たれない(「五騎が内まで巴うたれざれけり」)。すると義仲は「己は女なれば、これよりとう/\何地(いづち)へも落ち行け。義仲は討死をせんずるなり。若し人手に懸らずば、自害をせんずれば、義仲が最後の軍に、女を具したりなど言はれん事、口惜しかるべし」――と、まあ、そういう言い方で巴を助けようとしたのかな? いや、それよりも、義仲は最期は今井兼平と2人だけになりたかったのかもしれない。喩えて言うならば、三島由紀夫と森田必勝……。しかし、巴は落ちようとしない。で、ついには義仲が怒り出した――「餘りに強う言はれ奉つて」とは、つまりはそういうことでしょう。ま、義仲は義仲で、自分が思い描いたドラマツルギーがあるわけだから。そのビミョーな空気を読んで(?)巴もハケることにした。でも、ただではハケないよと。で、「あつぱれ好からう敵の出で來よかし。木曾殿に最後の軍して見せ奉らん」。そこへお誂え向きにやってきたのが大力と評判の御田の八郎師重。巴は30騎ばかりのその陣中に割って入るや八郎に馬を押し並べてむんずと組んで引き落とし、鞍の前輪に押しつけて「少も動(はたら)かさず」。ま、レスリングならフォールです。そして、その頸を捻じ切った(ただ切ったんじゃない。捻じ切ったんだ。「頸ねぢ切つて捨ててんげり」だよ。まさに元祖「霊長類最強女子」⁉)。その後、巴は物の具を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びたところで物語から姿を消す。

 そんな巴御前の晩年を伝えているのが『源平盛衰記』。ここは大町桂月校訂『新訂源平盛衰記』(東京至誠堂)の一節をそのまま紹介することとしよう――

……世靜まつて右大將家より召されければ、巴卽ち鎌倉へ參る。主の敵なれば心に遺恨ありけれ共、大將殿も女なれども無雙の剛の者打ち解けまじきとて、森五郞に預けらる。和田小太郞是れを見て、事の景氣も尋常なり心の剛も無雙なり、あの樣の種を纉がせばやとぞ思ひける。明くる日頸切るべしと沙汰有りけるに、和田義盛申し預からんと申しけるを、女なればとて心ゆるし有るまじ、正しき主親が敵なり、去る剛の者なれば隙もあらば伺ひ思ふ心有らん。叶ふまじと仰せられるけるを、三浦大介義明が君の爲に命を捨て、子孫眷族二心なく君を守護し奉りて年來奉公し奉る。爭でか思し召し忘れ給ふべき、義盛相具して候共僻事更に在るまじきと、樣々申し立て預かりにけり。卽ち妻(め)と憑(たの)みて男子を生む。朝比奈三郞義秀とは是れなりけり。母が力を繼ぎたりけるにや、剛も力も雙(なら)びなしとぞ聞えける。和田合戰の時朝比奈討たれて後、巴は泣く泣く越中に越え、石黑は親しかりければ、此にて出家して巴尼とて、佛に花香を奉り、主親朝比奈が後生弔ひけるが、九十一まで持(たも)ちて臨終目出たくして終りにけるとぞ。

