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答はデータの中にある
〜『夕映えに明日は消えた』がお蔵になった理由〜

 過日、ネットをウロチョロしていたら、こんな記事に遭遇した。1973年の正月映画として製作されながら、当事者(監督や主演俳優)にも十分な説明がないまま公開見送り(いわゆるお蔵入り)となった西村潔監督の股旅西部劇『夕映えに明日は消えた』に関する記事。この問題、おそらくはワタシと同時期(それはザックリ言えば1970年代ということになる)に映画青年をやっていた人なら大体はご存知のはずで、なんて言うんだろうなあ……1970年代を幕末に準えるなら(実際、そんな「気分」みたいなものはあった。原田芳雄が坂本竜馬を演じ、萩原健一が岡田以蔵を演じ、草刈正雄が沖田総司を演じ……。あれらはすべて1970年代という時代の「気分」が産み落としたマボロシ……)この〝事件〟はさしずめ坂本竜馬暗殺事件みたいなもの(?)でその真相をめぐって想像力をめぐらさずにはいられない案件。だからこういう記事だって書かれるわけで、ワタシとしてもいつか「手代木直右衛門傳」みたいなものが出てくるんではないか……と、そんな期待を持ちつづけているんだけれど、残念ながらリンクを貼った記事はその期待に応えてくれるものではなかった。2015年に『映画論叢』で発表された小関太一「許されざるもの〜「夕映えに明日は消えた」覚書〜」の主張も踏まえておらず、内容的にははなはだもの足りない。ただ、現時点での中村敦夫の見解として「出来もすごく良く、正月映画として大宣伝したのにも関わらず、上映されなかったのは(日本映画界の)七不思議だと思いますね」というのは、へえ、そうなのかと。というのも中村敦夫は『映画芸術』1993年春号の「追悼●西村潔」に寄稿した「幻の傑作『夕映えに明日は消えた』」では「後で知ったことだが、映画を拒否したのは、当時の東宝の実力者、藤本真澄プロデューサーだったという。藤本氏が、悲しい結末の映画が嫌いだからだという」と書いていたので。で、これを踏まえるかたちで映画通の間では藤本真澄主犯説(?)が半ば定説のように流布していて、2011年に書かれたこちらの記事でも西村潔の(決してリッチとは言えない)フィルモグラフィをたどりつつ――「風向きが変わったのは1973年だ。正月映画に予定されていたバッドエンドな『夕映えに明日は消えた』が実力者・藤本眞澄プロデューサーの癇に触れ、結果、お蔵入りになってしまったのだ」。しかし、「上映されなかったのは(日本映画界の)七不思議」と言っているということは、中村敦夫としては今ではその立場には立っていない、ということになる。もし藤本真澄主犯説で決りならば「七不思議」ということにはならないはずなので。で、おそらくはそれは(記事では言及されていないのだけれど)小関太一説(以下、小関説と略記)を踏まえて、ということなのだろう。現に中村敦夫はこんなことも語っているし――「公開されなかった理由について、私も関係者にはいろいろ聞いたのですが、(あくまで推察の一つとして)当時、監督問題の騒動が東宝で起きていて、その中にあの作品も巻き込まれたんじゃないか…という説を語る人もいるんですよ。ただ、私は会社の内情まで知らないですし、確かめようもないです」。ここに出てくる「説」こそは、2015年に『映画論叢』で発表された小関説、と考えていいでしょう。

