PW_PLUS


「エロ」でも「グロ」でもなく「ダダ」だった。
〜『グロテスク』1930年新年特輯號〜

 この6月以来――は、もうやめよう。ともかく……玉川信明の『ダダイスト辻潤』を読んでいたら(一応、9月にNHKで放送予定の『風よあらしよ』の予習のつもり。まだ放送は1か月くらい先だけれど、もうそろそろ準備をしておかないと間に合わないかも知れないと思って。吉高由里子が伊藤野枝を演じ、永山瑛太が大杉栄を演じ、稲垣吾郎が辻潤を演じるというとんでもないドラマに相対するには、よほどのココロの準備が必要……)、なんとなんと、梅原北明がやっていたかの『グロテスク』に辻潤が寄稿しているというではないか。曰く「梅原北明については、作家の野坂昭如が『好色の魂』として作品化して以来、かなり知られるようになったが、エログロをもって権力にしつように向かいあっていた北明の生きざまには、辻も共感してか「水島流吉」のペンネームをもって寄稿援助している」。これは、へえ、ですよ。相当の驚きを込めた、へえ。だって、『グロテスク』ですよ。「侮り難きヨタ雑誌」ですよ。そんな雑誌に稲垣吾郎辻潤が寄稿していただなんて……。

『グロテスク』1930年新年特輯號

 調べたところ、辻潤が寄稿したのは「楕圓の月」という詩だそうで(情報源はこちら)、これまた、へえ。だって、辻潤の詩なんて相当に珍しいでしょう。かくなる上は、わが郷土の先覚(と書いて「アイドル」と読む?)である梅原北明の参考資料(と書いて「メモラビリア」と読む?)として――また、辻潤というよくわからん男(いちばんわからんのは、どうしてこの人はまとまった詩集の1冊も残さなかったのか? ということですよ。辻潤というのは、結局、その存在自体が「無」だったということか……?)を知るヨスガになるのではないかという思惑から――ぜひその掲載号を入手したいものだと。幸いなことに、掲載号である『グロテスク』1930年新年特輯號は「日本の古本屋」にも在庫がある。値段もどうにか手の届く範囲。ということで、購入の運びとなったのが→なんだけれど……なんか、イメージが違わない? 『グロテスク』って、こんなに品がよかったっけ? ワタシのイメージだと、もっと露悪的な装幀のはずなんだけれど……。それにだ、内容も全然「エロ」くも「グロ」くもない。裏表紙こそ裸の女性をあしらったイラストが使われているものの(ただし、往年の富永一朗を彷彿させるコミカルなもの)、冒頭、20ページばかりあるグラビアで紹介されているのは「操人形」。解説によれば「一九一九年以來チユリツヒ美術工藝博物館に所藏して來た瑞西の操人形劇場」の展示品とか。また、掲載されている記事も総じて穏当なものばかり。確かにタイトルからしていかにもという感じの大泉黒石作「人肉料理」は「グロ」そのものだろうし、これは同一のお題を与えられての競作ということになるのかな? 「美人共有制度とならば」との通しタイトルで括られた4編(尾崎士郎「美人・漫談」、堀木克三「美人共有制度と公娼制度」、川路柳紅「女性よ喜べ」、青野季吉「美人共有とはなつたが」)からはそこはかとない「エロ」も嗅ぎ取れる。しかし、いずれも微臭ですよ。そして、なによりもかによりも、本全体から受ける印象がスクエアなんだよ。ほとんど堅苦しささえ覚えるくらい。今で言うならば『文藝春秋』? これをねえ、「侮り難きヨタ雑誌」とはまず言わんでしょう……。

 で、どうにも腑に落ちんので、改めて梅原正紀氏が書いた「梅原北明 その足跡」とか野坂昭如が北明をモデルに書いた『好色の魂』を読んでみたんだけれど……ははー、そういうことかと。実は『好色の魂』に書かれているのだけれど、どうやら本号が発行された1929年(『グロテスク』1930年新年特輯號は形式的には1930年1月1日発行となっているものの、実際に発行されたのは1929年12月)というのは北明にとってさんざんな1年だったようで――

