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ぞわっとして、頭は湖のなかほどまで飛んでいった。
〜井上ひさしの「幻の新選組小説」を読む①〜

 自慢じゃないが、ワタシは『吉里吉里人』を途中でリタイアしている。いちばんのお気に入りは、まあ、『モッキンポット師の後始末』かな? その程度の〝読者〟なんだから、本来ならばこうして一文を草するような立場にはないはず。でも、この件だけは書かずにはいられないというか――

 井上ひさしが1974年から75年にかけて『週刊文春』に連載した「熱風至る」という小説がある。かねてからワタシは何としてでもこの小説を読みたいと思っていて。もちろん、それにはそれなりの理由がある。実は「熱風至る」は連載の途中で中断のやむなきに至った曰く付きの小説なのだ。その経緯については当の井上ひさしが1982年に行われたインタビュー(『同時代批評』4号。のち同誌の出版元でもある土曜美術社より刊行された『七人の作家たち』に収録。本稿ではこの『七人の作家たち』版をテキストとしています)で語っていて、インタビュアー(岡庭昇&高橋敏夫)が「前から伺いたいと思っていたんですけれども、週刊文春の連載で新撰組についてお書きになってましたね。あの中で、近藤勇が被差別部落出身だということをハッキリお書きになってましたね。(略)当時、意図されていたものをおききしたいのです」。こう問われて井上ひさしが言うには――「割と明るく考えていたんです。確かに出自が違う、育ちが違うというのは誰でもあるわけだから、それはあんまり問題じゃないんじゃないか。そこをハッキリ、キチッと整理したうえで、新撰組のやったことを通して幕末史を考えてみたかった。ところが、書き進むにつれて、編集長あたりから、自己検閲がはじまった。どっからもこないんですよ、その文句は。こないのにくるんじゃないかとおそれはじめた。こっちもやる気が出なくなって途中でやめちゃった」。これね、今風にいうと「ぞわっとする」とでもいうのか。近藤勇が被差別部落出身だというのもそうだし、それが理由で連載が打ち切りになったというのもそう。で、これは(これだけは?)何としてでも読みたいと。ただ、読むったって、掲載誌である『週刊文春』に当たるしかないわけで。なかなかねえ。でも、それしか手がないんなら、ということで、富山県内の公立図書館における『週刊文春』の所蔵状況を調べたこともあるんだ。しかし、県立図書館でさえ第37巻第1号(1995年1月5日号)以降。ということで、さしあたって読む手立ては見当たらないと。まあ、国立国会図書館には所蔵されているわけだから、本当に読みたいのなら遠隔複写を請求するという手はあるわけだけれど。でも、途中で中断になったとはいえ、連載期間は丸2年に及んでおり、回数にして102回(これは国立国会図書館のデータを元に導き出した。一応、当時のワタシの本気度をご理解いただくという意味でも、これは書いておいた方がいいでしょう)。そのすべてを遠隔複写というのもなあ……。

