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山上伊太郎は日本のダシール・ハメットである。
〜暴力を以て物語るブラッディ・ユーモレスク〜

 1976年に白川書院から刊行された『山上伊太郎のシナリオ』に「遊民街の記録――対立する陣営と戦う勢力」といういささか風変わりなタイトルの作品が掲載されている。サブタイトルの最後に出てくる「勢力」とは本作の主人公である勢力富五郎(せいりき・とみごろう)のことなんだろうから「せいりょく」ではなく「せいりき」と読むのが正しいのだろうけれど……いやいや、これは「せいりょく」と読むべきなのでは? と。というのも、このシナリオ、講談の『天保水滸伝』に材を取ったものなのだけれど(昭和9年、松田定次監督で映画化された際もタイトルは『天保水滸伝』とされた。また同年に映画研究社から刊行された『映画研究ライブラリイ』には「天保水滸伝:闘ふ勢力」として収録されている)、山上伊太郎は『天保水滸伝』にことよせて全く別のことを書こうとしていることがうかがえるのだ。それは、物語のクライマックスで表示されるスポークン・タイトル(字幕)を書き出せばご理解いただけるはずで――

  • T「十手捕繩で圧し潰せる間はいい」
  • T「いまのうちだ、精一杯笑っておけい」
  • T「いつの日に」
  • T「誰の手で!」

 こうした字幕がストーリーにオーバーラップするかたちで表示されるのだけれど、一方で必ずしもストーリーに縛られていないというか。明らかに、それ以上の何かを言おうとしている。その何かとは……。

 さて、この「遊民街の記録――対立する陣営と戦う勢力」もそうだし「浪人街第一話・美しき獲物」もそうなんだけれど、山上伊太郎の紡ぐ物語には1つ顕著な特徴があって、それは「暴力」が物語を紡ぐ重要なファクターとなっていること。「浪人街」の最後で繰り広げられる悪旗本らとの大立ち回りなんてその最たるものだけれど、どうも山上伊太郎という作家は「暴力」を以てしか物語れないようなモチーフと格闘していた人のようにも思えるのだ。そして、その姿勢は全く以てハードボイルド作家の姿勢そのものではないかという気がするんだよね。ちなみに、あくまでも参考情報として示しておくなら、「浪人街第一話・美しき獲物」が書かれたのは昭和3年(1928年)。一方、ハードボイルドの金字塔として名高いダシール・ハメットの『血の収穫』は1929年にクノッフ社から刊行されているのだけれど、元々は『ブラック・マスク』1927年11月号から1928年2月号まで4回に渡って連載されたもの。つまり、「浪人街」と『血の収穫』はほぼ同じ時期に書かれたということになる。また「遊民街の記録」の初出は『映画往来』昭和8年2月号だそうですが、この年、『ブラック・マスク』に連載された小説にポール・ケインの『裏切りの街』(原題はFast One。辞書を紐解くとfast oneには「ペテン」とか「だまし討ち」といった意味があることがわかる。『裏切りの街』という邦題もこれを踏まえたものであるのは明かなんだけれど、本作の場合、そういう意味で使われているのかどうか? また『裏切りの街』が本作の世界観に合致した邦題かという問題もあって……。とはいえ、Fast Oneを普通に『早い奴』と訳したのでは、小説のタイトルとしてはいかにもぶっきらぼう。一方で、このぶっきらぼうさこそは本作に合っていると言えなくもない。そういう意味でなかなか難しいところではあるんだけれど……そもそも本作の主人公、ジェリー・ケルズは東部からの流れ者で、ロスでは銃の早撃ちで一目置かれている。これは当人が自らそう吹聴していて――「ジェイキー、おれの早撃ちぶりと銃の腕前がどれほどのもんか知っているか?」。要するに、ジェリー・ケルズというのは「早い奴」なんだよね。また、ケルズは物語の最後では女の運転する車で逃走を図るわけだけれど、背後から猛然と追走してくる車があって、それに気がついたケルズは「もっとスピードをあげろ。いまおれたちを追ってきてるのは速い車だ」。この下り、原文ではYou'll have to do a little better. I think there's a fast one on our tail now.とされていて、タイトルの回収という意味でも注目に値する。結局、ジェリー・ケルズはこの「早い奴」に追走された揚げ句、車ごと崖下にダイブして死んでしまうわけで……fast oneというのはそんなジェリー・ケルズという男の生きざまそのものを表すフレーズではないかと……)がある。『血の収穫』ほどには知られていないと思うけれど、知る人ぞ知るといった作品で、レイモンド・チャンドラーは本作を「超ハードボイルド」と評したことは河出文庫版のブラーブにも記されている。また村田勝彦の解説によれば、本作はニューヨーク・タイムズのブックレビューで「流血と狂気がたえず渦まき、殺人と悪魔の残酷さの入り乱れた状態が最後までつづく小説」と評されたとかで、えーと、ジム・トンプスンと勘違いしてない……? ともあれ、本作にはこうしたさまざまな賛辞が捧げられており、実際に読んでも確かにそれだけのことはあるなあ、と思わせられる作品ではあるのだけれど、ワタシが読むところ、その最大の特徴は主人公の死を以て物語が終りとなるところだろうな。なにしろ、最後の1行が――「ケルズはそこで、息絶えた(There, after a little while, life went away from him.)」だもん。こういう終り方ってのは、向こうの小説にはなかなかない。しかも、その死は、半ば主人公が自ら望んだもので、実態としては自死に近い。自死――つまりは、自分自身に向けられた「暴力」――。本作にニューヨーク・タイムズの書評子が「悪魔の残酷さ」を読み取ったのもそういう行動へと突き進む主人公のメンタリティを捉えて、ではないかとワタシは思っているのだけれど――実は「遊民街の記録」の最後で描かれるのも主人公の自死なんだ――

