PW_PLUS


「軟派出版の帝王」はこうして生まれた。
〜シン・ウメハラホクメイ伝のススメ〜

 この6月以来、フランス書院の海外ポルノ小説シリーズだの、生島治郎が晩年に書いた「ポルノ小説まがい」の作品だの、田中コミさんが「ポロポロ」以前に書いていた(今は容易に読むことができない)「色モノ小説」だの、「そっち系」の本ばかり読み耽ってきた流れで、わが富山が生んだ「軟派出版の帝王」梅原北明に対する関心がムクムクと。で、野坂昭如が北明をモデルに書いた『好色の魂』(ちなみに、ワタシはこの小説について少しばかり誤解しておりまして。よく知られているように野坂昭如は雑誌『面白半分』の「責任編集」を担っていた1972年、春本として名高い「四畳半襖の下張」を伏せ字なしで掲載。これが刑法175条の「猥褻文書の販売」に当るとして書類送検され、翌年には正式に起訴された。ここに野坂昭如は刑事被告人となったわけだけれど、ワタシは『好色の魂』という小説はそんな自らを「数十回に及ぶ発禁と逮捕」を繰り返したとされる梅原北明に重ね合わせて描いたもの――と思い込んでいたのだ。ところが、事実はそうではなく、小説『好色の魂』は「好色の魂:ある春本作家の一生」として『小説新潮』1967年10〜12月号に連載されたものだというのだ。ということはですよ、直木賞を受賞した「アメリカひじき」が『別冊文藝春秋』1967年9月号、「火垂るの墓」が『オール讀物』1967年10月号に掲載されたものなので、それらと全く同時期の作品ということになる。野坂昭如という作家はそんなピカピカの新人作家だった時代から梅原北明に関心を寄せていたわけで、これはもう筋金入りだなあ、と……)とか北明の長男という梅原正紀氏が書いた「梅原北明 その足跡」(学芸書林刊『ドキュメント日本人6』所収)とかを読んだりしてその人物像の把握に努めたりしているわけだけれど……でもね、もしかしたら土台が間違っているのかも知れない――梅原北明なる人物について考えるに当たっての土台。どういうことか?

 まず、野坂昭如の『好色の魂』では梅原北明の生い立ちを次のように記している――

 北辰は、明治三十二年一月、士族貝原浩義の次男浩史として、富山市桜木町に生れた。
 浩義の父浩尚は、前田藩勘定奉行、維新に際して、回漕問屋に投資し、移り変る世を巧みに立ちまわって金を残し、神通川の川辺に料理旅館をひらき、浩義はその末子、幼時より神童の誉れ高く、特に剣技に長じ、富山市武徳会の小天狗とうたわれて、撃剣打ちこむ時の、裂帛の気合いは、四町四方にひびきわたったといわれ、やがて、風呂屋へ手伝いに来ていた町家の娘ことと結ばれ、この結婚は母の許すところとならず、止むなく高岡へ駆落ち同様に逃げ、ここで長男浩一を産む。
 この時高岡市の、火災保険会社代理店に部屋借りしていて、保険の知識を得、やがて父浩尚の没後、その遺産の一部を得ると、富山市桜木町に屋敷をかまえ、屋敷内に生命保険の支店を設けさせる。

 ここに出てくる「北辰」というのが北明のことなんだけれど、なんてったって目を引かれるのは北明の祖父が前田藩(富山藩)の勘定奉行だったということだよね。そんな人物が「維新に際して、回漕問屋に投資し、移り変る世を巧みに立ちまわって金を残し、神通川の川辺に料理旅館をひらき」――というわけだから、梅原家というのは相当の富家だったということになる。

 一方、梅原正紀氏は北明の生い立ちについてどう書いているか? 実は、↑で野坂が書いていることにはまず1つ間違いがあって、それは生年を明治32年(1899年)としていること。なんでもこれは古書研究家の斎藤昌三が雑誌『あまとりあ』に書いて以来、定説化していたものだとかで、しかも斎藤昌三の事実誤認というよりも「周囲から若く思われないために北明は自ら年齢をごまかしていたと推定される」んだそうで。要はサバを読んでいたということ。しかし、事実は1901年生れであるとかで、まずはひとしきりそういう話があって――

 ともあれ、北明の生年は一八九八年であるということが定説化されているが、事実は一九〇一年に富山市で生まれたのである。梅原貞義、きくい夫婦の二男として生まれ、貞康と名づけられた。生家の家業は生命保険の代理店であり、息子たちを東京に遊学させ得たのだから、生活はゆとりがあったものと思われる。
 父の貞義は富山市きっての剣道家であり、後に北明が早稲田大学に入学したさい、戦前の日本で有数の剣の使い手として知られた中山博道が貞義の門人であったことから、東京での保証人となっている。梅原家は士族の出身であり、北明の祖父は富山藩の勘定奉行であったという。後年、北明が権力にはむかったり、からかったりした下地は、少年期に〝士族の家風〟になじまず、その不合理さに反逆心を燃やすことによって形づくられていったからだと思われるふしがある。

