「後南朝」という歴史用語がある。いわゆる南北朝時代は元中9年/明徳3年の「明徳の和約」で一応の終止符が打たれることになるわけだけれど、その和約の眼目だった両統迭立は果たされることはなかった。それを不服とする旧南朝勢力は南朝の皇統を奉じてたびたび反乱を起こすなど、南朝復興運動は約60年(あるいはそれ以上)の長きにわたって繰り広げられることになる。この「明徳の和約」以降、繰り広げられた南朝復興運動とそれによって樹立されたデ・ファクトの朝廷を「後南朝」と呼ぶわけだけれど……「ごなんちょう」。こうこの語を口の端に載せた時に覚える戦慄みたいなものをどう言い表したらいいものか。確か「子は怪力乱神を語らず」という言葉があったはずだけれど、なにか「後南朝」を語ることは「怪力乱神を語る」ことに等しいような……。
その由って来たるユエンは後南朝なるものが、事実上、〈リアル〉と〈フェイク〉のアマルガムとして存在しているという点にあるのだろう。要するにだ、相当に「香ばしい」のだ。なにしろ、後南朝の歴史をひも解くとやたらと○○院とか○○王とかいうのが出てくるのだけれど、どちらも事実上の「天皇」を意味している。しかし、それらの「天皇」は「正史」に登場することはないんだ。そんなUMAみたいな「天皇」がこれでもかこれでもかと。その究極があの「熊沢天皇」ということになるんだろう。で、これらの「未確認天皇」を一体どう受け止めたらいいのか? 「明徳の和約」以降も旧南朝勢力が南朝復興運動を繰り広げたのは紛れもない史実だし、彼らが吉野の山中にデ・ファクトの朝廷を開いた――というのもこれまた否定しようのない史実でしょう。である以上、彼らが奉ずる「天皇」はいた――間違いなく。そう考えるなら、これらは決して「子は怪力乱神を語らず」という類いの話ではない――と言えるはずなんだけれど……しかし、実際に後南朝という〝秘境〟に足を踏み入れるとそんなことは言っていられなくなる。たとえば『南山義烈史』という本があるのだけれど――
小倉院 諱は良泰 後龜山帝の第三子也天授五年立て皇太子と爲る講和議成るに及んで 後龜山天皇に從ふて京師に如く足利氏盟に叛き親王立つを得ざるに及んで吉野に還り黑木殿に入る
小倉院というからには(ただし、本文中では「小倉宮」と記されている。「地味にスゴイ!校閲ガール」は絶対に見逃さないだろうなあ……)、この諱を「良泰」とする人物は旧南朝勢力によって「天皇」に奉じられたということになるのだけれど、それは、まあ、いい。それよりも同書ではこの人物を「後亀山帝の第三子」としているわけだよね。その上でこの人物は正長元年7月、嵯峨を出奔して吉野に赴いたとされている。再び『南山義烈史』より――
七月 天皇崩ず皇弟彥仁王立つ是を後花園天皇と爲す齡僅に十歲小倉宮京師を出で吉野に適く藤原守房等之に從ふ是に於て南人足利氏再び誓に叛くを憤り復た兵を擧けんと謀る既にして源滿泰暴かに病て卒す一族徒黨に遺命し心を竭くして南山の皇統を攘護し死を以て足利氏に抗せしむ
実は、同じく正長元年7月、嵯峨を出奔して伊勢に赴いた人物がいる。同じく後南朝に属する人物で、世上、小倉宮聖承という名前で呼ばれている。ただし、「聖承」は出家後の法名であり、俗名(諱)は不明。そのため、便宜的に小倉宮聖承(あるいは、より正確を期して小倉宮入道聖承。『大日本史』の編纂にも従事した水戸出身の菅政友は『南山皇胤譜』でそう記している)と呼ばれているわけだけれど、この人物が正長元年7月、嵯峨を出奔して伊勢に赴いたことは一次史料で裏付けられる。醍醐寺座主・満済の日記『満濟准后日記』正長元年7月12日の条として――
小倉宮沒落之樣、所詮自㆓關東一依㆑申㆓子細一、伊勢國司令㆓同心一、則彼國司在所へ入御云々、去六日丑剋計、自㆓嵯峨小倉一御出云々