場面 ナカマのモノ、みな、斬り死にしたとみえて、勝ちほこった寄手が鬨の声――次第に近づいて来る!
場面 富五郎、来たりや、応と、見下ろすと、最期の防ぎ矢が、いま亡びて行ったナカマへの復讐か?「畜生ッ」と、轟然。ブッパナす!
場面「ウウーッ」ふんぞり返る奴!
オーバーラップ
あわてる。混乱裡に、やられたア――バタリッ。ののしり喚いていよいよ乱れる輩そこら辺で「ウワーッ」
オーバーラップして
虚空をつかんで、やられる奴。
場面 火縄銃杖ついて、キッと見下ろす富五郎の、その眼、その唇に、薄笑いもれて――
場面 眼の下に、夥しい寄手が、オッカなヘッピリ腰で、うかがってある。
場面 富五郎、銃にすがって、さて、しづかに引金に、片足かける!
咽喉もとに擬した銃口――白煙吹いて巌頭の勢力、のけぞるよと見れば、ろよめいて……(廻転し、錯雑し、モンドリうつ風物)
まっさかさま! 墜落する富。
場面 山道に、堕ちた、勢力富五郎。

 もっとも「遊民街の記録」というのは講談の『天保水滸伝』に材を取った作品で、その『天保水滸伝』はといえば講談師の初代宝井琴凌が実話を元に作り上げたもの。実は宝井琴凌は現地に赴いて〝取材〟もしているんだよね。昭和30年刊行の『実録巷談新書:天保水滸伝』の解説で河竹繁俊が記すところによれば、最初は上州で仕入れた国定忠次の噺を高座にかけたところ、非常に好評を博したという。で、「この国定忠次によって自信を得た琴凌は、かねて小耳にはさんでいた繁蔵と助五郎の一件を、引きつづいて物にしたのであった。むろん、下総一円を踏査して、繁蔵・富五郎・平手造酒、飯岡の長五郎等の行蹟、事件を調べ上げ、加うるに五世伊東凌潮が以前に調べたところをも綜合して、この天保水滸伝が作り上げられたのあった」。で、「遊民街の記録」の最後で描かれている勢力富五郎の自死も実話だっていうんだよね。なんでも自死した場所も特定されているそうで、それは千葉県香取郡東庄町の「東庄県民の森」だそうで、東庄町観光協会のHPにも「勢力富五郎自刃跡」として紹介されている。それにしても、「東庄県民の森 天保水滸伝遊歩道奥」ですか……。そんなわけだから『天保水滸伝』でも勢力富五郎の自死は見せ場の1つとされていて、ここは陽泉主人尾卦伝述「天保水滸傳」(塚原渋柿編『侠客全傳』所収。序文には「嘉永三戌年陽月」とあり、活字化されたものとしては最古となる。ただし、本書は講談の速記本ではなく、実録体小説。講談との関係はなかなかに微妙で、本書が講談のネタ本とされた可能性もある。なお、陽泉主人尾卦は全くの正体不明の人物ながら、慶応元年に出版された山々亭有人記、月岡芳年画『近世侠義傳』に共通した記載が認められる。その山々亭有人は条野採菊という人物の変名だそうで、もしかしたら……?)より引くならば――「勢力此を見屆けて、今は早心安し、寄手の來らぬ其中に、と最前捨てたる鐵砲取上げ、松の大樹に身を寄せ掛け、筒口を咽喉に打當てゝ、摚と一發打貫き、血汐に塗れて縡切れたるが、身は死しても遂に倒れず、兩眼クワッと見開きて、麓を睨みし立往生、恐ろしくも亦物凄し」。