 と、そんな感じだったわけだけれど、そんな曰く付きの小説が、なんとなんと、去年の11月に書籍化されていた! という話から。書籍化したのは、幻戯書房。角川源義を父に、角川春樹を弟に持つ辺見じゅんが2002年に立ち上げた出版社で、「幻戯」は「げんき」と読むそうですが、一方で父の名前である「源義」に因むともされていて、それでなんで「げんぎ」じゃないの……? でね、まずは幻戯書房に対して最大級の敬意を表すべきだよね。こんな誰も手を出さないのも無理からぬと思わせる文学的「ホットポテト」に敢然と手をつけたわけだから。この「忖度」したもん勝ちみたいな国でよくぞそんな謀叛気を起こしたものだと(ちなみに、本の帯にはこうある――「司馬遼太郎『燃えよ剣』刊行の十年後、同じ「週刊文春」で連載を始め、編集部の忖度で中断した幻の作品、ついに書籍化」。だから、確信犯なんですよ。もちろん、これは非難する意味で言っているのでない。どっちかというと褒め言葉のつもりなので誤解なきように……)。つーかさ、ここに1つ興味深い事実があって。これは辺見じゅんではなく角川春樹が語っていることではあるんだけれど、彼らからすれば祖父、源義からすれば父となる角川源三郎は富山県中新川郡東水橋町(現・富山市水橋)で米穀商「角川商店」を営んでいた。で、その水橋というのは大正7年に日本各地で燃え盛った米騒動の発祥の地であるわけだけれど(ただし、一般的にはそうは言われていない。一般的には米騒動発祥の地は魚津ということになっていて、これは当時の地元紙の報道による。当時の地元紙が騒動の第一報で報じたのが魚津での出来事なのだ。それは「生活難襲ふ 獵師町 役場へ嘆願」と見出しを打たれた大正7年7月24日付け『北陸タイムス』であり、「窮乏せる漁民 大擧役場に迫らんとす」と見出しを打たれた同日付け『富山日報』の記事ということになる。しかし、それ以前(実際に米騒動に参加した女仲仕らの証言を元に編まれた『水橋町(富山県)の米騒動』によれば、その時期は7月初めということになる)に既に水橋町では女仲仕たちによる米問屋への抗議行動が始まっており、魚津の出来事はこの水橋町の出来事が飛び火したものと見るのが正解。だから、大正7年に日本各地で燃え盛った米騒動なるものを「燎原の火」に準えるなら、その最初の火が点されたのは水橋ということになる)、2021年に刊行された『最後の角川春樹』(毎日新聞出版)ではインタビュアー(伊藤彰彦)に被害の有無を尋ねられてこう答えている――「それがまったくなかった。祖父は自分だけ豊かになるのではなくて、利益を地元に還元していたからです。たとえば、被差別部落の人たちにも分け隔てなく仕事をあたえた。角川商店の四人に一人は被差別部落の人だったんです。そんな祖父は地元では「生き仏」「生き神様」と呼ばれていて、「富山の米一揆」で女性たちが立ち上がり、米穀商を次々と襲っていったとき、彼女らは角川商店だけは素通りしたんですよ」。そんな〝物語〟を弟とともに共有していたであろう辺見じゅんが立ち上げた幻戯書房だからこそのこの出版だったのか――と、まずはこんなことも書いた上で――

 さて、その『熱風至る』なんだけどね。これがねえ……全然ダメ。もうがっかりもいいところですよ。テンポも悪いし(上下2巻、ページ数にして1,000ページを超えるという長尺で、それでどこまで話が進むかというと、池田屋事件の直前まで。本当にもう直前までで、この中途半端な終り方もそうだけれど、1,000ページ超を費やしてようやく池田屋事件の直前というのはなあ。一体、井上ひさしはどれくらいの尺を予定していたんだ? この小説、近藤勇と江戸の穢多頭・弾左衛門の〝関係〟を最大の読みどころとするかたちで紡がれていると言っていいと思うのだけれど、そうであるならば、当然、甲州勝沼の戦いがハイライトになるはず。しかし、そこまで行くにはあと1,000ページくらいは必要になりそうな……?)、歴史小説として見た場合の人物配置も杜撰だし(物語序盤で永倉新八が酔った勢いで試衛館の面々といざこざを起こす斎藤弥九郎一門の一員として登場する。まあ、対立関係にあった人物が盟友関係に転じるというのはよくあるパターンではありますが、しかし永倉新八はこれ以後、全然出てこないんですよ。で、出てこないまま物語は京に舞台を移し、芹沢一派追い落としの手始めとして新見錦に詰め腹を切らせるという段になったところで突如として――「新見錦のまわりを、近藤勇、土方歳三、山南敬助、沖田惣次郎、永倉新八などが取り巻き、一刻半もねちねちと吊るし上げたのだよ。とうとう新見錦は詰め腹を切らされた」。この間の経緯は一切、描かれておらず、本当にもう、こんなの、あり?)。もしかしたらこの小説が連載の途中で打ち切り(つーか、厳密に言えば中断なんだけどね。連載の最終回では「第二部は構想を新たに、昭和五十二年より登場の予定」と告知されていた。しかし、その第二部は書かれることはなかった)となったのは部落問題というタブーに触れたからではなく、単純に小説としての出来が悪いからでは? と、そんなことも言いたくなる。あとね、これはそもそもの構成に関わることではあるんだけれど、実は本作の主人公は近藤勇ではないんだよね。近藤勇と同じ多摩郡上石原村生まれの久太郎という人物で、この久太郎が弾左衛門の支配下にある秘密組織「鏡党」にスカウトされてさまざまな術を身につけた工作員となり陰に陽に近藤らの動きをサポートする――というか、ぶっちゃけ、すべての〝絵〟は「鏡党」が描いており、近藤らは「鏡党」が描いた筋書きに沿って躍らされている――というのかな、まあ、ある種の木偶人形ですよ。そういうものとして描かれている。で、これはどうだろう? と。いや、そんなふうな言い方でごまかすんではなく、ここはハッキリと書こう、歴史上の人物を何ものかの操り人形だったすることは歴史なり人間なりに対する冒涜ではないだろうか? どんな時代のどんな人物であれ、悩みながら、迷いながら、必死になって生きたことだけは間違いないはず。近藤勇だってその例外ではないわけで、浪士組に参加して上洛し、その浪士組から離脱して京に残留し、ともに残留した芹沢一派を粛正して壬生浪士組の主導権を握り、という新選組結成に至る一連の流れはどれ1つとして容易ではない決断の連続であったろうことは間違いないわけだから。しかし、そのすべてをお膳立てをしたものがいて、近藤はただ設えられた舞台で歌舞伎俳優を演じていただけ――というのでは、黄泉の国で近藤が暴れるんじゃないだろうか? そもそもタイトルにも反するでしょ。この設定でどこに「熱風」なんて感じられるだろう? 本作では近藤・土方は被差別階級の出身ということになっているわけだけれど(近藤だけではなく、土方歳三もそういう扱いになっている。これ、ちょっとざわつく向きもあるのでは……?)、そんな出自を持った人間たちが自らの力で身分制の鎖を断ち切り、時代のフロントに躍り出てこその「熱風」なんじゃないのかなあ……?

