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訃報、但し絶対でない。
〜言うならばソレは『風見潤幽霊事件』であること〜

 ああ、これは、村山潤一なんだね。そうすると、風見潤の本の装画(イラスト)をかやまゆみが担当するか村山潤一が担当するかという世界線の分岐点が1989年あたりにあったということに……?

 さて、検索でこの記事にたどりついた人は先刻承知だと思うけれど、風見潤は現在、行方不明となっている。いや、行方不明というよりも、生死不明と言った方がいいかな? 2014年12月、作家でシャーロック・ホームズ研究家でもある北原尚彦が自身のツイッターアカウントで「訃報、但し絶対でない」として「翻訳家・作家の風見潤さんが、お亡くなりになっていることが「ほぼ確実」であると判明しましたのでお知らせします。階段から落ちて亡くなられたらしいです。ただ、結構月日が経ってからの調査で判明したことのため「絶対」ではありません」として、彼にとっては青山ミステリの先輩ともなる作家が見舞われたなんとも痛ましい出来事を公表。ただし、「絶対でない」と言う通り、事実関係がいささか曖昧で、公的確認も取れていないというなんともあやふやな「訃報」。しかし、「このままだといつまで経っても公開できないので、そろそろという判断をしました」――と、言うならば見切り発車での公表だったことを告白。そして「公開することにより「その件だったら詳しく知ってる」という方が出てくる可能性もある、と考えました。逆に「いや、風見さん生きてるよ」という可能性も数%ながら残っています。いずれにせよ、何かご存じの方、ご連絡ください。よろしくお願いします」――と一連のツイートを締め括っているのだけれど、結局、有力な情報は寄せられなかったらしい。で、今以て風見潤の行方ならびに生死は不明、という奇態な状況が続いている、ということになる(なお、北原氏の一連のツイートは有志によりtogetterとしてまとめられている。参照される場合はこちらが便利です)。でだ、検索でこの記事にたどりついた人は、こんな風見潤をめぐる奇態な状況をどう思っているのだろう? 風見潤は、北原尚彦がツイートした通り、階段から落ちて亡くなった? それで、納得している? ワタシはねえ、納得していないんですよ。つーか、ハッキリ言うならば、「階段から落ちて亡くなられた」というのは、テイのいい作り話ではないのか? と、そんなふうにさえ思っている。いやね、この一件を推理小説の要領で読み解くなら、どうしたってそういう結論にならざるをえないんですよ。これについては、昨日今日、思いついたことではなく、永らくココロに思い描いていたこと。でも、コトは人の生死に関ることなんだから、そんなに軽々に論じていいはずはない。で、これまでは、自分のココロに思い描くのみ、としていたのだけれど……これは考えようでね。もしこれが1つの〝作品〟だとするならば、それを〝論じる〟というのは、1つの正しい態度ではあるだろう。そして、ワタシにはこれが1つの〝作品〟であるように思えてならないのだ、論じられることを待っている、1つの優れた〝作品〟――。そんな思いが、ここに来て沸々と湧いてきた(そんな心理の奥には「天文考古学者・神堂賢太郎」シリーズ2冊が思いのほかの凡作だったことに対する悔しさみたいなものがあるのかも知れない。風見潤という作家がこの程度の作家でいいはずはない、というような……)。ということで、ここは思い切って、この一件を『風見潤幽霊事件』(?)として読み解いた場合のワタシなりの〝推理〟を書いてみることにしよう。