 で、その小関説なんだけどね、ハッキリ言ってワタシは得心が行かないんだよね。論稿自体は、当時、東宝で上映作品を決定する機関だった「映画委員会」という部署に所属していたという人物のコメント(「藤本さんが原因じゃない。本当は違うんだ」)やさる映画監督のコメント(「製作担当役員だった後藤重役たちが駄目だと言ったからで、藤本さんだけのせいじゃない」)を引き出すなど、相当に踏み込んだものであることは認めます。で、確かにこれらのコメントを踏まえるならば「藤本真澄が製作の最高責任者だったことからスケープゴートに使われたような気がしてきた」というのは、至って自然な反応と言っていい。だから、ここまではいいんだ。ただ、そっからがね……。実は小関氏は『夕映えに明日は消えた』のプロデューサーだった奥田喜久丸を槍玉に挙げるんだよね。もちろん、根拠はあるんだ。『夕映えに明日は消えた』のスタッフだったという人物が「奥田だよ、奥田喜久丸が先走ったんだよ」と小関氏に打ち明けたというのだ。ただ、先走ったって言ってもねえ……。確かに奥田喜久丸がこの問題のある種のキーパーソンであることは間違いない。奥田は『夕映えに明日は消えた』に引き続いて『赤い鳥逃げた?』という映画もプロデュースしており、実はこの映画の製作をめぐっては(も)一悶着あった。『赤い鳥逃げた?』は日活出身の藤田敏八の監督作品として企画されたものなのだけれど、当時、東宝撮影所で他社の監督に仕事をしてもらう場合は、東宝の監督会と従業員組合の承諾が必要という不文律があったとかで、奥田はまず監督会にかけあったものの、監督会は拒否。さらには藤田組を撮影所に入れるかどうかをめぐって撮影所組合で投票が行われ、反対50、賛成49、棄権1の1票差で協力拒否が決議され、東宝撮影所の使用が不可能となってしまったのだ。こうした経緯については奥田が『映画芸術』1998年5月号の藤田敏八追悼特集「さよなら、パキさん」に寄稿した「文責パキにあり」にかなり詳しく記されており、ワタシが最初にこの一文を読んだ時(それはウィキペディアの『赤い鳥逃げた?』の記事に手を入れた時なので……そうかあ、去年の今頃だったのかあ。もっと前だったような気がするんだけれど。まだ1年しか経っていないんだ。まあ、この1年がいかに長かったかということで。もうね、1日1日がサバイバルとでもいうか……)は、なるほど、「五社協定」の亡霊は五社体制が崩れた後もまだこんなかたちで生きていたんだ――と、そんなことを思ったりもしたんだけれど……実は、この時の監督会のリーダーが『夕映えに明日は消えた』の監督である西村潔だったのだ。奥田によると西村は「東宝の作品に東宝の監督を使わないのは不都合である」と言ったとかで、それに対して奥田が「『夕映え』で貴方と一本やったじゃないか」と食い下がったところ、大声で「そのことは言わないで下さい」と怒鳴られた(この「怒鳴られた」は原文の通り)。まあ、相当に険悪な雰囲気ではあったらしい。で、小関氏はこういう経緯も踏まえた上で、次のような「想像」をめぐらして見せるわけだけれど――

 以下は飽くまで想像である。
 シリーズで稼ぐのが常識だった時代劇群の中にあって続篇を作れない時代劇と他社の人気監督の最新作。撮影所を分社化して切り離し製作の縮小を推進し、外部作品を積極的に買い求め、ヒット作を作れない所属監督の再契約を断ち切ろうとリストラ真っ最中の映画会社にとって、『八月の濡れた砂』でブレイクした他社の新進気鋭の人気監督は喉から手が出る位欲しい存在だったろう。今後の商売にどちらが繋がっていくか一目瞭然だ。
 恐らく『夕映え』完成と『赤い鳥』インの間の一ヶ月弱(引用者注:『夕映えに明日は消えた』は1972年8月下旬にクランクアップし、1か月強のポストプロダクションを経て10月上旬には完成していた。一方、『赤い鳥逃げた?』は10月下旬のクランクイン予定が撮影所問題で若干遅れたものの、11月上旬にはクランクインしていたはず――というのが、小関氏が当時の映画誌に掲載された製作スケジュール等から割り出した日程)で奥田は映画委員会を説得し公開の段取りを整えたのではあるまいか。まさか撮影所が使えない事態が起こるなど想像もせず。奥田とて契約プロデューサーでしかない以上、リストラの対象にならないとは言えない。会社の心証を良くして仕事を続けるためには商売になりそうな物に流れうまく立ち回ろうとするのは当然だ。監督やスタッフの気持ちなど考えずに(奥田のグループ法亡は後に糸山英太郎の自伝の映画化『太陽への挑戦』を製作するが、糸山の選挙違反でお蔵入りとなる。奥田の名前が日本映画界に登場したのはこれが最後になっている)。
 会社にも一石二鳥だ。新しい血を入れられること。お蔵にすることで契約監督の創作意欲を削いで再契約の意志を失くさせることだ。
 実際、昭和47年の主な26本のラインナップから7本のお蔵作品が生まれている。そのほとんどが契約監督の作品だった。これらの作品『夕日くん サラリーマン仁義』や『女房を早死にさせる法』等は数年の内に抱き合わせ作品として封切らるが、『脱出』他封切りされなかった作品もある(ちなみにラインナップで製作中止になった作品は7本に上り、小林正樹監督の『東京裁判』等があった)。