 ただ、実はね、そんなことよりも何よりも、この小説にはもっと大きな問題があるんですよ。それは近藤・土方が被差別階級の出身だったという設定の裏付けとなる事実が何ら示されていないことですよ。だって、相当の衝撃ですよ、近藤・土方が被差別階級の出身だったなんて。書き手には、当然、説明する責任があるはず。しかし、一切ない。あるいは、そうしたことを記すことも編集部側が難色を示したということだろうか? 冒頭でも紹介したように、井上ひさしは1982年に行われたインタビューで「書き進むにつれて、編集長あたりから、自己検閲がはじまった」と述べているわけだけれど、それを裏づけるように本作での近藤・土方の出自に関わる記載は相当にぼかしたものとなっている。たとえば、上巻の最後の方で久太郎と久太郎を「鏡党」にスカウトしようとする鏡仁太夫なる人物の会話として――

「それにしても鏡党なんて聞いたこともありませんが」
「それはわたしたちが影に徹しているからで」
 久太郎の手の中の椀が空になったのを見て仁太夫が、おかわりをどうぞ、というように手をさし出した。久太郎は素直に仁太夫の手に椀をのせた。
「そ、それでなぜわたしがその鏡党に入らなくてはいけないのです?」
「上から指令が出たのですよ」
 仁太夫は飯を盛った椀を久太郎に戻してよこした。
「試衛館の近藤勇や土方歳三たちをこれから長いあいだにわたってひそかに後押しせよという指令が出たのです」
 こんなところで近藤勇や土方歳三の名前が出るとは意外だった。久太郎は椀を持ったまま仁太夫を見つめていた。
「ご存知かどうか、近藤勇はかなり大がかりに事前の運動をしたのですが、講武所の教授方には採用されませんでした。その理由は……」
「百姓の出だったからでしょう?」
「表向きはそうです。が、真実はちがう」
「というと?」
「彼はその百姓ですらなかった。彼の先祖の出はもっと低い。それが原因です。土方歳三もじつはそれと同じでしてね。わたしたちの上の者はこれを聞いて腹を立てた。近藤勇は講武所教授方から旗本になり、旗本からさらに上に栄進するのが望みだったらしいが、それを自分たちの力で成就させてやろう、とわたしたちの上の者は考えたのです」