 まず、北原氏のツイートをよくよく読むと、推理小説を読み慣れたものからすれば到底、見逃せない疑問点があるのだ。ここは当該ツイートを読んでもらうことにしよう――



 調査に当たった日暮雅通も戸川安宣も親族でもなければ弁護士でもないため、「最終的な公的確認が取れていません」――というのは、まあ、わからないではない。でも、風見潤は階段から転落して亡くなったとされているのだ。であるならば、当然、警察の捜査対象となる。ことによると、他殺ということだってありうるわけだからね。その場合、〝ガイシャ〟の身元確認は最優先事項。で、北原氏のツイートによれば、当該人物は「身寄りがなかったため近所の方達で葬儀を出した」というのだから、火葬もした、ということなのだろう。当然、警察がそれを許可した、ということになるだろうから、警察は当該人物の身元を特定した、と見なすのが妥当。じゃなきゃ、火葬を許可することはないでしょう。だから、警察は当該人物の身元を特定したんだよ。であるならばだ、しかるべき方法で警察に照会すれば、北原氏が言うところの「公的確認」は取れるだろう。風見潤の関係先には講談社のような大手出版社もあるわけだから(風見潤は永らく講談社X文庫ティーンズハートの主力作家として活躍。総刊行点数は76冊に上る)。当然、さまざまな法律案件を処理する法務関係の部署を持っているはずで、たとえば講談社が当該部署を通して警察当局に対し、○○年○月頃、○○荘で階段から転落死した人物に関して身元確認は取れているのかと照会すれば警察だって回答するだろう。出版社は印税支払いというかたちで作家とは利害関係を有する以上、警察が回答を拒否することはないはず。確かに第一報の時点では「最終的な公的確認が取れていません」という状況はありえるとしても、その状況のまま推移するというのは、ちょっと考えられないんだよ。つーかさ、話はもっと単純かも知れない。仮に警察の捜査によって被害者が風見潤という著名な作家だと判明したのなら、しかるべき筋からの照会があろうがなかろうが、警察が発表すると思うんだよね。それが日本の警察ですよ。だから、そもそもの話として、北原尚彦のこの説明はおかしいのだ。

 おかしな点は他にもある。実はこの風見潤を取り巻く状況を一編の怪異譚に仕立て上げた作家がいるのだけれど、これが、奇しくも、と言うべきか、案の定、と言うべきか、やはり青山ミステリOBの津原泰水なんだ。もっとも、風見潤は1951年生まれ、津原泰水は1964年生まれなので、同じ青山ミステリの出身とはいえ、一回り世代が違う。でも、ミステリ界で一大派閥を形成しているワセダミステリOBへの対抗上――つーか、ワセダミステリ何するものぞの気概はOB間で共有されているのではないかなあ、と勝手にワタシなんかは想像しているのだけれど――青山ミステリOBは定期的に集まっているらしい(そういうことが↓の引用部分に記されている)。これが1つの推理材料だということを頭に入れておいていただいて――そんな青山ミステリOBである津原泰水が2015年に美学文芸誌『エステティーク』第2号に発表した「病の夢の病の」こそは風見潤(作中では「K氏」。なお、本作は一部改稿の上、ちくま文庫版『猫ノ眼時計』に収録されているのだけれど、こちらでは「風見鷄」と改変されている)の「訃報」を一編の怪異譚に仕立て上げた〝怪作〟。うん、ここは〝怪作〟という言い方でいいだろう。なぜか? それはね、当の津原泰水が本作について「途中まではまるきり実話」とツイートしているにもかかわらず(しているんです。それがこちら)、記されている事実関係が北原氏のツイートから読み取れる事実関係と相当に異なっているため。まず、北原氏のツイートでは第一報を受け取ったのは北原氏で、某版元が風見潤に本を送ったら「その方はもう亡くなっており、今はもう別な人が住んでいるから以後送らないで欲しい」と大家から連絡が来た。それを北原氏が編集氏から聞いた。で、北原氏はやはり青山ミステリOBである日暮氏に相談した――というのがコトの発端ということになる。一方、「病の夢の病の」ではやはり日暮氏(作中では「Hさん」)がキーパーソンとして登場するものの、北原氏のツイートとは違って自身の担当編集者でありK氏の担当でもあった人物からコトの次第を聞いたとされている――

 Hさんも小生も、大学に於けるK氏の遠い後輩にあたる。Hさんは翻訳家である。彼の担当編輯者にはK氏の担当であった人もいる。酒席でふと、K氏はどうなさっているか知っているかと問われたHさん、
「とんと会っていませんね、もう十年以上」と答えた。
「貴方がたの倶楽部は仲が良かったから、今でも定期的に集まっていると聞いていましたが」と、この倶楽部とは、推理小説を研究すると称して集まってはくだくだと酒を飲んでいるばかりだった半端者たちのことで、しかしどれもこれもが貧しいからそのぶん結束は固かった。ポケットの小銭を供出して二つのインスタントラーメンを買ってきて、三四人でその鍋を囲むような日々を過ごせば、否応なく家族のごとき情が生じて卒業後も離れがたい。似たようなOBとの繋がりも強い。しかし学生時代から翻訳で稼いでいたというK氏は抜きん出た存在で、小生にとっては憧れの先輩だった。
「Kさんは滅多にお出にならないんです。儀礼上、案内状を送ってはいても、軽井沢から足を運んでくださいとは申し上げにくいですしね」