ただ、一般に『天保水滸伝』といえば飯岡助五郎一家と笹川繁蔵一家の間で繰り広げられた「大利根河原の決闘」が話のメインになるわけで、特に笹川方の用心棒で北辰一刀流の使い手でありながら酒に溺れて道場を破門され、やくざの用心棒に身を持ち崩している平手造酒の最期が最大の聞かせどころ、ということにはなる。それに対して勢力富五郎の自死(これを「勢力富五郎の鉄砲腹」と呼ぶらしい。「鉄砲腹」は鉄砲による切腹の意で、「鉄砲腹を切る」という言い方もあるとか。表現として面白い)はさほど訴えるものがないということなのか、現在、YouTubeに上がっている「『天保水滸伝』連続読み【全7席】」にも「勢力富五郎の鉄砲腹」は含まれていない。一方、山上伊太郎はといえば『天保水滸伝』に材を取りながら「大利根河原の決闘」は冒頭でアッサリと処理し(従って、平手造酒の最期も実にアッサリとしたもので――「遺棄された屍体を検めて廻る関東取締出役桑山盛助の一行――藪の中の浪人態の死体。それが造酒だった」。なんと、最期の瞬間の描写すらない)、ひたすら勢力富五郎の最期に向けて(そこにクライマックスが来るように)物語を組み立てている、と見なすことが可能で、それは明らかに1つの作劇なんですよ。そういうことも踏まえて↑の下りも読むべきで、そうすれば『裏切りの街』の最後との類似性を云々するというのは決してこじつけとはならないはず。その上で、書かれた年が同じ――と来れば、そこに付け込んで何かしらの「論」を立てるというのは至って真っ当な思考法、だよね? まあ、要するにですね、ワタシは山上伊太郎が書いた「浪人街」なり「遊民街の記録」なりにハードボイルドの萌芽を読みとりたいというコンタンを抱いているわけでして。就中、『血の収穫』と「浪人街」が書かれたのが同じ年、ということに格段の意味を見出すならば、山上伊太郎を「日本のダシール・ハメット」と言ってもいいのでは? とさえ。実は、そう言いたくなるくらい両者には共通点が多い。1943年、Pocket Booksは『血の収穫』をペーパーバック化するに当たって同作を「ブラッディ・ユーモレスク」と呼んでいるんですが(こちらです。なんでも元々はカール・ヴァン・ヴェクテンという人の言葉だそうですが、なかなかですよ。なかなか『血の収穫』を読んでそんなふうな感想はね。ただ、言われてみれば『血の収穫』は確かに「ブラッディ・ユーモレスク」ですよ。たとえば、主人公である名無しのオペラティヴがサンフランシスコから呼び寄せた2人の助っ人をめぐる描写はこんな感じなんだけれど――「ミッキー・ラインハンはのろまな大男で、肩が落ち、関節のところでばらばらになりそうな、形の定まらない体つきをしている。耳は赤い翼のようにつきだし、丸い赤ら顔はいつも薄のろの、意味のないつくり笑いを浮かべている。喜劇役者そっくりで、実際にそういう男だった。/ディック・フォーリーは、子供なみのチビのカナダ人で、神経質そうな鋭い顔つきをしている。背を高くみせるために踵の高い靴をはき、ハンカチに香水をふりまき、できるかぎり言葉を省略してしゃべる」。まるで『スター・ウォーズ』シリーズのC-3POとR2-D2じゃないか!)、この惹句はそっくりそのまま「浪人街第一話・美しき獲物」にも当てはまる。それは、冒頭のこんなシークェンスを紹介すれば十分におわかりいただけるはずで――