 その「わたしたちの上の者」こそは弾左衛門ということになるわけだけれど――こうした近藤・土方と弾左衛門との〝関係〟については随所で語られる。たとえば「それは勝太さんも土方さんも、それぞれのご先祖が弾家と或る関わりがあったからです」(上巻136p)とか「たぶん上の方というのは弾左衛門のことだろうと思う。そして近藤勇や土方歳三は同じ階級の出身なんだ。だから上の方はそのために二人に肩入れしているんじゃないか……」(下巻183p)とか。しかし、ハッキリと2人が弾左衛門支配下の被差別階級出身であると語られることは最後までない。冒頭で紹介したように1982年に行われたインタビューではインタビュアーが「あの中で、近藤勇が被差別部落出身だということをハッキリお書きになってましたね」と水を向けているのだけれど、実はそんなふうなハッキリとした描写にはなってないんですよ。そこは、微妙に、ぼかされている。で、これこそは井上ひさしが言うところの「自己検閲」の結果であろうと思うんだけれど、であるならばその裏付けとなる事実を縷々書き連ねる、なんてこともできなかったのかもしれない。ただ、相当にぼかした表現ではあるけれど、被差別階級の出身であったと理解できる記載になっているのもまた事実で。なにしろ、近藤・土方は弾左衛門と「同じ階級の出身」だと書かれているわけだから。にもかかわらずその根拠が一切、記されていない、ということになる。それは大問題でしょう。読者としては、たまったもんじゃないですよ、こんな重大な事実(?)を突きつけられながら、その信憑性を吟味する材料を一切与えられていないわけだから。その責めを負うべきは井上ひさしか? それとも、当時の『週刊文春』編集部か? あるいは、その両方か……?

 ――と、連載中断から数えるなら48年、ワタシがこの小説に興味を持った『同時代批評』のインタビューから数えるなら41年、著者の死(に伴ってその真意を問い質すことができなくなって)から数えるなら13年という今頃になってこんな小説を読まされることになった一読者としては独自にその信憑性を吟味するしかないわけだけれど、実は『熱風至る』にはそのヒントが与えられている。それが下巻に収録されている「参考文献一覧(抄)――井上ひさし旧蔵書より」。1987年、井上ひさしが自身の蔵書を寄贈して出身地の山形県東置賜郡川西町に開設された「遅筆堂文庫」の蔵書を同館研究員の井上恒(読みは「いのうえ・ひさし」。ただし、漢字では「井上廈」と書く「いのうえ・ひさし」とは赤の他人だそうです。全くの偶然の「いのうえ・ひさし」被り。で、地元では「井上恒が井上ひさしを語る⁉」なんてイベントも開かれているとか。これなんて実に井上ひさし的だよなあ……)が調査し、本作執筆の参考文献としたであろうものを洗い出して一覧にしたもので、もとより当人が制作したものではないので完璧とは言いがたいわけだけれど、手がかりにはなる。しかも、列挙された文献の中でこれはというものには井上恒氏によるコメントが付されていて、ズバリ、こんなふうに記されているものもあるんだ――「近藤勇の基本設定はこの本に拠る。特に弾左衛門との関係等に傍線」。この本、何かというと――八切止夫著『新選組意外史』(番町書房)。この事実を知った瞬間のワタシのリアクションを言葉で言い表すことはなかなか難しい。そうだなあ、ここはレイモンド・チャンドラーの「山には犯罪なし」からこんな一節を拝借して――「私の頭がもげて湖のなかほどまで飛んでいき、ブーメランのようにもどってきて、気分のわるくなるような衝撃をともなって、背骨のてっぺんにがちんとはまった」(稲葉明雄訳)。まあ、それほどの一撃。正直、これは予想だにしていなかったことで、よもや井上ひさしほどの作家が八切止夫ごときをネタ本にしていようとは……。

 ここで『新選組意外史』の内容を少しばかり紹介しましょう。『新選組意外史』という本そのものは一種の小説集なんだけれど、冒頭の「近藤勇」だけはノンフィクションで「近藤勇の基本設定はこの本に拠る。特に弾左衛門との関係等に傍線」と井上恒氏が注記しておられるのもおそらくはこのチャプターに集中しているはず。それほど衝撃的な主張のてんこ盛りで、開巻早々、まだ場の空気も暖まらない内に(?)もうこんなことを言い始める――

