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善児について

 よもやあそこで善児が出てくるとは思わなかったなあ。八重ならずとも「え、善児?」てなもんですよ。もっとも、第1話のあのシーン以降、善児はワタシのアタマの中に棲みついてしまったと言ってもいいくらいで、善児の出番があること自体は大歓迎。今後もどんな場面に登場して「え、善児?」とワレワレを驚かせてくれるのか、それが楽しみでもあり、かつ恐ろしくもある……。

 ということで、その善児について。第1話のあのシーン以降、善児はワタシのアタマの中に棲みついてしまったと言ってもいいくらい――とワタシは書いたのだけれど、「あのシーン」とは、言うまでもない、伊東館から戻る途中の義時が河原にたたずむおそらくはコトをなした直後と思われる善児を目撃するという、あのシーン。その時の、無表情な、コトをなした直後に特有の没我の気配さえうかがわせることのない、それだけに一層不気味な印象を与えずにはおかない面魂。そして、その場所が、河原であるという、この戦慄……。もっとも、三谷幸喜がネタ本にしたと思われる『曾我物語』でも千鶴丸は「松川の奥、とゞきの淵」で水死(同書における表現は「柴漬(ふしづけ)」)させられたことになっている。だから殺害場所が河原であったというのはネタ本通り。これだけを取ればなにもあのシーンにそれほどの戦慄を覚える理由はないのだけれど。ただ、実行犯の身分が違う。『曾我物語』では実行犯は伊東祐親の「郎党」であるとされている。この際だ、さほど長いものでもないので、ここは非凡閣版『現代語訳國文學全集』第18巻「曾我物語」より「賴朝が若君の事」の全文を紹介するなら――

 賴朝は男子の生れたのを喜んで、名を千鶴と付け、つら/\往事を思ふに、祖先が往還し、舊從者が住みし境地、古風懷かしき國なれども、敕勘を蒙り、習わむ鄙の住居(すまゐ)の心地して居つたに、此の度男子の產れたのこそ嬉しけれ、十五歲にもならば、秩父・足利の人々を初め、三浦・鐮倉・小山・宇都宮等を相語らひ、平家に懸け合はせ、賴朝が果報の程を試すさんものと、心して養育するのであつた。斯くして年月を經る程に若君は三歲になり、其の春の頃、入道祐親は大番勤終りて京都より下つても、暫らくは此の事を知らなかつたが、或夕暮に花園の築山を見て居ると、折節若君は乳母(めのと)に懷かれて、前栽に遊んだ、祐親は是を見て
「それは誰が子ぢや」
と問ふと、乳母は返事もせずに逃げ隱れた。祐親は恠しく思つて、卽座に內に入り妻に向つて
「三歲(みつ)ばかりの子の由々しげなのを懷いて前栽に遊び居るを、誰かと問へば返事もせずに逃げたが、彼(あれ)は誰が子か」
と聞くと、継母の事であるから、それを隠さうともせず、却つて折を得て
「それこそ御分(ごぶん)の在京の後に齋き傅(かしつ)き給ふ姬君の、妾が制するのも聞かず、嚴(いつく)しき殿の間に儲け給へる公達よ、御爲にはめでたき孫御前よ」
と、嗚呼(をこ)がましく言ひ立てたが、誠に末も絕へ、所領にも離るべき前兆(さが)であつた。されば讒臣は國を亂し、富める家も破ると云ふ諺、思ひ知られて淺ましかつた。入道は是を聞いて大きに腹を立て
「親の知らざる壻(むこ)やある、誰人ぞ今まで知らぬ不思議さよ」
と怒ると、繼母は、訴へ澄したのが嬉しくて
「それこそ世にあつて誠に賴りある流人兵衞佐殿の若君よ」
とて、可笑氣に嘲弄すると、入道は愈(いよ/\)腹を立て
「娘持ち餘りて置き所無くば、乞食非人などに取らすとも、今時源氏の流人を壻に取り、平家に咎められては詮なし、毒の蟲をば頭を挫(ひし)ぎ腦を取り、敵の末をば胸を裂き膽(きも)を取れとこそ言ひ傳へてある」
とて、郞黨を呼び寄せ、若君を誘ひ出し、伊豆國松川の奧、とゞきの淵に柴漬(ふしづけ)にさした。情なき例(ためし)であつたが、其上にも賴朝の北の方とも云ふべき姬君を取り返し、同國の住人江閒の小次郞に配(あは)した。北の方は名殘惜き閨を出でて思はぬ方に今更新枕して、片敷袖を淚に濡らすのであつた。

