PW_PLUS


鎌倉殿ノート⑥
〜大江広元の「一世一代の大仕事」について〜

 ちょっと待って下さいよ、と。ワタシの理解では、実朝の後継として後鳥羽上皇の皇子を貰い受けるというのはあくまでも内々の話であって、あんなふうにさ、正式な決定事項として宿老らに披露されるような、そんなコンクリートなものじゃなかったと思うんだけれど。しかも、この件に関する唯一の典拠史料である『愚管抄』を読む限りは、言い出したのは藤原兼子の方で、ざっくばらんに言うならば、藤原兼子が実朝に子がないことに付け込んで自分の養い子である頼仁親王を実朝の後継将軍として売り込んだという、そういう話だと思うのだけれど……?

 ま、『愚管抄』というのは今から800年前に書かれた歴史書なので読みこなすのはなかなかホネが折れる。しかし、コトは実朝暗殺事件の原因にも関わる重大な問題なので、ここはちょっと頑張ってみよう。まず、そもそも『愚管抄』に記されているのは、実朝の死後に院の当局と鎌倉側の使者との間で行われた交渉について。それは、次のような記載となる――

カヽリケル程ニ。尼二位使ヲ參ラス。行光トテ年ゴロ政所ノ事サタセサセテイミジキ者トツカイケリ。成功マイラセテ信乃ノ守ニナリタル者也。二品ノ熊野詣モ。奉行シテ上リタリケル者ヲマイラセテ。院ノ宮コノ中ニサモ候ヌベカランヲ。御下向候テソレヲ將軍ニ成シマイラセテモチマイラセラレ候ヘ。將軍ガ跡ノ武士今ハアリツキテ數萬候ガ。主人ヲウシナイ候テ。一定ヤウ/\ノ心モ出キ候ヌベシ。サテコソノドマリ候ハメト申タリケリ。

 この時、尼二位(北条政子)が使者として遣わした「行光」とは二階堂行光のことで、あの十三人衆の1人である二階堂行政の子。なんでも政所の次席に相当する執事を務めていたらしい。その二階堂行光と院周辺の誰か(具体的な言及はなし)との間で――「院ノ宮コノ中ニサモ候ヌベカランヲ。御下向候テソレヲ將軍ニ成シマイラセテモチマイラセラレ候ヘ」。ここだね。でね、この時、将軍候補として取り沙汰された宮とは、『吾妻鏡』によるならば、雅成親王か頼仁親王。雅成親王というのは後鳥羽天皇の寵妃・高倉重子が生んだ子で、順徳天皇の同母弟に当たる。一方、頼仁親王は内大臣・坊門信清の娘・西の御方が生んだ子。生母の実名はわかっておらず、↓の引用文にも「西ノ御方」として登場する。また、乳母が藤原兼子ということになる。いずれにしても、鎌倉側の要望というのは、雅成親王か頼仁親王を、であって、頼仁親王を、というものではないんです。もし第43話「資格と死角」で描かれたように藤原兼子の養い子である頼仁親王の関東下向で事実上の合意に達していたならば決してこういう要望にはならないはず――ですよね? また、そもそも北条政子の上洛時に藤原兼子との間で宮将軍の下向について話し合われたということは『吾妻鏡』には記されていない。そうした事実があったことを伝えているのは、唯一、『愚管抄』のみ。では、『愚管抄』ではどう記しているのか? 実は、その下りは↑に引いた一節に続く部分で、それは次のような記載となる――

コノ事ハ熊野詣ノ料ニ上リタリケルニ。實朝ガアリシ時子モマウケヌニサヤ有ベキナド。卿二位物語シタリト聞ヘシ名殘ニヤ。カヽル事ヲ申タリケル。信淸ノヲトヾノムスメニ西ノ御方トテ。院ニ候ヲバ卿二位子ニシタルガ腹ニ。院ノ宮ウミ參ラセタルヲ。スグル御前ト名付テ。卿二位ガ養イマイラセタル。初ハ三井寺ヘ法師ニ成シマイラセントテ有ケル。猶御元服アリテ親王ニテヲハシマスヲ。モテアツカイテ位ノ心モ深ク。サラズハ將軍ニマレナド思ニヤ。