場面 溶明。くらい寂しい街の一角に、時刻は夜更け、一隅に居酒屋があって、その縄暖簾バラリとかきわけるとのぞきこンで、地廻りらしいのが――顔馴染をひやかしてたと思ったら、フラフラと、泳ぎ込ンでしまった。
あとに縄暖簾がユラユラ揺れていた。
場面 下卑た、熟柿臭いにおいがいやにムウとこもってた。春も遅いうんきである。
クダまいているの、スットン狂な声をあげてるの――そいつらの蠢いてるのに、一瞥、どろんと据った眼をくれて、ヘベレケの浪人がみこしをあげた。「亭主亭主、勘定だ!」
近くへ寄ってみると――それが、荒牧源内で、身なりはリュウとしてる、この店に似合わぬ風采「そうれ取らせるぞ」どう間違ったのか財布を渡した。亭主おしいただいて開けてみて吃驚した。逆さにふってもカラッポ。
源内ときたらそのままフラフラフラと出てゆきかけてる。で、亭主あわててすがった。追いすがってやいのやいのをきめこンだら、源内はまっすぐに立ってられない程酔ってる。フラフラしてる。いい加減しゃべらしといて、
T「心配するな、呑み逃げはせぬ」
と云って、亭主をホッと、さしといてから、
T「つかわすぞ。つかわすぞ」
ときた。ポッポをなでるようにしたが
T「あるときにはなッ」
と腹を叩いた。それから――
T「いまはないッ」
で亭主野郎はつきまとい、また候ヤイノヤイノ、をきめこンで――まことにうるさい。