 まず、昭和四年の春、『グロチック』五月号の印刷を終えて刷本そっくり製本屋へまわしたところで、隣家からの類焼にあい丸焼け、どうにか二週間おくれて出来上ったものの、佐藤紅霞の筆になる「コクテルとはなんぞや」もっともモダンな飲み物とされていたカクテルの処方を紹介したものだが、その名前の「キスミイクィック」が特高のお気に召さず、「これはなにか」ときかれて北辰、「早く抱いて」うっかり冗談半分に答えたのが身の因果、猥褻の判定を下される。
 すでに所轄署のみならず、本庁からも担当官が朝な夕なあらわれ、原稿の刷り上るのを待ちかねるようにして、そのいいまわし、表現に好色の臭いかぎあさり、さしもの『グロチック』も次第に、趣味雑誌風おもむきとなって、北辰反骨の筆もとどこおりがち。
「四月九日、親爺の命日、坊主と一緒に飯でも食べようと思っていると、突然、弾圧の雨が降って来た。僕を始めとして中野、大松一網打尽、口論の末、豚箱へたたきこまれる。久保弁護士の骨折りで大松は四日、ぼくと中野は二日で娑婆へ出た。書類は検事局へ移った、又々ひとつ心配が増えて来た。僕にとって一番にが手は借金だ、今月で三万円を突破した、なあにまだ十万円にはまだ間があるぞ。警視庁その他の予想統計によると、僕が十万円ほど出版で当ったそうだ。五円の単行本に実費七円もかけた近い例が、こないだの『性欲語大百科辞典』なのだが、どうも計算にうとい癖が直らず、誰かすばら「四月九日、親爺の命日、坊主と一緒に飯でも食べようと思っていると、突然、弾圧の雨が降って来た。僕を始めとして中野、大松一網打尽、口論の末、豚箱へたたきこまれる。久保弁護士の骨折りで大松は四日、ぼくと中野は二日で娑婆へ出た。書類は検事局へ移った、又々ひとつ心配が増えて来た。僕にとって一番にが手は借金だ、今月で三万円を突破した、なあにまだ十万円にはまだ間があるぞ。警視庁その他の予想統計によると、僕が十万円ほど出版で当ったそうだ。五円の単行本に実費七円もかけた近い例が、こないだの『性欲語大百科辞典』なのだが、どうも計算にうとい癖が直らず、誰かすばらしい会計士は居ないか?
 日本一の雑誌収集家斎藤勝三氏にいわせると、従来、純粋の文献趣味雑誌で一万部の部数を突破したものは絶対にないそうだ。それが事実において四月号より一万部の印刷をした。だが雑誌はならして月二千円の損害をまねく、今どんな雑誌だって低級娯楽ものと婦人雑誌を抜きにしたら、算盤のとれる雑誌なんて一つもあるまい、としたら、弾圧押収に赤字をかこつけられる我等の雑誌の方が、まだ気やすめになる」
 伏字だらけの『グロッチ』五月紙面刷新号の編集後記にしるし、絶えまない官憲の圧迫にくたびれ果てたこともあるが、一方に北辰、『肌あかり』の完成を目指し、おのが内なる好色の気質を、すべてこれにかたむけたがための、いわば雑誌はぬけがらとなっていたのかも知れぬ。

 最後に出てくる『肌あかり』というのは、貝原北辰が生涯をかけてその完成に心血を注いでいた春本のことで、これが北明のどの本を指すのかがわからない。あるいは、野坂昭如の創作ですかねえ……? ともあれ、1929年は貝原北辰こと梅原北明にとってさんざんな1年で、そんな中、『グロチック』こと『グロテスク』もまだ創刊して間もないってのにもう「趣味雑誌風おもむき」になっていたと。いや、それどころか、「ぬけがら」になっていたと。その理由は、さしもの北明も度重なる摘発・収監に「くたびれ果てた」。もっとも、「くたびれ果てた」という割にはやることはダイナミックで、「梅原北明 その足跡」によれば、北明は1930年1月には日本を脱出し、上海に逃亡している。当局の追及がいよいよ急となり、「今度検挙されたら保釈がきかないと弁護士から〝宣告〟された」ことが理由という。これを裏付ける事実は本号にも記されていて、巻末の「「人を喰つた男」の評傳(梅原北明の巻)」と題する小特集の最後で「だが、梅原北明は目下、上海か南京邊で與太つてゐます。フラ/\ツと支那方面へ遊びに行つたらしいんです。居所が判れば早速一部送つてやりたいのだが、今何處をウロツイてゐるのやら。/氏よ、何處かで見て下さい。然し活動家の氏はまた何處からか、ヒヨツコリ現はれて、素晴らしい、編輯のプランを示して吳れることを豫期してゐます」。これを素直に受け取るならば、この号の編集には梅原北明はタッチしていなかったことになる。実際、最終ページの「編輯者のことば」の名義は「關口好夫」となっており、本号を編集したのはこの御仁ということになる。ただ、わからんぞ、表向きそういうことにしただけかも知れない。『好色の魂』でもこれは「陽動作戦」だったとされているし(実際には貝原北辰とその一党は山口県防府市にいたというオチ)。しかし、いずれにしても『グロテスク』は当局による度重なる摘発によって本来のグロテスクさを失い、遂には発行自体も沙汰止みという仕儀に(『グロテスク』は1930年新年特輯號のあと、もう1冊出て休刊となった由。そして、1931年4月号を以て復刊となった。この際、掲げられたのが「侮り難きヨタ雑誌」なる名コピー)。つまり、この1930年新年特輯號は当初のグロテスクさを失った後の云わば〝元『グロテスク』〟であるようなのだ。……てことはだ、ワタシが考えたような郷土の先覚(アイドル)である梅原北明の参考資料(メモラビリア)とはなりえない?

