えーと、なんとなく語呂が良いのでこんなタイトルにしたんだけれど、足利尊氏と直義が戦った「観応の擾乱」も言うならば「兄弟喧嘩」ですよね。そうすると、「日本史上最大」という惹句にふさわしいのはどっちだろう? 物語性で言えば頼朝と義経が争った源源合戦(源氏と源氏が戦ったのだから、源源合戦でいいよね?)の方が優れてはいる。しかし、巻き込まれた人間の規模というか、どっちがより傍迷惑だったかと言えば「観応の擾乱」の方でしょう。で、兄弟喧嘩とは基本的に傍迷惑なものである、ということを前提にして言うならば、より傍迷惑度(?)が高い「観応の擾乱」の方が「日本史上最大」という惹句にふさわしいかなあ……?
ということで、いよいよ『鎌倉殿の13人』はその日本史上2番目に大きい(?)兄弟喧嘩に話が進むわけだけれど、問題はですね、兄(頼朝)はなぜ弟(義経)を討ったのか? これはなかなかに読みごたえのある「ホワイダニット」と言っていい。もちろん、これまでも、梶原景時の〝讒言〟だとか、義経が頼朝の許可なく官位に就いたとか、それが「源氏の棟梁」としての頼朝の立場を冒すものだったとか、それなりにもっともらしい説明がなされてきてはいる。でも、三谷幸喜がそういう出来合の説明でよしとするかどうか? 一筋縄では行かない彼のことだから(第15話「足固めの儀式」を見た今となってはそう評さざるを得ない。ハッキリ言って、上総広常を誅殺した理由は得心の行くものではないし、史料典拠という意味でも部分的には『愚管抄』に拠りつつ、その最も重要な部分ではフリーハンドを決め込んでいるというなかなかの厚かましさ。ただ、『鎌倉殿の13人』という物語にあっては上総広常はああいうかたちで葬るしかなかったんだろう――「朝家」云々という理由はこの物語では採用しないのならば。そして、この一点を除けば、あとは見事に合致していると言えるんだよね、史料を踏まえつつ、その欠落部分では最大限、自由にふるまうという三谷大河のルールに。おそらくはその極北を究めた1編ということになるだろう。ことによると、後世、三谷幸喜という〝ミステリー作家〟を振り返るに当たって代表作として取り沙汰されるのが「足固めの儀式」ということも……?)ここでも相当に斬新な解釈を打ち出してくるのではないかと期待しているのだけれど、ワタシはワタシでかねてより思い描いていた仮説がありまして。この際だ、ここでプレゼンと行きましょうか。ある意味、三谷幸喜との〝競作〟ということにもなるだろうし。つーか、ミタニンが最も避けたいシナリオ……? ということで、最初に結論を示す――
Q 頼朝はなぜ義経を討ったのか?
