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その日、松坂屋仙造は三番船に乗ったのか?
〜山口瞳と『天保水滸伝』〜

 話が『天保水滸伝』に及んだ以上、やはりこの件を素通りするわけにはいかないだろう。しかし、これはねえ……。どうでもいいと思っている作家なら、それこそどうでもいいんだけれど、敬愛する作家であるだけにコトはなかなか厄介で……。

 2004年に河出書房新社から刊行された山口瞳著『巷説天保水滸伝』は1965年11月15日から1966年7月17日まで『サンケイスポーツ』に連載された長編時代小説の初の書籍化で、刊行当時は帯で「山口瞳、幻の長篇時代小説! 未完のライフワーク、ここに刊行。」と謳われていた。もっとも、本作を「未完のライフワーク」とすることには異論がある。確かに『巷説天保水滸伝』は飯岡助五郎が岩井の不動尊の夏祭の夜に斬られたところで終っており、その限りでは未完。『天保水滸伝』の最大の見せ場である「大利根河原の決闘」まで話が進んでいないわけだから。そして、当の山口瞳もあとがきに当たる「作者言」で「むろん、私はこの続きを書くつもりだ。いつか、また読者のお目にとまる日のくることを楽しみにしている」と書いており、『巷説天保水滸伝』が未完のまま連載を終了したことは明らか。しかし、山口瞳は『巷説天保水滸伝』の連載が終了した翌年、『別冊文藝春秋』に「繁蔵御用」という短編を発表しており、書き出しはこうだ――「飯岡助五郎が岩井の不動尊の祭の夜に斬られてから五年経った」。明らかに『巷説天保水滸伝』の最後を受けるかたちとなっており、つまりは「繁蔵御用」は『巷説天保水滸伝』の続編として書かれているということになる。その上で「繁蔵御用」では講談や浪曲などで名高い「笹川の花会」について描かれ、「大利根河原の決闘」についても描かれ、最終的には昭和になってからの飯岡・笹川両地区における顕彰活動について記して物語が終っている。つまり、山口瞳は『巷説天保水滸伝』に続いて「繁蔵御用」を書くことで物語を完結させているのだ。それは「作者言」での約束を果したということでもあり、この点で『巷説天保水滸伝』を「未完のライフワーク」とするのは作家本人の思いにも反することだと思うんですがねえ……というようなことは某密林のカスタマーレビューに書いた通りでして、ホント、どーなってんだ(? なお、評価を☆☆☆★★としたのはあまり参考としないで下さい。ワタシが書きたかったのはあくまでもエディターシップについてなので)。ともあれ、山口瞳には「幻の長篇時代小説」とも「未完のライフワーク」とも謳われる時代小説があって、それが『天保水滸伝』に材を取った『巷説天保水滸伝』であるわけだけれど、この小説が『天保水滸伝』に材を取った小説の中でも特別に興趣をそそられる点が1つあって、それは著者の山口瞳が飯岡助五郎に縁のある人物であること。ここは当の本人が記すところを引くならば――

 助五郎は、私の先祖の家によく遊びにきたそうだ。私の先祖は助五郎と同じように二足草鞋だった。そうして助五郎は、先祖のいた横須賀の出身である。かなり緊密な連絡があったと考えても間違いはあるまい。
 私の先祖は松坂屋仙造である。助五郎が笹川と喧嘩になったとき、飯岡方の助っ人として斬合いに参加したことになっている。私から数えて四代前になる。あるいはもう一代前に松坂屋佐助という人がいるが、この人のことであるかもしれない。二人とも、十手捕繩をあずかる博奕うちで、箱根からこっちの総元締であったというふうにきいている。

