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命日があって、墓があって、供養祭も催されて
〜金子市之丞の「実在」をめぐって迷子になった件〜

 大西信行によれば、正岡容は「明治三十七年十二月二十日、私は下谷練塀小路のお数寄屋坊主河内山宗俊の邸に生まれた」と語っていたそうだ。さらにこう言い張っていたとも――「そして私の生まれた十二月二十日という日は、いみじくもまた金子市之丞が処刑されたその日なのである」(引用はいずれも大西信行著『正岡容――このふしぎな人――』より)。これを読んで、え、金子市之丞って実在の人物だったの……?

 ワタシにとって金子市之丞といえば、かつて原田芳雄が『痛快!河内山宗俊』で演じたあの金子市之丞。で、これはいささか驚きなのだけれど、この5月29日からBSフジで再放送が始まったばかりというね。一体、なんというタイミングか……。ともあれ、ワタシにとって金子市之丞といえば、あの金子市之丞なんですよ。そして、正岡容が語るところを信ずるならば、あの金子市之丞は実在の人物だったということになる(命日がわかっているということは、実在の人物だったという証拠にはなるでしょうから)。で、これをスルーするというテはないだろうと(笑)。ということで、『天保水滸伝』の件が一段落したこのタイミンでGoogleにお伺いを立ててみたわけだけれど、いきなりこんな記事が見つかった。なんと、千葉県流山市の光明院には金子市之丞の墓があって、令和元年12月20日には生誕250年「供養祭」なるものが催されたことを伝える記事。で、いよいよ以て、へえ、と。命日があって、墓があって、供養祭も催されているとなれば、もはや実在したことを疑う理由は何もない。もっとも、その実在が疑われている巴御前の法要が催されているという事実もあるわけだけれどね(それを伝える新聞記事)。ただ、金子市之丞の場合は裏付けとなる史料もあるんだよ。これについては件の記事には記されていないのだけれど、あるんだよ(教えてくれたのはこちらです)。その史料――「吉野家日記」(『流山市史 近世資料編3』所収)の文化10年12月16日の条として――

一流山無宿□□屋□七倅市蔵」かねいち事盗賊悪黨ニ付大坂」ニ而被召捕今日小塚原江引廻シ」獄門ニ懸候由

 ここに出てくる「かねいち」こと「市蔵」(または「市兵衛」。同じ日記の12月20日の条には「流山金市事市□□首」、大晦日の条には「流山村□□や倅□兵衛」とあって、これらの記載からは「市兵衛」だったと推定できる)が『天保六花撰』では金子市之丞として描かれ、さらに歌舞伎の『天衣紛上野初花』(河竹黙阿弥作。明治14年の初演では初代市川左團次が金子市之丞を演じた)や映画の『河内山宗俊』(山中貞雄脚本・監督。三代目中村翫右衛門が金子市之丞を演じた。ちなみに山中貞雄監督の作品でフィルムが現存しているのは『丹下左膳余話 百萬両の壺』『河内山宗俊』『人情紙風船』の3作のみで、そういう意味でも重要な作品)でも準主役級の役割を割り振られる重要なキャラクターとなって今日に至り、その1つの造形としてあの原田芳雄が『痛快!河内山宗俊』で演じた金子市之丞もある――と、とりあえずそういう理解でいいと思うんだけれど……それにしてはキャラクターがなあ、と。そう、「吉野家日記」から読み取れる「かねいち」の人物像と原田芳雄が『痛快!河内山宗俊』で演じた金子市之丞の人物像が違いすぎるのだ。原田芳雄が演じた金子市之丞は通称「金子市」でニヒルな上にもニヒルな浪人。悪党ではあるけれど、歴とした武士(追記:第8話「三途の川は空っ風」によれば、元は越後新発田藩の徒士組だったという設定)。それに対して「かねいち」は「流山無宿」と形容される市井の悪党。この違いがねえ、いささか腑に落ちないというか。まあ、実在の人物が物語化の過程で実像から大きく逸脱してしまうということはよくあることで――つーか、ほとんどの場合、そうじゃないかなあ。特にその〝誕生〟に講釈師が一役買っている場合はね。『天保水滸伝』の平手造酒がその典型的な例で、きっと下総無宿の「かねいち」も講釈師(松林伯圓)の手によって原田芳雄が演じたようなニヒルな浪人へと変身を遂げたんだろう……