 一方、善児の身分は公式サイトによれば「伊東祐親に仕える下人」。三谷幸喜はあえてネタ本の「郎党」を「下人」に変えたわけだけれど、「郎党」と「下人」では身分が違う。「郎党」は侍身分だが「下人」は侍に使役される隷属民で、売買や譲渡の対象ともなる奴隷同様の身分だった。鎌倉幕府が定めた『御成敗式目』には「奴婢雜人事」としてこんなことが記されているのだけれど――「右任右大將家御時之例、無其沙汰十箇年者、不理非改沙汰」。右大将(頼朝)時代の例に倣って沙汰なく10箇年過ぎた者は理由の如何にかかわらず改めて沙汰には及ばず――。もう少し噛み砕いて表現すれば、「奴婢」「雑人」の身分であっても10年以上何の沙汰もなく放っておかれた場合はもう沙汰を受けることはない、つまり自由の身である――、こんなところかな? どことなく翻訳権の10年留保に似ていないこともないような……? ともあれ、鎌倉時代にも「奴婢」の名で呼ばれている人間がいたわけだけれど、実はここに出てくる「奴婢」「雑人」とは「下人」のことを指すのだという。ここは岩波書店版『講座日本歴史』第4巻「中世2」の第5章「中世賤民論」(小山靖憲)より「中世賤民」を論じるに当たっての基本的スタンスを記した下りを引くならば――「中世賤民といえば、非人のみに限定せず、下人・所従もあわせて論じるべきであろう。というのは、鎌倉幕府法などにおいて、事書の部分に多いとはいえ、しばしば下人・所従を「奴婢」といいかえているからである。奴婢とは、いうまでもなく古代律令制下の代表的な賤民であって、その実態はともかくとしても、呼称は中世にも継承されているのである。/このように考えると、中世賤民を論じる本稿においても、非人と下人・所従をほぼ同等に取り扱うべきだということに常識的にはなろう」。要するに「下人」とは被差別民であるところの「非人」と同等に取り扱うべき存在であるということ。で、そんな「下人」であるところの善児は主人である伊東祐親に命じられて頼朝と八重の子である千鶴丸を亡きものにしたわけだけれど、その犯行現場は「河原」だった。これがネタ本である『曾我物語』の記載通りであることは既に記した通り。しかし、実行犯の身分が「下人」だったとなるとコトは容易ではない。それは否応なく「河原」をめぐる「死穢の記憶」へと人を誘う……。

 古来、「河原」は刑場だった。敗軍の将が斬首に処せられるというのは大河ドラマでもおなじみの場面ではあるものの、その舞台の多くは「河原」。ここは近年の大河ドラマを例に挙げるならば――平治の乱に敗れた源義平や治承・寿永の乱に敗れた伊藤忠清が斬首に処せられたのは六条河原(『平清盛』。なお、ウィキペディアの「六条河原」の記事では源為義も六条河原で処刑されたことになっておりますが、『保元物語』では源為義は鎌田政清によって「七条朱雀」で首を刎ねられたとされているので違うんじゃないかなあ?)。また豊臣秀次を謀反人としてフレームアップすべくその公達・側室・侍女・乳母ら39人が斬首に処せられたのは三条河原(『真田丸』)。この際、全ての泥をかぶるかたちで(というトーンで『真田丸』では描かれていた。なんでもオンエアではカットされたものの治部が「オレが全ての泥をかぶる」と言うシーンも撮影はされたらしい)陣頭指揮を取った石田治部が自らが関ヶ原の戦いの首謀者として(「すべてやりきった」というような清々しい表情で)斬首に処せられたのは六条河原。また近藤勇が斬首されたのは板橋の刑場で『新選組!』もその場面で終っていたのでドラマでは描かれてはいないものの(ただし、近藤が斬首にされるシーンの前に松平容保から密命を受けた斎藤一が「近藤局長の御首」を奪い返すべく京に向うというシーンが挿入されていた、まだ近藤が斬首される前だってのに。あそこはちょっと問題あるよなあ……)、その近藤の首は塩漬けにされて京に運ばれ、三条河原に晒し首にされた――。