 読んでもらえばわかるように(いや、ちょっとわかりにくいかな?)、小関氏は『夕映えに明日は消えた』のプロデューサーである奥田喜久丸こそは映画をお蔵入りにした当事者(言うならば「真犯人」)ではないかと言っているわけだけれど、それにしてはいささか論旨が曖昧というか。「映画委員会を説得し公開の段取りを整えた」って、どーゆーこと? 『赤い鳥逃げた?』は結果として「グループ法亡」の製作とはなったものの、元々は東宝製作として企画されたもので、奥田曰く「本社の重役、偉い人達の御助力もあって、企画は無事通った」。いや、それどころか「タイトルは「赤い鳥は逃げた」という仮題がついていたが「青い鳥」にならないかと言う本社サイドの意見も出た」というのだから、「本社サイド」の干渉下で製作されたということであって、早い話が東宝の映画だったんですよ。である以上、東宝配給が前提のはずで、わざわざ「映画委員会」を説得して公開の段取りを整えなければならない必要性なんてなかったはずだと思うんだけれど。ましてや、その交換条件として自らがプロデュースしたもう1本を人身御供よろしく差し出すなんて……ありえんでしょう。第一、『夕映えに明日は消えた』も『赤い鳥逃げた?』も脚本はジェームス三木で主演(ないしは準主演)は原田芳雄。一体、どう説明するわけ? 彼らに。『赤い鳥逃げた?』を公開するために『夕映えに明日は消えた』は諦めた、とか言うわけ? それでジェームス三木や原田芳雄が納得する? するわけないでしょ……。

 ワタシはね、小関氏の目のつけどころ自体は悪くないと思うんだ。目のつけどころ――とは、当時の東宝の社内事情に触れた部分で――「撮影所を分社化して切り離し製作の縮小を推進し、外部作品を積極的に買い求め、ヒット作を作れない所属監督の再契約を断ち切ろうとリストラ真っ最中の映画会社にとって」とか「会社にも一石二鳥だ。新しい血を入れられること。お蔵にすることで契約監督の創作意欲を削いで再契約の意志を失くさせることだ」とかいう部分ね。実に東宝は当時、自社の生え抜き監督の「リストラ」を断行中で、中村敦夫はこれを「監督問題」という呼び方をしているわけだけれど、小関氏の説明だけでは十分にその事情が理解できないだろうと思うので、ここは『赤い鳥逃げた?』のシナリオが掲載された『シナリオ』1973年1月号の「映画往来」からこんな下りを紹介しよう。実は東宝の監督会ならびに従業員組合が藤田組への協力拒否を打ち出したのにはこの問題が影響していたのだ――