 なにしろ御一新までは、居住地選択の自由はなく、先祖代々決まった土地に住まっていた。
 だからして、その出身地で天孫民族の末裔か、はたまた原住系かすぐ判ったものだが、
「勝太」の名で近藤勇が生れたのは、今では東京都調布市になっている上石原である。この辺りは『武蔵風土記稿』によると、
「浅川にそって流れる大栗川の百草、関戸、日野、府中、上石原は除地なり」
 とでている。この名称は、寺の人別帖に生れた時から名をかきこまれ、年貢米の供出や助郷とよばれる労役の割当てをされるような土地ではなかった事になる。
 それでは何処の所管かというと、だんな寺に関係なく代官や名主の支配下でもなく、彼らは江戸浅草新町弾左衛門家の取締下で、
「婚姻、貸借、就業、訴訟」一切の支配を弾家にゆだね、人頭税にも似た頭銭をそちらへ納入していた。そこで年貢や伝馬役を課す側からは「除地」という扱いになっていたのである。(略)

 井上恒氏による「特に弾左衛門との関係等に傍線」という注記を踏まえるなら、この下りなんてみっちり傍線が引かれているに違いない。実際、ここに書かれていることが事実だとするなら、小説家たるもの、それを無視することはできないだろう。ところが、驚くなかれ、これ、全くのインチキなんですよ。まずね、八切止夫は近藤勇(宮川勝太)の生地である上石原を「除地」だったとして「寺の人別帖に生れた時から名をかきこまれ、年貢米の供出や助郷とよばれる労役の割当てをされるような土地ではなかった事になる」としているんだけれど、上石原村の住民情報を記した人別帖は現存する。当然のことながら、宮川家も記されている。大石学著『新選組:「最後の武士」の実像』(中公新書)によれば「天保九年の上石原村の宗門人別帳によれば、宮川家は高七石一升二合、六人家族であり、多摩郡大沢村(三鷹市)の禅宗龍源寺の檀那であった。弘化四年(一八四七)上石原村「宗門人別書上帳」によると、この時期七、八石は全八十六軒のうち十一〜十四位に位置し(最も多いのは五斗から一石層の二十九家)、中流のなかの上層クラスの家であった」。また、八切止夫は上石原が「除地」だったとした上で「江戸浅草新町弾左衛門家の取締下で、「婚姻、貸借、就業、訴訟」一切の支配を弾家にゆだね、人頭税にも似た頭銭をそちらへ納入していた」としているわけだけれど、「除地」とは吉川弘文館版『國史大辞典』によれば――「江戸時代、幕府・藩などの領主から年貢諸役を免除された土地。その起源は中世寺社境内の免租地を除田と称したのに始まる。朱印地につぐもので、寺社境内ならびに免田畑・居屋敷などで無年貢の証文があるか、または検地帳外書に除地と記してある分は高の有無にかかわらず除地という」。だから、確かに「除地」においては「年貢米の供出や助郷とよばれる労役の割当て」は免除されていた。しかし、だからといってその地が「江戸浅草新町弾左衛門家の取締下」にあったとは何を根拠にして言えるのか? 実は『國史大辞典』では参考文献として大石久敬著『地方凡例録』を挙げているのだけれど、その『地方凡例録』では「除地高之事」としてこんなことを記している――「村内の墓所・屠馬捨場を除地と心得るもの多し、是ハ除地というものにてハなく、検地の節縄外の見捨地なり」。要するに、墓所・屠馬捨場を除地と見なすのは間違いで、見捨地と言うのが正しいと。実は「除地」というのはなかなかに格式の高い土地のようで、『ブリタニカ国際大百科事典』では「寺社の境内や特別な由緒のある土地」としている。こうなると、八切止夫の認識は根本的に間違っていると言わざるをえない。その上で、上石原が「除地」だったというこのそもそもの点についてなんだけれど……実は『新編武蔵風土記稿』(八切止夫は『武蔵風土記稿』と書いていますが、『新編武蔵風土記稿』以外には『武蔵風土記稿』なる書は存在しないのでこれは『新編武蔵風土記稿』と考えるのが妥当。ちなみにウィキペディアによれば「新編とは、古風土記に対して新しいという意味で付けられている」そうです)には引用されているような一節は存在しないのだ。『新編武蔵風土記稿』は全巻、国立国会図書館のデジタルコレクションで公開されており、全文検索が可能となっている。その検索結果なので、間違いない。ありもしない一節を引用した上で、ありもしない解釈を繰り出し、上石原村が弾左衛門の支配地だったと……。

