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《風の王国》はいま、彼の行手にあった。
〜五木寛之と「デラシネ」をめぐる好古学的疑問〜

 日本の文化行政が心配になる。わずかこれしきの文章が適切に校正されることもないまま2010年以来、放置されてるというね。葛城天狼なんて、確かにそれっぽい名前ではあるけれど……。

 さて、かねてから疑問に思っていたことがある。1981年、五木寛之は2度目の休筆に入った。その理由は、前年に7歳下の弟(松延邦之)を亡くし、その心の痛手が尋常ではなく(邦之氏の告別式に参列した生島治郎によれば、「いつもは何事にも動じないような顔つきをしている彼が、その告別式のときばかりは、他人に涙を見せてはばからなかった」という。いつも人にどう見られるかを気にしていたあの五木寛之が……)とても筆を執れる心境にはなかったため――というようなことを当の五木寛之がことあるごとに語っており、おそらく松延邦之というのは五木寛之にとって同志のような存在だったんだろうなあ(松延邦之は兄のマネージメントを担当していたとされる)。その同志を失ったとなれば、おいそれと筆を執ることができない、というのは、人のココロのコトワリとして、充分、得心が行く。まあ、そんな時には、休むに如くはないわけですよ。で、この休筆期間中に五木寛之は龍谷大学の聴講生となり、仏教、就中、民衆仏教に思いを深めて行くことになる。このことが後に『NHK人間大学』の講義録である『蓮如 聖俗具有の人間像』や『蓮如 われ深き淵より』、さらには『親鸞』3部作として結実することになる「宗教思想家・五木寛之」を生み出す機縁となった――。まあ、大まかに言えば、そういうことだろうと思うんだけれど、こうした人間としての有為転変の軌跡については決して理解できないものではない。五木寛之というのは、かつてはパルコ文化とも親和性の高いコンテンポラリーな作家だった。そんな人物が仏教書や「老い」の生きざまを説く自己啓発本の書き手として〝転生〟することになるというのは、その振り幅から見ても、本来ならば大いに頭を悩ませられるところではあるはずなんだけれど、ワタシ自身、浄土真宗の金城湯池と言われる北陸・富山の生まれでありながら、ヴィンテージ・ペーパーバックを収集するなど、およそこの富山という風土とはかけはなれた処世に身を投じてきた。そんなワタシであっても知らず知らずに身に染みついた「南無阿弥陀仏」の教えは断ちきれないんだよ。その証拠に、あの五木寛之が蓮如について書いた、と知ればつい手に取ってしまう(確か『蓮如 われ深き淵より』は刊行時点で読んでいるはず)。多分、五木寛之が蓮如について書いたということについては、当時としてもさほどの違和感は覚えなかったのでは? 五木寛之は、一時期、妻の故郷である金沢で暮していたわけで、デビュー作の「さらばモスクワ愚連隊」を書いたのも金沢にいた頃。そんな彼が尾山御坊(金沢御堂)を拠点に戦われた加賀一向一揆の思想的指導者だった蓮如に思いを惹かれのは至って自然なことだと言えなくもない。また、五木寛之が当初、注目したのが浄土真宗の宗祖である親鸞ではなく、その「中興の祖」とされる蓮如である、というのもいかにも五木寛之らしいなあ、と。五木寛之は「奴隷の韻律」などと蔑まれて特にインテリからはあからさまに嫌悪されていた「演歌」に「日本のブルース」という意味を付与して当時の「反権力」志向が強い若者たちに耳を傾けさせるきっかけを作った人で(「艶歌」で高円寺竜三が津上卓也に言った「あんたは、ほんとうは流行歌が好きなんだ。しんから好きなんだよ。ぞっとするんじゃない。ぞくぞくするんだ。あんたの中の日本人の血が、あのメロディーに騒ぐんだ。そいつをあんたの知性とやらが、押さえつけようとする。その混乱で鳥肌がたつんだ」――は今以てそのレトリックの鮮やかさにぞくぞくさせられる……)、そんな彼がやはりインテリからは嫌悪される傾向にあった蓮如(五木寛之が蓮如について大々的なキャンペーンを繰り広げるまでは、蓮如は宗教家というよりも巨大教団を作り上げた宗教的ビジネスマンという見方が一般的だった)に思いを寄せるというのも、これまたいかにもこの人らしいなあ、と。要するにだ、かつてパルコ文化とも親和性の高いコンテンポラリーな作家だった人物が仏教書や「老い」の生きざまを説く自己啓発本の書き手として〝転生〟することになったその凡の経緯については、ワタシとしてもそれなりに理解できるところではあるんですよ。