 東宝監督19人に対する、観客動員不振は今いる監督が無能のためであるとする次期監督契約破棄(フリー化)から端を発し、監督会と助監督会(13人)が共闘、東宝映画作品で日活の藤田敏八監督起用による『赤い鳥逃げた?』(原田芳雄・白川和子主演)の砧スタジオ使用拒否問題は、ついに一般組合員(東宝美術・東宝映像ほか)の投票採決に持ち込まれ、十一月一日の定期大会で、僅か一票の差で協力拒否の線が打ち出された。しかし、会社側は砧スタジオ以外の外部撮影所に切りかえ、あくまでも藤田監督で製作する意向である。会社側が契約破棄をいちおう撤回、一段落したかにみえた東宝の監督問題も、外部監督起用への拒絶反応というシコリを残し、問題はいぜん今後に持ち越されている。

 ズゴイよね、「観客動員不振は今いる監督が無能のためである」ってんだから、そりゃあ監督会としても呑めるはずはないでしょう。しかも、東宝の従業員組合には戦後最大の労働争議と言われる「東宝争議」の伝統が脈々と受け継がれている(はず)。ここはガッチリとスクラムを組んで――ということになるのは当然で、会社側もやむなく撤回、ということにはなったようだけれど……『夕映えに明日は消えた』がお蔵入りになった背景にはこの「監督問題」があった、というのは、当然、最優先に検討すべき可能性のはずで、小関氏もそこに目をつけてはいるんだ。しかし、なぜかそこから急転直下、奥田喜久丸の保身(とは書いてはいないけれど、「奥田とて契約プロデューサーでしかない以上、リストラの対象にならないとは言えない。会社の心証を良くして仕事を続けるためには商売になりそうな物に流れうまく立ち回ろうとするのは当然だ」とは、つまりはそういうことを言っているわけですよ)へと問題を矮小化してしまうという……。

 問題はね、そういうことではないと思う。ここで、ちょっとビックリするようなデータをお示ししよう(これを調べるために、丸一日費やした。といっても、丸々一日ではない。母の介護で手足を縛られる中、丸々一日をこんなことに費やせるわけがない。どうにか見つけた自由時間を丸々費やしての丸一日……)。東宝で「監督問題」が勃発した1972年から1974年までの3年間に東宝で製作ないしは配給された映画の中で自社生え抜きの監督ではなく、外部監督の作品がどれだけあるかというと――なんと、調べたワタシが驚くくらいの結果が出て――


