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映画でココロの空洞を埋める実験③
〜内藤誠監督『ネオンくらげ』〜

 うっすらとした記憶を頼りに探したところ……見つかりましたですよ。『平凡パンチ』1973年7月30日号。グラビアに冠されたタイトルは「悩殺仕掛人デス…山内えみ子」。コレコレコレ! 間違いなくコレですよ、ワタシと山内えみことの最初のエンカウンター。その時の状況も大方、記憶に残っていて、場所は長野県の野尻湖近くのキャンプ場。Dくん、Hくん、Kくん、Nくんとワタシの5人でバンガローを借りて、あの時は何泊くらいしたんだったかなあ……。で、さすがにここは記憶もアイマイになってはいるところではあるんだけど、バンガローに先客が残して行ったと思しきブツがあって、その中に『平凡パンチ』もあったんじゃなかったかなあ。で、それをパラパラやっていたら、この悩殺ヌードがね。当時、ワタシは中学3年生。もうイチコロですよ。東京12チャンネル制作の『高校教師』の放送が始まったのはこの翌年。山内えみこは坂本紀子役でレギュラー出演しており、このドラマでワタシは本格的に山内えみこのトリコとなった。しかし、山内えみことの最初のエンカウンターは『平凡パンチ』のグラビア。しかも、バンガローに残されていた、言うならばゴミの中から見つけ出した、ワタシの青の時代の女神……。

ネオンくらげ

 ということで、そんな山内えみこの映画デビュー作といえば内藤誠監督の『ネオンくらげ』ですが……なんとなんと、このR-18指定のB級映画がDVDになっているというね。しかもリリースされたのは2024年4月10日ですから、ホントにもうつい最近ですよ。知った時には、驚いたなあ。『ネオンくらげ』がDVD化されている、ということにも驚いたけれど、その値段にもね。パッケージの裏面に記されたメーカー指定価格は¥6,800(税込¥7,480)。パッケージの裏面に記されたメーカー指定価格は¥6,800(税込¥7,480)(大事なことは2回書く。これ、基本)。『ネオンくらげ』と続編の『ネオンくらげ 新宿花電車』の2作が収録されているとはいえ、2枚組というわけではなく、DVD1枚の値段がこれですから。とても適正価格とは言えません(ムカシ、どっかの場末の映画館で見た時には、入場料はウン百円だったはず)。でも、いずれ廃盤になったらもっとエゲツナイ値段で取り引きされることになるのは必定で……だったら、今、買っておくのが得策かなあ……ということで、買ってしまいました。「無用の人」としては、分不相応と言ってもいいようなゼイタクですが……欲というのは抑えられないものです、最近、辞職した某代議士センセイも言っていたようにね(苦笑)。さて、その『ネオンくらげ』なんだけどね、ムカシで言えば蠍座みないなものなのかな? 