ということは、『南山義烈史』が記す「小倉院」とはこの小倉宮聖承のこと? そう考えるのが順当なような。実際、『南山義烈史』では「小倉院」が嘉吉3年5月に薨じたとしているのだけれど、これは一次史料が伝える小倉宮聖承の没年月と同じ。ああ、だったら間違いないじゃん……と言いたいところではあるんだけれど、そうは行かない。一次史料が伝える小倉宮聖承のプロフィールと『南山義烈史』が記す「小倉院」のプロフィールはあまりにも違いすぎるのだ。まず、小倉宮聖承は後亀山天皇の第3子ではなく、その孫であることが一次史料で裏付けられる。前内大臣・万里小路時房の日記『建内記』嘉吉3年5月9日の条として「南方小倉宮」の入滅について記しつつ割注として「後醍醐院玄孫、後村上曾孫、後龜山院御孫、故恆敦宮御子」云々。また嵯峨を出奔後の行動も。小倉宮は伊勢国国司・北畠満雅(かの南朝の忠臣として名高い北畠親房の曾孫)を頼って伊勢国に赴くも、頼みの満雅は正長元年12月21日、伊勢国守護・土岐持頼に敗れて呆気なく戦死。その後も宮は伊勢国に留まって抵抗を続けたものの、満雅亡き後の北畠家は嫡子・教具がまだ7歳と幼かったこともあって最終的には幕府との和睦を選択。そのため、宮の処遇が問題となる。『建内記』によれば、永享2年2月頃より宮側の使者・万里小路雅成と幕府側の交渉窓口となった万里小路時房(ともに万里小路姓であるものの、両者の関係は不明)の間で帰京のための条件が話し合われていることが読み取れる。それによると、最も大きな懸案となったのは帰京後の生活費で、当面は諸大名の国役として「万疋」を供出し、これを生活費に充てることで決着。そして、同年4月には嵯峨に戻ったものと思われる(時期を明確に裏付ける一次史料は見当たらないものの、『満濟准后日記』永享2年4月2日の条として「小倉宮参洛可㆑為㆓近日㆒」云々)。一方、「小倉院」はというと……そもそも北畠満雅(同書では「源満雅」)は正長元年12月21日には亡くなっていないのだ。その代わり、↑の引用部分にもあるように、長兄の満泰が亡くなったとされている。当の満雅はというと、宮とともに永享12年7月まで闘いつづけ、ここでようやく(?)亡くなる。しかも「伊勢の國司源滿雅卒す」というのだから、病死なんだろう。で、これを受け源(北畠)家では幕府との和睦に動き、嫡子・教具は京師に上り、「闕廷」に朝して従二位中納言に任じられる。そして、「小倉宮も亦た子泰仁を携えて京師に歸へる」。だから、全然違うんだよね。さらには、死の経緯も。一次史料が伝える小倉宮聖承の最期は「(割注として「近年、嵯峨より下京邊に移り住み給ふ」とあって)近日所勞邪氣云々、圓寂云々」(前出『建内記』嘉吉3年5月9日の条)。これに対し、『南山義烈史』が記す「小倉院」の最期は「(この年3月に足利義教が異母弟の大覚寺義昭を殺害したことを記した上で)小倉宮も亦た禍に及ばんことを恐れ間行して吉野に歸り、皇祖の古趾を歷訪して河野山中に幽居す嘉吉三年五月鵜の川に在て薨す」。こうなると、一次史料によってその実在が確認できる小倉宮聖承と『南山義烈史』が記す「小倉院」は全くの別人と言わざるをえないでしょう。その一方で正長元年7月に嵯峨を出奔したことや嘉吉3年5月に亡くなったことは共通。これは、要するにですよ……「小倉院」なる人物は小倉宮聖承という実在の人物をモデルに作られた架空の存在ということ。そう考えるのがいちばんリーズナブル。
で、同じようなことは『南山義烈史』が「小倉院」に次いで記す「天基王」についても言える――
天基王 諱は泰仁小倉宮の第二子也初め僧と爲て觀修寺に居る敎尊と號す嘗て父に從ふて吉野に至り尋て伊勢に赴き復た京師に之く是に至て南人奉して以て中興の宮と稱す