 この中に出てくる「スグル御前」というのが頼仁親王のことで、承元4年(1210年)、親王宣下を蒙り、諱を頼仁とした。その頼仁親王の乳母である卿二位(藤原兼子)が皇子を愛しむことことのほか深く、「モテアツカイテ位ノ心モ深ク。サラズハ將軍ニマレナド思ニヤ」――というのが、↑の記載のキモですね。解釈するならば「かいがいしく世話をして深く即位を望み、それがダメならば将軍にでもと思われたのだろうか」。ま、訳文の当否はともかく、意味はそんなところで間違いないはず。いずれにしても、記されていることの当事者は卿二位であって尼二位ではないのだ。あくまでも卿二位がそう思われたのだろうか――と、『愚管抄』の作者である慈円が推測しているという、これはそういう文章(のはず)。ただ、どっちが言い出したことであるにせよ、卿二位と尼二位の間でそういう話し合いがあったのは確かなんでしょう。で、それはまだ実朝が健在な時で、その時点で一度、そういうことがあって、実朝の死後、院側と鎌倉側の使者である二階堂行光との間で今度は正式な交渉が行われた――と『愚管抄』に記されていることを整理するなら、そういうことになる。で、ワタシの読むところでは、卿二位と尼二位の間で話し合われたことというのは、そうした正式交渉に至る前の内々の話で、有り体に言うならば、卿二位の乳母心(?)から出た話に過ぎず、ましてや後鳥羽の了解も得て双方で合意していた決定事項などでは全然ないと思うんだ。その証拠に、実朝死後の正式交渉で鎌倉側が要望したのは、雅成親王か頼仁親王を、なんだから。だからね、北条政子の上洛時に頼仁親王の関東下向で院側と合意に達し、そのことが引き金となって「鎌倉最大の悲劇」が引き起こされた――というのは、史実に照らしてどうなんだろう? もし史実としてもそうだったのなら、実朝暗殺事件というのはそれほどの謎とはなっていなかったはず。将軍の望みを絶たれた公暁の暴発、ということで誰もが納得していただろう。しかし、実際には、義時黒幕説、義村黒幕説、御家人共謀説など、さまざまな説が取り沙汰されている状況で、それほど事件勃発に至った背景が読めない、ということですよ。そういう意味で、第43話「資格と死角」で描かれた事件勃発に至る背景は、ワタシの理解する実朝暗殺事件とは別のものという印象も。まあ、三谷幸喜としては、ああいうかたちで「公暁」というカードを無効化したかったのかなあ。でなきゃ、三浦義村が公暁を無駄遣いした理由を説明できない――と……?



 さて、話は変って、こっからはタイトルにもある大江広元の件。第43話「資格と死角」を見て何か書くとなると、やっぱりこれでしょう。なにしろ、あの「鎌倉最恐コンビ」と恐れられた大江広元がすっかり憑き物が落ちたというか。そのふるまい(北条政子に一世一代の大告白)も、そのリアクション(一蹴されて照れ笑い)も、実に「人間らしい」。もう彼は下りたということなのかな? 「陰謀」という神経をすり減らす仕事から。あの憑き物が落ちたようなサッパリとした表情からはそういうこともうかがえたのだけれど。ただ、ねえ。彼にはまだ好々爺になってもらっては困るんだよ。だって、大仕事が残っているわけだから。それは、承久3年5月19日、京都から相次いでもたらされた凶報(上皇挙兵)を受けて北条館で開かれた軍議の場で迎撃論が大勢を占める中、大江広元だけは敢然と出戦論を唱えたという、この歴史の1ページを画す大仕事。ここは五味文彦・本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』より引こう――