1998年開館だからワタシが現役の〝映画青年〟だった頃は影も形もなかったわけだけれど、ラピュタ阿佐ヶ谷が特集上映を組んだりと、今では堂々のカルトムービーの地位を獲得している(らしい)。だからこうしてDVDにもなるわけですが、でも「あどけない表情×グラマラスなボディのアンバランスさが魅力的な女優・山内えみこ」? ワタシは違うと思うけどなあ。山内えみこといえば、なんたってあの目力ですよ。あの目力があったればこそ『番格ロック』は「女性ハードボイルド映画の傑作」(中野貴雄)となりえたわけだし、山内えみこには「東映第三のスケバンスター」としての期待もかけられることになったわけですよ。それを「あどけない表情×グラマラスなボディのアンバランスさが魅力的な女優」って……。でね、どうも世の文化人は山内えみこを故意に〝誤読〟しようとしているようなところがあって、川本三郎などは「田舎から都会へ出てきた女の子の話というと日陰者的な陰湿なものが多いのだが、デブの山内えみこのカラッとしたキャラクターで救われる」(キネマ旬報増刊『世界映画作品・記録全集1975版』より。ただし、同書からの直引きではなく、映画秘宝編集部編『セクシー・ダイナマイト猛爆撃』からの孫引きです)。また本作の続編である『ネオンくらげ 新宿花電車』の山内えみこをめぐっても「田舎でコメをたべて育ったという感じの太めのグラマー山内えみこが可愛いのだ」(同)。そういえば山口百恵もデビュー当時はその体形をめぐっていろいろ言われたものだ。あの平岡正明でさえもが「デビュー当時、足が太く、沈む眼をした、歌もかくべつうまくなかった少女歌手が」云々(引用は今や歴史的名著と言ってもいい『山口百恵は菩薩である』より)。どうも都会の文化人には地方出身者を「山出しの田舎者」として描きたがるヘキがあるようだ。それは、彼らの中に地方出身者には「純朴」であって欲しいという願望があるからに他ならないと思うのだけれど……山内えみこは田舎は田舎だけれど函館の生まれですよ。函館といえばあの「安政五カ国条約」で開港場とされた5港の1つで、早くから外国商館が建ち並ぶなど、開港場ならではの異国情緒を育んできた、そういう街。早い話が、横浜や神戸と並ぶハイカラな街ですよ。そんな函館出身者(函館っ子)を掴まえて「田舎でコメをたべて育ったという感じの太めのグラマー山内えみこ」? それが一種の「パストラル」(田園生活や牧歌的な雰囲気を有り難がる心理)のなせる業だとしても、実態とかけ離れた世界認識であることは指摘しておかなければならない。山内えみこは「あどけない表情」もしていなければ「田舎でコメをたべて育ったという感じの太めのグラマー」でもない。その目力が最大の特徴のいかにも1970年代の女優さんらしい女優さんですよ。で、実は『ネオンくらげ』という映画の最大のイシューがこの山内えみこの目力にあって……ざっくばらんに言うならば『ネオンくらげ』という映画に山内えみこの目力は必要なのか?