 では、実際の上石原はどうだったのか? これは『新編武蔵風土記稿』に詳しく記されている。いささか詳しすぎるので、ここはあくまでも土地の帰属に関わる下りに限ってということで紹介するならば――「御打入の後正保の比は御代官野村彥太夫爲重支配せし御料所の外、久保田五郞右衞門・石坂勘兵衞采地入會にてありしに、石坂勘兵衞が子孫彥三郞故ありて、享保廿年采地收公せられ、今は御料所の外に久保田五郞右衞門が子孫窪田與左衞門采地、及び村內西光寺領入會なり」云々。要するに上石原村は幕府の直轄領である「御料所」と旗本の所領である「采地」、そして村内にある西光寺領の入会地であるとしているのだ。当然のことながら代官もいて、これについては今も昔も変らぬ官僚的馬鹿丁寧さとでもいうのか――「御代官の遷替、御入國砌のこと詳ならず、寬永年間守屋左太夫、元治正保明曆の比野村彥太夫爲重・同彥太夫映朝、萬治寬文の間野村彥太夫爲利、延寶天和年間同彥太夫爲政、元祿寬永年間西山六郞兵衞生□・細井九左衞門政次・今井九右衞門兼富、寬永より正德享保十九年まで岩手藤左衞門某、同廿年より元文年間上坂安左衞門政形支配せり。その後遷替しばしばあつて、今は小野田三郞右衞門信利支配する所なり」。これを読めば、八切止夫が『新選組意外史』で書いていることなんて全くのインチキだというのは明らかでしょう。八切止夫は上石原村について「それでは何処の所管かというと、だんな寺に関係なく代官や名主の支配下でもなく、彼らは江戸浅草新町弾左衛門家の取締下で」と書いているわけだけれど、いやいや、上石原村には代官だってちゃんといたわけで、『新編武蔵風土記稿』が編まれた文化・文政期について言えば「小野田三郞右衞門信利支配する所なり」……。これね、どちらの記載を信じる、というようなレベルの話ではないですよ。単純に、八切止夫が『新選組意外史』で書いていることがインチキ――、そう確信を持って断言すべき。ここは言葉を濁しちゃいけない、これはインチキなんだ。で、問題はだ、井上ひさしはこんなインチキを真に受けたのだろうか? こんなインチキ、『新編武蔵風土記稿』を読めば手もなく見破れるはずなんだけど……。ところが、どうも井上ひさしは『新編武蔵風土記稿』を読んでいないようなんだ。というのも、「参考文献一覧(抄)」には『新編武蔵風土記稿』が含まれていないんだ。また井上ひさしの旧蔵書を管理する「遅筆堂文庫」は一般の図書館のようにオンラインでの検索が可能となっているのだけれど、こちらでも『新編武蔵風土記稿』の所蔵は確認できない。……となると、井上ひさしは八切止夫が典拠文献として挙げた『新編武蔵風土記稿』を自らの目で確認することもないままその主張に全面的に従ったということになるわけだけれど……ハッキリ言って、これ、井上ひさしという作家の評価にも関わる重大な問題ですよ。井上ひさしといえば「膨大な資料を収集して作品を描くことでも著名」(ウィキペディア)で、実際、「参考文献一覧(抄)」にも48冊の文献が列挙されている。しかし、その読み込みがかくも浅いとなると評価も変わってくると言わざるをえない。実は井上ひさしは1982年に行われたインタビューではこんなことも語っているのだけれど――「わからずにやるのは、罪悪です。ちょっと勉強しないとやれないと思いまして。しかし、編集部の厄介物になってきたので、それで止めたのです」。しかし、そこまで言うんなら『新編武蔵風土記稿』くらい読めよなあ……と、これは丸々40年の永きに渡って読みたいと思っていた小説が思いのほかの凡作だったことに対する腹立ちも込めつつ……。