晩鐘の頃に、義時の館で時房・泰時・広元・駿河前司(三浦義村)・城介入道(覚智、安達景盛)らが評議を重ねた。意見が分かれたが、結局は足柄・箱根の二つの路の関所を固めて待ち受けることになったという。(しかし)大官令覚阿(広元)が言った。「議論の趣旨はひとまず適当です。ただし東国武士が心を一つにしなければ、関を守って時間が経過するのは、かえって敗北の原因になるでしょう。運を天に任せて速やかに兵を京都に派遣されるべきです」。義時が両方の意見を政子に申したところ、政子が言った。「上洛しなければ、絶対に官軍を破ることはできないでしょう。安保刑部丞実光以下の武蔵国の軍勢を待って速やかに京に参るべきです」。

 相手は、錦の御旗を翻す「官軍」ですよ。その「官軍」相手に、迎え撃つだけでもコトだってのに、討って出ようというのだから、その主張たるやハンパない。確かに『孫子』には「勝つべからざるは守るなり。勝つべきは攻むるなり。守るは則ち足らず(不可勝者守也。可勝者攻也。守則不足)」とあって、純軍事戦略的に考えるなら出戦こそが正答なんでしょう。しかし、それがわかっていながら恭順の一手を決め込んだ徳川慶喜の例もあるように、わが国では錦旗に刃向かうなどおよそ正常な行動ではない。実際、三浦義村の弟ながら上皇方に付いた三浦胤義は後鳥羽上皇の近臣(後鳥羽にとっての大江広元的存在かな?)である藤原秀康から鎌倉攻略法を尋ねられ「一天ノ君ノ思召立セ給ハンニ、何條叶ハヌ樣ノ候ハンゾ、日本國重代ノ侍共仰ヲ承リテ、如何デカ背キ進ラセ候ベキ」と答えている。それが常識的な思考というもので、むしろ鎌倉方が迎撃論で固まっただけでも奇跡的。徳川方の場合はそこまでも行けなかったわけだから。ましてや出戦なんて――ということで、この時の大江広元の献策というのは本当にスゴイ。さらに言えば、その献策を受け入れた北条政子もスゴイ。多分、政子は、広元の献策だから受け入れたんだろうね。そういう信頼関係が両者にはあった。『吾妻鏡』の記載からそうした消息を読みとってあんな人間ドラマ(?)に仕立て上げた三谷幸喜は、つくづくエライなあ……。だからね、大江広元にはまだまだ好々爺になってもらっては困るんですよ。彼にはやらなければならない大仕事が残っているわけだから。

 でだ、こっからは、こうした日本史上の奇跡(「朝廷対武家」という戦いにおいて武家側が大勝利を収めたんだから、これはやっぱり奇跡でしょう)において大江広元が果たした役割について思いを深めつつ、翻って戊辰戦争ではどうだったか? ということについて少しばかり書きたい。ワタシはかねてより承久の乱と戊辰戦争は裏表の関係にあると考えていて。つーか、戊辰戦争とは京方が約650年の時を経て承久の乱のリベンジを果たしたものであると。戊辰戦争で京方が東海道・東山道・北陸道の3ルートで江戸に攻め下ったのは承久の乱で鎌倉方が東海道・東山道・北陸道の3ルートで京都に攻め上ったのを攻守所を変えてやってみせたというのが本当のところでしょう、そういうことを記した文献なり何なりがあるのかどうかは知りませんが。結局、歴史というのは繋がっているわけだから。ただ、ここで間違えてはいけないのは、だからと言って結果は決っていたわけではないこと。ボクシングでも、返り討ちというのがあって。むしろ、キレイにリベンジが決まる、なんて方が珍しいのでは? で、戊辰戦争の場合も、そうなる可能性はあった――つーか、もし徳川慶喜が小栗忠順の献策を受け入れていたら、間違いなくそうなっていた。これについては、戊辰戦争当時、軍監として三条実美らとともに江戸にいた土方久元(明治政府で宮内大臣や農商務大臣などを務めえた政治家。ちなみに、明治時代にかの土方歳三の写真に「土方久元君」とプリントされたプロマイドが世に出回ったことがあるそうな。そういうことが、今年、朝日新聞の記事になっていた)の証言がある。ここは大正2年に土方の評伝として刊行された木村知治著『土方伯』より引くなら――