確かに小倉宮には子がいて、帰洛後に観修寺門跡に入室して教尊と名乗ったことは一次史料でも裏付けられる。しかし、一次史料が伝える教尊(これも菅政友に倣うならば「教尊権僧正」)のプロフィールと『南山義烈史』が記す「天基王」のプロフィールにはある決定的な違いがあるのだ。それは(それも)、最期。どちらも禁闕の変(嘉吉3年9月23日、源尊秀と名乗る正体不明の人物を首謀者とする後南朝勢力が御所に乱入して三種の神器の内、宝剣と神璽を奪い去ったというとんでもない事件。宝剣は後に清水寺で発見されるものの、神璽はそのまま行方不明となり、嘉吉の乱で絶家となった旧赤松家遺臣らが赤松家再興という恩賞を目当てにその「奪回」を果たした長禄2年まで奥吉野の後南朝の元にあった。しかし、これが史実だというんだからなあ。ほとんど冒険小説ですよ。ただ、これが冒険小説の題材になりにくい理由があって、旧赤松家遺臣らはただ単に神璽の「奪回」を果たしたわけではないんだ。なんともおぞましい行為に手を染めているのだ。その行為とは……それは本稿後半にて)に関与したという点では同じなのだけれど、教尊の方は変への関与が疑われて隠岐に配流となり、11月28日に逝去(示寂)した――と『勧修寺長吏系伝略』なる書物には記されているそうです(これについては、ワタシは原文には当たっておりません。しかし、宮内省臨時帝室編修局御用掛となって『明治天皇紀』編纂にも当たった本多辰次郎が『勤王論之発達』にそう記しているので、素直にそれを信じている、という状況であります。それにしても、水戸出身とか宮内省臨時帝室編修局御用掛とかいった権威に対するこの弱さといったら……)。一方、「天基王」はというと……なんとなんと、戦闘の渦中で自刃して果てたというのだ――
……南人遂に 神器を收めて去り叡山に趨むく京軍之を追ふて 寶鏡寶劍を奪還す正秀等走て延曆寺に據り檄を飛はして兵を募り山徒に令して京軍を拒かしむ山徒應せず既にして京軍四もより至り圖み攻むること甚だ急なり南軍殊死して而して鬭ふ遂に支ふること能はず天基王自刄して薨す
えーと、禁闕の変では、金蔵主(後述)が討死したという話は伝わっているんだけどねえ……。
ともあれ、こんなふうに後南朝という〝秘境〟に足を踏み入れるとたちどころに狐狸妖怪の類い(?)がまとわりついてきてワレワレの知性をたぶらかしはじめるのだけれど……ただねえ、一方で一次史料(とされるもの)がそんなに正しいのか? と。この件をめぐって一次史料とされるのはほとんどが当時の公家や僧侶の日記。そして、その記載の特徴はといえば、たとえば↑に引いた『満濟准后日記』正長元年7月12日の条のように「伊勢國司令㆓同心一、則彼國司在所へ入御云々、去六日丑剋計、自㆓嵯峨小倉一御出云々」。つまりは伝聞情報を記しているに過ぎないわけですよ。しかも重要なのは万里小路時房にしろ満済にしろ(さらには伏見宮貞成親王にしろ)、いずれも北朝側の人間だということ。つまり、『建内記』も『満済准后日記』も『看聞御記』(伏見宮貞成親王の日記)も日本が2つに分かれて争った時代の一方の側の証言に過ぎず、しかも記されているのはほとんどが伝聞情報――と来れば、それらを絶対視するのはいかに危険であるかは言うまでもないでしょう。だから、それらを相対化する意味でもぜひ南朝側の証言も必要となるわけだけれど……
じゃあ、南朝側で一次史料と言い得るものがあるかというと……ないことはない。俗に「忠義王文書」と呼ばれているものとかね。でも、非常に限られている。実態としては、ない、と言ってもいいくらい。これがねえ、なんとも奇妙と言うか……。なぜ後南朝は「記録」を残さなかったのか? これは、まあ、言うならば後南朝というのは「滅びた王国」なので、記録もろとろも滅び去った、と捉えるのが順当なんでしょう。ただ、それにしてもねえ……。なんとなくだけどね、ワタシはケルトを思い浮かべてしまうんだ。