 「河原」とは、そういう場所なのだ。これを受け、篠田正浩は泉鏡花文学賞も受賞した『河原者ノススメ:死穢と修羅の記憶』で「河原」という場所について「酸鼻を極めた死穢の歴史が累々と積み上げられてきた」とした上で「都に住む人々が敬遠したトポス」としているのだけれど、しかしそんな場所を生活の場とした者たちがいた。それが「河原者」。元来は廃馬廃牛の処理を生業とする者たちだったとかで、その正確な起源を遡るのは難しいものの、平安時代には既に存在した。平安時代中期の公卿・源経頼の日記『左經記』の長和5年正月2日の条として――「或人元正料宛牛一頭令勞飼之間、昨慮外斃之、河原人等來向、剥取件牛之間、腹綿中有黑玉、卽河原人等取之去」云々。しかし、この「屠者」とも呼ばれる者ばかりではなく他にもさまざまな身分・職業の者たちが「河原」を生活の場とした。皮革細工に携わる者(これを「細工の者」と呼ぶらしい)、また「濫僧」と呼ばれる異形の僧たちがいた。ここは賤民研究の画期的名著とされる喜田貞吉の『賤民概説』より引けば――「ここに濫僧とは、当時の文章博士三善清行の「意見封事」に、当時の人民課役を避けんが為に、私に髪を剃り、猥りに法服を着けて、法師の姿に身をやつしたというそれである。「家に妻子を蓄へ、口に腥膻(なまぐさ)を啖(くら)ふ」とあって、すなわち肉食妻帯の在家法師であり、その「形は沙門に似て、心は屠児の如し」とあって、もちろん仏教信仰からの出家ではなかった」。『延喜式』には「濫僧屠者」とも記されているとかで「濫僧」は「屠者」とセットで捉えられていたことがうかがえる。また芸能者を「河原者」と呼ぶこともある。これは現在の京都南座がある辺りがかつては「四条河原芝居街」と呼ばれた日本の芸能のメッカであり、その始まりが室町時代に四条河原に掛けられた芝居小屋であるという歴史的事実を踏まえた蔑称ということにはなるだろう。ただ、驚くべきは、人の差別意識の根深さと言うか。実は篠田正浩がちょっとびっくりするようなことを書いている。篠田正浩の妻・岩下志麻は歌舞伎俳優の4代目河原崎長十郎の義理の姪に当たる(岩下の母・山岸美代子が河原崎長十郎の妻・河原崎しづ江の妹という間柄)。ある時、テレビの仕事で大阪に滞在していた篠田夫妻としづ江は長十郎の贔屓筋の紹介で京都の桂離宮を見学できることになった。ところが――「胸を躍らせて出かけたが、受付の老婦人は記帳した姓名と肩書きを見るや「河原もんはいかん」と言って、しづ江と志麻の入場を拒絶した」。こんなことが現代になってもまかり通ってるってんだから……。ともあれ、こうしてさまざまな身分・職業の者たちが「河原」を生活の場としたわけだけれど、これは「河原」が無税地であったことが理由らしい。再び篠田正浩が記すところを引くなら――「荘園のすき間である「河原」とは、梅雨どきになると水没してしまう土地のことである。中世から近世に至る権力は当然、荒蕪地として租税を取り立てることができないし、人間が定住するのも困難であった」。しかし、そんな見捨てられた土地にたくましく住みついた者ちがたいた、それが「河原者」――ということになるんだろう。で、ここであえて強調したいのは、三条河原や六条河原で死刑が執行される際、その補佐をしたり後始末(死体処理)をしたりするのも彼らだったということ。なんでもその業務を担ったのは「青屋」と呼ばれる人たちだったとかで、再び『賤民概説』より引くなら――「青屋はすなわち藍染屋で、それがエタの種類であると云うことは、京都などでは余程後までも云っていた事で、徳川時代正徳の頃までも、藍染屋は役人村と云われたエタ部落の人々とともに、二条城の掃除や、牢番、首斬り、磔などの監獄事務を掌っていたので知られるが」云々。この「青屋」と呼ばれる「河原者」が行刑に携わっていたことは篠田正浩も書いている。豊臣秀頼の子・国松は大坂の陣の後、わずか8歳で六条河原で斬首に処せられるという過酷な運命に晒されることとなるわけだけれど、「村越道伴覚書」なる史料にはこの処置をめぐって――「可令伐無之に付、是の如きの時は、あおや人外の事に候の間、何時も此等の者は之を伐り然るべきの由」云々。このいささか文意を取りにくい一文を解説して篠田は「「あおや」とは青屋、つまり藍染の染物屋を職業としている人々である。日本の着物文化を支えてきた染色業が、京を中心に一部の地方で、中世から近世にかけては河原者として処刑を担う業を課せられていた。「可令伐無之」、つまり何の罪もない国松を殺害することに気が引けた権力は、人間以下と位置づけした青屋に処分の任を課して口をぬぐったのだ」。