 要するに、山口瞳の四代前か五代前の先祖が飯岡助五郎の子分だか客分だかで「大利根河原の決闘」にも飯岡方の「助っ人」として参加していたというのだ。実は山口瞳はこのことをモチーフとした小説を他にも書いていて、1964年に直木賞受賞第1作として発表した「伝法水滸伝」もそう。こちらではその先祖の名前は「富士松」であるとされている(山口瞳の母方の先祖は横須賀の柏木田で「藤松楼」という妓楼を経営していた。多分、「富士松」はその「藤松」をもじったもの)。またその母方の血筋をリュウ・アーチャーよろしく調べ上げた『血族』でも当然のことながらこのことは記されていて、母方の伯父の十三回忌が横須賀の菩提寺で営まれた際、関係すると思われる墓の戒名を手帳に書き写したとして――

 松坂屋 慶応二年十月十日建
 仙寿院妙永日交信女
 長寿院快楽日仙信士
 芙蓉院妙粧日寿信士
 智勇院崇建日徳信士 嘉永二酉年四月八日亡
 智徳院妙健日勇信女 明治七年十月二十一日亡
 などがそれである。このうち、松坂屋というのは藤松以前の屋号であったのだろう。松坂屋仙造という男が、例の『天保水滸伝』の喧嘩で飯岡助五郎方に加わっていて、映画で中村錦之助が演じたことがあると聞いているが、これが、曾祖父の羽仏藤造の父の四代目専蔵であるか、その父の三代目専蔵であるかは、ほぼ間違いのないところである。飯岡助五郎は、横須賀に近い村の出身で、はじめは浦賀の蜆売りであった。彼が飯岡で勢いを得たのは、たびたびの水難で漁師がほとんど全滅した際に、横須賀の若い者を引き連れていってこれを救ったからである。飯岡には、助五郎の功績を讃える大きな碑が建っている。

 で、こうしたことをワタシはかねてから承知はしていたのだけれど、『天保水滸伝』についてそれほど詳しいわけではなかったので(講談や浪曲は言うに及ばず、多分、映画だってちゃんと見たというのは1本もないはず。つーか、そもそも『天保水滸伝』て1976年に作られた『天保水滸伝 大原幽学』が最後なんだね。だったら、見ているはずがないか……)、「例の『天保水滸伝』の喧嘩で飯岡助五郎方に加わっていて、映画で中村錦之助が演じたことがあると聞いているが」と言われても、へえ、そうなのか、というくらいで、特段の感想を抱くこともなかった。ただ、情報としてはシッカリとワタシの〝灰色の脳細胞〟にインプットされていて、今回、たまたま『天保水滸伝』についていろいろ調べたり考えたりすることとなって、そういや松坂屋仙造てどこに出てくるんだ? と。あの山口瞳の四代前だか五代前だかに当たるという……と、そんな軽ーい感じてあれやこれやの参考文献を読み直してみたわけだけれど――出てこないのだ。どの本のどの下りを読んでも、松坂屋仙造の「ま」の字も。例えば、文献的に最も信用できると思われる今川徳三著『考証天保水滸伝』(新人物往来社)では――

 助五郎は集まった者の中から人選して、
州崎の政吉こと永井の政吉
新田の伊七
笹川の常吉
木の内の金治(金蔵とも言う)
ざこやの半兵衛
武州の吉五郎
小手丑
信方の石松(行司の石松)
石渡孫治郎
行内の太兵衛
桶屋の友吉
布田の兵十
野手の熊五郎
小笹の友吉
松岸の忠蔵
他に四名。
 総指揮は助五郎で、護衛として、長男の堺屋の与助と、鬼王辰五郎の二人が付きそうことで、〆て二十二人。
 巷説伝えるところによると、総勢七十名。
 陸路二十人。
 水路双方から挟撃したというが、
 「神仏実事抜書」も、
 ……助五郎、子分二十人斗リモ召シ連レ、銚子ヨリ舟ニテ、笹川へ相廻リ――
 と、二十二人説を裏付ける記述を残している。
 助五郎ら二十二人は、腹ごしらえもそこそこに、飯岡浜を発った。