A そうしなければ自分も「逆賊」になるから。
で、この仮説について説明するためには、義経は「逆賊」であることを説明しなければならない――と、こう書いた時点で、アナタは、え、義経が「逆賊」? と、目を白黒させているに違いない。でも、間違いなく義経は「逆賊」――ニッポンに「逆賊」なるカンネンが存在する以上は――。そもそも「逆賊」と聞いてアナタが思い浮かべる人物は? 足利尊氏? 確かに。また『鎌倉殿の13人』の主人公、北条義時も戦前は「逆賊」と見なされていた。いや、今でもそう呼ぶ向きは少なからずいる。実際、義時は承久の乱で後鳥羽上皇と戦い、勝って上皇を島流しにした。天皇および朝廷に敵対するモノを「逆賊」と呼ぶならば、義時は確かに「逆賊」。で、それと同じように義経も「逆賊」であると。なぜなら、源義経は屋島・壇ノ浦の戦いで安徳天皇を奉ずる平家と戦っている。あまつさえ、義経は安徳天皇を死に追いやっている。これが「逆賊」でなくてなんだ、ということになる。むしろ、義経の罪は北条義時や足利尊氏よりも重い。義時も尊氏も天皇を死なせることはなかった。しかし、義経は、意図したことではなかったとしても、結果として安徳天皇を死に追いやった。その罪は万死に値するはず……。
もっとも、歴史的に見ても義経を「逆賊」とするような言説は存在しない。これについてはどう説明する? うん、それはね、今風に言うならば「忖度」のなせる業だとワタシは思っている。誰に対する? 知れたことよ、時の最高権力者である後白河法皇に対する――。これはちょっと調べてもらえばわかることなんだけれど、義経の尻を叩いて平家追討に向かわせたのは他ならぬ後白河法皇その人なのだ。権大納言・藤原経房の日記『吉記』によれば、義経は元暦2年1月8日、後白河法皇に四国への出陣を奏上して許可を得ている。また『平家物語』第11巻「逆櫓」によれば、義経は後白河法皇の許可を得たばかりではなく、院宣まで賜っていたとされる。ここは山田孝雄校訂『平家物語』(岩波文庫)より引くなら――
元曆二年正月十日〔ママ〕、九郞大夫判官義經院御所へ參て、大藏卿泰經朝臣を以て奏聞せられけるは、「平家は神明にも放たれ奉り君にもすてられ參せて、帝都を出で波の上に漂ふ落人となれり。然るを此三箇年が間、責落さずして多くの國々を塞げらるゝ事口惜候へば、今度義經に於ては鬼界、高麗、天竺、震旦までも平家を責落ざらん限りは王城へ歸るべからず。」と憑し氣に申されければ、法皇大きに御感有て、「相構へて夜を日に繼いで、勝負を決すべし。」と仰下さる。判官宿所に歸て東國の軍兵どもに宣ひけるは、「義經鐮倉殿の御代官として院宣を承はて、平家を追討すべし。陸は駒の足の及ばむを限り、海は櫓櫂の屈がん程責行べし。少しもふた心あらむ人々は、とう/\これより歸らるべし。」とぞ宣ける。
思えば法皇は木曾義仲に対しても繰り返し平家追討を命じていた。法住寺合戦が起きる直前の寿永2年11月16日には「謀叛の噂があるが、もし無実というなら平家追討のために今すぐ西国に赴け(謀叛之條、雖㆑諍㆓申吿言之人㆒、稱㆓其實㆒者、不㆑及㆓遁申㆒歟、若事爲㆓無實㆒者、速任㆓敕命㆒、赴㆓西國㆒可㆑討㆓平氏㆒)」(『玉葉』寿永2年11月17日条)。とにかく、平家を討て、討て、討てと、その一点張り。有り体に言えば、義仲も義経もこの法皇の強硬な姿勢に人生を狂わされたと言っていい。義仲なんて、気の毒で気の毒で。せっかく平家を都から追い払うという大手柄を挙げながら、その十分な恩賞に与ることもないまま次なるミッションを課せられて、従わないなら謀叛と見なすと。もう無茶苦茶ですよ。ちなみに「覚禅鈔」(『大日本仏教全書』第49巻)なる史料によれば、法皇は寿永2年9月12日から10月17日までと11月10日から16日までの2回、顕密諸宗の僧らを動員した大規模な怨敵調伏の修法を執り行っている。