 ところが、これに対し件の編集者は「軽井沢には居られまいね」。そして、彼が同僚の編集者から聞いた話として、K氏の意外な近況を語って聞かせるのだ。それによると、てっきり楽隠居を決め込んでいると思っていた軽井沢の家は庭木が塀の外まで飛び出すなど、荒れ放題。さらに「分厚いゲラ刷りだって放り込める犬小屋のように立派な郵便受け」からは何通もの郵便物がはみ出して雨に打たれ、乾いてはまた雨に打たれて滝を固めたようになっている。差出人を観察してみると、どれもこれも金融会社の督促状。当然のことながら、呼び鈴を鳴らしても返事がない。それが7、8年前のことだという。ところが、そんな話を聞いてから数年経った頃、とつぜんK氏から電話連絡があり、「新作の仕上がる目処がついたから君の処でだしてくれないか」。もちろん、断る理由はない。で、いつごろ仕上がりそうですかと問うと、「そのうちだよ」。そして「良かった良かった、これで無駄にならない」。ところが、それきり連絡がないという。さて、そんな話を聞かされたHさんだが――

 釈然としない想いを抱えたまま翌日を迎えたHさん、K氏の居所を知っていそうな各所に連絡をしてみたが、誰も彼もが十年は姿を見掛けていないと口を揃える。そのうち探索を諦めた。するとつい先日、同じ編輯者から電話があって、どうやらK氏は亡くなっているようだと伝えてきた。
「――ようだ、とは?」
「とあるアパートの管理人が、外階段を転がり落ちて亡くなった独り暮しの住人の、遺品を預かっているのだが、本棚を見たところこの人は作家か評論家じゃなかろうかと、あちこちの出版社に問い合わせているんです。一緒に行って遺品を確認してもらえませんか」
「その故人がKさんだと? 遺品を確認するまでもなく、ご本名なら存じていますが」
「それが、H・Mという姓名を名乗っておられたそうで」
「それは私の名前です」
「はい、だからぴんと来まして、どうやら借金取りから逃れるために偽名で暮しておられたんじゃないかと――」

 これが、まあ、「病の夢の病の」に綴られた、コトが発覚するに至るザックリとした流れということになる。で、読んでもらえばわかるように、北原氏とのツイートとの食い違いは日暮氏に情報提供した人物の違いに止まらない。どちらにも大家(アパートの管理人)なる人物が出てくるのだけれど、その言い分が全く異なっている。北原氏のツイートでは「その方はもう亡くなっており、今はもう別な人が住んでいるから以後送らないで欲しい」と、亡くなった人物が風見潤であると認識していることをうかがわせている。一方、「病の夢の病の」では「遺品を預かっているのだが、本棚を見たところこの人は作家か評論家じゃなかろうかと、あちこちの出版社に問い合わせている」というのだから、亡くなった人物が文筆家らしいということまでしかわかっておらず、むしろ身元を特定する必要から自分の方から出版社にアプローチをかけている、ということになる。さらに北原氏のツイートだとアパートの部屋にはもう別な人が住んでいるのだけれど、こちらではまだ空き部屋。従って、こちらの場合、風見潤(と思しき人物)が亡くなってからまだあまり日が経っていない状況と考えられる。これは「結構月日が経ってからの調査で判明したことのため」という北原氏の説明とは大違い――と、ハッキリ言って、何から何まで違うと言っていいような塩梅なんだ。もちろん、小説なんだから、それなりの味つけというのはあって然るべき(実際、小説では、件のアパートの管理人は「水木しげるの漫画に出てきそうな丸眼鏡をかけた老人」と形容されていて、そんな一癖も二癖もありそうな人物が「借金取りもかくやという居丈高な調子」で葬儀費用の負担を求めたことや遺品を勝手に処分したらしいことが記されている。さらに、身元特定の決め手になり得たかも知れない、故人がかけていた眼鏡はというと――「故人が階段落ちしたさいすっ飛んで地面に転がり、救急隊員やアパートの住民による騒ぎの最中に誰かが踏んで潰れていたので、捨ててしまったのだそうだ」。そういうね、いかにも含みのありそうな小説らしい味つけは随所になされている)。ただ、当の津原泰水はわざわざ「途中まではまるきり実話」とツイートしているわけですよ。である以上、本当なら北原氏のツイートとは相当程度、事実関係が一致していないとおかしいわけですよ。ところが、実際には何から何まで大違いと言っていいような塩梅であるという……。