 ね、松坂屋仙造の「ま」の字も出てこない。ただ、今川徳三は飯岡方の人数を「〆て二十二人」としているのだけれど、山口瞳は「繁蔵御用」で「乾分二十名ばかりも召連れとあるのは船一艘と見た者の誤りであるという」としており、同作中では飯岡方の総勢は「七十数人」とされている。で、その「七十数人」説に近い文献がある。それが戸羽山瀚著『実録巷談新書:天保水滸伝』(鱒書房)。なんでも戸羽山瀚という人は江戸学の大家・三田村鳶魚、小説家・劇作家の長谷川伸、子母沢寛などに師事した史家で「伊豆史談会」の創始者とか(ソースはこちら)。その戸羽山瀚が記す飯岡方の陣容はというと――

 政吉は其処で明日の七ツ(午後四時)を合図に利根川べりの松岸へ勢ぞろいする、舟は三艘で、一番手、二番手、三番手とすることなどを言い渡した。
一番手 副総長 成田の甚蔵
指図頭 荒町の勘太
同副頭 桐島の清次
大八木の熊五郎、提緒の伊之助、
平松の次郎、平松の五郎八
以下二十八人(一番船乗組)
二番手 副総長 洲崎の政吉
指図頭 手玉の長太
同副頭 黒浜の松五郎
太田の新六、太田の新八、
小沢の友次郎、地潜の又蔵
以下二十五人(二番船乗組)
三番手 総 長 飯岡の助五郎
指図頭 神楽獅子の大八
同副頭 御下の利七
岩崎の与兵衛、新田の房八、
矢切の庄太、舎利の源次
以下二十八人(三番船乗組)

 こちらにも松坂屋仙造の「ま」の字も出てこない。ただし、「二十二人」説の名簿には「他に四人」、「七十数人」説に至っては「以下二十八人」だの「以下二十五人」だの。だからね、これらの名簿だけを捉えて松坂屋仙造の「ま」の字も出てこない、というのは速断にすぎるだろう。ただ、飯岡方が笹川に斬り込んだ際の人数をめぐっては講談などでは「百二十餘人」説を唱えているものもあって(たとえば金園社版『長篇講談全集:天保水滸傳』。四代目宝井馬琴の講演を活字化したもので、言うならば『天保水滸伝』の本家本元)、これでもかとばかりにやくざの二つ名が列挙されていたりするのだけれど、その中にも松坂屋仙造という名前は見つけられないのだ。要するに、裏付けられんのですよ、文献的には、山口瞳の四代前だか五代前だかの先祖が「大利根河原の決闘」に飯岡方の助っ人として参加していたということは。相当粘って調べてみたんだけどねえ……。でね、もしかしたら山口瞳もワタシと同じような経験をしたのかもしれない。というのも、山口瞳は「伝法水滸伝」では「富士松」は飯岡方がチャーターした3艘の船の内、3番船に乗っていたとしているのだけれど――

 一番前の舟には、永井の政吉、新田の伊七、笹川の常吉、永井の利兵衛、武州の吉五郎、小手丑その他。二番目には信方の石松、石渡孫治郎、行内の太兵衛、桶屋の友吉、布田の兵十、野手の熊五郎、松岸の忠蔵その他。三番手は飯岡助五郎、長男堺屋与助、甥の鬼王辰五郎その他。
 富士松は三番手だ。

 ところが、なぜかこれが「繁蔵御用」ではこんなふうに変っている――

 八月六日の夜になってから、総勢七十数人は松岸まで二里の道を歩いた。河岸には風窓の半次が川船三艘を用意していた。
 第一番の船に、洲崎政吉を頭として、荒町の勘太、桐島清次、大八木熊五郎、提緒の伊之助、平松の次郎、五郎八はじめ二十五人。
 二番手に三浦屋孫次郎を頭として、黒浜の松五郎、太田の新六、同新八、小沢の友次郎、地潜又蔵ほか二十五人。跡船に助五郎が乗り、その前後を、御下の利七、岩崎の与兵衛、親田の房八、矢切の庄太、舎利の源次、手玉の長太、神楽獅子大五郎等二十八人で固めた。