それから上野戰爭後大村益次郞や、江藤新平など云ふ參謀軍監が集つて、いろ/\話をして居ると、大村が論じて云ふには、幕府で若し小栗豐後守(忠順初め豐後守後上野介)の獻策を用ひて、實地にやつたならば、有栖川總督宮を初め、我々は幾んど生命がなかつたであらう、夫れは何故であるかと云ふに、官軍が東に向つて來ると云ふ事になつてから、かの柳營で一日大評議があつた、其時小栗豐後守の獻策は、此度有栖川宮が大總督となつて、關東御征伐と云ふことに決したと云ふことであるが、併し其の率ゆる所の兵員は、僅に三萬人を越すまい、依て函嶺の關門を開いて江戶に官軍を入れて仕舞ひ、其上で函嶺を閉ざし、又東山道の方面は木曾路を塞いで、悉く官軍を江戶に入れて置いて、戰へば鏖殺にして終ふことは容易である、然して軍艦の一半を以つて浦賀を扼し、他の一半を以つて攝海を衝く、さすれば關東の諸侯は大抵德川家の味方になるであらう、此度の事を關ヶ原の役と見れば、關西にも譜代大名もあれば親藩もある、又外樣大名の中でも幕府に志を寄せて居るものも、絕無ではない、依て此擧を以つて德川恢復の途も立つであらうからと云ふことで、其日の評議が一決し、小栗豐後守の策略に依て實行することになつて、一同下城して終つた……

 ただし、この話は、一夜にしてひっくり返ってしまうわけですね。で、江藤新平に言わせるなら「小栗はさう云ふ間拔けだからいかぬ」。それに対し土方が「何にが間拔けだ」と問うと――「議論が一決したからと云つて下城して安々寢る樣な間拔けだから、反覆されるのも當然のことである、この危急存亡の場合に呑氣な考へを持つてはいかぬ、議が一決したならば、其所で直に部署を定め、誰は何の兵隊を以て、何方に當れと云ふ部署を定めて仕舞つて、直ぐそれを發表せねばならぬ、夫れをボンヤリ歸つて安閑と寢ると云ふやうな、間拔けでは到底出來やう筈がない」。これはねえ、冥界の小栗忠順としても耳が痛いところでしょう。で、実は大江広元はこの点でも抜かりがなかった。案の定と言うべきか、出戦論と決した2日後の5月21日の評議では「住む所を離れ、官軍に敵対して不用意に上洛するのはどのようなものか」と異論が吹き出す事態に(なんでも異論を唱えたのは北条泰時らしい。確かに泰時にはそういう常識的なところがある。後に「日本史上屈指の名宰相」と謳われることになる人物ではあるけれど、決して天才肌の人物ではなかったんだね。あるいは、それが良かった? 彼には本当の意味での「聞く力」があった……のかな?)。それに対し、広元が言ったのは――「上洛と決した後に日が経ったので、とうとうまた異議が出されました。武蔵国の軍勢を待つのも、やはり誤った考えです。日時を重ねていては武蔵国の者らであっても次第に考えを変え、きっと心変わりをするでしょう。ただ今夜中に武州(北条泰時)一人であっても、鞭を揚げて急行されるならば、東国武士は全て雲が龍に靡くように従うでしょう」。これを受け、義時は速やかな進発を泰時に指示。泰時はその夜には門を出て稲瀬川の藤沢清親の家に止宿(一応、これで「今夜中に」という命令は守ったことになる?)、翌22日の卯の刻(午後10時頃)、京都に向けて進発したという。ちなみに、『吾妻鏡』によれば、その時、泰時に従ったのはわずか18騎。しかし、この18騎は瞬く間に膨れ上がって、最終的には19万騎に達したというのはあまりにも有名な話。それもこれも、大江広元の献策があったからこそ。だからねえ、大江広元というのは本当にスゴイんですよ。軍略家としては小栗忠順よりも上だったかも知れないよ。そういう視点も持ちながら、いよいよ始まる三谷版「承久の乱」に全集中を注いで行こうかなと……。