 もうね、「心配するな、呑み逃げはせぬ」から「いまはないッ」までの流れがバツグンで……。

 また、ハメットといえばアメリカ共産党の党員だったことが知られているわけだけれど、一方の山上伊太郎は当時の「左翼映画青年の偶像」だったとか(竹中労著『日本映画縦断3 山上伊太郎の世界』282p)。ま、この辺は本稿の冒頭で指摘した「遊民街の記録」のスポークン・タイトルの件からも十分にうかがえる事実ではあるはず。さらに、もう1つ、両者の共通点として挙げるならば、いずれも作家/脚本家としての実働期間がきわめて限られているという点がある。ダシール・ハメットの場合は1922年から1934年までの12年間。山上伊太郎の場合は1926年から1941年までの15年間。もちろん、それにはそれなりの理由があるわけで、まずはハメットの作家としての実働期間がかくも限られている理由ですが、これについて小鷹信光はハヤカワ文庫版『マルタの鷹』の解説で――「ダシール・ハメットは、一九三四年以降、作品を一作も発表しなかった。だが、「なぜハメットは書かなくなったのか」という質問は的はずれである。書かなくなったのではなく、ごく単純に、書けなくなったのだ。書きたくても書けなかった。丸一日タイプに向かっていても、一語も打つことができなかった。前に書いた古い作品をひっぱりだし、無為に手を加えることぐらいが精いっぱいという、物書きにとっては地獄の責苦をもしのぐ残酷な日々の連続だった。書きたくても書けなかった作家、それが長い晩年のハメットだった」。一方、山上伊太郎の場合は従軍記者となってフィリピンに赴いたことが直接の理由ではあるものの、マキノ雅弘は竹中労のインタビューに答えるかたちでこんなことも語っていて――「もし、山上伊太郎がフィリッピンで戦死しないで、日本に戻ってきたとしても果して仕事ができたか、それは疑問やと思う。/冷たい見方になるが、山上はシナリオ書きとしては、もう終りやったんです。そこのところをキチンと、ぼくはいっておきたいんですわ、それは才能の問題やなくて、時流に順応できない彼の性格、もっと突っ込んでいうたら、生きざまのせいなのです。山中貞雄のほうが、この点はずっと融通無碍やから、復員したらその日から、メガホンがとれたにちがいない、現代劇でも何でも」。山中貞雄も映画を愛するものにとってはある種の偶像ですが、なるほど、そういう一面があるんですか……。ともあれ、どちらも創作的に行き詰まっていたと、そういうことになるわけですよ。そして、そんな2人が縋ったのがともに女だったというね。ハメットの場合はリリアン・ヘルマンであり、山上伊太郎の場合は「宮川町の女」(山上伊太郎が京都・宮川町の廓から足抜けさせた女。ただし、実際に会ったことがあるのは稲垣浩だけで、他の山上伊太郎の友人・知己らもただ「宮川町の女」として知るのみ。稲垣浩によれば「ともかく変った女だった。まったく世間を知らないんです、ものを買っても高いか安いか、料理を食べても魚か肉かわからんような人でね(笑)、みそ汁ってのは湯で味噌をとけばよいといったふうな」。山上伊太郎は約2年間、この「宮川町の女」と逃避行を続けていたとされ、その間については一体どこで何をしていたのかもわかっていない。竹中労は『日本映画縦断』でなんとかこの「宮川町の女」を捜し出して「匿名でもよいからその二年間を語ってほしい」と述べておりますが、さて、その目的は達成されたものやら……?)。

 ま、別に共通点が多いからといって、それだけでは山上伊太郎を「日本のダシール・ハメット」とする理由にはならないわけで、やっぱり「暴力」だよね。「暴力」を以て物語る、というこのスタンス。この共通点……。実はね、ワタシは、あの恐慌の時代になぜ日本のエンタメがいわゆる「エロ・グロ・ナンセンス」に走って「暴力」に走らなかったのか、不思議でならなかった。普通なら、走るよ。現にアメリカではそうだった。それが1つのムーブメントのようになって、その中から1つのスタイルとして浮上してきたのが「ハードボイルド」だったわけで、それと同じようなことが日本でも起きていてもおかしくないはずなんだけれど……やっぱり、起きていたんだよ。それこそは「浪人街」や「遊民街の記録」――というのは、さて、1つのセオリーとして世のハードボイルド通の賛同を得られるものや否や……?



 ちょっと意外なことがわかった。本文でも紹介した『実録巷談新書:天保水滸伝』の解説で河竹繁俊は「歌舞伎になったのは、慶応三年(一八六七年)の江戸の守田屋。「巌石碎瀑布勢力」のちには「群清滝贔屓勢力」とも名題がつけられた。名題に示されているように、勢力富五郎の鉄砲腹を主眼にした世話狂言、作者は黙阿弥であった」。この『巌石碎瀑布勢力』ないしは『群清滝贔屓勢力』について調べたところ、大正15年に刊行された春陽堂版『黙阿弥全集』第7巻に収められてることがわかった。ただし、初演時の名題が『群清滝贔屓勢力』で、その後、『巌石碎瀑布勢力』と改題されている。また主人公は神力民五郎という侠客で、勢力富五郎をもじったかたち。この点について河竹繁俊は「世話狂言にしても、事件関係者にしてまだ生存していた人もあったので、勢力は神力とし(略)名前をもじって、後難のないようにしてあった」。で、かくなる上はこれは読むしかあるまいと。すると『天保水滸伝』を劇化したものでありながら「大利根河原の決闘」は一切スルー。ストーリーは金比羅山(作中では明神山)での勢力富五郎(神力民五郎)の自決(鉄砲腹)がハイライトとなるようなかたちで組み立てられていて、そういう意味では「遊民街の記録――対立する陣営と戦う勢力」と非常によく似た構成と言っていいかも知れない。ちなみに、神力民五郎の最期はこんな感じ――

