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「アナ」も「ボル」も。
〜米騒動の地で思う『いつかギラギラする日』〜

 一応、第1話を見た感想ということで記すならば……吉高由里子の伊藤野枝はダメだね。特に、あの幼稚な喋り方。伊藤野枝ってのは、もっと野性的な女でしょう。『風よあらしよ』の主役はあくまでも伊藤野枝である、ということを踏まえるならば、その主役を演じる俳優(最近は「女優」とは言わないようなので)が適役とは言えないとなると、いささか致命的とも言える。ただ、永山瑛太の大杉栄と稲垣吾郎の辻潤は雰囲気があった。辻潤なんて、おそらくは伊藤野枝のメンターとしてあたりさわりのないかたちにソフィスティケートされて描かれるんだろうと高を括っていたんだけれど、どうやらあの男の得体の知れない(虚無的な)部分もそれなりに描かれるようだ。あと、大杉栄が吃音だったことがキッチリと描かれていたのには感心した。今のご時世、なにかと難しい面もあるやに聞いているし。そんな中、易きに付かなかったのは評価していいのでは? それにしても、よもやNHKのドラマで大杉栄と相見えるえることができるとは。それこそ、一体どんな〝風〟の吹き回しだ? まあ、ワタシは、大杉栄というのは坂本龍馬クラスのスターだと思っているので、本来ならば(あるいは、歴史が別コースをたどっていれば)NHKのドラマだろうがなんだろうが、エンタメのコンテンツとしてフィーチャーされるのは全然ありではあるんだけどね。え、大杉栄を坂本龍馬クラスのスターだと思う理由? いちばんは、この笑顔ですよ。これは魅了される。で、そんな大杉に寄り添っていた伊藤野枝はお龍ということになるわけだけれど、こちらもドンピシャリでは? だって、お龍も野枝も相当のじゃじゃ馬ですよ。そうなると、必然的に甘粕正彦は佐々木只三郎ということになるわけで、人間関係の配置も実によく似ている。ただ、1つだけ決定的に違うところがある。それは、坂本龍馬と違って、大杉栄の考える「日本の夜明け」は来なかったということ……。

 ところで、同じ大正時代、やはり坂本龍馬&お龍のように時代を駆け抜けた男女がもう一組いたのだけれど、ご存知だろうか? それは、渡辺政之輔&丹野セツ――といっても、知らない人がほとんどだろうなあ。でも、その生きざまは大杉栄&伊藤野枝コンビにも引けを取らない。渡辺政之輔は非合法時代の日本共産党で委員長を務めた人物で、通称「渡政(わたまさ)」。まるで侠客みたいな呼び名なんだけれど、本当にそんなところがあって、なんと「こう命」と入れ墨を彫っていた(「こう」とはまだ渡政が共産党に入党する前の永峯セルロイド工場の職工だった時代の恋人の名前とか)。そして、1928年(昭和3年)10月6日、党務で上海のコミンテルン執行委員会極東局に出向いた帰途、台湾の基隆で不審尋問され、隠し持っていた拳銃(加藤文三著『渡辺政之輔とその時代』によればブローニングという。入手経路は不明。ただし、当時の〝主義者〟たちは拳銃を所持していた。アジトに踏み込んだ特高の警官が拳銃で撃たれるという、まるで坂本龍馬と伏見奉行所の捕り方の間で繰り広げられた寺田屋事件みたいな事件も実際に起きていた)で警官を射殺。必死の逃亡を図るものの、遂には逃げ場を失って自決したとも射殺されたとも言われている。また丹野セツはその妻で日本共産党では婦人部長を務めた。そして、奇しくも渡政の死の2日前(10月4日)、「中間検挙」(同年3月15日の大弾圧と翌年4月16日の一斉検挙の中間に当たるのでそう呼ばれている由)で検挙され、懲役7年の判決を受けるも獄中非転向を貫いたという烈女。もっとも烈女と言うには愛らしすぎる(こちらの記事に渡政と納まった写真が紹介されています)。結婚式は渡政の家に20人ほどの仲間が集まり、おしるこでお祝いしたというんだけれど、まるで少女小説の一場面のような……。で、なんでワタシがこの2人についてこんなに詳しいかというと……実は、1970年代、この2人を主人公とする映画が構想され、実現寸前まで行ったことがあるのだ。当初、『実録・共産党』と題され、後に『いつかギラギラする日』と改められたこの映画構想を推し進めたのはかの深作欣二。なんと『仁義なき戦い』や『仁義の墓場』など、日本映画史に残るヤクザ映画の監督としてその名を天下に轟かせていた人物が非合法時代の日本共産党の委員長とその妻を主人公とする映画を撮る(撮りたい)と。これはねえ、相当のインパクトがありましたですよ。かく言うワタシは、当時、10代で、いっぱしの映画青年を気どっている真っ最中。だから、この『実録・共産党』改め『いつかギラギラする日』にはもう期待した期待した。それは、決してワタシ1人に限った話ではない。その証拠にウィキペディアの「いつかギラギラする日」(なお、この記事は同名タイトルの全く別の映画についての記事。ただし、監督は深作欣二なのでややこしい)の記事の「同タイトルの別企画」ではこれでもかとばかりの典拠付きでその一部始終が詳述されている(なお、この記事には、今日付けでワタシの手が入っております。ここは公正を期してワタシの手が入る前の版のリンクも貼っておきます)。こんな記事が書かれるくらいには、あの時代を映画青年として過ごしたものにとってはこの映画構想は特別なものだということですよ。で、ものはついでだ(つーか、書かざるを得ない心境になっていて。まあ、『風よあらしよ』で久しぶりに大杉栄に〝会って〟眠っていたものが目を覚ましましたかねえ……?)。こっからは、この『実録・共産党』改め『いつかギラギラする日』について少しばかり。