 と、そんな見当をつけたワタシではあるのだけれど、どうもね、様子が違うんだよ。というのも、講談で描かれる金子市之丞も原田芳雄が『痛快!河内山宗俊』で演じた金子市之丞とはいささか性格を異にしているのだ。たとえば、昭和29年刊行の金園社版『長篇講談全集 天保六花撰』だと、開巻早々、「六花撰」に準えられている6人の悪党の為人を説明する中で――「その次が武州流山の酒問屋の倅で金子市之丞」。これさ、今、流山で言われているのとほぼ同じだよね。念のため、金子市之丞の墓がある流山市の光明院に立てられている高札の説明を引いておくなら――「金子市之丞は、言い伝えによると明和六年(一七六九)に流山の醸造家「金子屋」に生まれた。家運が傾き父は没したが、家業に励むことなく賭博に興じたため、母に勘当された。やがて母も没して家屋敷までもが人手に渡り、ついに盗賊に身を落とし「金市」と言われたという。/大坂で捕らえられ、文化十年(一八一三)十二月十六日に小塚原の刑場で獄門にされた。同十九日に上新宿村の某が首級を持ち帰り、翌日に光明院に葬られたと言われている」。だから、講談の『天保六花撰』に登場する金子市之丞は、意外や意外、生きた時代を別にすれば(金市が亡くなったのは文化10年。一方、『天保六花撰』はそのタイトルが示すように天保年間の物語なので、少なくとも20年の齟齬がある)ほぼほぼ史実を踏まえたキャラクター設定になっているということになる。もっとも「講釈師見てきたような嘘を言い」。彼らがその〝本性〟を発揮するのはこっからで。読んでも読んでも一向に金子市之丞が出てこないことにいささか痺れを切らしつつ、それでも我慢して読み進んで行くと、物語も半分を過ぎた頃になって、待ってました! とばかりに出てきた金子市之丞はというと――

……此頃頻りに三千歲の處へ來て全盛遊びをする、仲の町の蔦屋から送られて來る客人、金子さんといふ通客があります、抑も此の金子と云ふ客は何者であるかといふと、其頃淺草猿屋町に一刀流の劍術の道場を出して內弟子の三四百人又は諸大名の藩中の若侍、旗本衆の人なぞ多く出入りして道場が非常に盛んなる擊劍家であります、此の金子市之丞は年齡二十五六、色白く鼻筋通り、兩眼淸らかにして苦み走つて、浪士の事でありますから月代を延ばして大髻に結ひ、一寸一癖あるべき人物、素より廓へ這入る時好みの大小、取卷には先生と尊敬せられ、金銀を湯水の如く使ふ、廓內では今兒雷也と異名を取り、金子大盡などと尊敬する……

 なんと、酒問屋の倅がバックレて家を飛び出し、盗賊に身を落した――はずが、どういうわけか江戸で北辰一刀流の道場を開き、これが門人300〜400人を抱えるという大盛況。で、遊廓で派手に金をばらまいて「今兒雷也」と呼ばれているという……。これね、剣術の道場なるものを今のスポーツジムに準えるなら、多分、年商ウン億というようなレベルですよ(確か、テレビを離れてスポーツジムの経営に専念していた頃のヒロミが年商2億とか言われていたはず)。そうなると、当然、金遣いも派手になる。で、「今兒雷也」と呼ばれているわけだけれど、原田芳雄が『痛快!河内山宗俊』で演じた金子市之丞とはいささか――いや、相当に性格を異にしていると言わざるをえない。原田芳雄が演じた金子市之丞はスポーツジムなんて経営していなかったし、遊廓でどんちゃん騒ぎするようなタイプでもなかった。そもそも、武家だからね。この点で「武州流山の酒問屋の倅」とされている『天保六花撰』の金子市之丞とは身分からして異なる、ということになる。

 じゃあ、あの金子市之丞はどっから来てんのか? どうやら歌舞伎の『天衣紛上野初花』らしい。というのも、歌舞伎の『天衣紛上野初花』では金子市之丞の人物設定は講談の『天保六花撰』とは全く異るものになっているのだ。この『天衣紛上野初花』、春陽堂版『黙阿弥全集』第16巻で読めるのだけれど、まず驚かされるのは講談の『天保六花撰』では金子市之丞は読んでも読んでも一向に出てこなかったのとは対照的にいきなり出てくるのだ。場所は湯島天神の境内。折しもこの日は天満宮奉納剣術試合が催されており、その催主が金子市之丞とされている。それを観客に説明すべく書かれた宮の札売り七兵衛、茶屋娘おせん&モブ4人衆の会話として――