 ただ、五木寛之は「デラシネ」の人だったわけですよ。福岡県八女市で生まれながら、幼くして朝鮮半島に渡り、そこで〝侵略者の子〟として育つもかの地の山河を「わが山河」とするようなところもあったようで、生島治郎によれば、弟・邦之氏の告別式に参列してくれたことへの礼状として送ってきた葉書には懇切丁寧なお礼とともに「これから、九州へでも行って、玄界灘に骨を流してやろうと思っている。半島流にいえば『哀号!』と叫びたい気持ちで」――と、そんな言葉が綴られていたという(『女の寸法 男の寸法』より)。むしろ、この兄弟にとっては、「故郷」は朝鮮だったんだね。しかし、敗戦によってかの地に暮らす資格を奪われた彼は(弟の手を引いて)命からがら「内地」に引き揚げてくる(この際の経験を小説化したのが「私刑の夏」で、おそらくは五木寛之の全作品の中で最も硬質なハードボイルド・タッチに貫かれたのが本作。その緊張感たるや、やはり外地からの引き揚げを描いた生島治郎の「鉄の棺」にも匹敵する。もしワタシが『日本ハードボイルド全集』の編者なら第7巻「傑作選」には何を措いても入れるけどなあ。もっとも、第1巻「生島治郎集」から「鉄の棺」が漏れていることを考えるなら……)。しかし、そうして辿り着いた「内地」は決して彼らを「同胞」としては扱わず、日本人でありながら日本社会で疎外感に苛まれながら生きる――、そうしたことが彼に故郷を持たない「デラシネ」の意識を育んで行った――と、まあ、非常に薄っぺらな理解ではありましょうが、大掴みで言うならばこういうことで間違いないはず。そうすると、彼が現在、導師のような役目を果たしている浄土真宗とはいかにも食い合わせがよくない。というのも、浄土真宗というのは、加賀一向一揆を言い表すものとして頻りに喧伝される「百姓ノ持タル國」(『實悟記拾遺』に出てくる言葉。正しくは「近年ハ百姓ノ持タル國ノヤウニナリ行キ候コトニテ候」。単なる「百姓ノ持タル國」ではなく「ノヤウ」がついていることに注目。それは、つまり、本願寺教団が支配した長享2年から天正8年までのおよそ100年間、加賀は決して「百姓ノ持タル國」ではなかったと言っているに等しい……)を持ち出すまでもなく、これはもう「百姓」に信仰された宗教であるわけですよ。その「百姓」とは「土地」と切っても切れない存在であるわけで、五木寛之が永年、標榜してきた「デラシネ」とは正反対の生き方と言っていい。『戒厳令の夜』で「海人族」「山人族」を描き、『風の王国』で山の世界と里の世界の間(世間)で暮らす「世間師」(作中では「誤ってサンカと名指された一群」とされている)を描いた五木寛之がなぜそうした「一畝不耕 一所不住」(『風の王国』の冒頭でエピグラフとして掲げられているフレーズ。こちらも正しくは「一畝不耕 一所不住 一生無籍 一心無私」ということになる。今、この中で特に重い意味を持つ言葉があるとすれば、「一生無籍」か? マイナンバーカードの事実上の義務化が推し進められる中、オレはどこまで「一生無籍」を貫き通せるだろうか……?)の輩(ともがら)とは正反対の生き方をする「百姓」に信仰された宗教に入れ込むのか? と。これが同じ「南無阿弥陀仏」の六字の名号を唱える念仏宗でも時宗とかならわかるんだ。一遍は一所不住の諸国遊行を信条としたとされるので(ウィキペディアにそう記されている――「寺院に依存しない一所不住の諸国遊行や、「我が化導は一期ばかりぞ」との信条を貫き」と、そうハッキリと)。実際、ワタシは、五木寛之が描く一遍を読んで見たかった、と思わないでもないんだよね。「生ずるは独り、死するも独り、共に住するといえど独り、さすれば、共にはつるなき故なり」――なんて、弟に先立たれた彼の心情にも見合うものだったのでは? でも、実際に彼が書いたのは蓮如であり親鸞であるという……。