民五 我一人を捕へんと、明神山の八方へ篝を焚いて取巻く捕手、
〽鬼神ならばしらぬこと、切抜けんこと思ひも寄らず、
やみ/\縄目にあはんより、潔く腹切つて冥土へ行つて親分に言譯ならん。おゝさうだ。
〽ふるへ/\一腰を取らんとなすを奪ひ取る捕手、直に谷間へ飛び入つたり。
ト民五郎刀を取らうとするを、捕手取つて谷へ飛込む。
〽南無三一腰奪ひ取られ、何で死なんと見廻す足許、火縄の煙に心付き以前の鐵砲取上げて是で死なんと打ちうなづき、
ト民五郎以前の鐵砲を見付け、是幸ひと取上げ、
丑蔵めが持つて来た玉籠なせし此鐵砲、茲にあつたは是幸ひ、胸板打つて相果てん。
〽鐵砲杖に神力がよろほひ/\立上り、(ト民五郎鐵砲を杖に立上り、向うを見て思入あつて、)
篝の光に見え渡る、香津白瀧小郷内馴染の土地も今日限り、是が此世の見納めなるか。
〽我と我手に鐵砲の筒先取つて胸に當て、ふるへる足許踏みしめ/\、
ト此内民五郎筒先を胸に當て、ふるへ/\足にて引金を引かうとして引けぬ思入、此時下手より捕手二人窺ひ出る、
〽引がね引けば忽に筒聲高く打抜く胸板、
トふるへながら足にて引がねを引く、捕手「やア」と聲を上げ十手を振上げる、此のとたん本鐵砲の音して筒より仕掛けにて煙出る、捕手はびつくりして俯伏になり、是より床二梃の合方になり、民五郎鐵砲を突いた儘立見にて苦しむ。よき程に又捕手「やア」ト聲を掛ける。是にて民五郎高二重より中足へどうとなり、糊紅を吐く、捕手は後へ倒れる。本釣鐘を打込む、
〽朱になりてぞ、
ト三重本釣鐘にて民五郎落入るをきざみ、よろしく

 なんか、似てるよね。もしかしたら山上伊太郎は『群清滝贔屓勢力』を見ているんじゃないだろうか? もっとも、『黙阿弥全集』には収録作品の興行記録も掲載されているのだけれど、『群清滝贔屓勢力』は明治39年6月、明治座で上演されたのが最後となっている。明治39年だと、山上伊太郎は3歳かあ……。

