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錦の御旗という名の「負けフラグ」について
〜令和3年夏に記す②〜

 ああ、8月が終る。これまで経験したどの8月とも違う8月。ワタシの魂に永遠に刻印された8月……。

 さて、きっとアナタは「錦の御旗という名の「負けフラグ」について」という本稿のタイトルに首を傾げられているに違いない。だって、鳥羽・伏見の戦いでは数で劣る新政府軍(意外と知られていない事実だろうと思うんだけれど、鳥羽・伏見の戦いにおける新政府軍の兵力は約5,000、旧幕府軍は約15,000。兵力から言えば旧幕府軍が圧倒していた)が錦の御旗を掲げることによって数的劣勢をはね返し大勝を果たしたわけだから。錦の御旗の効果たるや絶大なり……。しかし、ワレワレは鳥羽・伏見の戦いの結果に縛られすぎているのでは? 日本の歴史をふり返れば(実際に戦場に錦の御旗が翻ったかどうかは別として)錦の御旗を掲げた側が負けたというケースはどれだけでもある。承久の乱が正にそうだし、南北朝時代だって三種の神器を持っていたのは南朝の方なんだから。どっちも「官軍」だったとしても、正統性があったのは南朝であることは明らかでしょう。しかし、勝ったのは北朝。さらに時代は前後するけれど源平合戦だってそうだよね。負けたのは三種の神器と安徳天皇という絶対的切り札を持っていたはずの平氏の方。だから、錦の御旗を掲げることは、決して「勝利の方程式」とは言えないのだ。ただ、「負けフラグ」とまでは言えないよね。鳥羽・伏見の戦いのように錦の御旗を掲げて勝ったというケースが実際にあるわけだから。また「錦の御旗を掲げる」という行為を「自陣営の正統性を担保する証として天皇ないしはそれに準ずる存在を奉ずる」という行為と解釈した場合、たとえば中臣鎌足が中大兄皇子を奉じて蘇我氏を討った乙巳の変なんかも当てはまるはず。そう考えるならば、錦の御旗=「負けフラグ」なんてことはとても言えないはず。