 ただ、じゃあ『グロテスク』1930年新年特輯號を購入したのは失敗だったのか? というと、そうはならない――という話をこれからしよう。そう、本号には辻潤が寄稿しているわけだから。しかし、もし本号の編集に梅原北明はタッチしていなかったとしたら、辻潤が寄稿した意味もいささか変ってくるかも知れない。つまり、玉川信明が言うような「エログロをもって権力にしつように向かいあっていた北明の生きざまには、辻も共感してか「水島流吉」のペンネームをもって寄稿援助している」という見立ては成り立たなくなる(なお、そもそも名義は「水島流吉」ではなく辻潤。「水島流吉」というのは自らを「水精」だとする辻潤が時に使用したペンネームで「水島流吉の覚書」などがある。なぜこういう事実誤認が生じたのかは不明だけれど、あるいは『グロテスク』のような雑誌に本名で寄稿するはずがないという先入観でも働いたか?)。実際、辻潤が寄稿した「楕圓の月」は本号と同様、全然「エロ」くも「グロ」くもない。むしろ、これぞ「ダダ」と言えるような激しい言葉の連打で――

 泡を吹いてゐるのだ――それは泡を吹いてゐるのだ。雲の中で眼も鼻もない蒼白い楕圓の月が兇暴な不協和音を吼へながら凝結したミルクの泡を吹いてゐるのだ。
 おゝ、だむうる!――とうにこの世の物ではない。殘るものは空しい形容詞ばかりだ。それで絕望の盃捧げて落謄の殘滓を舐めてゐる。
 激しい、刺すやうな幻夢の囁やき――荒ツぽい、眞赤なひどくオデコの幽鬼があらゆる眞夜中の不調な蔭の中に出沒してゐる。蟾蜍がバスで鳴きながら夢を踝に搬んでゐる。絕望の笹緣りはおれの苦悶の咽喉笛に絡みついてゐるのだ。あらゆる星辰は狂ひ出し――月は、嗚呼! どろ/\に蒼白い血の泡を吹いてゐる月は――芝生の上の猿の腰掛にも似て、生々しくも灰色な紫色の襞をみせびらかしてゐる。
 おゝ天上の幸福な唱歌者よ! おゝわが法悅を助くる畏怖するもうる人等よ! 執れもいづれだが――みんな結局なんの役にも立ちはしないのだ!
 この默りこくつた、濕らした地帶では、腐れた霧の惡臭が靑い燐光を發散してゐる。さうして毒蛇が宇宙的整數の圓のとぐろを卷いてはゐないだらうか? 今、世界は眞赤裸に剥がれて、不眞面目にならうと夢中になつて努力してゐる。
 だが、ゴツシユよ! なんと云ふ苦悶だ‼
 純金のプリズムの圓盤が泣きながら地獄の變相を描いて速度を無視して轉回してゐる。「時」は過ぎ去り、また來たり、再び紛失する。散漫なおれはこのおれのサンチマンを練習することに浮身をやつし、ボロ/\になりながら、いつまでも畏怖にひきづられてゐるのだ。喘ぐ悔恨の熱い床の上で、重い希望を眞二つに裂きながら女も亦虛僞の啜り泣きを吠えている。
 なんにもない――あるものは唯だ銳い臭を發散する「時代」の妖精のみだ! 化鳥の叫び、風つぽい深淵が頭の上に口を開いて極北のパラドツクス……。
 地平の上には思想の蛆が群がり棲んでゐる――過去の平びつたい入道の死體が巨大なオルガンをさらけ出してゐる。
 眞赤な圓錐をだれが知るか? どうして女どもにそれが理解し得られやうぞ?
 なにを?
 泡を吹いてゐる――それは泡を吹いてゐるのだ。窓の中で、眼も鼻もない蒼白いオカメが泡を吹いてゐるのだ!