 ただ、勢力富五郎を主人公とする歌舞伎の演目があったというのは面白い。しかも、興味深いのは、河竹黙阿弥は『群清滝贔屓勢力』について序文で「第二番目近世水滸錦畫基(だいにばんめはきんせいすゐこのにしきゑにもとづく)」とし、引きつづいて「芳年生が活筆の姿を冩す侠客傳記」とあって、明神山での勢力富五郎の鉄砲腹を描いた第二幕は月岡芳年の錦絵にインスパイアされたものであることを明かしているのだ。その錦絵こそはこちらなんですが、これね、要注目ですよ。ワタシは本文で陽泉主人尾卦伝述『天保水滸傳』と山々亭有人記、月岡芳年画『近世侠義傳』に共通する記載があると書いたんだけれど、その1つが勢力富五郎(『近世侠義傳』でが「盛力民五郎」)の最期にまつわる描写。実はね、勢力富五郎の最期が鉄砲による自決だったとしているのは決して『天保水滸伝』のスタンダードではないのだ。それどころか、明確に否定しているものもあって、たとえば昭和29年刊行の金園社版『長編講談全集』では「茲で寫本等にありまする天保水滸傳には、勢力富五郎が丸薬の盡きたに依つて、サァ潔く萬歳の勢力富五郎の最期を見よと、富五郎が寄せ來る役人の前で諸肌を脱いで、自ら鐡砲腹を切つたとありまするが、下総へ入込んで勢力の最期を聞いて見ればイヤ実に立派なもので迚も侍の及ばぬ富五郎の最期だ」。どう「立派」なのかというと、「疊を三疊敷いて、眞中で勢力が安座し、右左に龜吉鶴吉が胡坐を掻いて兩手を疊に突いて居る、良く見ると富五郞の脇腹に矢が立つて居る、夫で富五郞はモウ是迄なりと覺悟を定め、己れの腹を掻割いた刀で鶴吉の首を斬つて尙も龜吉の首を落した儘、左の手を斬口へ當てがつて死んで居るのだ」。要するにだ、勢力富五郎は鉄砲自殺ではなく、割腹自殺を遂げたというんだ。それが、下総へ足を運んで〝取材〟した結果だと。もっとも、昭和47年に刊行された今川徳三著『考証天保水滸伝』によれば、勢力富五郎の死体検分書が残されているんだそうで、そこには「栗生郡金比羅山頂上ニ於テ切腹、鉄砲ニテ咽ヲ打抜自殺」と記されているとか。誰が言ったか、「講釈師、見てきたような嘘を言い」……。ともあれ、こんなふうに勢力富五郎の最期は割腹自殺だったとしているものもあるということ。しかも、特にこの金園社版に注目する理由があるとすれば、これが「寶井馬琴講演」とされていること。おそらくこの宝井馬琴とは四代目宝井馬琴だと思われますが、とするならば『天保水滸伝』の創案者とされる宝井琴凌の子。その四代目宝井馬琴がこんなふうに勢力富五郎の最期を読んでいたとするならば、父であり師でもある宝井琴凌のオリジナルでも勢力富五郎の最期は鉄砲自殺ではなく、自ら腹かっさばいての自刃とされていたのでは? と、そういう推測が成り立つ。

 ――とするとだよ、もしかしたら『天保水滸伝』には2つの流れがあるのかも知れない。1つは陽泉主人尾卦伝述『天保水滸傳』→山々亭有人記、月岡芳年画『近世侠義傳』→河竹黙阿弥作『群清滝贔屓勢力』。もう1つが宝井琴凌の創案となる『天保水滸伝』。どうもワタシはそんなふうな気がするんだよなあ。じゃなきゃ、四代目宝井馬琴が「茲で寫本等にありまする天保水滸傳には」なんて言ったりしないでしょう。で、『群清滝贔屓勢力』の上演が明治39年を最後に途絶えているらしいことから推測するならば、前者は亡び、後者は生き残った。そのため、元々『天保水滸伝』には2つの流れがあったということ自体が等閑視されるに至った――と、そんなふうに考えてみたいんですが、どんなもんでしょう? ちなみに、元々『天保水滸伝』には2つの流れがあった、という仮説を補強する事実として提示しておくなら、『天保水滸伝』の最大の人気キャラクターと言ってもいいであろう平手造酒。この平手造酒は北辰一刀流・千葉周作の門弟だったというのが普く知られたプロフィールではありましょうが、実はこれもまたスタンダードではないんだ。つーか、陽泉主人尾卦伝述『天保水滸傳』でも山々亭有人記、月岡芳年画『近世侠義伝』でもそういうキャラクター設定とはなっていない。たとえば陽泉主人尾卦伝述『天保水滸傳』では「劍道は無念流の極意を究め、弓馬槍長刀の術にも達し、天晴名譽の武士なしりが」云々。そう、流派は北辰一刀流ではなく神道無念流だったとされているんだね。また山々亭有人記、月岡芳年画『近世侠義傳』では平手造酒ではなく平手壱岐として描かれており、流派の記載はないものの、プロフィールとして「元來奧州の浪士弓馬槍刀名譽ながら性暴にして酒色におぼれ一ト度常州の何某侯に仕えしかど例の酒僻に朋友と口論し」云々。これに類することは陽泉主人尾卦伝述『天保水滸傳』にも記されており、「元は奧州の浪士にして、後常陸の某侯に仕へしを、大酒の上朋友と口論に及び」云々。多少、言い回しが違うだけで、言っていることは同じ。ちなみに、『群清滝贔屓勢力』は「大利根河原の決闘」をスルーしている以上、平手造酒(に相当する人物)は出てこないんだけれど、代りに三島左門(『近世侠義傳』では水島破門)なる人物が出てくる。この左門なる人物、神影流(新陰流?)の免許皆伝を受ける身ながら、酒で身を持ち崩して勢力富五郎の食客となっているという設定で――「かういふ懶惰な身になつたも、酒と若氣に今もいふ舊友共にそゝのかれ、道場歸りに柳橋で藝妓を相手に呑初め、今日は新橋明日は堀と、かの傾城傾國と傾ける程の家屋はないが、刀劍迄も典物に入れる程に遣ひ果し、終には親の勘當受け、師弟の緣でおぬしを賴り食客となる此の左門」云々。ほとんど平手造酒ですよ……。ともあれ、平手造酒は北辰一刀流・千葉周作の門弟だったとするおそらくは宝井琴凌以来の広く親しまれたキャラクター設定とは明らかに異る世界線がここにあるということになる。だからね、元々『天保水滸伝』には2つの流れがあったんですよ。そして、山上伊太郎の「遊民街の記録――対立する陣営と戦う勢力」は陽泉主人尾卦伝述『天保水滸傳』→山々亭有人記、月岡芳年画『近世侠義傳』→河竹黙阿弥作『群清滝贔屓勢力』という流れを汲むものだと。まあ、そうなると、ワタシが本文でプレゼンしたセオリーに従うならば、これらの作品にもハードボイルドの萌芽を読みとらなければならないことになって、それはそれでいささか苦しい話にはなるのだけれど……。