 一見すると、戸羽山瀚が『実録巷談新書:天保水滸伝』に記している陣容と似ているけれど、微妙に異る部分も。はて、出典は何なんだろう……? ともあれ、「伝法水滸伝」に記している陣容とは様変わりしており、中でも注目は「富士松」の名前が見当たらないこと。多分、典拠とした史料には三番船の乗員として「富士松」(に相当する人物=松坂屋仙造)が記されていなかったのだろう。で、おそらくはそういうこともあってのことなんだろうと思うんだけれど、「繁蔵御用」の最後では――「私の四代前は松坂屋仙造であり、その前が佐助であって、箱根から東の博奕の元締であると教えられていた」。『巷説天保水滸伝』に書いたのとほぼ同じことを書いてはいる。ただ、『巷説天保水滸伝』にはあった「助五郎が笹川と喧嘩になったとき、飯岡方の助っ人として斬合いに参加したことになっている」という下りは消えている。この時点で彼の中には四代前か五代前の先祖が「大利根河原の決闘」に飯岡方の助っ人として参加したということについての疑念が生じていたのかもしれない。その一方で彼は「繁蔵御用」から10年以上も後に書いた『血族』では「例の『天保水滸伝』の喧嘩で飯岡助五郎に加わっていて、映画では中村錦之助が演じたことがあると聞いているが」云々。史料では裏付けられないものの、そういう話を親類縁者から聞いている、というこのこと自体は嘘ではないからだろう。ただ、そうであるならば、なんともザンネンな話と言わざるをえない。実は、ウィキペディアで確認したところ、中村錦之助が『天保水滸伝』を題材にした映画に出演したのは1959年制作の『血斗水滸伝 怒濤の対決』だけ。で、この映画で中村錦之助が演じたのは……「洲の崎の政吉」。これはキネマ旬報社が運営するKINENOTEで確認できる情報なので間違いない。この「洲の崎の政吉」、「二十二人」説の名簿にも「七十数人」説の名簿にも名前が載っている。それもそのはずで、「洲の崎の政吉」こそは飯岡助五郎の一の子分とされる人物で、講談などでは「大利根河原の決闘」で平手造酒に斬られたとされている――「「エイッ」叫ぶ声もろ共、抜討の一刀、斬り手は北辰一刀流の大達人、得物は一文字宗則、哀れや洲の崎の政吉胴切となってドウと倒れる」(講談社版『定本講談名作全集』第4巻、神田伯山「天保水滸伝」より)。それが事実かどうかは別として、「大利根河原の決闘」で亡くなったのは間違いのないファクト。で、もしこの「洲の崎の政吉」が山口瞳の四代前か五代前の先祖だったとしたら、そもそも山口瞳はこの世に存在していないわけで。つまり、「例の『天保水滸伝』の喧嘩で飯岡助五郎方に加わっていて、映画で中村錦之助が演じたことがあると聞いているが」という下りの少なくとも後半部分は全くの誤伝ということになる。さて、そうなった場合、山口瞳の四代前か五代前の先祖が「大利根河原の決闘」に飯岡方の助っ人として参加していたというこの「伝法水滸伝」以来、彼が書きつづけてきた〝ファミリーストーリー〟はどの程度、信憑性のある話なのだろう? と、どうしたってそういうことを思わざるを得ないんですよ。しかし、これはねえ……。どうでもいいと思っている作家なら、それこそどうでもいいんだけれど、敬愛する作家であるだけにコトはなかなか厄介で……。



 山口瞳は松坂屋仙造について「十手捕繩をあずかる博奕うちで、箱根からこっちの総元締であったというふうにきいている」と書いているわけだけれど――かつてヤクザ研究といえば猪野健治と相場は決まっていた。文庫化もされている『ヤクザと日本人:日本的アウトローの系譜』や『やくざ戦後史』は名著と言っていいんじゃないかな? で、もしかしたら『ヤクザと日本人』あたりに松坂屋仙造について何か書かれているのでは? と思い当たって読んでみたところ――第3章「アウトローの本流・博徒」にこんな下りがあった――