 さらに、もう1つあるんだ。場合によっては、これが決定打と言ってもいいかも知れないのだけれど……実は風見潤は一般社団法人日本推理作家協会の会員名簿には2022年時点でも「現会員」として掲載されているのだ(こちらが日本推理作家協会の公式サイトで閲覧できる風見潤の会員情報です)。これがなぜ決定打になり得るのかというと、それは日本推理作家協会の会員管理の実態にある。どうやら日本推理作家協会というのはなかなかに会員管理が厳格な組織のようで、相当の有力作家でも年会費を滞納すると除名処分となるらしいのだ。これは自らがそういう処分を受けたという人物の証言があるので間違いない。しかも、その人物とは、誰あろう、津原泰水だってんだから驚くよりほかない。ここは津原氏が運営するブログ「ラヂオデパートと私」の2007年10月16日付け記事を読んでいただこう――

 パーティには滅多に出ない。ホテル立食の安酒が好きではない。
 日本推理作家協会は会費の未払いで除名された(言い訳がましいが、ある時機からは突然の会費倍増への抗議行動のつもりだった。除名となったことは桐野夏生氏から聞いて知った)。
 日本文芸家協会が時々勧誘のお便りをくださるが、入会のための経費が高いので入っていない。
 e-NOVELSには「デジタル化時代の作家の権利保持」という大義に感銘をうけて加わったが、「ここはフリーマーケットだ」と意味のわからないことが叫ばれ始めたので辞めた。蚤の市? アンティーク市? 言葉の扱いが本職の者たちがfleaとfreeを混用しているのだから話にならない。laissez-faire(レッセフェール)いう意味で使っていたのだろうか? それは放任経済とでも訳すべき語であって、一団体の指針になどなりえない。百歩譲って、近年の造語フリマを意味していたのだとしても、そういう同人活動がどう権利保持に繋がるのか、未だにわからない。単なる護送船団だったようだ。そうこうするうち企業に吸収されてしまった。

 だから業界の情報を、僕は殆ど知らない――とこの記事は続くのだけれど、ともあれ2003年には『少年トレチア』で第56回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門の候補にもなった津原氏にしてからが年会費の未納を理由に除名処分とされるくらいには日本推理作家協会は会員管理が厳格であるということ(ちなみに、日本推理作家協会の会員名簿を五十音で検索した場合の「か行」がこちら。この同じページをarchive.orgに保存されている過去のスナップショットと比較してみるとどうなるか? たとえば、2015年1月24日時点のスナップショットがこちらなんだけれど、花衣沙久羅、笠井潔、風間九郎など、この時点では「現会員」として登載されていた作家が現在は消えているのがわかる。退会されたか、はたまた津原泰水のように除名となったか。いずれにしたって、日本推理作家協会の会員管理はかくも厳格であるということ)。その日本推理作家協会の会員名簿に風見潤は現在も「現会員」として登録されている――ということは、風見潤は今も日本推理作家協会の年会費を納付し続けているということになる。つまり、風見潤は生きている……。もっとも、風見潤は非公式ながら訃報が報じられているという特殊な状況にあることに鑑み、日本推理作家協会が風見潤の会員資格を凍結状態にしている、という可能性だって考えられないわけではない(この点は、archive.orgに北原尚彦が風見潤の「訃報」をツイートした2014年12月19日以前のスナップショットが保存されていれば重要な状況証拠となりえたはずなんだけれど、残念ながら2015年1月24日のスナップショットが最古)。でも、それならそれで、その旨、一言、説明があるはずだと思うんだよね。しかし、そんなものは一切ない……ということは、やっぱり風見潤は日本推理作家協会の年会費を今も納付し続けているんじゃないのかなあ……。ちなみに、風見潤は日本推理作家協会の会員名簿には2022年時点でも「現会員」として掲載されているという事実はウィキペディアの「風見潤」の記事にも記載されている。加筆したのは、何を隠そう、このワタシであります。そうする価値は十分にあるという判断。ただ、これまでのところは何の反応もなし。きっと見てると思うんだけどなあ。「ウェブ百科事典」で生没を確認したりしているわけだから……。