 世が静まってから源頼朝(右大將)に召された――とは、つまり、頼朝は巴を寵姫にしようとしたということだね。貴人が女性を「召す」とはそういうことなので。しかし、巴は「剛の者」なので頑として打ち解けなかった。で、腹を立てた頼朝が首を刎ねてしまえと。これに対し、侍所別当の和田義盛が「自分が預りたいと」と申し出た。その理由は、これほどの女にぜひともオレの種を植え付けたいと。ま、和田義盛というのはどうやらアタマもカラダもそういうマッチョなところがある人物だったらしい。で、この場合はその単純さがある種の善良さとして現れたと見ればいいのかな? それに対して頼朝は「女だからと甘く見ることはできない。諦めろ」と、これはまあ、まずまず真っ当な意見と言っていいでしょう。それに対し義盛は祖父・義明(は、頼朝が挙兵した際、既に89歳という高齢だったにもかかわらず、一族を挙げてこれに合流しようと居城の衣笠城を出撃する。しかし、頼みの頼朝は石橋山の戦いであえなく敗北。これを受け、義明は衣笠城に引き返して篭城。その後、平氏側に付いた畠山重忠の軍との間で衣笠城合戦となり、最後は外孫でもある重忠に討たれた――と、まあ、そういう人物なのだけれど、実はワタシはこの人物について別の理由でいささかの思い入れがあって。というのも、徳川慶喜東帰後の慶応4年1月17日、寛永寺執当職の覚王院義観は老中・松平康直から江戸城に招じられ、朝敵となった慶喜のために弁疏を尽くすよう懇願される。それに対して義観は「弁疏など迂遠な策はとらず、今すぐ兵を率いて攻め上れ」と、まあ、一応は義観も坊さんですからね。その坊さんが、そんなことを。これには松平康直もオッタマゲタと思うんだけれど、興味深いのは、この際、義観は「機は神速にあり。願わくば源君は今夜にも出撃せられんことを(機在神速。願源君即夜拳鞭)」と本日中の出撃を求めた上で「一に三浦大助の如く(一如三浦大助)」――と述べているのだ。この「三浦大助」こそは三浦大介義明のことで、要するに義観は慶喜に対して三浦義明のように立てとけしかけているわけで、三浦義明というのは武家、就中、源氏を標榜する武家にとってはそういう存在なんだなあと、以来、ワタシの〝灰色の脳細胞〟にインプット。なお、現在の横浜ベイスターズの監督が三浦大輔という名前であることは周知の事実ではありましょうが、実は三浦大介とは読みが違う。現在の横浜ベイスターズの監督は「みうらだいすけ」、御歳89歳で衣笠城で討ち死にしたのは「みうらのおおすけ」。くれぐれもお間違えなきように……)の話を持ち出して「よもやお忘れではあるまいな」と。それを持ち出されると頼朝としても苦しい。で、ここは言うことを聞いてやるしかない。ということで、和田義盛は巴を娶ることとなり、そうして誕生したのが朝比奈義秀である――と『源平盛衰記』ではなっているのだけれど、それが史実と整合性が取れない設定であることはつとに知られている(『吾妻鏡』によれば、朝比奈義秀は和田合戦があった建暦3年の時点で38歳。とするなら、計算上は安元2年の生まれとなる。その頃、義仲も巴もまだ信濃の山の中)。しかし、『源平盛衰記』という物語世界では巴は朝比奈義秀を生んだということになっていて、その朝比奈三郎義秀が和田合戦で討ち死にした後は越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主(義仲)、親(中原兼遠)、子である三郎義秀の菩提を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えた――と、そういうことになっているわけだね。

 で、富山県民であるワタシも、当然、この話は承知していて、なんで石黒氏なんだろう? とは思いつつも、ま、そういう話が伝わっているのなら、そういうことでいいかなと、これまではそういうことで過ごしてきた。ところが、巴御前について調べていたら、『三浦半島の口碑伝説百選』(横須賀文化協会)という本にこんなことが記されていることがわかった――

 ともえ(巴御前)は、中原権守兼遠の娘で旭将軍木曽義仲に仕え、戦陣の間に従った勇壮な婦人である。近江の粟田ヶ原の合戦に義仲と別れ鎌倉方の軍兵に捕えられたが、和田義盛が源頼朝に、この巴を私の妻に申し受け立派な勇士を生んで源家を護りたいと申し入れて妻としたといわれている。あの剛勇無双とうたわれた朝夷奈三郎義秀は義盛の三男で、母はこのともえだという。

 ともえは、晩年侍女山吹とともに尼となって諸国を流転し、深谷にあった円通寺のほとりに草庵を結び朝な夕なに勤行して亡父一門の冥福を祈り、また、近郷近在を托鉢して浄財を得て和田氏九十三騎の墓(今清雲寺にある)を建てたという。深谷には「ともえの硯井戸」というのがある。また、岩戸の満願寺東方の小高い場所に巴と侍女の墓と伝えているのがある。森崎地内にも大仏と呼ばれる石がありこれが巴御前の塚だといわれている。

 どうも大分話が違うんだけれど……ともあれ、「口碑」が伝えるところによればだ、巴御前は和田義盛の妻となって朝比奈三郎義秀(↑では朝夷奈三郎義秀。また『吾妻鏡』でも朝夷名三郎義秀とされている。さらには「朝夷」と書いて「あさひな」と読むこともあるようで、歌川国芳の「朝夷義秀雌雄鰐を捕ふ圖」がそのパターン。なんでも安房国朝夷郡を領地としていたらしいので、いずれにしたって「朝夷」の2文字が入るのが本当なんだろう。しかし、「夷」の字を嫌って「朝比奈」となったと……)を生んだ。さらに、晩年は深谷(現在の住所で言えば横須賀市大矢部町深谷ということになるらしい)の円通寺のほとりに草庵を結んで暮していた。そして、岩戸(現・横須賀市岩戸)には巴と山吹の墓が、森崎(現・横須賀市森崎)には巴の塚がある……。