で、1度目の対象はシンプルに平家と考えていいでしょう。ちょうどこの時期、義仲は西国で平家と戦っていた。だから、義仲ガンバレの祈祷でもあったはず。しかし、2度目はどうやらその義仲も調伏の対象とされていたらしい。というのも、修法の模様を記録した「蓮華王院百段大威徳供記」なる史料の末尾には「同三年正月廿日、義仲滅亡、二月七日平氏悉被㆑打、以㆑有㆓法験㆒、已上」と記されており、調伏の対象には義仲も含まれていたことが裏付けられるのだ。なんたる理不尽! もしかしたら、義仲が法住寺を急襲したのも(法住寺合戦が勃発するのは、修法終了から3日後の11月19日)その情報がなんらかのかたちで義仲側に伝わったからでは? ミタニンもその辺のことをもう少し描いてくれていたらなあ……。えーと、少しばかり話が逸れた。ともあれ、義経は後白河法皇の意を体して動いていたわけで、その結果として時の今上帝が落命する事態となったとするならば、その結果責任は当然のことながら後白河法皇の身にも降り注ぐことになる。つまり、安徳天皇を死に追いやったという理由で源義経を「逆賊」と見なした場合、その累は後白河法皇にも及ぶということ。それはいかにもまずい――ということで、辛うじて義経は「逆賊」の汚名を免れた――とワタシは考えている。しかし、そう考えるにつけても、なぜ後白河法皇は執拗に平家追討を迫ったのか? それは、2人の天皇が併存するという日本開闢以来の異常事態を一刻も早く収拾する必要があったからだろう。でもねえ、そうした事態を招いたのは当の後白河法皇なんだから。言うならば「#全部後白河が悪い」(笑)。そもそも「新帝践祚」が間違いだったんですよ。「践祚」とは「天皇の位を受け継ぐこと。先帝の崩御または譲位によって行われる」(大辞林)。だから、寿永2年に行われたことは「践祚」にも当たらないわけですよ、安徳天皇が譲位したなんて事実はないわけだから。それで「新帝践祚」と言ったところで、誕生した天皇は、極端な話、「自称天皇」。その類いと変わらない。しかし、現に後白河法皇はそんな選択をした。それは、なぜなのか? これについては、裏付けとして示せる史料を持ち合わせているわけではないのだけれど、おそらくはこの機に乗じて皇統から平家の血を一掃しようとしたのではないか? 平家の都落ち以後、後白河法皇が平家の一掃に乗り出していたのは確か。そういう意図を持ったものからするならば、今上帝が平清盛の血を引く――そして、以後、その血筋で皇統が維持されていく――ことは、到底、容認できないこと。この際、今上帝が平家に連れ去られたことを奇貨として今上帝ごと一掃してしまおう――と、そう考えたのでは? それが、あのあまりにも迅速な「新帝践祚」の理由(平宗盛が安徳天皇を奉じて都落ちしたのは6月25日。後鳥羽天皇が践祚したのは8月20日。わずか2か月弱で後白河法皇は安徳天皇を「諦めた」)。だからね、むしろ後白河法皇の意図としては安徳天皇は「廃位」ということだったのかもしれない。しかし、そう大っぴらに公言できないのは、天皇の証である三種の神器が向う側にあったから。だから、何としてでも三種の神器を奪い返さなければならない。で、平家を討て、討て、討てと。では、安徳天皇のことは? どーでもよかったんじゃないかね。つーか、ここまで想像するのはいささか行きすぎかも知れないけれど――もしかしたら、安徳天皇が壇ノ浦の海に消えるという最悪の結果となったことをめぐっても、後白河法皇だけは別の受け止め方をしていたのでは? やれやれ、これで2人の天皇が併存するという異常事態もめでたく解消だわい……。後白河法皇が安徳天皇の保護に失敗したという理由で義経を責めたということは伝えられていない。それどころか「御感のあまり左兵衛尉に成されけり」(『平家物語』第11巻「内侍所都入」)。この事実こそは後白河法皇の心中を何よりも雄弁に物語っているような……?