 「下人」と「河原者」は違う。しかし、「下人」も被差別民であったことを踏まえて『鎌倉殿の13人』に描かれた千鶴丸にまつわるエピソードについて考えた場合、どうしたってこの国松にまつわるエピソードに重ね合わせたくなるではないか。実際、↑の文章の後半部分に手を加えて「何の罪もない千鶴丸を殺害することに気が引けた伊東祐親は、人間以下と位置づけした下人に処分の任を課して口をぬぐったのだ」――とすれば、『鎌倉殿の13人』に描かれた千鶴丸にまつわるエピソードについての過不足ない説明文とはなるだろう。そして、これが重要なところなのだけれど、こんな解釈は決してワタシの深読みなんかじゃないということ。三谷幸喜は意図してやっている。その証拠もある。それは、善児という役名。奇しくも演者が梶原善という名前であるため、それに因むという解釈もあるかもしれないけれど、でもこんな重要な役の役名をそんな理由で決めるということはありえんでしょう。そうではなく、これはある歴史上の人物に因んで名付けられたと考えるべき。その人物とは――善阿弥。足利義政の時代に天下第一の名声を恣にした作庭家。昭和9年刊行の『室町時代庭園史』なる書より引くならば――「足利義政時代に天下第一の稱ありし築庭の名人善阿彌は將軍の居館のみならず、命をうけて、將軍の屡々出入せし相國寺諸塔頭、就中僧錄司の居りし蔭凉軒の庭園を造つた」。そんな善阿弥は実は「河原者」だった。これは当時の史料にハッキリ記されている。『尋尊大僧正記』文明3年10月3日の条として――「河原善阿彌明日可上洛云々。召分百疋給之了」。またその孫とされる又四郎のことを記した史料も残されていて、『鹿苑日録』の長享3年6月5日の条として――「某一心悲生于屠家。故物命誓不斷之。又財寶心不貪之」。某(又四郎)は屠殺を生業とする家に生まれたことをひたすら悲しみ、自らは生きとし生けるものの命を慈しみ、財を貪ることもなかった――、そんなところか? それは、どれだけ仕事が評価され、天下第一と讃えられるまでになろうとも「河原者」という出自に関る差別から逃れることができなかったということでもある――。善児という役名が、この善阿弥と無関係であると考えることはワタシにはできない。きっと三谷幸喜は善児に背負わせようとしているのだ、「中世」という時代の(おそらくはドラマの中ではハッキリとは描かれることはないであろう)闇の部分を。ネタ本の設定を変更して千鶴丸暗殺の実行犯を「伊東祐親に仕える下人」としたのも、その名前を善児としたのも、すべてはそのため。なんでも世間には例の「首ちょんぱ」などの台詞を論って『鎌倉殿の13人』を「軽すぎる」と批判する向きもあるようだけれど、とんでもない、「下人善児」が暗躍するこの大河ドラマ第61作は、ワタシにとっては「重すぎる」……。