せん 皆さん、お茶を一つお上がりなされませ。
七兵 今日は堀田原の先生が、此の天神樣へ奉納の、劍術の試合があるので、此の御社內は思はぬ群衆、こつちもお陰で富の札を大層に賣りました。
○  その堀田原の先生といふのは、當時江戶で名人だと噂の高い劍術遣ひ、この建札にもある通り、金子市之丞といふお人。
△  男も好いが氣合もよく、淺草切つての好い顏だが、侍の癖に喧嘩早く達者な腕であばれるから、何處でもおぞけを震ふさうだ。
□  その先生が試合と聞いては、おら達もどうか見物したいものだが、さうしてやつぱり角力のやうに、木戶錢を取つて見せるのかな。
◎  それとも先きが侍だけ、町人のものは取らぬといつて、たゞなら滅法安いものだが、もし姐さん、幾らぐらゐで見られるだろうな。
せん そりやもう奉納の試合ゆゑ、幾らといつて木戶錢を、お取んなさるのではござりませんから、ほんの思召しでようござりませう。
七兵 極つた木戶を取らぬ替り、四人で一人前小二朱づゝはづめば、御の字でございませう。

 こちらでは金子市之丞は「堀田原の先生」と呼ばれており、「噂の高い劍術遣ひ」とされているのだけれど――これだけならば講談の『天保六花撰』とあまり変りはない。『天保六花撰』でも金子市之丞は門人300〜400人を数える北辰一刀流の道場主とされているので。しかし、そもそもの素性が違う。それがハッキリとわかるのが大切(最後の一幕)の「浄心寺裏手の場」で金子市之丞が三千歳(吉原の妓楼・大口屋の花魁。光明院の金子市蔵の墓はこの三千歳が建てたとも伝わる)との不思議な縁を物語るという――

市之 我が實父は會津の藩にて蒲田市之進と申す者、この市之丞は若年より放蕩ゆゑに勘氣を受け、浪人なして母方の苗字を名乘り金子といふ。そちが母は我が實父市之進の腰元にて、奉公中に父が手を附け懷妊せしゆゑ宿へ下げ、產み落したが則ちそちにて、母の悋氣に手當を貰ひ其の後音信(おとづれ)なさゞる內に、そちが母は病死なし、取片附の金に困り、廓へ賣りしと養父なる藤五郞が委しき話しに、されは妹であつたるかと、我も初めて知つたるぞ。
三千 そんならわたしは市之丞さんの、實の妹でござんしたか。
もと 不思議な御緣でござりましたなあ。

 実父は会津の蒲田市之進。しかし、若年より放蕩を繰り返して勘気を蒙り、浪々の身となって母方の苗字を名乗っていた……。これ、「武州流山の酒問屋の倅」とされている『天保六花撰』の金子市之丞からは大幅なキャラ変更と言っていい。河竹黙阿弥は松林伯圓の『天保六花撰』を下敷きにこの『天衣紛上野初花』を書いたことを認めているのだけれど(これについては『天衣紛上野初花』の序文にも記されていますが、明治25年に金桜堂より刊行された『河内山眺六花撰』では口演者である松林伯圓が前置きとして――「是は去ぬる明治七年の頃芝河原崎座が再興に相成りまして只今の團十郞が九代目の市川團十郞に相成りました時舞臺開きに此の講談を演劇に脚色(しくま)れました其頃は團州も芝濱松町に居を搆え拙者も同丈の宅に招かれ作者の默阿彌老人が筆を執られて講談の儘を脚本(すじがき)に脚色(しく)まれました」云々)、それでいてこのキャラ変更はなかなかに興味深い。ぜひ口寄せでもしてその狙いを聞いて見たいものだけれど……想像するにだ、「武州流山の酒問屋の倅」がどんな有為転変を経たにせよ江戸に出て剣術の道場をやっている、という設定に物語作家としてムリを覚えたのでは? で、「武州流山の酒問屋の倅」という初期設定を思い切って捨て、会津藩士の倅にした……。