 問題は、なぜ『実録・共産党』改め『いつかギラギラする日』は実現しなかったのか? これに尽きる。で、東映時代のことは、いいでしょう。土台、東映では実現はムリだったと思う。問題なのは、一度、東映でポシャった企画を拾い上げて大々的に製作発表までした角川春樹のコンタンであり、あそこまで派手にぶち上げておいて(なにしろ、東京プリンスホテルで行われた記者発表には100名を超えるマスコミが集められたとされている)結局はお釈迦になった(お釈迦にした)その真相ということになる。これについては、脚本の笠原和夫が「僕が一番やりたかったのは亀戸事件なんですよ」と語るその亀戸事件(関東大震災に乗じた朝鮮人、共産党員の虐殺事件)のエピソードを角川から「全部削ってくれ」と言われて笠原がブチ切れたというのが最も信憑性の高い説。これは当の笠原が『昭和の劇:映画脚本家・笠原和夫』(太田出版)という本(600ページを超えるという大著。昔、この種の本を「墓石」などと揶揄したものだけれど……ま、やめておきましょう)で荒井晴彦のインタビューに答えて――「そんなことをしたら、これはもう、単なるギャング映画にしかならない。で、角川はあれをやりたかったんだよ、『明日に向って撃て!』。ああいうふうにしてくれないかと。それはやりようによってはできないことはないけども、亀戸事件を消してまで、そういうふうにもっていくのは、僕はイヤだと。それで最終的に飯田橋のホテルで会って、「角川さん、それだったらやめたらどうですか」と言ったら、「わかりました、やめましょう」と」と語っていることからも否定すべき理由はないように思われる。ただ、もう一方の当事者である角川春樹は2021年に刊行された『最後の角川春樹』(毎日新聞出版)という本の中で――「私が笠原の脚本に納得しなかったことは本当ですが、この企画が流れたのはもっと根本的な理由です。当時、東映の営業のトップだった鈴木常承さんから「題材の問題で上映できる劇場がない」と言われ、東映系の映画館では上映できず、単館ロードショーしか可能性がなくなったのでやめたんです」と弁明(?)している。いや、角川が言うのが仮に事実としても、それは「根本的な理由」ではなく「実務的な理由」では? 「根本的な理由」という言い方に値するのは、「非合法時代の日本共産党の委員長を主人公とする映画」を是とするか非とするかという、このことでしょう。そういう映画を作る気骨なり必然性なりが角川映画にはなかったと、そういうことではないのかな? だって、角川映画というのは、実態としては、自社の出版物の販促のためのプロジェクトなんだから。原作小説があるわけでもない『実録・共産党』改め『いつかギラギラする日』を製作する必然性なんて、土台、なかったわけですよ。だからね、もう一段のウラを考えてみるべきなんだけれど――多分、当時34歳の「青年社長」としては、東映で実現しなかったあぶない企画に果敢に挑む、というストーリーに飛びついたんですよ。しかし、改めてその内容を吟味したところ、とてもやれるようなシロモノではないと。で、何かと難癖をつけては笠原和夫がブチ切れるように仕向けていった……。ま、ワタシの推理ではこういうことになる。