ケルトというのは紀元前5世紀から前1世紀にかけてヨーロッパ中西部に栄えたインド・ヨーロッパ諸族の一派で、最終的にはローマの支配下に組み込まれて独自の民族としては滅びるわけだけれど、アイルランドやウェールズあたりには今でも色濃くその文化が残っている。「モダン・ファンタジーの父」とされるかのウィリアム・モリスもケルト系ウェールズ人。一般にウィリアム・モリスというと壁紙やテキスタイルが有名だと思うんだけれど(もっとも、ワタシにとってのウィリアム・モリスといえばBallantine Adult Fantasyの1冊であるThe Water of the Wondrous Islesだけどね)、あれなんかはもう完全にケルトの文様だよね。で、ケルトもまた記録を残さなかった。その理由は、単純明快、ケルトは文字を持たなかったから。なにか後南朝のことを考えていると、このケルトとオーバーラップしてくるんだよねえ。どちらも「深い森」に依拠したという共通点があるし……。
まあ、そんなこんなで、昔から後南朝に思いを寄せる人はいたようで、一次史料と言えるものはほとんどないのとは打って変わって後南朝寄りの視点で綴られた史書・軍記の類いは枚挙にいとまがないくらい。有名どころでは『南方紀傳』とか『十津河之記』とか。また『南朝皇胤紹運録』のような系図類も。もちろん、これらはいずれも後世(ほとんどは江戸時代)になってから書かれたり作られたりしたものなので、歴史の証言という意味ではね。でも、北朝側の史料に頼り切っていたのでは見えてこないものがある、という筋論に加えて、史書・軍記としての出来の良さ(とは、つまりは「読んで面白い」ということだね)もあって、後南朝について語ろうとする場合、それらの史書・軍記を完全に無視するというのはなかなか難しい。その結果、ひり出された(おいおい)ものからは、程度の差こそあれ、ある特有の「香気」が匂い立つ――と、そういうことになるわけで、↑で挙げた『南山義烈史』なんてのはその最たるもの、ということにはなるのかな。
――と、なぜ後南朝を語ることは「怪力乱神を語る」ことに等しい――、そんな印象を受けることにるのか、その事情をとくとご説明したわけだけれど、さて本題だ。遡ることかれこれ1か月前、ワタシはワケあってウィキペディアの「長禄の変」(嘉吉3年の禁闕の変で後南朝勢力に奪われた神璽を旧赤松家遺臣らが奪い返した事件。で、この際、彼らが手を染めた「なんともおぞましい行為」とは……実は、自天王と忠義王という旧南朝の流れを汲む2人の王子を殺害しているのだ。特に自天王は後南朝の「天皇」だったという説もあって、↑で紹介した「忠義王文書」はそれを裏付けるものとされている。また谷崎潤一郎の「吉野葛」では「遠い先祖から南朝方に無二のお味方を申し、南朝びいきの伝統を受け継いで来た吉野の住民が、南朝と云えばこの自天王までを数え」――と、吉野では特別な存在であることも紹介されている。だから、その自天王の首を刎ねた旧赤松家遺臣らを善玉として描く冒険小説はどう考えたってムリでしょう。やれるとすれば、ホラーかなあ……)の記事にアクセスした。すると、これがもう香ばしいのなんのって。いや、香ばしいっていうかねえ……そもそも水準に達していないわけですよ、ウィキペディアの記事としてね(ウィキペディアというのは、一部で言われているほどアテにならない情報源ではなく、大方の記事は実にシッカリと書かれている――とワタシは思っている)。だってさ、「赤松遺臣らは後南朝に接近するために策略を練った。彼らは「自分たちは(嘉吉の乱以降)どこにも仕える場所がなく、これ以上は耐えられないので吉野の朝廷に参上し、ともに京を奪還したい」、と後南朝に申し入れた。そして、後南朝は赤松遺臣らを受け入れ、康正2年(1456年)12月20日に遺臣ら30人は吉野に向かった」――だよ? これはねえ……。