  • ◦1972.01.15 森一生監督『座頭市御用旅』
  • ◦1972.01.15 三隅研次監督『子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる』
  • ◦1972.04.22 三隅研次監督『子連れ狼 三途の川の乳母車』
  • ◦1972.04.22 増村保造監督『新兵隊やくざ 火線』
  • ◦1972.05.13 深作欣二監督『軍旗はためく下に』
  • ◦1972.05.25 熊井啓監督『忍ぶ川』
  • ◦1972.06.24 篠田正浩監督『札幌オリンピック』
  • ◦1972.06.10 舛田利雄監督『影狩り』
  • ◦1972.06.10 池広一夫監督『無宿人御子神の丈吉 牙は引き裂いた』
  • ◦1972.08.12 井上和男監督『湯けむり110番 いるかの大将』
  • ◦1972.09.02 三隅研次監督『子連れ狼 死に風に向う乳母車』
  • ◦1972.09.02 勝新太郎監督『新座頭市物語 折れた杖』
  • ◦1972.10.10 舛田利雄監督『影狩り ほえろ大砲』
  • ◦1972.10.10 池広一夫監督『無宿人御子神の丈吉 川風に過去は流れた』
  • ◦1972.11.26 中平康監督『混血児リカ』
  • ◦1972.11.26 江崎実生監督『高校生無頼控』
  • ◦1972.12.30 三隅研次監督『御用牙』
  • ◦1972.12.30 斎藤武市監督『子連れ狼 親の心子の心』
  • ◦1973.01.15 豊田四郎監督『恍惚の人』
  • ◦1973.02.17 藤田敏八監督『赤い鳥逃げた?』
  • ◦1973.02.17 澤田幸弘監督『反逆の報酬』
  • ◦1973.04.07 中平康監督『混血児リカ ひとりゆくさすらい旅』
  • ◦1973.04.07 江崎実生監督『高校生無頼控 突きのムラマサ』
  • ◦1973.04.21 安田公義監督『新座頭市物語 笠間の血祭り』
  • ◦1973.04.21 三隅研次監督『桜の代紋』
  • ◦1973.06.09 池広一夫監督『無宿人御子神の丈吉 黄昏に閃光が飛んだ』
  • ◦1973.06.23 中平康監督『混血児リカ ハマぐれ子守唄』
  • ◦1973.06.23 江崎実生監督『高校生無頼控 感じるゥ〜ムラマサ』
  • ◦1973.08.11 三隅研次監督『子連れ狼 冥府魔道』
  • ◦1973.08.11 増村保造監督『御用牙 かみそり半蔵地獄責め』
  • ◦1973.09.01 篠田正浩監督『化石の森』
  • ◦1973.10.27 熊井啓監督『朝やけの詩』
  • ◦1973.11.17 加藤泰監督『日本侠花伝』
  • ◦1973.12.01 藤田敏八監督『修羅雪姫』
  • ◦1974.02.09 井上芳夫監督『御用牙 鬼の半蔵やわ肌小判』
  • ◦1974.02.23 山本薩夫監督『華麗なる一族』
  • ◦1974.04.24 増村保造監督『悪名 縄張り荒らし』
  • ◦1974.04.24 黒田義之監督『子連れ狼 地獄へ行くぞ!大五郎』
  • ◦1974.06.01 中村登監督『三婆』
  • ◦1974.06.15 藤田敏八監督『修羅雪姫 怨み恋歌』
  • ◦1974.06.29 神代辰巳監督『青春の蹉跌』
  • ◦1974.06.29 吉田憲二監督『モスクワわが愛』
  • ◦1974.08.03 舛田利雄監督『ノストラダムスの大予言』
  • ◦1974.09.21 岡本愛彦監督『青春の海』
  • ◦1974.10.09 斎藤耕一監督『無宿』
  • ◦1974.11.02 熊井啓監督『サンダカン八番娼館 望郷』
  • ◦1974.11.23 家城巳代治監督『恋は緑の風の中』
  • ◦1974.12.28 西河克己監督『伊豆の踊子』