 でね、これはやっぱりある種の〝宗旨替え〟が行われたと考えるしかないんですよ。そういうことを五木寛之がどこかで言ったり書いたりしているのか、それは知りませんが、そう考えるしかない。そして、そのタイミングは、2度目の休筆中に龍谷大学の聴講生になったその時――と考えるのがリーズナブルとは思うんだけれど。ただ、そうなると、なぜ休筆明けに書いたのが『風の王国』だったのかがわからなくなる。でね、この『風の王国』というのがスゴイ小説で。もしかしたら五木寛之の最高傑作かも知れない。この小説が文化庁が主導する「現代日本文学翻訳・普及事業」の対象作品に選ばれ、今や英語版ばかりではなくドイツ語版やフランス語版も出ているのはこれこそが五木寛之の最高傑作であるという認識が選定委員の中にもあったからでしょう(ちなみに、文化庁のプレスリリースを見ると選定委員には三浦雅士が含まれている。推薦したのは彼かな?)。内容もこれぞ「デラシネ」の人・五木寛之の真骨頂というようなもので、「勝つか、負けるか、それをぎりぎりの地点で迫られたときは、負けるがよい」(389p)――なんて、もしかしたら究極のハードボイルドと言えるのではないか? そして、最後がもうね。ここは小説紹介のルールを無視してその最後の下りを紹介するなら――

「ようし」
 速見卓は大きく息を吐くと、粒立った空気を肺いっぱいに送りこんで歩きだした。両足の左右の足指が手のようにひらいて蹴り出し、体を前へ前へとスライドさせる。風が顔の両側を音をたてて流れた。
 速見卓は、今はもう孤独な歩行者ではなかった。あの二上山の空に見た幻の群れとともに、彼は葛城の古道を《疾歩》していた。限りなく自由な、どこまでも国境のない、もうひとつの王国への道が速見卓の目にはっきりと見えていた。彼は遍浪だった。彼は真一だった。彼は石叩きのゲンで、麻木サエラの父親だった。能登のモンドで、三国の町の悠蔵で、島村杏子だった。二上山の雄岳と雌岳が一つに見えるように、彼はそのすべての人々と重なりあっている自分を感じていた。おれは葛城哀だ、おれは八家の五十五人だ、と彼は思い、はげしい歓喜の感情に身をふるわせた。彼は周囲の何も見てはいなかった。だが、足はすでに目だった。いま彼はかつて体験したことのない速さで、軽々と葛城山麓の古道を《疾歩》していた。
 風は見えなかった。だがたしかに存在していた。《風の王国》はいま、彼の行手にあった。おれが風だ、と彼は感じ、あざやかな葛城の朝の光の中をすばらしい速さで《翔び》つづけた。

 これが五木寛之の〝白鳥の歌〟だったとしても、全然、不思議ではない。それほど達成感に満ちあふれている。そして、↑の下りを書き終えて作家・五木寛之は永遠に筆を擱いた――としても、それはそれで十分に受け入れられるストーリーではあるだろう。その場合、これ以降の作品は一切、書かれることはなかったわけだけれど、あえて言わしてもらうならば、それでなにか不都合があるのかと。むしろ、五木寛之は『風の王国』で筆を擱くべきだったのだ――と、そこまで言い切るのは読者の驕りというものだろうか? しかし、これが五木寛之という作家の「今」に福島泰樹が言うところの「口惜しみの灯」を燈さざるをえないワタシの偽らざる本音でもある。そして、改めてこうして『風の王国』の〝結詞〟を書き出してみても、思うのは、なぜ龍谷大学の聴講生になって民衆仏教について学んだ後に書かれたのがこういう物語だったのか? だって、民衆仏教とは全然関係のない話なんだから。まあ、よくよく吟味するならば、主人公である速見卓の少年時代の思い出として「《肉付きの面》というおそろしげな伝説の能面を見に吉崎へやらされたときは、卓は泣きそうになったものだった」(62p)なんてことも記されていて、その吉崎というのはかつて蓮如が布教の拠点とした吉崎御坊があった土地であり、「肉付きの面」にまつわる伝承も蓮如と深く関るもので、民衆仏教という観点から見てもうってつけの素材ではあるだろう。そういう意味で、既に後の「宗教思想家・五木寛之」の萌芽が見てとれる、と言えないこともないわけだけれど、でも記されているのはこれくらいだから。この「肉付きの面」の話だって、本筋には一切、関係ない。『風の王国』というのは、それこそ「風」のように生きる漂泊民の物語なのだ。それは「土地」にしがみついて生きる「百姓」とは真逆の世界であり、その世界をどう突き詰めようとも『蓮如 われ深き淵より』や『親鸞』3部作にはつながらないのだ。だからね、なにがどうなってんだと。そんなことを、40年もの間。