――と、長々とした説明となってしまいましたが、改めて要点だけ掻い摘んで説明するならば、時の最高権力者である後白河法皇への「忖度」の結果としてそうなることを免れただけで、本来ならば源義経は日本史上、他に例がないくらいの「悪人」であり「逆賊」とされるべき人物。で、そう考えた時、なぜ頼朝は義経を討ったのか? というのは、もう半分、答が出たようなもんだよね。言うならば、彼は安徳天皇が壇ノ浦の海に消えるという最悪の結果となったことをめぐって後白河法皇とは全く逆の受け止め方をしたのだ。つまり、到底、容認できることではないと。義経は、わが弟ではあるけれど、「逆賊」として討たなければならない。そうしなければ、彼自身が「逆賊」の汚名を蒙ることになる。あるいは、そんな世間の評価がどうこうという以上に、彼自身の価値観に照らして、義経は許せない、ということだったのかもしれない。
ここで、史料を示す。頼朝が平家追討軍の大将軍として長門に布陣――つーか、長門まで進軍して兵粮が尽き、足止めを強いられていた源範頼に送った元暦2年1月6日付け書状――
十一月十四日御文正月六日到來。今日從㆑是脚力を立とし候つる程に、此脚力到來。仰遣たるむね委承候畢。筑紫の事。などか從はざらんとこそおもふ事にて候へ。物騷しからずして。能々閑に沙汰し給べし。構へて/\國の者共に。にくまれずしておはすべし。馬の事誠にさるべき事にてはあれども。平家は常に傾城(○形勢)うかがふ事にてあれば。もしをのづから道にて押とられどしたらん事は。聞耳も見苦しき事にてあらんずれば。つかはさぬ也。又內藤六が周防のせいを以。志をさまたげ候。〔なる〕以外事也。當時は國の者の心を破らぬ樣なる事こそ。吉事にてあらむずれ。又八嶋〔に〕御座〔す〕大やけ。幷に二位殿。女房たちなど。少もあやまりあしざまなる事なくて。向へとり申させたまふべし。かくとだにも披露せられば。二位殿などは大やけをぐしまいらせて。向さまにおはする事もあるらん。大方は帝王の御事。いまに始ぬ事なれ共。木曾はやまの宮。鳥羽の四宮討奉せて。冥加つきて失にき。平家又三條 高倉宮討奉て加樣にうせんとする事なり。されば能々したゝめて。敵をもらさずして。閑に可㆑被㆓沙汰㆒也。內府は極て臆病におはせる人なれば。自害などはよもせられじ。生どりに取て京へぐして上べし。さて世のすゑにも言傳てあらば。いま少吉事也。返々此大やけの御事おぼつかなきことなり。いかにも/\して。事なきやうにさたせさせ給べし。大勢どもにも。此由をよく/\仰含られ候べし。穴賢/\。
さては侍共に。構々心々ならずして有べきよし。能々被㆑仰べし。構々て筑紫の者どもに。にくまれぬやうに。ふるまはせ給べし。坂東の勢おば大將とし。筑紫のものどもをもて。八嶋をば責させて。無㆑念やうに。閑に沙汰候べし。敵よはくなりたると。人の申さんに付て。敵あなづらせ給ふ事。返々有べからず。構々敵をもらさぬ支度をして。能々したゝめて事を切せ給べし。猶々返々大やけの御事。ことなきやうに沙汰せさせ給べきなり。二月十日のころには。一定船をば上ずるなり。〔さては〕佐々木三郞筑紫へは下さがりたるによて。下して備前兒島をは責落たるなり。構々ていかにも物騷しからずして。閑に軍しおほすべし。侍どもの事。是によりかれによりなどして。さゝやきなどして。人に見うとまれ給べからず。又路々の間。兵粮なくなりたるなど。京より方々にうたへ申せども。さほどの大勢の軍粮料にて上らざりしかば。爭かは。さなくて有べきとおもふなり。坂東にも其後別事もなし。少も騷事候はず。委は此雜色に仰含候ぬ。恐々
千葉介。ことに軍にも高名してけり。大事にせられ候べし。
正月六日
蒲殿