 ともあれ、こういうような事情なので、風見潤は今も生きている可能性は北原尚彦がツイートで述べた「数%ながら残っています」という状況では全然ないと思うんだよね。つーか、日本推理作家協会の会員情報を素直に受け取るなら、風見潤は生きている――、そういうことになるはず。で、そう受け取った上で、出発点に戻ろう。そう、北原尚彦の2014年12月19日付けツイート。その内容には、推理小説を読み慣れたものからすれば到底、見逃せない疑問点がある。さらには、この一件を一編の怪異譚に仕立て上げた津原泰水の「病の夢の病の」が描き出す事件の一部始終は何から何まで北原尚彦のツイートと食い違っている――当の津原泰水がわざわざ「途中まではまるきり実話」とツイートしているにもかかわらず。これはねえ、そもそもの話(風見潤と思しき人物がアパートの階段から転落して死亡した)がフィクションであるという端的な証左だと言っていいと思うんだ。じゃなきゃ、ここまで食い違うってことはありえませんよ。で、そうだと仮定した場合、一体、どんな状況が考えられるのか? あるいは、どんなストーリーを想定すれば、この奇態な状況を過不足なく説明することが可能なのか? そして、そのストーリーの背後には誰か特定の人物がいるのかどうか……? ワタシはね、もしこの一件に〝作者〟がいるとするならば、その該当者は風見潤以外にはいないと思う。風見潤以外の何人も「風見潤を殺す」なんてことはできないはずだから。つまり、風見潤が彼ら(北原尚彦や津原泰水ら青山ミステリOB)に頼んだ――オレは階段から落ちて死んだことにしてくれ、と。

 ウィキペディアの記事にも書かれている通り――つーか、この下りを書いたのもワタシなので、ここはウィキペディアの記事にも書いた通り、とすべきかな?――2006年3月、永らく主力作家として活躍してきた講談社X文庫ティーンズハートが刊行を終了。最後に刊行されたのは折原みと『アナトゥール星伝20 黄金の最終章』、小林深雪『奇跡を起こそう~もう一度』、秋野ひとみ『ラストシーンでつかまえて』、そして風見潤の『夜叉ケ池幽霊事件』だった。これを最後に風見潤の新作は発表されていない。また、その存在が公に確認されたのも、2008年2月24日、河出書房新社刊行の奇想コレクション『蒸気駆動の少年』(ジョン・スラデック著、柳下毅一郎編訳)の発売を記念してオリオン書房ノルテ店で開催されたトークイベントが最後となっている。はたして講談社X文庫ティーンズハートの刊行終了が風見潤をどのような心的状況に追いやったのか、それはわからない。しかし、事実として彼はそれ以降、新作を発表しておらず、公的な場に姿を現わすこともほとんどない。風見潤が文壇から距離を置こうとしていたことは間違いないように思われる。ただ、新作は刊行されていないのだけれど、旧作は刊行されているんだよね。それが、2015年3月に刊行された『クトゥルー・オペラ:邪神降臨』(創土社)。1980年から82年までにソノラマ文庫から刊行された『邪神惑星一九九七年』『地底の黒い神』『双子神の逆襲』『暗黒球の魔神』の合本。巻末の菊池秀行による解説によれば「スペース・オペラとクトゥルー神話の融合体ですよ、あなた。(略)ひょっとしたら、日本のクトゥルー神話長篇シリーズの第一号のみならず、SFとホラーを合体させた最初の長篇シリーズとの栄誉も冠せられるかも知れない」。また解説の冒頭では風見潤の〝近況〟について「本篇の作者・風見潤は不可思議な人物であった。実はエイリアンだったとかいうことではなく、数年前から行方不明――軽井沢に建てたばかりの新居と土地を残して失踪したきりなのである」。で、もしかしたらきっかけはこの〈クトゥルー・オペラ〉シリーズの再版だったのではないか? 旧作の再版のためには著作権者の許諾が必要となるわけだけれど(同書奥付には「著作権所有者様と連絡が取れなかったため、著作権使用料を供託いたいしました」との但し書きが付されている。いわゆる「オーファンワークス」としての刊行ということになる)、そのためにやはり青山ミステリOBである菊池秀行あたりが後輩(風見潤が菊池秀行の「一年後輩」――と、菊池秀行が記すところによれば)にアプローチした。そうすると、思いもかけない条件を提示された。それが、オレは行方不明であり、もう死んだ可能性もあることにしてくれませんか? という提案。それによって、文壇とは完全に縁を切ろうという腹積もりか? いや、それだと、日本推理作家協会の年会費を今も納付し続けている理由を説明できない。文壇とは完全に縁を切ろうという腹積もりなら、当然、日本推理作家協会の年会費なんて納付し続けるはずがない。とするなら、目的は別ということになるわけで……もしかしたら、風見潤にとってこれは1つの〝作品〟なのではないか? 自らは表に出ず、ゴーストライターに徹した――。しかし、なんとも突拍子もない提案ではある。迷った菊池秀行は北原尚彦や津原泰水ら青山ミステリOBに相談した。すると、「おもしろい」、あるいは「あの人らしいな」。そして、「誰にも迷惑がかからないんなら、いいんじゃないの」。かくて、衆議一決。まずは北原尚彦がツイートというかたちで風見潤の「訃報」を報じることになった。それが、2014年12月19日のこと。そして、2015年3月1日、『クトゥルー・オペラ:邪神降臨』は刊行された……。