 われながらいささか驚いているところではあるんだけれど……4月24日付けでウィキペディアの「平手造酒」の記事をほぼ全面的に書き直しました。辻淳著『「天保水滸伝」平田三亀の謎』(剣術流派調査研究会)という本を読んだところ、へえ、平手造酒に関わる歴史的事実ってここまで明らかになってるのかあ……と。で、旧来の記事がそうしたことを全く反映していなかったことは明かで、それどころか「平田深喜」には忠深、深実、深辰、深信、光深と5人の子がいたことになっていて、そんな話、一体どこで仕入れてきたの……? とにかく、『「天保水滸伝」平田三亀の謎』に示された歴史的事実とは全然、整合性が取れていないわけですよ。で、少しばかり悩んだところではあるんだけれど(はたして自分がその任に見合う人物なのかどうか)、えーい、やっちゃえと(笑)。で、既に存在していた「平手造酒」の記事を、事実上、「平田三亀」の記事に改めるかたちでほぼ全面的に書き直した。以来、どんなダメ出しを食うやら冷や冷やの毎日ではあるのだけれど(ウィキペディアには別に査読なんてないんだけれど、やっぱりそれなりのチェック機能は働くもので、特に既存の記事を大幅に書き直した場合は「サイズの大幅な増減」としてより厳しいセンサクの目が注がれることになる。で、時にはほとんど嫌がらせみたいな「校正」を受けることもあって、あれって趣味でやってんのかねえ……?)、どうやら今回は特段のこともなく通り抜けられそう。それにしても、このコトの転がりようには驚かざるを得ない。だって、過日、ネットをウロチョロしていたら、こんな記事に遭遇した――というところから始まって、あれよあれよという感じて山上伊太郎の「遊民街の記録――対立する陣営と戦う勢力」へと至り、『天保水滸伝』がどーの、平手造酒がこーの。そしてウィキペディアの「平手造酒」の記事をほぼ全面的に書き直すというね。ただ、テレビシリーズの『新・座頭市』で夏八木勲がやった平手造酒(つーか、役名は「平川さん」なんだけどね。でも、あれは間違いなく平手造酒ですよ)を見たのが高校生の頃。あの平手造酒が忘れられなくて、ずーっとアタマには残っていたのは事実。市と「平川さん」がまだ春浅い利根川の川洲で「人生の意味」を語り合うというね、あの日本的センチメンタリズムでずぶ濡れになった……。もしかしたらワタシは本当の自分に気がついたのかも知れない……?