 上州長脇差が勢力をもったのは、天保(一八三〇年)から、幕末へかけての約四十年間であった。
 この時代に、名を売った上州博徒をあげるならば、国定忠治、大前田栄五郎、館林虎五郎、高崎源太郎、久宮丈八、玉村主馬兄弟、桐生半兵衛、大胡団兵衛、沼田源蔵、吾妻歌之助、小斎勘助らがいる。
 武蔵に入っては、川越在の獅子嶽重五郎、小金井小次郎、高荻万次郎、府中万吉、小川幸蔵、甲斐では郡内長兵衛、武居安五郎、甲府勘助、津向文吉、黒駒勝蔵、鰍沢鉄五郎、小仏勇助、松井喜之助、身延定右衛門、駿河では清水次郎長、由比大熊、庵原広吉、和田島太右衛門、伊豆には大場久八、遠江には都田村源八、森五郎、見附友造、中郡吉兵衛、三河には吉良武一、寺津治助、三好吉左衛門、美濃には、岩村七蔵、合渡政衛門、岐阜弥太郎、伊勢には津徳右衛門、古市伝兵衛、小幡周太郎らが勢力を有していた。

 これだけの数の博徒の名前が列挙されていながら、松坂屋仙造の名前はない――。もし松坂屋仙造が本当に山口瞳が言うように「十手捕繩をあずかる博奕うちで、箱根からこっちの総元締であった」というのなら、必ずやここに名前があるはず。ない――ということは、少なくとも松坂屋仙造が「箱根からこっちの総元締であった」というのは(も)事実ではない、ということになるはずで……正直、これをどう受け止めたらいいのか。別にさ、ワタシは、あら探しをしようと思ってこんなことをやっているわけではないわけですよ。むしろ、山口瞳が『横須賀新報』で初めて「藤松楼」という活字に接した瞬間みたいなこと(「私がこれを読んだのは、午前二時頃であったが、思わず、頭上で大きく手を打ち、殊勲打を打った高校野球選手のようなガッツ・ポーズを取った」)を期待してのこと、なんですけどねえ……。