 ま、そんなところじゃないかなあ。で、これ以降、金子市之丞はこの河竹黙阿弥が打ち出した線に沿って描かれるケースが多くなったようなんだよね。山中貞雄監督の『河内山宗俊』もそうで、作中では金子市之丞の素性をハッキリと物語るシーンはないものの、松前家重役・北村大膳の台詞として「おお金子さんよ、金子さん、あんた浪人したからってそうひがんでくれちゃ困るよねえ、ほんとうに久しぶりだね。どうしていましたね。我々は寄るとさわるとあんたの噂が出てね」。だから、金子市之丞も松前家の家臣だったのだろう。また昭和27年に子母沢寛が書いた『すっ飛び駕』という小説があるのだけれど、タイトルからはこれが『天保六花撰』に材を取っているとはちょっと想像がつかない。でも、間違いなく『天保六花撰』もので、昭和27年と35年にマキノ雅弘監督により映画化もされており、35年版には『天保六花撰 地獄の花道』というタイトルが冠されている。その『すっ飛び駕』では金子市之丞は奥州棚倉の生れで、実父はなんと筆頭家老の金子市郎兵衛。その筆頭家老である父が家老・大村典膳の不正の証拠を握り問い質したところ、「その夜中に突然金子様が発狂なされて城中で抜刀狼藉の沙汰に及んだと、うまく仕事を拵れえて、お気の毒に其場で切腹。とは表べの事、実は大村一味の悪党等寄つてたかつて惨殺して終つだのだ。その上に数々の不正があると取拵えたので、忽ち家は断絶、家族はその日の中に追放だ」――と、これは事情を知っている河内山が弟分の片岡直次郎に話して聞かせた内容。で、金子市之丞は大村典膳を討つべく江戸に潜伏してチャンスをうかがっているという設定。で、驚くべきはですね、物語の最後で金子市之丞は棚倉藩の家老に納まってるんだよ。「ピン小僧の金市さま」であるはずの金子市が小なりとは言え一藩の家老に……。さらにだ、昭和55年には脚本=寺山修司、監督=篠田正浩という今となっては贅沢すぎるという印象さえ持ってしまう組み合わせで『無頼漢(ならずもの)』という映画が作られているのだけれど、原作は『天衣紛上野初花』とされており、当然のことながら金子市之丞が登場する。演じるのは米倉斉加年で、ちょっとイメージが違うかなあ……。で、作中では金子市之丞の素性については特に説明がないものの、『天衣紛上野初花』を原作とする以上、元々の武家であることは明らかで、そういう言うならばインテリ・アウトローが真性のごろつきである暗闇の丑松と組んで暴動を企んでいるというね。その決意を打ち明けた時の台詞が――「どうせ、一度は死んだ男。これから先の人生は、余分なのだ」。こんな能書きを垂れるあたりが全く以て武士(インテリ)そのもので……。

 で、こんなふうに金子市之丞を生まれながらの武士にする流れがある一方で松林伯圓の初期設定の線に沿って描かれているものもあって、多分、昭和初期に書かれたものだと思いますが、長谷川伸の「金子市之丞」(昭和7年刊行の短編集『濡れ闇の男』に収録)もそう。こちらでは金子市之丞について――「北下總の流山で生れた市公が、成人して浪人姿を扮つて步くのが體にピツタリつき、すこしの破綻も見せずにゐるのを、不思議がる者は故鄕下總流山の老人達だけ、初對面では立派な武士の金子市之丞」。作中ではこれ以上の説明はないものの(なにせ短編なので)、「成人して浪人姿を扮つて」んだから、浪人姿はコスプレだってことだよね? また時代は一気に飛んで平成4年に藤沢周平が書いた『天保悪党伝』もそうで、こちらではハッキリと「市之丞は、江戸に出る前は下総流山でピン小僧と呼ばれた、博徒の親分だったのである」。こんなふうに見てくると、金子市之丞をめぐっては大きく分けて2つの流れがあると言っていいんじゃないかな。1つは松林伯圓以来の「武州流山の酒問屋の倅」とするもの。もう1つは河竹黙阿弥以来の生まれながらの武士とするもの(追記:実はその中間を狙ったようなものもある。昭和30年に村上元三が書いた『天保六道銭』がそうで、これが『天保六花撰』ものとしては異色作で、主人公は河内山宗俊ではなく森田屋清蔵。『痛快!河内山宗俊』では大滝秀治が演じた役ですね。その森田屋清蔵が平戸で(墓場から掘り出した女の死骸と一緒に!)心中を図ろうとしている金子市之丞を救うところから物語が始まる。で、その素性はというと――「武州流山の郷士の息子」。『天保六道銭』も金子市之丞を剣術遣いとして描いている点では変わりはなく、そういう設定と矛盾が生じないギリギリの線として捻り出されたのがこの「武州流山の郷士の息子」という人物設定なんだろう。考えましたねえ……)。で、原田芳雄が『痛快!河内山宗俊』で演じた金子市之丞は後者のタイプ、ということになる。金子市之丞を「武州流山の酒問屋の倅」とする初期設定がリセットされている以上、「吉野家日記」から読み取れる人物像とギャップがあったとしても、それはそれで当然、ということにはなるかな。ただ、そうであるならばだ、名前が「金子市之丞」だっていうのもどうなのか? 金子市之丞ってのは、流山無宿の「金市」こと金子市蔵をモデルに作られたキャラクターだからこその名前で、そこがリセットされてしまっている以上、名前が「金子市之丞」である必然性なんてなくなっているわけで。つーか、金子市蔵の立場だってあるわけだから。下総流山の醸造家「金子屋」の倅として生まれながら博奕に興じて親の勘気を蒙り、流山無宿の悪党「金市」となりながらも貧民にカネを恵むなどの〝善行〟を施して庶民からは「金市さま」と崇められたという金子市蔵ならではの物語があるわけで、ここは金園社版『天保六花撰』より当人が今は富家の嫁に納まっているたった1人の血を分けた姉に涙ながらに語ったところを引くならば――「先年關東八州の大飢饉の時、殘らずへ施しを出す譯にも行かねば、切(せめ)ては生れ故鄕の流山だけ纔(わづ)かに二千戶ばから、其の二千戶の中の貧民へ少々宛(づゝ)でも施しを致さうと、姉さんも其事は覺えて御在(おいで)でございませうが、無名に致して金を二兩づゝ封じて引窓或は戶の隙、又は庭などへ打捨て置いたるに、代官にも御屆に相成り、遂には天の惠みであらうと云ふ想像が立つて夫々の貧乏人を潤ほした事があります、外ではない那(あ)れは金子市が致した業(わざ)、其時分から私は善心に立歸って居るのでありますが……」。それが全く顧みられなくなっている、というのは大問題ですよ。なんでも流鉄流山線・流山駅の構内には昭和30年に金子市蔵の没後170年を記念して地元の彫師が彫ったというレリーフが飾られているそうですが(ソースはこちら)、そんな地元・流山市民の思いがねえ……。