 あと、あの源仲章の傍若無人ぶりについても書いておこうかな。頼仁親王が鎌倉殿になったら自分は関白だの、(義時に対して)伊豆でゆっくり余生を過ごせだの、遂には「私が執権になろうかな~」。アンタ、死にたいの? ここは鎌倉だよ。あの木曾義高をして「鎌倉は恐ろしい所です」と言わしめた、鎌倉だよ。言っとくけど、もう完全に義時にロックオンされてるからね。くれぐれも義時に頼まれて御剣役など肩代わりされぬように……とか思っていたらね、卒然と思いついたんだけれど、源仲章ってちょっとタイプの違う世良修蔵みたいなものか? と。つまり、あえて傍若無人にふるまうことで鎌倉が暴発するように仕向けている……。戊辰戦争当時、新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀として仙台藩に乗りこんだ世良修蔵はその傍若無人なふるまいによって仙台藩ばかりではなく、東北諸藩の怒りを買い、遂には耐えきれなくなった仙台・福島藩士らによって福島の妓楼「金澤屋」登楼中を襲われ、遺体は阿武隈川へ投げ捨てられたとされる。これにより、もう事態の平和的解決は不可能となった。つまり、これぞ東北戊辰戦争におけるポイント・オブ・ノーリターンということに……。ちなみに、戊辰戦争を東北側の視点で綴った藤原相之助著『仙台戊辰史』には世良が仙台藩士・玉虫左太夫(かの万延元年遣米使節に記録係として随伴、ポーハタン号での生活やアメリカの風俗などを詳細に記録した『航米日録』を著した開明派)を罵って言ったというこんな言葉が記されている――「其方共ハ奧羽ノ諸藩中ニテ少シハ譯ノ分ルモノ故使者ニモ使ハレシナランニ扨々見下ゲ果テタル呆氣ニコソ、左樣ノモノ共ノ主人モ畧知レタモノナリ、所詮奧羽ニハ目鼻ノ明タ者ハ見當ラズ」。源仲章の場合はここまで居丈高ではないけれど、はらたつことははらたつよね(曰く「みなもとの なんかはらたつなかあきら かおはいいのに かおはいいのに」。出典はこちらのツイートだそうです)。そう考えるならば、アレって意図的なんだろうか? と。つまり、あえて傍若無人にふるまうことによって鎌倉側の暴発を促し、それを以て鎌倉追討の大義名分とする――。源仲章というのは、そういうミッションを託されて院から派遣された工作員……。

 ――と考えるなら、そこを起点としてさらなる想像力(妄想力?)が働く。それは、なぜ源仲章が北条義時と誤認されて(『愚管抄』に曰く「コノ仲章ガ前駈シテ火フリテ有ケルヲ義時ゾト思テ。ヲナジク切フセテコロシテウセヌ」)殺されることになったのか? それは、院側の意図を読んだ義時がそういう手の込んだ策を仕込んだということでは? ただ源仲章を殺したのでは、院側の思う壷。そこで、仲章は「勘違いで」殺されたというふうにした。これならば「事故」なので、鎌倉追討の大義名分とはならない。結果、後鳥羽上皇が鎌倉追討(有り体に言えば、義時追討)の院宣を発するまでにはさらに2年4か月の工作を要した……?