 概ね野坂が書いていることと違いはない。ただ、肝心要の勘定奉行の件については「北明の祖父は富山藩の勘定奉行であったという」――と、どういうわけか伝聞体となっており、断定を控えている。これがいささか気になるところではあるのだけれど……ともあれ、野坂は北明の祖父は「前田藩勘定奉行」だったと書き、梅原正紀氏も「富山藩の勘定奉行であったという」と書いているわけで、これが梅原北明という人物について考えるに当たっての重要な基礎――いわば「土台」となることは間違いない。そして、事実、梅原正紀氏は「後年、北明が権力にはむかったり、からかったりした下地は、少年期に〝士族の家風〟になじまず、その不合理さに反逆心を燃やすことによって形づくられていったからだと思われるふしがある」――としているわけで、確かにそれは1つの〝絵〟ではあるんだよね。祖父が勘定奉行を務めるようなお堅い家に生れたものの、その規則や伝統で雁字搦めになった〝士族の家風〟になじまず、ことあるごとに権威に逆らって遂には「軟派出版の帝王」(なお、北明の二つ名はいろいろあって、『好色の魂』ではタイトルに因んで「好色出版の帝王」とされている。他にも「猥本の出版狂」とか「ポルノ出版の王者」とか。そんな中、本稿ではあえて「軟派出版の帝王」としたのだけれど、これには思惑がありまして。まあ、これは最後まで読んでいただければおわかりになるかと……)とまで呼ばれるに至った――というね。十分、それで得心が行く。ところがだ――

 実は、梅原正紀氏が「北明の祖父は富山藩の勘定奉行であったという」――と伝聞体に止めていることがどうにも気になって、調べてみたんだよね。別に難しいこっちゃない。富山県立図書館には、そのための手頃な資料が用意されている。それは「富山藩士由緒書」とか「富山藩侍帳」とか呼ばれるものなのだけれど、それに当たれば一発だろうと。で、確かに一発だった。いずれの資料にも北明の生家と思われる家のことが記されており、そこからうかがえる梅原家の実像とは……? まず「富山藩士由緒書」(桂書房刊『越中資料集成』第2巻所収)は天保9年に各藩士が藩に提出した家譜の集成で、江戸幕府が寛政年間に編纂した『寛政重修諸家譜』の地方版だと思えばいい。そんな「富山藩士由緒書」に記載されている梅原姓の藩士は1人だけで、従ってこれが北明の先祖であることは間違いない。その名は梅原半左衛門。で、そのプロフィールはというと――

一私儀
霊昭院様御代、文化十二年亥十一月、銀子三枚被下置、銀梨子地方、相勤候様被 仰出候、天保四年巳正月、亡父跡式無相違被下置、与外組、塗師方城ヶ端蒔絵師、相勤候様被 仰出候
男子所持不仕候ニ付、富田為造次男、平作儀、聟養子ニ支度奉願候処、願之通被 仰出候

 注目は「与外組、塗師方城ヶ端蒔絵師、相勤候」云々。そう、半左衛門のお役目は「蒔絵師」だというのだ(その前に記されている「銀梨子地方」も同様で、「梨子地」とは「蒔絵の一種。漆塗りの面に梨子地粉を蒔き、梨子地漆を塗って粉を覆い、粉を研ぎ出さずに漆を透かして見せる法」の由)。また半左衛門の父(吉五郎)も「塗師方城ヶ端蒔絵師」、その父(正三郎)も「塗師方城ヶ端蒔絵師」、その父(半七)も「塗師方城ヶ端蒔絵師」、その父(半助。これが初代)も「塗師方城ヶ端蒔絵師」。つまり、梅原家は代々、細工人組(与外組)塗師方にあって蒔絵師を務めてきた家柄なのだ。また俸禄についての記載もあって、こちらも代々、拾人扶持(↑には「銀子三枚」とありますが、これは父・吉五郎がまだ隠居前に組替えとなり、その際に半左衛門が「銀子三枚」で召し出されたことが記されているので、その名残かと。その半左衛門も「亡父跡式無相違被下置」とあるので、結局は父と同じ拾人扶持を賜ったと見ていい)。これは俗に言う「貧乏御家人」の俸禄が「三十俵二人扶持」とされていることを思えば多い、とは言えるでしょう。ただ、扶持米を支給されている以上、下級武士ということにはなる(武士の俸禄についてはこちらがわかりやすい。それによると、扶持米とは「下級武士に毎月支給される扶養手当みたいなもの」で、「○人扶持」と表わされ、1人扶持は「1人の人間を養えるぐらいの米=1日5合=30日で1斗5升=1年で1石8斗」となるそうです。ま、そう言われても「ふーん」と言うしかないんだけれど、ただ扶持米とは「下級武士に毎月支給される扶養手当みたいなもの」というのは覚えておいて損はない)。で、これは祖父は富山藩の勘定奉行だったとする『好色の魂』や「梅原北明 その足跡」の記載(人物設定)からは相当の落差がある。もちろん、野坂昭如や梅原正紀氏が書いているのは北明の祖父が勘定奉行だったということなので、この「富山藩士由緒書」の記載によってそれが完全否定されたということにはならない。しかし、常識的に考えて、代々、蒔絵師を務めてきた家から勘定奉行が出るものだろうか? いや、幕末にはそういうこともあったのかも? だとしたら、それはなかなかにダイナミックな話で……。