 これは、へえ、ですよ。実はワタシはごく短期間だけれど横須賀に暮していたことがあって、京急の横須賀中央駅の東口を出て地元では「平坂」と呼ばれている急坂を5分ばかり上った上町1丁目あたりに下宿があった(ちなみに山口瞳が『血族』で描いたかつての「柏木田」遊廓は上町3丁目あたりにあった。軍艦の乗組員や造船所の工員たちが平坂を上って通ったわけですね)。ただ、暮していたのがごく短期間だし(半年ほどかな?)、あまり横須賀市内を歩きまわるということもなかった(そんな余裕がなかった)ので、正直、大矢部にしろ岩戸にしろ森崎にしろ、ピンとくる地名ではない。しかし、Google Mapで確認すると、三崎街道を下って行けば大矢部の辺りに出るようなので、ワタシが暮していた上町からもそれほど遠い場所ではないような。しかも、強調すべきは、この横須賀市大矢部こそは三浦氏の本拠地だったらしいこと。ワタシは、三浦氏というのは、名前が名前なので、ゆかりの地もてっきり三浦市だろうと思っていたのだけれど、むしろ三浦氏ゆかりの地は横須賀市になるらしい(そういうことをこちらのサイトで勉強させていただきました。多謝!)。こうなると、ワタシは三浦氏のお膝元で暮していたことになって、いよいよ三浦義村に親しみが涌いてこようというもの。ここはなんとしてでも生き永らえて来年の『鎌倉殿の13人』を見るんだ……。えーと、だから、巴御前は晩年を現在の横須賀市大矢部で暮していて、岩戸や森崎には巴御前の墓と伝わるものが現存すると、そういうことが記されているわけだけれど、富山県民としては、むむ、と思う反面、話としてはこっちの方がおもしろいんじゃないかな? と。だって、巴御前は晩年を大矢部で暮していたと想定した場合、当然、彼女は三浦義村の庇護を受けていたと考えることができるので。三浦義村は桓武平氏良文流三浦氏の第6代当主で、義村の了解なしに大矢部に草庵を結ぶことはできなかったはず。うん、間違いない、巴御前は三浦義村の庇護の下、大矢部で暮していたのだ。で、そう考えるならば、これはなんとも興趣をそそられる話ではないか。だって、和田義盛と三浦義村は従兄弟同士だったわけで、和田義盛が北条打倒の兵を挙げた時、義村は起請文まで書いて行動を共にすると約束していた。しかし、いざ挙兵となるや、一転してコトを北条義時に通報するというね。言うならば、彼は従兄を売ったのだ。三浦義村というのは平気でそういうことをする男だった。だからこそ、藤原定家に「不可思議者」と書かれたりするわけだけれど……『源平盛衰記』によれば、巴御前はその従兄が頼朝に頼みこんでまで妻とした女性。義村はそんな女性を自分の庇護下に置いていた――と考えるならば、これは彼なりの贖罪の意思表示なのだろう……。

 ――と、そんな感慨にも浸りたいところなのだけれど、でも実際にはそういう可能性はないよね。『三浦半島の口碑伝説百選』に記された話がどうこうという以前に、そもそもその前提となっているであろう『源平盛衰記』に記された話が怪しい。そう、巴が義仲の敗死後、源頼朝に召されて鎌倉へ行き、和田義盛の妻となったという『源平盛衰記』に描かれたストーリーがね(この際、朝比奈義秀の件は措く。朝比奈義秀の件は措いても、ということ)。それが史実を踏まえたものである可能性はまずないと言っていいでしょう。なぜか? それは、このストーリーが『平治物語』に描かれた源義朝の側室・常盤御前の物語のパクリと言っていいものなので。『平治物語』によれば、常盤は義朝が討たれたと聞くや、3人の子供(今若、乙若、牛若)を連れて凍てつく旧暦2月の大和路を落ち延びどうにかこうにか生れ故郷の大和国宇多郡にたどり着く。しかし、都に残った母が捕らえられたことを知り、自ら清盛の元に赴いて「母はもとより科なき身にて候へば、御免し候べし。子共の命を助けたまはんとも申し候はず。一樹の下に住み、同じ流れを渡るも、この世一つの事ならず。高きも卑しきも、親の子を思ふ習ひ、皆さこそ候らめ。妾、子共を失ひては、かひなき命、片時も堪へてあるべきとも覺え候はねば、先づわらはを失はせ給ひて後、子共をば兎も角も御計らひ候はば、此の世の御情、後の世までの御利益、是に過ぎたる御事候はじ。ながらへて夜晝嘆き悲しまん事も罪深く思え侍る」と涙ながらにかきくどく。これにはさすがの清盛も「頻りに淚の進みければ、押拭ひ/\して、さあらぬ體にもてなし給へば」云々。で、結局、母はもとより常盤も3人の子も許しちゃうんだよね、「如何に斯樣に御心弱き仰せにて候やらん。此の三四人成長候はんは、只今の事なるべし。君達の御爲、末代懼ろしくこそ候へ」と側近が忠告するのも押し切って――と、ここまでは「常盤六波羅に參る事」に記された内容。しかし、男がいて女がいれば、話がこれで終わるはずがない。その後、常盤の3人の子の内の1人、牛若にフォーカスを当てた「牛若奥州下りの事」の冒頭で――「さても常盤をば、淸盛最愛して、近所に取据ゑて通はれけるとぞ聞えし」。そう、常盤は夫の仇である清盛の囲われものとなったのだ。これはねえ、ストーリーとして実によくできている。しかし、残酷でもある。あるいは、残酷だからよくできている、と言えるのかな? と同時に、非常にソフィスティケートされている、とも言える。清盛と常盤との〝関係〟をあえて1行に止めているあたりがね。これが室町時代に成立したとされる『義経記』になると、いささか描写が諄くなって、「貞女兩夫に見えずと云ふ語にもはづれ、又世の人の謗をも思はれけれども、只三人の子供を助けん為に、馴れぬ衾の下に新枕を竝べ給ひけり」。ここに『平治物語』と『義経記』の作者の力量の差がハッキリと表れていると言ったら言い過ぎか? ともあれ、『平治物語』に描かれた常盤御前の物語はなかなかですよ。で、『源平盛衰記』に描かれた巴御前の物語はそのパクリだろうと。まず、常盤御前が源義朝の側室ならば巴御前も源義仲の側室(愛妾)。ここに設定の類似性がある。その上で、2人はともに夫の死後、夫の仇の妾となる――という、まあ、「悲しい性」というやつかな? をさらけ出すことになるという、このドラマツルギーの一致。これが偶然の一致であるはずがない。ズバリ言えば、『源平盛衰記』に描かれた巴御前の後日談なるものは全て史実の裏付けのない創作でしょう。で、そんなことが可能だということは、巴御前という存在そのものが全くの創作上のキャラクターであることを強く示唆しているのかもしれない。