 あと、くどいようだけど、その後鳥羽の人物造形がねえ。第43話ではとうとうトキューサに肩を小突かれてた。知らなかったとはいえ、「龍は名乗らずとも龍だ」と言うじゃないか。結局、それだけのオーラがあの後鳥羽には備わっていないということ。まあ、天皇じゃないんだから、高御座に鎮座しているというのはないにしても、常に御簾の裏に隠れていて容易に素顔をうかがい知ることができない――とか、そういう演出があってはじめて神聖さというものは生まれるものなのだろう。それがないと、ただの人ってことですか? しかもだ、側にいるのは決って乳母の藤原兼子と相談役(?)の慈円の2人だけ。これで後鳥羽に畏怖感情を抱けという方がムリな相談で。多分、この後鳥羽上皇なら、鎌倉側も遠慮なく出戦で衆議が一致するのでは? そんなふうに思わせてしまうくらいにはオーラがない。ワタシはね、あの「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」(水無瀬神宮蔵)というやつが好きで。例の朱の御手印が捺されているやつね。少しはあのマガマガしさに通じるようなものは表現してもらわないとなあ……。



 おい、どうした、トキューサ……。

 大江広元が「一世一大の大仕事」をするはずだった軍議の席上で真っ先に出戦論を説いたのは、なんとなんと、時房だった。ここは第48話「報いの時」で描かれた軍議の場でのやりとりを書き出すなら――

時房 全軍を率いて東海道を西へ向かい、一気に京に攻め込みましょう、これぞ必勝の策。
泰時 御家人たちは、坂東を離れるのを渋っているようです。軍勢を揃えるには時がかかります。
広元 (机を叩いて)先の戦での平家の失敗は速やかに追討軍を送らなかったこと。グズグズしているうちに志気は下がります。
泰時 いや、しかし……。
義時 決めた。私が総大将となって、今すぐ兵を出す。
広元 執権殿は鎌倉にいてもらわねば困ります。
義時 そうはいかん。こんなことになったのは、そもそも私のせい。
政子 敵はあなたを狙っているのですよ。ここにいなさい。
義時 (足音に振り向いて)三善殿。
康信 この坂東存亡の危機にどうにかお役に立ちたいと思い、老骨に鞭打って参りました。今こそ必勝の策を献上します。
時房 今、ちょうど……。
政子 聞かせてもらいましょう。
康信 時をムダにしてはなりません。一刻も早く出陣すべきです。
政子 皆さん、三善殿の策で参りましょう。

 場面自体がいきなり時房の献策から始まっている。しかも、出戦論を説いた上で「これぞ必勝の策」と。トキューサって、そんなキャラじゃないだろうに……。それに対し、泰時がこちらはいかにも彼らしい常識論で異議を唱えたところで、ようやくわれらが大江広元の出番となる――という流れなんだけれど、時房が出戦論を説いたなんてことは『吾妻鏡』には記されていない。また、それまでの人物描写から見てもちょっと考えられない。しかし、どういうわけか三谷幸喜はここでは北条時房をひとかどの軍略家としてクローズアップしてみせたと。そのため、大江広元の献策の偉大さが相対的に弱まったようなところもなくはない。ま、アレかねえ、やっぱり『鎌倉殿の13人』というのは「北条家の物語」だということかねえ。だから、この「坂東存亡の危機」にあって重大な決定を下すのは北条家の面々でなければならない、という三谷なりの「ドラマの方程式」から導き出された結論とかなのかな? だったらそれに異議を唱える筋合いはないのだけれど、自身に宛てられた院宣を「記念」に貰おうとした時房なんだ、ここでもなにかやらかしてくれていた方が。それに三谷が『ゴッドファーザー』のトム・ヘイゲン(ロバート・デュヴァル)だという大江広元の最大の見せ場を奪う必要があったのかねえ、というのが第48話「報いの時」を見て抱いたワタシなりの疑問点というか。ま、この程度のことではあるけれど、一応、「ノート」には書きつけておこうかなと……。