いろいろ書かれてはいるけれど、注目は「大やけ」という表現で安徳天皇のことがいささかしつこいくらいに記されていること。しかも、その内容たるや「又八嶋〔に〕御座〔す〕大やけ。幷に二位殿。女房たちなど。少もあやまりあしざまなる事なくて。向へとり申させたまふべし」――と、安徳天皇や二位尼(平時子)の保護に務めるようにという厳命で、しかもそのことを「返々此大やけの御事おぼつかなきことなり」「猶々返々大やけの御事。ことなきやうに沙汰せさせ給べきなり」と2度もくり返している。よほど安徳天皇の安否を気にしていたということですよ。そして、このことを「大勢どもにも。此由をよく/\仰含られ候べし」――と、もしかしたら頼朝には一抹の不安みたいなものがあったのかもしれない、坂東の荒武者どもがとんでもないことを仕出かすのではあるまいかという。だから、何が心配って、それがいちばんの心配だったんでしょう。実際、それ以外は大したこと書いていないわけだから。筑紫の兵とうまくやれとか、千葉常胤を大事にしろとか、それくらいで。だから、とにかく安徳天皇の身の安全――、それがこの時点における源頼朝の最大の懸案事項だったと言うべきでしょう。
もう1つ。今度は鎌倉時代の歴史書『愚管抄』から。建久元年(1190年)、頼朝は後白河法皇の要請に応えるかたちで天下を平定して以来、初の上洛を果たした。精兵千騎を引き連れた堂々たる上洛だったらしい。で、この際、『鎌倉殿の13人』第15話「足固めの儀式」で描かれた上総広常誅殺事件の〝真相〟を次のように後白河法皇に語ったというのだ――
院二申ケル事ハ。ワガ朝家ノ爲。君ノ御事ヲ私ナク身ニカヘテ思侯シルシハ。介ノ八郞ヒロツネト申候シ者ハ東國ノ勢人。賴朝ウチ出侯テ君ノ御敵シリゾケ候ハントシ候シハジメハ。ヒロツネヲメシトリテ。勢ニシテコソカクモ打エテ候シカバ。功アル者ニテ候シカド。トモシ候ヘバナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ。タゞ坂東ニカクテアランニ誰カハ引ハタラカサンナド申テ。謀反心ノ者ニテ候シカバ。力ゝル者ヲ郞從ニモチテ候ハゞ。賴朝マデ冥加候ハジト思ヒテ。ウシナイ候ニキトコソ申ケレ。
上総広常は「功アル者」ではあるけれど、「ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ。タゞ坂東ニカクテアランニ誰カハ引ハタラカサン」、つまり「なんで朝廷のことばかりそんなにみっともないくらいに気にするんだ。ただ坂東でシコシコやってるだけなんだから誰にも命令される筋合いはあるまい」――と、これが朝廷の権威を蔑ろにする不届きな発言ということになるのかな? 頼朝としては「このような者を郎従に持っていたのでは自分まで神仏の加護を失いかねない」として誅殺に踏み切ったと。それが上総広常誅殺事件の〝真相〟かどうかはともかく、後白河法皇にはそう説明したというのは確かなのだろう(記されていることは伝聞情報とはいえ、『愚管抄』というのは九条兼実の弟・慈円の書であり、慈円が兄から聞いた情報と考えれば信憑性はことのほか高いと言うべき)。で、そう捉えた上で、ここに記録された頼朝の言葉を味読するならば、頼朝という人が思いのほか信心深い人だったことがうかがえる。「冥加」とは辞書によると「知らぬうちに受ける神仏の援助保護。冥利」。また「冥加無し」という慣用表現もあるようで、この場合は「神仏の加護がない」。従って↑の「頼朝マデ冥加候ハジト思ヒテ」は「自分まで神仏の加護を失いかねないと思って」となる。これは、源範頼に宛てた元暦2年1月6日付け書状に記されたこととも完全に符合する。同書状では頼朝は「木曽はやまの宮。鳥羽の四宮討奉せて。冥加つきて失にき。平家又三條 高倉宮討奉て加様にうせんとする事なり」。つまり、「木曾義仲はやまの宮(天台座主・明雲のことか? とするならば宮とするのは間違い。明雲は久我顕通の子)、鳥羽の四宮(円恵法親王)を討ったために冥加が尽きた。平家も高倉宮(以仁王)を討ったために滅びようとしている」――と記していたわけで、頼朝という人物の思考法はここに余すところなく表されていると言っていいだろう。当然のことながら、そんな男に朝廷に刃向かうという発想など生まれようはずもない。これを少しシンボリックな言い方で表すならば――坂東に拠点は置くけれど、オレはまかり間違っても平将門になるつもりはない――。もしかしたら平将門こそは人間・頼朝の〝反面教師〟だったのかも……?