 ただ、話はこれで終わりではないんだよね。笠原版『いつかギラギラする日』はお釈迦になったけれど、深作欣二は諦めなかった。笠原和夫に代って、やはり深作の信頼が厚かった神波史男を立てて、なおも実現の可能性を探ったのだ。この辺が深作欣二のしぶといところでねえ。じゃなきゃ、あれほどの実績は残せていませんよ。そこが長谷川和彦との大きな違いで……。ともあれ、深作欣二は粘った。この際、必ずしも原型にはこだわらない、という姿勢も示した(らしい)。そして、『いつかギラギラする日』は、その執念の然らしむところに従って、全く異なる映画として再構築されることになったのだ。ここは当の神波史男が「流れモノ列伝 ぼうふら脚本家の映画私記」(神波史男というのは運のない脚本家で、さまざまな理由で日の目を見なかった(流れた)脚本は30作を超えており、その1作1作について思いの丈をぶちまけた希有なる回顧録。ちなみに「ぼうふら脚本家」とは神波史男の自称。そのココロは――「孑孒(ぼうふら)や日に幾たびの浮き沈み」)に記すところを引くならば――

○「いつかギラギラする日」の原作は高見順の長篇「いやな感じ」で、昭和初期のチンピラアナキストの一人称で書かれた傑作である。題名でお分りだろうが予定監督は深作欣二氏。そもそもこれは、前売券を買ってくれるなら何処でもいい東映が、当時少しばかり〝躍進〟した共産党を当て込んだ企画「実録・共産党」なるもので、脚本の笠原和夫氏がガッチリと書きあげていたシナリオをめぐって、おそらく直す直さないの軋轢があり笠原氏は降板。なぜか企画自体が角川(春樹)氏に売り渡された時点で、私に〝尻拭い〟のオハチが廻ってきたものだった。駿河台の〝山の上ホテル〟で笠原脚本(野波静雄共作)を読まされたが、昭和初期草創時の日本共産党の話が、綿密に膨大な資料に基づいて描かれてあり、にわか勉強の私などがたち打ちできるものではなかった。だが深作氏は例の如くグズりにグズった。要するに共産党の人々は生真面目すぎる、まっとうすぎて話が進まない。大弾圧の時代では当然とも思ったがいろいろ議論を続けた。ある日、深作氏が〝あのアナボル論争の頃ならアナキスト連中の方がよっぽど面白いんだよな〟と言う。〝あ、それなら高見順のあれ……〟と私が言い、深作は〝あれだ、「いやな感じ」や!〟と膝を叩いた。角川氏を交えてその線での話し合いがあり諒承された。(後略)