 データは東宝の「映画資料データベース」で取得したものなので間違いありません。また、公開日が同日(つまりは併映)の場合はキャリアを尊重して年長の監督を上にしてあります。こんなことに気を配るあたり、いかにオレが映画人をリスペクトしているかってことだよなあ……。ともあれ、この結果には驚くしかない。この時代というのは、ちょうどワタシが映画を見始めた頃で、ほとんどの作品はワタシの脳内データベースに登録されていて、当時、見た作品だって少なくない。それこそ藤田敏八監督『赤い鳥逃げた?』とか、神代辰巳監督『青春の蹉跌』とか、熊井啓監督『サンダカン八番娼館 望郷』とか。で、『サンダカン八番娼館 望郷』の併映作品が出目昌伸監督『沖田総司』だったわけで……。そんなワタシの記憶に照しても、この時期、東宝は結構、外部監督を起用していたよなあ、と。でも、調べるまでは、よもやこれほどとは。しかも、起用された監督が多彩。大映出身者が多いのは、まあ、大映が倒産しちゃったので、東宝が受け皿になった、という一面もあったんだろう、とは思う。でも、深作欣二や加藤泰が東宝で撮ってるって、どういう事情があったんだろう? それから、家城巳代治って元々は松竹の監督だったそうだけれど、「1950年、連合国軍最高司令官総司令部指令によるレッドパージの波が映画界にも及ぶと、松竹の追放者第一陣のリスト11人に名を連ね退社を余儀なくされた」(ウィキペディア)。そして、以後は独立プロダクションで仕事をしていたっていうんだよね(『恋は緑の風の中』も製作は「家城プロ」とされている)。そんな監督の作品を配給するって……。率直に言って、これはアッパレですよ。深作欣二がおそらくは東映では撮れなかったのであろう『軍旗はためく下に』が東宝では撮れたということも考え合わせるならば、この時代の東宝はおよそ「因襲」とか「門閥」とかとは無縁な映画会社だったと言うべきなのかも知れない。――と同時に↑のデータからは当時の東宝経営陣の強い覚悟のようなものもビシビシと伝わってくる。東宝は、変わるのだ、変わらなければならないのだ。そうしなければ、東宝という会社に明日はない――。そんな切迫した思いが自社の契約監督に向けられた場合、「観客動員不振は今いる監督が無能のためである」といういささか穏当を欠く表現になったりもしたんだろう。しかし、当時の経営陣とすれば、もはやわが社の生え抜き監督に頼ることはできない、という切迫した思いがあったのは無理からぬところだったろうとは思うんだよ。既に大映は倒産し、日活も一般映画の製作から撤退していた。東宝もこれまで通りのことをやっていたんでは同じ轍を踏むことになるのは火を見るよりも明らか。ここは自社の生え抜き監督に見切りをつけ、外部の才能に賭ける――、それが当時の東宝としての大方針だったんですよ。そして、その大きな流れの中に『夕映えに明日は消えた』は呑み込まれた――というのが、ワタシが思い描くザックリとした〝絵〟なんだけれど、どんなもんでしょうかね? え、いささかザックリとしすぎていて、評価のしようがない? でも、データは確かだから。そして、データを踏まえる限り、ことは一プロデューサーの「保身」とかなんとかではなく、東宝という一企業の生き残りをかけた大きな経営判断に関るマターだった――と、そう見なすべきではないのか? と。まあ、『夕映えに明日は消えた』のスタッフだったという人物が「奥田だよ、奥田喜久丸が先走ったんだよ」と小関氏に打ち明けたことを重視するならば、奥田喜久丸が『夕映えに明日は消えた』を守るために十分な働きをしなかった、ということはあったのかもしれない。それこそ「先走って」会社側から示されたバーター案にホイホイ乗ってしまったとか。でも、『夕映えに明日は消えた』がお蔵入りになった本当の理由ということで言うならば、1970年代という幕末にも準えられる「変革の時代」にあってもしかしたら大手5社の中では最も保守的だったかもしれない東宝も(むしろ、だからこそ変わらざるを得ず)それこそ「変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない」(かつて小沢一郎氏が民主党の代表選の際にルキノ・ヴィスコンティ監督の『山猫』の台詞として紹介した言葉。ただし『山猫』にはこの通りの台詞はない。また、よく似た台詞をバート・ランカスター演じるドン・ファブリッツオが口にする場面はあるものの、ニュアンスは相当に異る。むしろ、この言葉は小沢一郎氏の言葉として理解すべきかと)とばかりに打ち出した外部監督の起用という奔流のような流れの中に呑み込まれた――ということではないのかなあ……?



 実は↑に書いたのはダミーである(え?)。ワタシが『夕映えに明日は消えた』のお蔵入りを坂本竜馬暗殺事件に準えたのはこの件に関するもう1つの見立てがあって、それを踏まえるとそういうことになる、という話であって……。