多分、中学生くらいに読んだ本の要約をさせるとこんな感じの文章になるんじゃないかと思うんだけれど、こんなのがね、ウィキペディアで記事として公開されている(いた)んですよ。しかもだ、この引用部分も含め、記事の全11か所で典拠として挙げられているのがとあるウェブ記事なんだけれど、これがBIGLOBEで運用されている個人のウェブサイトと来たもんだ。これはイカンでしょう。もう明確にウィキペディアのガイドライン(信頼できる情報源)に反している。で、ちょうどヒマを持て余していた時でもあったし、書き直しちゃえと。部分的な修正ではなく、全面的な書き直し。ウィキペディアはガイドライン(ページの編集は大胆に)で「大胆な編集」を推奨している。この記事はまさにそれを必要としている――と、これはもう躊躇なくそう判断するに至った。で、半日ばかりをかけて書き直したのがコチラ。森茂暁著『闇の歴史、後南朝:後醍醐流の抵抗と終焉』(角川選書)に多くを依存しつつも、一応、一次史料にも当たった上で書いているので、自分なりには十分に手間を尽くしたつもり(要所要所で一次史料をそのまま引用して見せているのは、ちゃんと読んで書いているんだよ、というアピールと言いますか……)。で、自分としては「これにて一件落着」のつもりだったのだけれど……
後南朝はそんなにヤワな相手ではなかった。というのも、およそウィキペディアで記事として公開するレベルには達していないと思われる後南朝関係の記事は「長禄の変」だけではなかったのだ。「長禄の変」の主要登場人物である自天王と忠義王の記事がそうだし(つーか、「自天王」の記事というのは存在せず、「尊秀王」にリダイレクトされていた。これは尊秀王を自天王に当てる俗説に基づいた処理だと思われるものの、吉野の人たちが今なお「朝拝式」なる古式を挙行してその御魂を慰めつづけているのは他ならぬ自天王なんだから。それが立項されていないというのは大問題)、その自天王に先立って後南朝によって王として奉じられたとされる金蔵主(というのは法名で、王名としては「尊義王」という名が知られているものの、ソースは『南朝皇胤紹運録』ということなので相当に「香ばしい」。なお、「蔵主」というのは「禅寺の経蔵を管理する僧職」の謂で、前出『勤王論之発達』によれば「禪家で藏主の職といふものは、普通雛僧が務むる役で、盛年壯年の者が務むる事は稀である」。このことから本多辰次郎は変当時の金蔵主の年齢を14、5歳だったと推定している)やその兄(あるいは弟)とされる通蔵主の記事もそう。さらには「小倉院」こと小倉宮聖承と「天基王」こと小倉宮教尊の記事ね(小倉宮というのは南朝最後の天皇である後亀山天皇の流れを汲む宮家で、その第2代が聖承、第3代が教尊とされている。ちなみに、森茂暁は「このような反幕府勢力結集のシンボルとして、後南朝史をつうじてもっともめざましく活動したのは小倉宮である」としている)――と、あるわあるわ。そのすべてが中学生の作文レベルとは言わないけれど、およそマジメな知的探究者のレファレンスとなりうるものではない。で、「長禄の変」を問題ありとして書き直したのなら、これらの記事も書き直さなければならない――と、そういうことになるわけだけれど……でも、こっちはただの元ペーパーバック屋なんだから。そもそもそんなことをやるべき立場のニンゲンではないんだ。――と言いつつ、やっちゃたもんなあ、「長禄の変」の編集は。ああ、こんなことになるんなら、迂闊に「長禄の変」を書き直すんじゃなかった。つーか、そもそも「長禄の変」にアクセスするべきではなかったんだ。きっとこれは「後南朝」などという「怪力乱神」に興味を持ってしまったがゆえにワタシが受けることになった報い……?(※さて、ワタシはそれらの記事も書き直したのだろうか? ヒントはこの一連の経緯を綴るに当たって「遡ることかれこれ1か月前」と書き起こしていること)