 少しばかり本稿の主題からは外れることになるんだけれど……このところ、浪曲を聞いている。なんでも山口瞳は「伝法水滸伝」を書く間、ずーっと玉川勝太郎を聞いていたそうだ(ソースは集英社文庫版『伝法水滸伝』解説)。それにあやかったわけではないのだけれど、ワタシも「笹川の花会」とか「平手造酒の最後」とか、この辺をBGM代りに。古い録音だと「飯岡斬込み」というのもあるようなんだけれど(ソースはこちら)、残念ながらYouTubeには上がっていない。ワタシとしてはこの「飯岡斬込み」が「飯岡の斬込み」なのか「飯岡への斬込み」なのかが気になるところで……(ご承知のように『天保水滸伝』という世界では笹川繁蔵が「善」で飯岡助五郎が「悪」。もし「飯岡斬込み」が「飯岡の斬込み」なら、珍しく助五郎目線の演目ということになる。ただ、他の演者のレコードながら「笹川繁造飯岡斬込」というのもあることを考えるならば……?)。まあ、そんな感じではあるんだけれど、いろいろ聞いてワタシがいちばん気に入ったのは、実は「鹿島の棒祭り」なんだよね。しかも二代目玉川勝太郎が読んだものではなく、その孫弟子に当たる玉川福太郎が読んだもの。これがチャーミングで。平手造酒が、笹川繁蔵から止められているにもかかわらず、なんだかんだと理由をつけて酒を呑む。そして、お約束通り、酒に呑まれてしまうというね。この他愛ないっちゃあ他愛ない話を実に楽しそうにうたうんだ(ウィキペディアによれば「浪曲(浪花節)の実演を表す動詞には様々あり、「うなる」「語る」「読む」「うたう」「口演する」などがある。使用する局面によって多少使い分けているが基本的に同じ意味である」とのことなので、ここでは「うたう」とします)。もうね、聞いているだけで顔が綻んじゃいますよ。そういう、人の心を柔らかくしてくれるものがある。まあ、だから、二代目玉川勝太郎が「剛」なら、こちらは「柔」ということになるかな? さらに二代目玉川勝太郎が「剛」ということでダシール・ハメットに準えるならば、玉川福太郎はドナルド・E・ウェストレイクとかビル・プロンジーニとか、その辺? 世代的なものを踏まえてもね。で、この例えの当否はさておき、二代目玉川勝太郎から玉川福太郎へと浪曲の「精神(ハート)」(山口瞳が二代目玉川勝太郎のタンカを評するために使った言葉。曰く「彼は大天才です。脈絡はなくとも精神(ハート)を最もよく伝えているのは、これです」)を後代へと伝えるバトンが渡っていたのは間違いないと思うんだよ。そして、そんなふうに浪曲界が世代交替を重ねながら時代の変化に対応して行ければよかったんだろうけれど、玉川福太郎は2007年、不慮の事故で亡くなってしまうんだよね。山形の妻(曲師の玉川みね子)の実家で農作業中、耕耘機が横転、その下敷きになってしまったというのだ。だから、本当に不慮の事故。浪曲界にとっては青天の霹靂であり、痛恨の事態でもある。これはウィキペディアにも記されていることですが、その時点で玉川福太郎は「四代目勝太郎を継ぐと誰からも目される存在」だった。それが、突然、いなくなってしまったわけですよ。そして、現に今、玉川勝太郎という名跡は空きとなっている。衆目が一致する後継者がいないとなればそうなるのは当然で、それは単に玉川勝太郎という名跡に関わる話ではなく、玉川勝太郎を大看板とする浪曲界そのものに関る話。加えて言えば、玉川勝太郎と並ぶもう1つの大名跡である広沢虎造(ちなみに、二代目玉川勝太郎がダシール・ハメットなら、二代目広沢虎造こそはレイモンド・チャンドラーでしょう、そのポプュラリティから言ってもね)も現在は空き。玉川勝太郎を継ぐべき浪曲師も広沢虎造を継ぐべき浪曲師もいない状態で、浪曲界は今、存亡の危機に瀕している……。

 まあ、そんな感じで、昨日今日、浪曲を聞きはじめたド素人であるワタシは一人前に浪曲界の現状を憂えていたわけですが……ここに1冊の本がある。題して『浪曲は蘇る 玉川福太郎と伝統話芸の栄枯盛衰』(原書房)。書いているのは、誰あろう、杉江松恋である。杉江松恋といえば、あーた、『日本ハードボイルド全集』の編纂者の1人ですよ。かてて加えて、ペンネームの「松恋」はといえば日本でも『彼らは廃馬を撃つ』の著者として知られるホレス・マッコイに因んでつけられたことはつとに知られていて、そのホレス・マッコイには日本未訳ながらI Should Have Stayed Homeという作品もあって、そのI Should Have Stayed Homeはといえば、わがPW_PLUSのトップページを飾る14点のペーパーバックの内の1点でありまして……。そんなわがPW_PLUSとも縁浅からぬ(?)人物が『浪曲は蘇る』なんて本を。これは読むしかないでしょう。すると、これが浪曲界の現状に取材したノンフィクションという一面を有しつつも優に一編の青春譜としても読めというね。青春譜――、又吉直樹の『火花』とか、今、テレビでやっている『だが、情熱はある』とか、あの辺りの芸道に生きる若者にスポットを当てた。しかも青春譜らしく冒頭で提示される主題は「絶望」であるというね――

 すべての希望は潰えた。そう考えたくなる絶望の瞬間は誰にも到来する。

「お先に失礼します」
 百八十センチ超の大きな体を腰のところで折り曲げるようにして、のんびり働く店長に頭を下げ、カプセルイン新宿のエントランスから表に出る。
 午前十一時。まだそれほど人通りはないが、一区画向こうの靖国通りに面したドン・キホーテ新宿歌舞伎町店は二十四時間営業だから、店内で流されているBGMがビルの壁面を伝わるようにして玉川太福のいる仲見世通りまで流れてくる。
 玉川太福は新人の浪曲師だ。
 新人もいいところで、まだ成ってから一月も経っていない。
 いや、入門自体は二ヶ月前にしていたのだが、師匠である玉川福太郎が全国放送のFM番組で新しく弟子が入った、と名前を呼んでくれたのがこの五月一日だったのである。そこで玉川太福に、成った。