 で、それはワタシも重々承知しているんだ。ただ、ある特定のパターンに絞った場合、錦の御旗=「負けフラグ」という公式は十分に成り立つのだ。その特定のパターンとは……政治的に劣勢に立たされた人物(あるいは政治勢力)が起死回生を図って錦の御旗を掲げるというパターン。たとえば保元元年(1156年)に藤原頼長が崇徳上皇を奉じたケースなんかがそれに当たるはず。この時、藤原頼長は周囲との軋轢が絶えない強権的な政治手法が災いして自分を引き立ててくれた鳥羽法皇の信任も失い、内覧(天皇に奏上された文書をあらかじめ内見すること。この権利は本来、関白に与えられるものなので、内覧を許されることは関白相当の権力を与えられることを意味する)も停止されて半ば失脚状態にあった。そんな頼長が近衛天皇の後継天皇として自身の子である重仁親王ではなく雅仁親王(鳥羽法皇と待賢門院の子。一応、崇徳からすれば弟になる。しかし、崇徳の実の父は白河法皇というのが公然の秘密で、そのことは鳥羽法皇も知っていた。当然、嫌うよねえ……というようなことが、この異例の人事の背景にあったとされている)が擁立されたことに不満を募らせる崇徳上皇を奉じて一発逆転を狙った――というのが保元の乱の構図とされるので、正に「政治的に劣勢に立たされた人物(あるいは政治勢力)が起死回生を図って錦の御旗を掲げる」というパターンそのものでしょう。また延元元年/建武3年(1336年)に足利尊氏が光厳上皇を奉じたケースも当てはまるはず。この時、足利尊氏は後醍醐天皇から討伐の兵を差し向けられており、絶体絶命のピンチにあった。そんな中、5月になって光厳上皇の院宣を得ることに成功。これにより勢いを盛り返した足利軍は5月25日の湊川の戦いで新田・楠木連合軍を破り、6月14日には入京を果たした。足利尊氏は光厳上皇を奉ずることで見事に局面を打開して見せたわけだけれど、この行動が「政治的に劣勢に立たされた人物(あるいは政治勢力)が起死回生を図って錦の御旗を掲げる」というパターンに十分に合致していることがおわかりいただけるはず。一方、敗れた後醍醐天皇は一度は花山院に幽閉となるものの、その後、脱出して吉野に逃れ、こうして始まった南北朝時代は元中9年/明徳3年(1392年)のいわゆる「明徳の和約」で一応の終止符が打たれることになる。この決着、形の上では平和条約を締結した上での「和睦」ということにはなっているものの、実態としては南朝側の「降伏」に近い。それを象徴するのが南朝の後亀山天皇から北朝の後小松天皇へ三種の神器を引き渡す「譲国の儀」。事実上の降伏式典ですよ。またその後の展開もこうした見立てに沿うもので、「両朝御流相代之御譲位」という「明徳の和約」の約束に反して後小松天皇の後継には引き続き持明院統(北朝)の躬仁親王(称光天皇)が擁立され、その称光天皇の後継にもやはり持明院統の彦仁王(後花園天皇)が擁立された。これを不服とする旧南朝勢力(これを俗に「後南朝」と呼ぶわけですね)は、以後、くり返し旧南朝の皇胤を奉じて蹶起することになるわけだけれど、これも「政治的に劣勢に立たされた人物(あるいは政治勢力)が起死回生を図って錦の御旗を掲げる」というパターンに含めるなら、その手始めは正長元年(1428年)、北畠満雅(かの南朝の忠臣として名高い北畠親房の曾孫)が後亀山天皇の皇孫である小倉宮(『南山義烈史』が言うところの「小倉院」であります)を奉じて蹶起したケースだろう。また嘉吉3年(1443年)には源尊秀なる素性不明の人物(一応、史料には「後鳥羽院後胤云々」とあるものの、信憑性は?)を首謀者(と言いきれるのかどうか? 乱の参加者には名門・日野家の当主で従一位にも叙せられた日野有光入道祐光も含まれており、この人物が当時、不遇を託っていたとされることから、ワタシなんかは保元の乱当時の藤原頼長に重ね合わせたい誘惑にも駆られるのだけれど……)とする総勢300人ばかりの武装勢力が金蔵主(もしくは「尊義王」。南朝皇胤としての系譜は定かではないものの、後亀山天皇の皇弟・護聖院宮惟成親王の孫とする説が有力視されている)を奉じて蹶起、御所に乱入して三種の神器の内、宝剣と神璽を奪い去った。宝剣は後に清水寺で発見されるものの、神璽はそのまま行方不明となり、嘉吉の乱で絶家となった旧赤松家遺臣らが赤松家再興という恩賞を目当てにその「奪回」を果たした長禄2年(1458年)まで奥吉野の後南朝の元にあった。ただし、後南朝側はこの戦いで肝心要の金蔵主を失っている。後南朝側としたら痛恨の事態だったに違いない。しかし、後南朝はしぶとい(ダイハード)。ハッキリとした時期まではわからないものの、遅くとも康正元年(1455年)までには新たな旧南朝の皇胤を奉じて蹶起。その皇胤は「自天王」という王名で知られているのだけれど、系譜的な位置付けはこれまた定かではない。しかし、中原康富の日記『康富記』享徳4年2月29日の条に「南朝玉川宮御末孫」として登場する相国寺慶雲院主・梵勝であるとする説が最有力とはなっている。とするならば、南朝第3代長慶天皇の玄孫ということになる(ちなみに、当地には長慶天皇の御陵とされるものが複数存在する。その内、南砺市安居にある御陵山は昭和初期、宮内省が設置した「臨時陵墓調査委員会」による現地調査の対象となった。御陵を管理する安居寺では長慶天皇は元中8年3月18日に同地で崩御したと伝えており、今でも3月18日には法要が行われているという。ただ、『大乗院日記目録』に「応永元年八月一日、大覚寺法皇崩、五十二、号長慶院」と明確に記されているのでねえ……)。ともあれ、こうした一連の経緯を見れば、決して南北朝時代なるものは元中9年/明徳3年で終止符が打たれたわけではないことがわかる。その余波はかの応仁・文明の乱にも及んでいて、西軍の総大将である山名宗全は後花園法皇や後土御門天皇を取り込んで優位に立つ東軍への対抗上、小倉宮の末裔とされる人物(史料には「小倉宮御末」「小倉宮御息」と記されているものの、本当に小倉宮の末裔なのかは疑問も。一応、小倉宮は第3代の教尊で絶家したとされているので)を陣営に迎え入れることを画策、陣営内の利害調整に手こずりつつも文明3年(1471年)8月に正式に京に迎え入れられた。『大乗院寺社雑事記』文明3年閏8月9日の条によれば「京都西方に新主上取り立て申さるると云々(京都西方ニ新主上被申取立云々)」。これも「政治的に劣勢に立たされた人物(あるいは政治勢力)が起死回生を図って錦の御旗を掲げる」というパターンに含められるはず。なお、この「西陣南帝」とも呼ばれる人物が、その後、どうなったのかは実はよくわからない。森茂暁は『闇の歴史、後南朝:後醍醐流の抵抗と終焉』(角川選書)で「「南帝」はあっというまに消えうせる」「あまりにもあっけない「南帝」擁立劇の終幕だった」としているものの、いかにも表現が漠然としすぎている。ただ、以後は各地を放浪することになったのは間違いないようで、しかもその足跡は当地にも及んでいる。壬生(小槻)晴富(室町時代のエリート官僚で、大覚寺統を正統とする北畠親房の『神皇正統記』を批判して持明院統を正統とする『続神皇正統記』を著した――というから、南朝復興運動には批判的だったはず。ただ、応仁・文明の乱では西軍についたとか。なるほど、だからなのか……)の日記『晴富宿禰記』の文明11年(1479年)7月11日の条として「南方宮、今時越後越中次第国人等奉送之、著越前国北庄給之由」。実は、これが「西陣南帝」の消息を伝える最後の史料。これを最後に「西陣南帝」は歴史の闇に消えた、ということになる。もっとも、一切、なんにも残っていないんだけどね、伝承らしきものが。これがねえ、なんとも哀れというか。小倉宮の末裔程度では〝貴種流離譚〟にはなりえないということか……?