 悪くない。全然悪くない。つーかさ……書けるじゃないか! 辻潤というのは、結局は何者だったかといえば、詩人でもなければ小説家でもない、せいぜいが「雑文家」でしょう。これについては辻潤への有り余る私情を隠そうとしない玉川信明もいささか突き放した態度でこう書いている――「中には(『浮浪漫語』)、詩や小説あるいは評論だかフィクションだか見当のつかぬ文章まで含まれているが、その大半はエッセイ・雑文・回想・感想・紀行文の類いである。まとまった論文の体をなすものはない。『浮浪漫語』には「英語文学」当時の作家研究が数篇みえるが、これもいわゆる「研究」と呼ばれる文章とは異なっている。小説や詩の方面には才能がなかったし、書けても論作や研究を発表しつづけていこうとはしなかった」。でも、書けたんだよ。現にこうして書いているわけだから。小説にしても、『ですぺら』に収録された「らぷそでいや・ぼへみあな」なんかは悪くないと思うんだ。当人は小説の最後で「なに分、當人が小說家でない爲めに、深刻な心理描寫や、瑰麗な自然描寫や、されは又時節柄なくてはならぬ熾烈な階級意識や――その他色々なものが不足してゐてまことに申し譯けがない次第である」と書いているんだけれど、誰も辻潤に普通の小説なんて期待していないわけで、「らぷそでいや・ぼへみあな」みたいなもので全然いいと思うんだよね。とにかく、書くべきだったんだよ、詩や小説をね。しかし、書かなかった――この「楕圓の月」や「らぷそでいや・ぼへみあな」のような限られた例外を除いて。それは、なぜなのか? というのは本当に謎。もしかしたら、辻潤は宮澤賢治の『春と修羅』を逸早く評価し、「若し私がこの夏アルプスへでも出かけるなら、私は『ツアラトウストラ』を忘れても『春と修羅』とを携えることを必ず忘れはしないだろう」(「惰眠洞妄語」)と書いていたような人だから、こと才能の見極めということに関しては相当の目利きだったのは間違いないわけで、そんな彼のお眼鏡に「辻潤」は適わなかったということかなあ……。ただ、仮にそうであったとしても、一度は彼も重い腰を上げようとはした。それが、ちょうどこの「楕圓の月」を書いた頃――。実は1929年というのは辻潤が約1年に渡る「パリ特置員」としての生活を切り上げて日本に帰ってきた年で、『ダダイスト辻潤』によれば、この際、彼は当時の愛人である小島清に宛てた手紙でこんなことを書いているのだ――「私は今、たいへん素直な幸福な気持でいる。で、一寸書きたくなった。自分は今、飛んでもないことを空想している――。それは、飛んでもないことではない。――なんだか、スグ、実現出来そうだ。/僕は、君をスッカリ、信頼して、君に僕の、霊魂と肉体をあずけて、一生懸命に仕事をして、ほんとうに、もう充実しきった、――生活をしたくなった。こんだかえったら、僕はもう、酒をほんとうに、少なく呑んで、自分の力一杯に仕事をしてみたい。君を助手にして、ウゾウムゾウと絶縁して、僕の全部を叩き込んで勉強する。キットやってみせる」。滞仏1年の何が影響したのかは知らないけれど、あのぐーたらな男が、こんな殊勝なことを。『大菩薩峠』を読んだらそうなるってんなら、オレも読んでみようかなあ……? ともあれ、辻潤は一念発起したわけで、この「楕圓の月」の寄稿もその意欲の現われだったと解釈すべきでしょう。なんでも『ニヒル』を創刊した頃には「日曜をひつくるめて一日十六時間働きつづけてきた」(「うんざりする勞働」)とかで、まったく変れば変るもんだ……。しかし、そんな彼の健気な努力は長続きしなかった。なぜ? これについて玉川信明は「昭和初年代日本の社会状況を念頭に入れておく必要があろう」としている。当時は「大学は出たけれど」の流行語で象徴される大恐慌の只中で、「そうした世の中の物情騒然たる有様は、必然的に社会運動の急進化を促し、右翼運動もまた急速に台頭する気配をみせ、どちらにもついてゆけない大多数の輩は、大なり小なり絶望的な気分に襲われていた」。そんな中、小島清に宛てた手紙に記されたような向日的な姿勢が長続きするはずもなかった。しかも、元来、辻潤という人には躁鬱病的気質があったようで、「躁」から「鬱」へ真っ逆さまとなればその落ち込みようはハンパなかったろう。そして、ほどなく辻潤はコカインに救いを求めるようになったものと思われる。実はこれは『ダダイスト辻潤』を読んで初めて知った事実なんだけれど、フランス文学者の平野威馬雄(平野レミの父、トライセラトップスのボーカル・和田唱の祖父。だから、上野樹里の義理の祖父ということにもなる)が自らの20年に及ぶ麻薬中毒体験を振り返った「麻薬中毒生活二十年の記」(『経済往来』1963年3月号)の中でこんなことを書いているのだ――「かえりみれば、麻薬と酒にはなにか類似点があるように思われる。いずれも正常な感覚をマヒさせて放埒な生活に沈溺させるばかりでなく、また愛用者は他人にすすめたくなるものである。コカインの魔性にとりつかれた私は、たぶんにもれず周囲のだれかれにすすめてまわった。かすりの着物をきていた落語の正岡容少年や新進作家の辻潤、そのほか遊び友だちの画学生が、さっそく私にならった。/そのなかで辻潤がいちばん抵抗力が弱かったのだろう。「君のもちいている薬は昼間の雑音やムダな光線を除きさってくれる」などといっているうちはよかったが、二、三回目にはりっぱ? な中毒患者になった」。辻潤の後半生に影を落とす数々の奇行をめぐっては「佯狂」という見立てもあって、高橋新吉が発狂した際、「新吉がとう/\發狂した。恐らく彼は彼自身のダダを完成させたのかも知れない。そして、僕はなぜまだ發狂しないでゐるのか? 己は彼より遙かに意氣地がないからなのだ」(「ぷろむなあど・さんちまんたる」)と書いていたことを思えば、その見立ても十分、説得力はあると思う。つーか、あると思っていた。でも、平野威馬雄がここまで明確に書いている以上、コカインの中毒症状だったと見るのが正解でしょう(平野威馬雄は辻潤が「天狗」になった件についてもコカインの影響であるとしている。なんでも平野も大森駅の屋根によじ登って「おれは神だ」と叫んだことがあるそうだ。コカインにやられると人は「天狗」とか「神」になるらしい)。そして、そうとなれば、もう何ほどの可能性もこの男には残されていなかったということになる――。