 で、おもしろいのは、にもかかわらずその墓とされるものが現存する、ということですよ。しかも、あっちこっちに。実は巴の墓とされるものは既に紹介した越中国礪波郡福光(現・富山県南砺市福光)や神奈川県横須賀市岩戸、同森崎以外にも滋賀県大津市の義仲寺にもあるし長野県木曽郡木曽町の徳音寺にもある。また倶利伽羅峠の戦いの古戦場である富山県小矢部市の倶利伽羅公園には義仲に従ったもう1人の便女で倶利伽羅峠の戦いで亡くなったと伝えられる葵御前の墓とされる葵塚があるのだけれど、どういうわけか巴塚もある。これは巴が亡くなる際、「私が死んだら砺波山にある葵塚と並べて墓をつくってください」と頼んで息を引き取ったという伝承に基づくものだそうだけれど(出典は小矢部市観光協会「巴塚・葵塚」)、だったら福光にある巴塚は……? さらに新潟県上越市の出丸稲荷神社の境内にある宝篋印塔も巴御前の墓と伝えられているとかで、とにかくもうあっちこっちにある。これは一体どういうことなのか? ワタシは、SFやファンタジーにおける「シェアード・ワールド」のようなものと見なせばいいのではないかと考えている。「シェアード・ワールド」というのは複数の作家が提供した一連の創作物からなる架空の世界のことで、小川隆は2001年時点で最新のSF動向を概観して――「同じ作品世界を複数の作家が処理したときの意外な楽しさを発見しようとするこの試みは、それまでスペース・オペラが担っていた純粋な娯楽としてのSFを代表するものとなっていきます」(ハヤカワ文庫版『新SFハンドブック』)。日本各地に巴御前の墓とされるものが現存する、というのは、まさに「シェアード・ワールド」ですよ。『平家物語』や『源平盛衰記』に描かれた巴御前の物語が日本各地の無名の作家によって共有(シェア)され紡がれた物語世界――。そう考えるならばだ、巴の物語が時を超え海を超え(さらには性差も超えて)アメリカ・シアトルのLGBTQコミュニティで暮らすトランスジェンダーのSF作家ジェシカ・アマンダ・サーモンソン(を知っている人がどれくらいいますかねえ。思えばペーパーバック屋だった頃は売れもしないのに〝彼女〟の本を集めたりしたものだ……)によって共有され、Tomoe Gozen SagaTomoe Gozen Sagaとして花開いた、というのも誠に以てもっともな話、ということになる。

 さて、来年、三谷幸喜はどんな巴御前を見せてくれるのだろう? 秋元才加演じる巴御前は山本耕史演じる三浦義村と会うのだろうか? そのヒントは2013年上演の『ロックオペラ モーツァルト』で2人が共演していることかもしれない。三谷幸喜はこういう細かいところでつじつまを合わせてくる人なので、このキャスティングもあるいはそういうことかと……。