 なんと、「非合法時代の日本共産党の委員長を主人公とする映画」が「昭和初期のチンピラアナキストを主人公とする映画」に生まれ変わったのだ。つまり、「ボル」から「アナ」に変ったわけですね。ちなみに、原作では主人公の加柴四郎(架空の人物)は大杉栄の仇を取るべく陸軍大将・福田雅太郎の暗殺を図った和田久太郎らアナーキスト・グループの一員だったとされている(なお、暗殺に使ったのは「同志がわざわざ上海まで潜行して、苦心して入手したレンコン(ピストル)」だったとされている。これが史実に基づいたものなのかはわかりませんが、和田久太郎が拳銃で福田雅太郎を狙ったのは史実。ことほどさように当時の〝主義者〟たちは拳銃を所持していた……)。だから、『風よあらしよ』が終わったところからこの小説は始まる、ということにはなるかな? とはいえ、とてもじゃないけれど、NHKがこの小説をドラマ化するなんてありえない話で……。ともあれ、『いつかギラギラする日』は『いやな感じ』を原作として再構築されることになった。で、ここでのポイントは、『いやな感じ』が1974年に角川文庫入りしていたこと。つまり、角川のビジネスモデルにも叶っていたということになる。これはねえ、深作・神波コンビとしてもよく考えたと言うか。なかなか角川としてもNOとは言いづらいよねえ。案の定、「角川氏を交えてその線での話し合いがあり諒承された」ということなので、つまりはGOサインは出たと。かくて、勇躍、脚本化は進められた。そして、第1稿も上り、角川側に提出された。しかし、ほどなく角川側から製作中止が伝えられることになる。内容がどうこうというプロセスもなく、いきなり製作中止だったらしい。その経緯について神波史男とともに脚本執筆に当った大原清秀は、神波の死後、追悼出版された『映画芸術増刊号 ぼうふら脚本家神波史男の光芒:この悔しさに生きてゆくべし』(2012年12月)で「ぼくは角川春樹氏には会ったことがないので伝聞でしかないのだけれど、角川春樹はシナリオを読み「おい、これはアナーキストの話じゃないか。こんなのはダメだ」と言ったということである。そんなことは自分の会社の文庫に入っている高見順の原作を読めば分りそうなものであるが、角川春樹氏はどうも原作を読んでいなかった模様である」。もちろん、大原清秀は伝聞情報と断っているし、伝聞情報なるものがえてして誤情報を含んでいるのは世の習い。だから、それを真に受けるのは禁物。ただ、角川が一旦、『いやな感じ』を原作とすることを諒承したのは間違いないでしょう。そこは、当事者である神波史男が書いている以上、確かなファクトと見ていいはず。でもねえ……なんで? だって、スゴイ小説ですよ、『いやな感じ』というのは。なにしろ、2019年に共和国という小さな出版社から復刊された際、その腰巻きにはこんな文言(メッセージ?)が掲げられていたくらいなのだから――「アナキズム。テロリズム。エログロ。ファッショ。亜細亜。そして戦争。躍動する魂。ディープなスラング。これは前史なのか、あるいは現在の私たちなのか?」。7月8日の事件を経験した今、この小説を読むと、本当に「これは前史なのか、あるいは現在の私たちなのか?」と言いたくもなる……。そんな小説をだ、あの角川春樹が、自分が総帥を務める角川映画で映画化することを諒承したってんだ。もし角川が『いやな感じ』を読んでいたのなら、ありえない話ですよ。十中八九、彼は読んでいなかったんですよ。で、気楽にOKを出した。そして、上がってきた脚本を読んでビックリ……。それが最も可能性の高いシナリオだと思うのだけれど、どうでしょう?

 ――と、『風よあらしよ』から始まった話が、最後は角川春樹批判みたいな話になってしまったんだけれど、でもこの人はワタシにとっては同郷人なんだよね。出身は富山市水橋。あの米騒動の発祥の地。そう言えば、『いやな感じ』にはこんな台詞が出てくる――「米騒動の時だって、たったひとりのおかみさんが、米屋をやっつけろと叫んだだけで、あのすごい焼き打ちがはじまったんだ。日ごろ、不満を胸にいっぱいためている民衆の、その胸に火をつければ、いっぺんに爆発する。たちまち暴動だ」。富山市水橋出身の角川春樹の総指揮の下、『いやな感じ』が映画化されていたら、それはそれで意義のあることだったと思うのだけれど……。



 酔狂を拗らせて(?)富山市水橋館町にある水橋郷土史料館まで行ってきた。その敷地内に設置されている「米騒動記念之碑」を見るのが目的。事前に調べて既に水橋郷土史料館は休館になっていることは承知していたのだけれど、かくも荒れ放題とは。台座の周りには草が生い茂っているし、張り出した松の枝で正面からだと碑銘の左半分が読みとれないくらい。