 そんな「成った」ばかりの新人浪曲師は、しかし、それからわずか数日後(「成った」日から数えるなら22日後)には師匠を失うことになるのだ。その時、玉川太福は28歳。↑にも記されているように、まだ玉川福太郎に弟子入りして3か月も経っていなかった。で、〝物語〟はこの玉川太福をはじめとする玉川福太郎の6人の弟子(福助・お福・こう福・奈々福・ぶん福・太福。ちなみに、名前だけではわからないだろうと思うけれど、太福以外は全員、女性。実は浪曲界は「男女共同参画社会」を先取りしたかたちで今に至っているようで、ここはウィキペディアが記すところを引くならば――「もともと浪花節は、他の演芸に比べても女性の進出が早く、成立前の江戸末期から曲師はもちろん既に女流もおり、明治・大正期には女流浪曲団がいくつも結成され巡業に出て好評を得ていた。そのような所から戦前期より、著名な初代春野百合子や冨士月子、二代目天中軒雲月、戦後期には天津羽衣や二葉百合子、二代目春野百合子が登場する。後に浪曲への入門者全体が減る中で女性に偏りだし、近年は講談と同様に現役浪曲師の男女比が逆転する状況になっている」。玉川福太郎の6人の弟子構成も見事にその実態を反映していると言える)が師の突然の死に打ちひしがれながらもそこから立ち直って浪曲界で生きていく様が第1章から第5章まで費やして描かれる。中でも主役的な役割を演じているのが玉川太福で、恥ずかしながらワタシは全然知らなかったのだけれど、この人、講談界における神田松之丞(現・六代目神田伯山)のような存在だそうで、そうと知って慌てでググったところ、「講談では今年、神田松之丞が大きな注目を集める存在になったが、玉川太福も浪曲を幅広い層に広げるために、様々なイベントに出演し、“客を呼べる浪曲師”として話題になっている」――と、こんなふうに紹介している記事も見つかった。で、この記事で紹介されている2枚のCDは、なんとなんと、iTunes Music Storeでも配信されているという……と、こうした一連のコトの流れが実に浪曲的というか。つーかさ、今の時代に求められている浪曲ってこういうんじゃないだろうか? 今の若い人は「平手の駆け付け」では泣かないだろうけれど、福太郎の未亡人でもある曲師の玉川みね子から「このままでいいの」と問われた太福が「私は福太郎の弟子がいいです」と答えるあたりは今の若い人の琴線にだって十分に響くはず。あとみね子に頼まれて太福に稽古をつけることになった大利根勝子(全盲の浪曲師)が1年たっても太福が上達しないのは私の教え方が下手だからと思い、他の浪曲師のところに行ったらどうかと諭すのだけれど――「どんな大先生についても自分が努力しなければダメなので、このままでいいです」。そこまで言われれば、稽古をつける方としても腹を括るしかない。で、「そう、じゃあ出世してよね」。そして、太福は見事に出世してみせるわけですよ。「太福さん、出世したよね。これだけの人になってくれて、私はよかった」――と、そんなふうに杉江松恋には語って聞かせたようで、これなんて既にして浪曲ですよ。いずれにしても、福太郎とはわずか3か月の師弟関係だった太福が今や玉川一門を背負って立つ存在にまでなった軌跡は優に1つの奇跡であり、十分に読物たりうる。「実録・玉川一門物語」とか「浪曲師・玉川太福ができるまで」とか、そんな感じのやつね。それを玉川太福が自ら読んで「私浪曲」――というのは、果たしてありやなしや? と、こんなことをつらつら考えている今日この頃……。