付記 作家が「自分自身を殺す」というなんともトリッキーなことをやったケースは現に存在する。殺ったのは、都筑道夫。殺られたのは、淡路瑛一――。ご存知の方はご存知でしょうが、淡路瑛一というのは都筑道夫の数あるペンネームの1つで(そもそも都筑道夫というのもそうなんだけどね)、1958年、雑誌『マンハント』が創刊されるや翻訳スタッフとして参加。当時、都筑道夫は『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の編集長だったので、一応はライバル誌となる新雑誌に都筑道夫名義で参加することは憚られたのだろう。ということで、淡路瑛一名義での参加となった(んだと思う)。で、都筑道夫はこの淡路瑛一を自作の中で殺しているのだ。集英社文庫版『猫の目が変わるように』の解説で千葉順一郎(というのも都筑道夫の数あるペンネームの1つなんだけどね)が記すところを引くならば――「おまけにだぜ。都筑は長篇推理小説が出せるようになると、その二作目の『猫の舌に釘をうて』で、あろうことか、あるまいことか、淡路瑛一を殺している。いちおう主人公になっていて、結末もあいまいにしてあるが、淡路瑛一は死ぬんだよ。都筑道夫は、人殺しなんだ」。しかし、なぜ都筑道夫はそんなことをしたのか? これについては、こんな〝解説〟がある――「カート・キャノンという『マンハント』の人気作家がいた。同名の主人公を使ったシリーズが人気を博していたのだが、これは、あのエヴァン・ハンターのペンネーム。で訳者は、淡路瑛一。のちに、本国で終了したこのシリーズを、淡路瑛一が書き継ぐほどの人気だった。この淡路瑛一というのは実は、都筑道夫。つまり、作者も、訳者も、正体をかくしていたわけだ。/で、この日本版のシリーズを終了させるために、淡路瑛一が死んだことにするという番外編まで付いてきた」(鏡明著『ずっとこの雑誌のことを書こうと思っていた。』より)。ただし、鏡明が書いていることは必ずしも正確とは言えない。確かに本国で終了したシリーズが日本で書き継がれたという事実はある。いわゆる「贋作カート・キャノン」シリーズがそれ。ただし、その作者は淡路瑛一ではなく、都筑道夫。再び千葉順一郎が記すところを引くならば――「うん、あれを淡路が訳して、評判がよかった。連載がおわっても、もっと読みたい、という投書が、読者からあったそうだよ。そこで、編集長の中田雅久さんが、淡路に続篇を書かそうとした。パロディじゃなくて、パスティーシュというのかな。林不忘の『丹下左膳』の新版を、川口松太郎が書いているだろう。ああいうやつだね。そうしたら、都筑がしゃしゃり出て、その仕事をとってしまったんだよ」。ま、当人が書いているんだから、これで間違いないでしょう。そうすると、都筑道夫が淡路瑛一を「殺した」のは、カート・キャノンシリーズの続編を書くという仕事を淡路瑛一から横取りするため――ということになるのかな? いずれにしても、作家が「自分自身を殺す」というなんともトリッキーなことをやったケースは現に存在するということで……。