米騒動記念之碑

 そんな中、注目してほしいのは、碑銘が「米騒動記念之碑」であって「米騒動発祥之碑」ではないこと(台座に貼り付けられた銅版にも「発祥の地」ではなく「有縁の地」と刻まれている)。一方、魚津にはそのものズバリ「米騒動発祥の地」と銘打った観光スポットが整備されており、こちらが「米騒動発祥の地」であることを強力に打ち出している。また世間一般の受け止め方としても「米騒動発祥の地」は魚津という感じじゃないかな? で、それにはそれなりの根拠があるわけで、当時の地元紙が騒動の第一報で報じたのが魚津での出来事なのだ。それは「生活難襲ふ 獵師町 役場へ嘆願」と見出しを打たれた1918年(大正7年)7月24日付け『北陸タイムス』であり、「窮乏せる漁民 大擧役場に迫らんとす」と見出しを打たれた同日付け『富山日報』の記事ということになる。しかし、それ以前(実際に米騒動に参加した女仲仕らの証言を元に編まれた『水橋町(富山県)の米騒動』によれば、その時期は7月初めということになる)に既に中新川郡東水橋町(現・富山市水橋)では女仲仕たちによる米問屋への抗議行動が始まっており、魚津の出来事はこの水橋の出来事が飛び火したものと見るのが正解。だから、大正7年に日本各地で燃え盛った米騒動なるものを「燎原の火」に準えるなら、その最初の火が点されたのはこの水橋ということになる――そういうことをこの「米騒動記念之碑」は一切、訴えてはいないのだけれど……。なお、『最後の角川春樹』によれば角川の祖父・源三郎はこの水橋の地で米穀商「角川商店」を営んでいたそうで、伊藤彰彦が被害の有無を尋ねたところ――「それがまったくなかった。祖父は自分だけ豊かになるのではなくて、利益を地元に還元していたからです。たとえば、被差別部落の人たちにも分け隔てなく仕事をあたえた。角川商店の四人に一人は被差別部落の人だったんです。そんな祖父は地元では「生き仏」「生き神様」と呼ばれていて、「富山の米一揆」で女性たちが立ち上がり、米穀商を次々と襲っていったとき、彼女らは角川商店だけは素通りしたんですよ」。どうやらそれは本当らしいんだけれど……しかし、スゴイよね。別に「それがまったくなかった」の一言で済むものを「祖父は地元では「生き仏」「生き神様」と呼ばれていて」――と身内自慢に発展する。その厚かましさ(これをスティーブ・ジョブズは「フツパ(chutzpah)」というイディッシュ語で表現していた)が水橋の人たちには足りない――と、そんなことも思いつつ……。



 BSで中島貞夫の1979年の作品『総長の首』を見ましたが、これが再構築版『いつかギラギラする日』を東映任侠映画の枠組みに落とし込んで再々構築したような映画で。菅原文太がなんとシナ帰りのアナキスト崩れを演じているのだ。神波史男によれば、元々の企画はベラミ事件(山口組三代目襲撃事件)に材を取ったものだったそうですが、さすがにヤバくてできないと。で、神波史男が時代を昭和初期に置き換えた。しかも、主人公をヤクザではなくアナキスト崩れにしたわけですが、その意図というか、そういう設定を思いついた心理的背景について――「76年に角川映画で深作さんと高見順原作の『いやな感じ』という昭和初期のアナキストの話をやる予定でシナリオも書いたんですが、それが流れてしまった件があったと思うんです」。それはいいんだけれど、映画としてはなんとも摩訶不思議なシロモノで。なによりも菅原文太がアナキスト崩れに見えないんだよ。あの顔で「赤じゃねえ、オレは黒だ。オレの心の中には今だって黒旗が立ってるんだ」と言われてもねえ……。ただ、血桜団のチンピラ役で出演している清水健太郎・三浦洋一・ジョニー大倉の3人組がなかなかなんだよ。この3人にはそれぞれが抱えるストーリーがあるわけだけれど、それが揃いも揃って絶望的で。三浦洋一演じる長谷部稔と松田暎子演じる結核病みの娼婦・浮世との関係なんて和田久太郎と浅草十二階下の娼婦・堀口直江の関係を彷彿させるくらい。で、もしかしたら『いつかギラギラする日』というタイトルにふさわしい映画ってこういう映画だったのでは? 別に血桜団がテロリスト集団なんかじゃなくてもいいんだよ。映画の通り浅草を縄張りとするヤクザ組織・花森組の傘下団体のままで。しかしそこには『いつかギラギラする日』を求めて歯ぎしりする若者たちのゲキがあった……と、この摩訶不思議な映画をアタマの中で再々々構築してみたり……。