 で、今日はこの好古学的疑問(?)に決着をつけたいと思って。せっかくそれなりの時間を費やして「五木寛之(の初期作品)を読む」なんてことをやってきたんだから、最後に答を出して終わりたい。でね、やっぱり『風の王国』というのは、ある種の〝白鳥の歌〟だったのではないか? という気が強くするんだよね。それは↑の下りを(コピペなんかじゃなく)一字一字キーを叩いて入力してみて実感されることで、そこに満ちあふれる達成感というのか、幸福感というのか、とにかく充足感の表現がハンパない。五木寛之が自作でこれほど感情を露に表現したというのは他にないんじゃないだろうか? しかも、それは、明らかに「ゴールしたもの」の感情表現だよね。間違っても「スタートしたもの」のそれではない(本作が2度目の休筆からの復帰第1作であったにもかかわらず!)。しかも、その「ゴール」というのは、単にこの作品の「ゴール」を意味するものではないはず。もしそうなら、五木寛之の他の長編の最後も同じような充足感に満ちていなければならない。しかし、本作のような幸福な充足感に満ちたラストに飾られた長編小説を五木寛之は他には書いていない。この『風の王国』だけが特別なのだ――とするならば、この小説はやっぱりある種の〝白鳥の歌〟なんですよ。ということで、以下はあくまでもワタシがこう思う、ということでしかないのだけれど――やっぱり、浄土真宗なんですよ。五木寛之は、浄土真宗に出会ってしまったんですよ。なんでも五木寛之は近著『私の親鸞―孤独に寄りそうひと―』(新潮選書)で「三十歳を過ぎた頃、偶然に出会った」として親鸞の「自分は人間として許されざる者である」という言葉(原文がこの通りなのかは知りませんが)を引いた上で「ああ、この人は自分のことを分かってくれる」「とりあえず、自分も生きていくことが許される」と思えた――と、そんなことを語っているそうですが、そういう「出会い」が本当にあったんでしょう。そして、その親鸞の言葉に導かれるように浄土真宗の教えの中へ――《疾歩》したのではない、一歩一歩、知らない土地に分け入るように足を踏み入れて行ったんでしょう。そして、いつしか浄土真宗を「わが信仰」とするようになった――。そうなった時、作家・五木寛之の創作活動も自ずと変わりますよね。当然、浄土真宗の教えに根ざしたものとなるわけで、このことは彼のビブリオグラフィにハッキリと表れている。特にそれが顕著に見てとれるのは1994年以降ということになるでしょうが、その兆しはそれ以前に既に表れていた。というのも、ワタシは五木寛之も寄稿した『〈宗派別〉日本の仏教・人と教え 4 浄土真宗』(小学館)という本を読んでいるんですが、この本が刊行されたのは1985年なんですよ。1985年という時点で五木寛之は既に蓮如について書いていたんですよ。だから、遅くとも1985年には五木寛之は後の『蓮如 われ深き淵より』や『親鸞』3部作につながる道を歩み始めていたということ。そして、その一歩を踏み出すに当っては、彼はどうしたって1つのケジメをつけなければならなかったのではないか? それまでの「デラシネ」の人としてのオノレの人生に。それは、有り体に言うならば、オノレの中の「デラシネ」を葬ること――だったかも知れない。そのために彼は『風の王国』を書いた。そして、物語の最後で主人公(速見卓=「デラシネ」の人である五木寛之のオルターエゴ)は目には見えないけれどたしかに存在する(と彼が信じた)《風の王国》へと旅立って行くのだ――はげしい歓喜の感情に身をふるわせながら。そして、これを以て五木寛之は「デラシネ」の人としてのオノレに別れを告げた――とするならば、それは確かにある種の〝白鳥の歌〟には違いない……。