 そう考えるならば、この『グロテスク』1930年新年特輯號に掲載された「楕圓の月」はとても貴重なもの、ということに? それは確かにあり得たかも知れない(そして、時代の荒波の中で儚く消え去った)「詩人・辻潤」の可能性を今に伝える貴重なメモラビリア……。



 せっかく辻潤について書いたんだから――しかも、玉川信明の『ダダイスト辻潤』をネタ本として――これは書いておいた方がいいだろうと。

 よく知られているように辻潤は「餓死」した。いや、警察医の診断は「狭心症」だった。しかし、実際は「餓死」だったということは半ば公然の事実として信じられている。これについては玉川信明も「敗戦も間近い十九年末のことであるからして、当然といえば当然、食うものなくして栄養失調だったということらしい」(333p)。で、それをファクトと受けとった上で――実はここにいささか胸を締めつけられるような事実がある。なんと、そう書いていた玉川信明も「餓死」しているのだ。玉川信明の死因については、地元紙(筆者にとっての地元であるばかりではなく、玉川信明にとっても地元。玉川信明は、1930年6月29日、富山市旅籠町で生れている)である北日本新聞が2005年7月8日付けで報じた訃報だと「老衰のため」とされていた。しかし、享年75ですよ。そんな年で老衰なんてありうるのか? そんなことを思っていたら、案の定。7月31日になって「「反骨の自由人」貫く」と題する追悼記事が掲載された。その中でこうその死因が記されていたのだ――「ことし五月に母、もときさんが百八歳で亡くなった。心の支えを失ったショックから食事を取ろうとせずに衰弱した。/「好きなことをやってきた幸せな人。死ぬときも勝手だった」と長女のさつきさん。最期まで自由人だった」。当時、この記事を読んだ時には、ついロバート・E・ハワードの死を思い起こしたものですが、今となっては、むしろ玉川信明は辻潤の最期を模倣(あるいは追体験?)したのではないかと。少なくとも、死の床にあって彼が辻潤の最期を思わなかったはずはない……。