 坂本竜馬暗殺事件の真相を伝える重要史料(あるいは、決定的史料と言ってもいいか?)である「手代木直右衛門傳」が永らく門外不出とされてきたのは、この史料が表沙汰になることによってある人物の存在が坂本竜馬暗殺事件に関連して取り沙汰されることになるのを恐れて、ということだったと言っていいでしょう。で、その人物こそは、松平容保、ということになるわけだけれど、もしかしたら『夕映えに明日は消えた』がお蔵入りなった背景には松平容保にも匹敵するような大物の存在があって、その人物の名前が取り沙汰されることになるのを避けるために本件の〝真相〟は今も不明のままとされているのでは……? ということで、ここからはあくまでも筆者の妄想としてお読みいただきたいのだけれど、まずはこの問題を考える上での重要な前提となる事実を提示したい。実は『夕映えに明日は消えた』のプロットはあるテレビドラマのプロットに酷似しているのだ。そのテレビドラマとは、1972年1月15日に放映された『木枯し紋次郎』第3話「峠に哭いた甲州路」。言うまでもなく『木枯し紋次郎』は笹沢佐保原作の股旅時代劇で、当時、一世を風靡した。その第3話「峠に哭いた甲州路」は同シリーズの監修を務めた市川崑が自ら監督を務めた作品で(ウィキペディアによれば、『木枯し紋次郎』の第1シリーズで市川崑が自ら監督を務めたのは第1話から第3話までと第18話だそうです)、実は数年前にBSで再放送された際、ワタシはシッカリと録画に残していて、時々見直しては大場先生(ワタシにこの番組を見ろと勧めてくれた中学の国語の先生。思えばワタシはこの人に人生を狂わされたと言ってもいいくらいで。それほどワタシが書いた作文を褒めてくれた。それで、すっかりその気になってしまって……)のことを思い出したり。で、『夕映えに明日は消えた』のプロットが「峠に哭いた甲州路」のプロットに酷似しているんですよ。『夕映えに明日は消えた』はお蔵入りになったとはいえ、シナリオは『シナリオ』1972年11月号で読むことができるし、原作小説(その名も「夕映えに明日は消えた」。「夕映え」シリーズの第1作で、初出は『問題小説』1973年2月号。当然、発売は1月中なので、もし『夕映えに明日は消えた』がお蔵入りとならず1973年の正月映画として公開されていたら、今で言うメディアミックスということになって相当な話題になっていたはずなんだけれど……笹沢佐保のビブリオグラフィでも「夕映えに明日は消えた」、あるいは同作を収めた『夕映えに死す』はさほど重要な地位を占めているとは言い難い。ウィキペディアのビブリオグラフィからもなぜかこの本は抜け落ちているし。だから、笹沢佐保も本件の犠牲者と言えるわけだけで……)を読むというテだってある。つまりは、それがどのような物語だったかは概ね把握可能なのだけれど、ここは中村敦夫が『映画芸術』1994年春号の「追悼●西村潔」に寄稿した「幻の傑作『夕映えに明日は消えた』」で要領よくストーリーをまとめてくれているのでそれを紹介すると――

 ストーリーはこうである。
〈ある小さな山村が、危機に包まれていた。村に恨みを持つ四人兄弟が、村人たちを皆殺しにしようと機会を伺っていた。
 そこへ、文無しの若い渡世人がふらりと現れる。村人たちは、この渡世人を雇い、四人兄弟に対決させる。激しい死闘の末、四人兄弟は倒れるが、同時に渡世人も命を落とす。
 村人たちは、渡世人の命を惜しむ風でもなく、災いが去ったことを喜び、お祭り騒ぎを始める。〉