 どうやら五木寛之はオノレの中の「デラシネ」を文学的に大和の山中に葬っただけではなく、物理的にも大和の山中に眠ることにしたようだ――「大和」をオノレの旅の最終地点として……。

 2001年から2002年にかけて刊行された『日本人のこころ』(なんというか……もうすごいタイトルです。十代の頃の自分に五木寛之は世紀が変わる頃にはこんなタイトルの本を出すようになるんだよ、と言ってもとても信じないだろうなあ。ワタシは、第1回目の休筆中に五木寛之を読み始めて、その時点で刊行されていた小説はほとんど読み切り、もう読む本がなくなったそういうタイミングでお誂え向きに『戒厳令の夜』の連載が『小説新潮』で始まり、毎号、発売日に買い求めては貪るように読んだという超ディープな五木マニアだった)の第3巻「金沢・大和」編を読んだところ、最後に実に意外なことが記されていた。五木寛之は邦之氏の墓(文中では「松延邦之の碑」とされているものの、遺骨も納められているとのことなので実態としては墓)を奈良の「斑鳩の法隆寺を見おろす丘の上」に建てた(あるいは、置いた――あくまでもそれは「松延邦之の碑と書かれた自然石の石碑」であるという本人の言い分に鑑みるならば)というのだ。生島治郎には「これから、九州へでも行って、玄界灘に骨を流してやろうと思っている。半島流にいえば『哀号!』と叫びたい気持ちで」――と書いていた五木寛之ではあるけれど、そういう思いきったことはできなかったということか(当人の弁によれば「なにかひとつ、彼をしのぶよすがを形にして残しておきたかった。遺骨を土にかえしたいという気持ちもあった」)。とにかく、彼は弟を大和に葬ったのだ。しかもだ、単に弟の遺骨を納めただけではなく、引き揚げのときに持ってきた母の遺髪と父の遺骨も一緒に納めたというんだよ。さらには、こんなことまで書いている――「私は大和の地に菩提寺を定め、ここに両親と弟の遺骨を納めることにしたのである」。大和の地に菩提寺を定め――とは、普通に考えるならば、自分自身も大和に眠る、ということだよね。「菩提寺を定め」って、そういうことを意味するはずだから。そうすると、五木寛之はオノレの中の「デラシネ」を文学的に大和の山中に葬っただけではなく、物理的にも大和の山中に眠ることにした――と、そういうことになるはずで、『風の王国』をある種の〝白鳥の歌〟と見立てることは、そういう意味でも間違いではない? これでいよいよ『風の王国』は「五木寛之」という問題を考える上での重要な作品になってきた……と、ここでこの追記を終えてもいいところなんだけどね。でも、ここはあえてこんな方向へと話を進める――それにしても、なんで大和なんだ? 別に五木寛之は「世間師」の末裔ってわけでもないんだから。大和なんて、五木さんに似合ってませんよ……つーかね、この際、胸に蠢くものをそのまま言葉として吐き出すならば……なんだよ、さんざん「デラシネ」だとかなんだとか言って、最後は大和かよ……というようなね。いや、ね、ワタシも承知はしていますよ、大和はシルクロードの最終地点とされる地だってことは。これについては同書にもこう記されている――「当時、遣隋使や遣唐使は飛鳥の都から横大路、竹内街道を通って難波へ向かい、船で瀬戸内海を抜けて大陸を目指した。逆に、渡来人たちも竹内街道から横大路を通って飛鳥へやってきた。飛鳥はシルクロードの最終地点である。このルートを通じて大陸からさまざまな新しい文化や技術が流入してきたのだった」。「デラシネ」の人であり、「旅の人」(北陸で県外出身者を指す時に使われる独特の婉曲表現。「よそ者」と言っては角が立つところを「旅の人」と言うことで微妙に害意を弱めている……かな?)であり、一代のコスモポリタンだった五木寛之がこの日本列島のどこかに「最後に眠る場所」を定めるとするならば確かに「大和」こそは最適解なのかもしれない。しかし……と、こっから先はリクツよりも感情(五木寛之が言うところの「こころ」)に支配される領域で……。