 しかし、その可能性は、まずないと見ていい。なぜなら、梅原家は蒔絵師のままで藩政時代を終えていることがもう1つの資料である「富山藩侍帳」(桂書房刊『越中資料集成』第2巻所収)で裏付けられるので。この「富山藩侍帳」というのは富山藩が作成した藩士の名簿(分限帳)の集成。その1つである「安政7年富山御家中分限帳」によると、この時点での梅原家の当主は平作(↑の「富山藩士由緒書」の記載にも「富田為造次男、平作儀、聟養子ニ支度奉願候処」とある)で、その身分はやはり「城端蒔絵師」。また慶応2年作成という「冨城武鑑」にはお役目についての記載はないものの、「藤ノ丸」(家紋の由)「拾人扶持」として梅原平作の名前が記されており、さらに屋敷地については「諏訪ノ川原」とされている。この諏訪川原こそは「富山藩士由緒書」等に記された「城ヶ端」を指すと見ていいだろう(明治時代に埋め立てられたものの、かつては富山城の外堀が諏訪川原を囲い込むようにめぐらされており、諏訪川原が富山城の西の端だった。往時の富山城下の姿については「越中国富山古城之図」参照)。そして、平作はその身分のまま維新を迎えたようで、「明治2年富山藩分限帳」には「一等士族直衛」として梅原平作(貞一)という名前が記されている。また俸禄は「三拾六俵弐斗八升」とあって、これはまたずいぶんと刻んできたもんだよなあ。まあ、それだけ藩の財政事情が苦しかったということか……。

 ――と、こういう次第なので、梅原北明の祖父が富山藩の勘定奉行だったというのは、まずない――というか、ありえないんだよ。梅原家は代々、蒔絵師を務めてきた家柄で、明治2年の時点でもそれは変っていなかった。ちなみに、「明治2年富山藩分限帳」にはお役目が勘定奉行の人物の記載もあって、しかもどうやら2人いたようだ。1人は立石弥左衛門、もう1人は山田小兵衛。前者は80石取り、後者は90石取りの中級武士。「三拾六俵弐斗八升」の梅原家がしゃしゃり出る余地は、ない。