 これとワタシが録画している『木枯し紋次郎』第3話「峠に哭いた甲州路」を比較すると、違うのは村に恨みを持つ人物(原田芳雄演じる「源太」)が単独であること(そのため、金で手下を雇っている。紋次郎も誘われるものの、例の「あっしにはかかわりのないことでござんす」の決め台詞で断るところまでがアバンタイトルで描かれる)、村が実際に男らの襲撃を受けほぼ全滅となること、そして主人公(紋次郎)が激しい死闘の末、生き残ること。あと、ヒロイン(「峠に哭いた甲州路」の場合は黒沢のり子演じる「お妙」、『夕映えに明日は消えた』の場合はテレサ野田演じる「小夜」)の役柄が相当に違うんだけれど、一方で何のかかわりもないはずの主人公が自ら死地に突入して行くことになるきっかけはどちらもそのヒロイン。しかし、甘いよなあ、紋次郎(あるいは新十郎。「峠に哭いた甲州路」は原作では主人公は紋次郎ではなく、天神の新十郎という渡世人。実は「峠に哭いた甲州路」は紋次郎ものではなく「街道」シリーズと呼ばれる股旅小説のシリーズの1作で、市川崑はそれを紋次郎ものに翻案して『木枯し紋次郎』の第3話に組み込んだ)も佐吉(中村敦夫が「文無しの若い渡世人」と呼んでいる『夕映えに明日は消えた』の主人公。二つ名は「風鈴の佐吉」)も。そういう「弱さ」は確かにフィリップ・マーロウも持ってはいるけれど……。ともあれ、違っている点もあるものの、村に恨みを持つ男(ら)の復讐劇、という大枠は一緒で、その復讐劇に主人公が巻きこまれて行く経緯も基本的には同じ。そして、何よりも物語全体を貫くトーンがね。中村敦夫は『夕映えに明日は消えた』のテーマを「民衆のエゴイズムと社会からはみ出した人間に対する差別」だと書いているのだけれど、それは「峠に哭いた甲州路」にもそっくりそのままあてはまると言っていいでしょう。もしかしたら、両作の類似点ということで言うならば、これがいちばんかもしれないなあ……。ということで、ここに考えられる1つの筋書きがある。当時の東宝の上層部が『夕映えに明日は消えた』のプロットが『木枯し紋次郎』第3話「峠に哭いた甲州路」のプロットに酷似していることに気がつき、著作権法上の懸念を持った――。あるいは、実際に電通あたり(ウィキペディアの「木枯し紋次郎#映像化と経緯」によれば、『木枯し紋次郎』は「テレビ局が制作費を調達して下請けの制作会社に支給する「自主制作作品」とは異なり、放送枠を買った広告代理店が制作費を調達して制作会社に支給する「持ち込み制作作品」で、広告代理店は電通、制作は電通の関連企業であるC.A.Lに一任された」。しかし、よりによって電通とは。これは、相手が悪すぎる……)がそういう懸念を伝えてきたのではないか? その際、電通は、さりげなく市川崑の名前も出したかも知れない――市川先生もお怒りである、とかなんとかね。まあ、そんなことをしなくたって、勝手に東宝側が考えるだろうけどね、こりゃ、まずいと。こんなことで市川先生と揉めたら大変だ……。ちなみに、市川崑は1971年に『愛ふたたび』を東宝で撮っていますが、奥田喜久丸によれば、東宝の撮影所組合が藤田組への協力拒否を打ち出した際、「黒澤、市川崑監督は別格」と言われたそうだ。市川崑というのは映画人にとってはそれほどの存在だったということで、東宝の経営陣にとってもそれは同じこと……。

 果たして『夕映えに明日は消えた』と『木枯し紋次郎』第3話「峠に哭いた甲州路」の間に著作権法上の問題が生じえたかというと、ワタシは生じえたと思う。どちらも笹沢佐保の小説が原作とはいえ、著作権法では映画化作品やドラマ化作品のような「二次的著作物」には、別途、著作権を認めている。その上で、特にこのケースの場合、重要だったのは、プロットの酷似よりもキャスティングの相似だったのでは? 主人公を中村敦夫が演じ、その敵役を原田芳雄が演じるというね。その上でプロットが酷似しているのだから、両作の間に著作権法上の問題が生じる可能性は大いにありえたでしょう。少なくとも、当時の東宝の上層部がそういう懸念を持つことは十分にありえた。そして、万が一にもそういう問題が生じないよう、同作のお蔵入りを決めた。そして、50年経った今に至るも東宝が「お蔵入りの理由は不明」としているのは、この件に関連して市川崑の名前が取り沙汰されることは何としてでも避けなければならない――と、そんな坂本竜馬暗殺事件をめぐる旧会津藩の家内事情にも似た東宝の社内事情から、というのはあくまでも筆者の勝手な妄想なのでくれぐれも誤解なきように……。