 ――と、こんなことも記しつつ……実はね、いささかこの記事の方向性が見えなくなっておりまして。要するに、ワタシは何を書こうとしているのだろうか? 別にさ、「結論」なんてなくてもいいんだけれど。でも、「始まり」がある以上は「終り」も必要で。そうだなあ……記事が「え、金子市之丞って、実在の人物だったの?」ということから始まっていることに鑑みるならば「いや、ワタシが記憶に留めているあの金子市之丞なら実在の人物ではない」で終りに持って行けるか? 今日以降、実在した方の金子市之丞も記憶に留めつつ……。



 結局、金市というのは、鼠小僧次郎吉にその身分を掠め取られたのかも知れないなあ……と、そんなことを今頃になって。河竹黙阿弥が『天衣紛上野初花』で金子市之丞の素性を「武州流山の酒問屋の倅」から会津藩士の倅へとキャラ変更した理由を考えていたら(そんなことをいまだにクドクドと考えている)、ふと河竹黙阿弥作で鼠小僧次郎吉を主人公にした歌舞伎があったはずだと。調べたところ、それは『鼠小紋東君新形』で、なんとなんと、こちらも松林伯圓作の講談を歌舞伎化したものだという。その上で注目は初演が安政4年であること。つまり、『天衣紛上野初花』より24年ばかり早い。でだ、ウィキペディアによるならば、『鼠小紋東君新形』における鼠小僧次郎吉の人物設定は――「捨て子の与吉は盗人・月の輪のお熊に育てられ、大名や豪商から金子を盗み貧者に分け与える義賊・鼠小僧となった。今では稲葉幸蔵と名も改め、易者平澤左膳に身を装して鎌倉滑川に潜んでいる」。このね、「今では稲葉幸蔵と名も改め、易者平澤左膳に身を装して鎌倉滑川に潜んでいる」という下りを読んで、ははーん、もしかしたら黙阿弥が金子市之丞の素性を武士に改めたのは鼠小僧次郎吉との差別化を図るためだったのかも知れないなあ、と。だって、仮に金子市之丞の正体を「ピン小僧金市」とした上で、今では剣術家に扮して江戸に潜んでいる――とした場合、芝居の見巧者からは鼠小僧次郎吉の二番煎じと見なされるのは避けられんでしょう。で、実父を会津藩士とする全く別のプロフィールに書き換えた……。しかし、だとしたら、なんとも気の毒というか。「ピン小僧金市」が生れたのは明和6年(1769年)、小塚原で獄門に処せられたのは文化10年(1813年)。一方、鼠小僧次郎吉が生れたのは寛政9年(1797年)、小塚原で獄門に処せられたのは天保3年(1832年)。生れたのも死んだのも「ピン小僧金市」の方が早いわけで、鼠小僧次郎吉の二番煎じと見なされる云われなどさらさらなかったということになる。むしろ、鼠小僧次郎吉の方が二番煎じだろう――と、冥界の「金市さま」の思いを代弁するならば……。