 その上で、梅原家に関してもう1つわかった事実があるのでご紹介すると、問題の梅原北明の祖父に当たる人物は、多分、「貞尚」という名前だったろうと思われる。実は富山市立図書館に明治9年当時の富山城下の詳細な地図(1枚ではなく、127枚からなるセット)が所蔵されているのだけれど、その1枚である「新川縣下第十大區一小區新川郡富山諏訪河原」に「梅原貞尚」という名前が認められるのだ。ありがたいことにこの地図は同図書館の電子図書館で閲覧できるので興味のある方はぜひアクセスしてほしいのだけれど……ね、「持主梅原貞尚」とあるのがわかるでしょ? 野坂昭如は『好色の魂』で北辰の祖父の名を「浩尚」としていますが、多分、これは「貞尚」を捩ったものだろう。そうであるならば、その人物が「前田藩勘定奉行」だったというのは、絶対にあり得ない。なにしろ、貞尚が梅原家を継いだ時点ではもう富山藩は存在していなかったのだから。一方で野坂は「維新に際して、回漕問屋に投資し、移り変る世を巧みに立ちまわって金を残し、神通川の川辺に料理旅館をひらき」とも書いているわけだけれど、これは正しかった可能性がある。というのも、当該地図の梅原家の地所には赤字で「藤野理七」と書かれており、いずれかの時点で所有者が変ったことがうかがえる。では、貞尚は? もしかしたら、野坂が書いているように「神通川の川辺に料理旅館をひらき」、住居もそっちに移していたのかもしれない。ここに、その傍証となる事実がある。明治15年12月、それまで神通川に架かっていた船橋が木橋の「神通橋」に架け替えられた。そして、その5年後、神通橋近くに富山初の西洋料理・会席料理店「対青閣」ができた(「松川遊覧船 今昔・まち歩きガイドブック」参照)。『総曲輪懐古館』(八尾正治・水間直二・山岸曙光著、巧玄出版)という本によれば、それは「新時代にふさわしいハイカラな料亭」で「中央・地方の名士や政客が、繁く出入りした」という。この「対青閣」の主が誰だったのかは同書にも記されていない。ただ、野坂が書いていることと妙に符合するのは間違いない。そういう意味で『好色の魂』の記載には相当の説得力があると言っていいのでは? そうなると今度はなんで野坂は北明の祖父が「前田藩勘定奉行」だったという全く事実に反することを書いたのか? それが不思議な気がしてくるのだけれど……あるいは、こういうことかも知れない。既に見たように梅原家の維新当時の当主・平作は富田家からの養子だったわけだけれど、その富田家について調べてみたところ、興味深いことがわかった。富田家の第6代・重武(平作からすれば曽祖父)と第7代・蕃詮(同・祖父)は勘定所頭取を務めているのだ。そもそも富田家(なお、幕末当時の富山藩家老は富田讃岐という人物で、この讃岐に代表されるように富田家は代々、富山藩で家老を務めてきた家柄。ただし『角川日本姓氏歴史人物大辞典』によれば、この家系は他と区別する意味で下総家と呼ばれているようで、他にも兵部家・弥六家・助作家・為造家があった。で、説明を読んでも下総家と為造家にはつながりはないようなので、全くの別流ということになる)というのは220石取りの中級武士だった。しかし、第5代・重久(隠居後は「道誉」と名乗った由)の時に何らかの咎を蒙り知行を召し上げられた。そして、その子の重武の代に改めて扶持を賜り、勘定支配に組み込まれた。その後、小目付役、郡方頭取役を経て明和7年には勘定所頭取。また、その子の蕃詮も同じく経理畑を歩み、最終的にはやはり勘定所頭取となっている。だから、梅原家の家系をずーっと遡っていくと勘定所頭取を務めた人物はいたわけですよ。北明の祖父が勘定奉行だったというのは、こうした事実が誤って伝わったか――あるいは、北明が意図的に「盛った」か。まあ、年齢も2つサバを読んでいたくらいだから、後者の可能性の方が高いかなあ。それによって祖父が勘定奉行を務めるようなお堅い家に生れたものの、その〝士族の家風〟になじまず、ことあるごとに権威に逆らって遂には「軟派出版の帝王」とまで呼ばれるに至った――という人物像をセルフ・プロデュースしたと。その方が人物像としてよりエッヂの利いたものになるのは間違いないだろうから。しかし、真実は、そもそもは祖父の代で神通川の川辺に料理旅館を開いており、父の代で県下最大の歓楽街である桜木町(ちなみに、桜木町というのは元々は藩主の隠居所である「千歳御殿」があった場所で、維新後、主を失い、荒れ放題になっていた。そんな中、新たに置かれた新川県庁は風俗取り締りの観点から関係施設を一か所に集める方針を打ち出し、その場所として千歳御殿が選ばれた。かくて「明治五年十二月、千歳御殿やその余構はすっかりとりこわされ、町割りされたあとには、妓楼・貸座敷・待合・料飲店などが槌音たかく、ぞくぞく軒を連ねて建ち並んだ」――とは、前出『総曲輪懐古館』に記された桜木町誕生の一幕)に屋敷を構えていたわけだから、有り体に言えば、梅原家というのは三代続く「軟派」だったわけですよ。それを「土台」にして、もう一度、「梅原北明」という人物像を作り直す必要があるのでは……?



追記 いやー、マイッタ! 本稿では梅原北明は富山市桜木町で生まれたとしていたのだけれど、これは玉川信明が『大正アウトロー奇譚 わが夢はリバータリアン』でそう書いているのに従ったもの。ところが、該博な書誌学者としても知られた文芸評論家の谷沢永一が『日本近代文学大事典』で梅原北明を担当していて、その中でこう書いているのだ――「梅原貞義、きくいの次男として富山市惣〔ママ〕曲輪二一六番地で生まれた」。総曲輪二一六番地は今の住所で言えば丸の内一丁目の辺りになるはずで。多分、この辺りがそうじゃないかと思うんだけれど……仮に総曲輪でも番地が100番台ならば今の総曲輪一丁目の辺りで桜木町とは同じブロック。ただ、200番台は……。もうね、富山城の東側と西側だから。全然違うわけですよ。しかも、今の住所で言えば丸の内だから。だから、マイッタ! 別に玉川信明に騙されたとは言わないけれど……でも、玉川信明だから、というのはあったよ。まあ、一種の刷り込みみたいなものがあったのかも知れないな、玉川信明にしても、軟派出版の帝王・梅原北明の生地としては桜木町がふさわしい、というような? ともあれ、これによって「梅原北明」という人物像を作り直すための「土台」はまたまた変更を余儀なくされる、ということになる……。