 ――と、こうして日本の歴史では「政治的に劣勢に立たされた人物(あるいは政治勢力)が起死回生を図って錦の御旗を掲げる」というパターンがくり返されてきた実態があるわけだけれど、ここで注目して欲しいのは、そんな苦し紛れの一手が功を奏したケースは足利尊氏が光厳上皇を奉じたケース以外には認められないこと。藤原頼長はアームストロング砲(節子、それ保元の乱やない、上野戦争や。しかし、昔から似たようなことをやっていたんだねえ、日本の「武者」たちは……)火矢を放つことも厭わない天皇方のなりふり構わない猛攻の前に上皇方が総崩れとなる中、自らも流矢に当たって瀕死の重傷を負い、最後は父(藤原忠実)との対面も叶わず失意の内に舌を噛みきって果てたことは2012年の大河ドラマ『平清盛』でも哀切なトーンで描かれていた。山本@頼長が最期に口にした「父上」という言葉は今でも耳に残っているなあ……。また正長元年に小倉宮を奉じて蹶起した北畠満雅は、同年12月21日、岩田川の戦いで無念の討死。伏見宮家の家譜『椿葉記』に曰く「伊勢の國司打出て土岐の興安と合戰する處に。國司打負けてやがてうたれぬ。其首みやこへのぼりて四塚に懸けらる」。さらに禁闕の変の実質的な首謀者の可能性もある日野有光に至っては蹶起からわずか3日後に金蔵主とともに討死(『康富記』によれば「金蔵并一品入道矢庭被打也」)。もう惨敗と言うしかない(なお、もう1人の首謀者である源尊秀は一次史料でも討たれたとするものと行方不明となったとするものとがあってなんとも言えない。またこの源尊秀こそは後の自天王であるとする説もあるものの、仮に源尊秀が禁闕の変で討死していたとすればそもそもこの説は成り立たない)。さらに禁闕の変での惨敗後も自天王を奉じて奥吉野でダイハードな抵抗を続けていた後南朝の残党は虚言(ここは『赤松記』が記すところを引くならば――「赤松牢人共身の置所なく。堪忍も績かぬ事なれば。吉野殿を賴申由にて細々吉野へ參り。何とぞ赤松牢人一味致し。都を攻落し。一度は都へ御供申さんと色々申入候へば」云々)を弄して近づいてきた旧赤松家遺臣らに夜襲(時間は子の刻とされている)を受け、おそらくは応戦する間もなかったのだろう、自天王は丹生屋帯刀左衛門と弟の四郎左衛門なるものに、自天王の弟とされる忠義王も上月左近将監満吉なるものに哀れ頸を刎ねられてしまう。後南朝側からするならば、禁闕の変で金蔵主を失ったことに輪をかけた痛恨の事態。この時、彼らは三種の神器の1つである神璽を持っており、いわゆる「忠義王文書」(忠義王の花押が記された文書。後南朝関係では数少ない後南朝側の一次史料)によれば「色河郷、即(平出)先皇山緒之地也、其(平出)龍孫鳳輦、已幸大河内之(平出)行宮也、早参錦幡、可軍功」――と、堂々と錦の御旗を掲げていたことも読みとれる。しかし、旧赤松家遺臣らはそんなのお構いなしに襲いかかったということになる。徳川慶喜には到底、理解できぬ行動……。ともあれ、このあまりといえばあまりの事態に『十津河之記』では――「爰に至南朝の皇統絕て諸人暗夜に燈火を失ひし如く茫然としてあきれ居たり」。カラダは生きていても、ココロは死んだも同然――、そんなところかなあ……。そんな中、唯一、山名宗全だけは敗死ならぬ病死というかたちで生涯を終えることになるのだけれど、その山名宗全にしても歴史の勝者でなかったのは明らか。つまり、「政治的に劣勢に立たされた人物(あるいは政治勢力)が起死回生を図って錦の御旗を掲げる」という苦し紛れの一手を打って成功を収めた人物(あるいは政治勢力)はいないのだ――足利尊氏を除いては。どういうわけか足利尊氏だけは成功して後のケースの先例(あるいは「悪例」。慶応4年6月、秋田藩が斬殺した仙台藩使節を梟首した五丁目橋に立てた掲札に言うところの「尊氏の悪例」であります……)になったようなところがある。そういう意味でも足利尊氏というのは「罪深い」のかもしれない。

 そして、こんなことを踏まえるならば、「政治的に劣勢に立たされた人物(あるいは政治勢力)が起死回生を図って錦の御旗を掲げる」というのは、もう完全な「負けフラグ」ではないかと。確かに足利尊氏がこの手を使って勝ったという事実は存在する。でも、それ以外は全部負けなのだから。苦し紛れに錦の御旗を掲げることは起死回生の一手とはならない――、それが歴史の教訓。こうなると、奥羽越列藩同盟が輪王寺宮を奉じた――なんてのは、もう最初から「負けフラグ」が立っていたようなもの。そんなことに、今頃、気がついている……。