その上で、もう1つだけ史料を示そう。今度は『吾妻鏡』の元暦2年3月24日の条。元暦2年3月24日といえば、そう、壇ノ浦の戦いがあった当日なのだけれど――
廿四日。丁未。於㆓長門國赤間關壇浦海上㆒。源平相逢。各隔㆓三町㆒。艚㆓向舟船㆒。平家五百餘艘分㆓三手㆒。以㆓山峨兵藤次秀遠。幷松浦黨等㆒。爲㆓〔大〕將軍㆒。挑㆓戰于源氏之將帥㆒。及㆓午刻㆒。平氏終敗傾。
この後、「二品禪尼持㆓寳釼㆒。按察局奉㆑抱㆓先帝㆒。(春秋八歳)共以没㆓海底㆒。」――と痛ましい描写が続くのだけれど、そこは、まあ、いいでしょう。それよりも、壇ノ浦の戦いの描写。それが、これだけなんだよ。このことをワレワレはよくよく噛みしめる必要がある。当然、それにはそれなりの理由があると考えるべきで、おそらくは安徳天皇の入水という最悪の結果に終わった戦いのディテールが源氏側にとっては決して「不可抗力」だったと言い切れない内容を含むものだったのだろう。有り体に言うならば、義経は安徳天皇の身の安全を図るための最善の策を取らなかったのだ。いや、それどころか、安徳天皇の乗る船の水夫に矢を放ったということだってないとは言い切れない。それは、主上に向けて矢を放つも同然……。なお、よく知られていることだけれど、この戦いには梶原景時が軍奉行(軍監)として同行していた。従って鎌倉は戦いの詳細については相当程度正確に把握していたと考えていい。にもかかわらず『吾妻鏡』にはこれだけしか書かなかった――ということをやはりワレワレはよくよく噛みしめる必要がある。壇ノ浦の戦いの詳細は、間違いなく、源氏が「逆賊」として指弾されかねない事実を含んでいたのだ――。こうしたモロモロの状況証拠を積み重ねれば、「頼朝はなぜ義経を討ったのか?」という問の答は自ずと明らかではないだろうか? 源義経は安徳天皇の身の安全を図るための最善の策を取らなかった。それは頼朝からの軍令にも叛いた所行。「冥加」という観念に取り憑かれていた頼朝にしたら、到底、容認できるものではなかったろう。それこそ「力ゝル者ヲ郞從ニモチテ候ハゞ。賴朝マデ冥加候ハジ」。だから、頼朝は義経を討った、討たざるを得なかった、そうしなければ自分自身が「逆賊」となる――と、そう考えるに足る高い蓋然性があるようにワタシには思えるのだけれど……。
5月8日放送の第18話「壇ノ浦で舞った男」は突っ込みどころ満載。ザッと思い浮かぶままに挙げるなら――
ただ、安徳天皇の入水シーンは厳粛にして荘厳だった。それぞれのもののふの対処の仕方にも思いが感じられた。合掌するもの、見るに忍びず背を向けるもの、信じられんという表情のまま凍りつくもの……。皆それぞれの仕方で「痛み」を表現していた。それは「今上帝が戦乱の中で命を落す」という、日本史上、後にも先にもこの1回きりというおよそあり得ない――あってはいけない場面に遭遇したものたちの姿だった。そう、決して「先帝」ではないんだよ、今上帝なんだよ、義経が死に追いやったのは。そう考えるならば、頼朝がなぜ義経を討った――討たなければならなかったのかは、もう明らかだと思うんだけどねえ……。