 この件について考えるためには、まずは『ネオンくらげ』がどのような映画であるかを明らかにする必要があるわけだけれど、DVDに添付されたリーフレット(ちなみに、レコードとかCDに添付されたブックレットとかリーフレットに記された解説文のことをライナーノーツと言うわけだけれど、DVDの場合でも言うのかな? なんとなくイメージとしては音楽限定という感じがあって。「ライナーノーツ」を引用しつつ映画について論じている文章なんてものもあまりないような気がするし。ちょっと気になるなあ……)には次のように記されている――

 純な心と男心をかきたてる肉体を持った地方出身の娘・ゆき(山内えみ子〔ママ〕)。色と欲とが交錯する夜の新宿で、ひょんなことからキャッチガールとなったゆきが、同郷の男友達でバーテンの研次(添田聰司)、カメラマン志望の青年・浩一(荒木一郎)、彼の恋人でキャッチバー「レインボー」のママ・里枝(川村真樹)との四画関係に陥る中で逞しく生きる姿を描く。

 へえ、荒木一郎が演じている浩一って「カメラマン志望の青年」だったのか。てっきりプロのカメラマンだと思っていた。うっかりしていたなあ……。ともあれ、『ネオンくらげ』というのは粗々こういう映画ではあるんだけれど、ただ↑の梗概だといささかストーリーが簡略化されすぎていて。実は「ひょんなことからキャッチガールとなったゆきが」というその「ひょんなこと」というのはそんなに些細なことではないんだよね。もう歴とした犯罪なんですよ。というのも、喫茶店で客とトラブルとなり(この時点ではゆきはウェイトレス)逆ギレして店を追ん出たゆきに目をつけた浩一と里枝がキャッチガールに仕立てるためにまずはちんぴら3人を使ってゆきを襲わせる。で、茫然自失のテイで身繕いすることも忘れてただぐったりと横たわっているところを浩一が親切ごかして声をかける。そして、3万円でヌードモデルになると(緊縛写真を含む)、次は新宿ゴールデン街のキャッチバーを紹介されてキャッチガールとして働く羽目に。だからね、ゆきは完全にハメられたんですよ。キャッチバーを営む臈長けたママとそのヒモの自称カメラマンに。「純情な田舎娘」がね。だから、これは、1人の田舎娘の転落の物語、ではあるのだけれど、これがねえ、少しもじめじめしていないんだ。これが『ネオンくらげ』という映画の最大のチャームポイント。で、なんでこんなプロットなのにじめじめしていないのかといえばそれは川本三郎が書くように山内えみこがデブだからではなく(怒)、そういうキャラクターに設定されているから。実はゆきは浩一に声をかけられた際、こう言ってのけるのだ――「今日からあたしネオンの下でくらげみたいにフラフラ生きるんだ」。実に達観しているというか。喫茶店を追ん出た時点でゆきは事実上のフーテン。しかし、そんな境遇を全く嘆いていない。その心底にあるものって、何だろう? と、インテリとしては(一応ね。ただ、最近、ある人に言われまして、「明治法政はインテリ界の中卒」と。ま、別段、異論もないけどね。しかし、MARCHで中卒だと「日東駒専‎」や「大東亜帝国」は一体……?)どうしても考えてしまうところで。で、どうやらそれは「耐え」らしいんだよ。このことは内藤誠の著書『監督ばか』(ちなみに、カバー等にはRéalisateur le Fouという仏題(?)が記されており、あとがきによればこれはジャン=リュック・ゴダール監督の『ピエロ・ル・フー』からの連想だと説明されている。で、『ピエロ・ル・フー』ってなんのことかと思ったら『気狂いピエロ』のことなんだよね。どうやら最近では『気狂いピエロ』ではなく『ピエロ・ル・フー』と原題をカタカナ表記にするのが一般的なようなんだ。さしずめキング・クリムゾンの21st Century Schizoid Manが「21世紀のスキッツォイド・マン」と表記されているパターンの映画版かな? ただ、Réalisateur le Fouという仏題がかつては『気狂いピエロ』とされた映画の原題であるPierrot le Fouの捩りとするなら、内藤誠は本当は『気狂い監督』というタイトルにしたかったということに……?)を読めばなんとなくわかる仕掛けとなっている。まず、同書の中で内藤誠は本作を制作するに至った経緯を次のように綴っているのだけれど――

 ある日、近くに住んでいた同級生で美術評論家の石崎浩一郎に誘われて、荻窪の画廊へ谷川晃一のミニチュア絵展を見に出かけた。その帰りに、ぶらぶら歩いていると、三上寛にばったり会った。すると三上が『俺は赤塚だ』というテレビ番組に出たので、ぜひ見てくれという。
 かたや、わたしはその前年、赤塚不二夫責任編集の『まんがNo.1』の創刊号で佐々木守と対談していた(注:こちらですね。なんと表紙は横尾忠則ですよ。贅沢だなあ……)。もちろん、赤塚編集長も付き合っていたのだが、おかしかったのは、そのとき田中角栄が総理大臣になったという一報が入り、「同じ新潟県人として挨拶してきます」といって、赤塚不二夫がしばし中座したことだった。
 そんな経緯があったから、わたしは期待して『俺は赤塚だ』を見たのだけれど、三上寛はでたらめなバカ騒ぎをしたあげく、電気バリカンで頭を坊主がりにして、それまでかけていた黒メガネをはずし、「あー、さっぱりした」などというのだった。
 おかしいけれど、相変わらず馬鹿だなあと思っているうちに、三上の『馬鹿ぶし』や『ものな子守歌』などの歌詞を生かしてシナリオを書いてみようと思いついた。三上の唄には物語性があるのだ。プロデューサーも賛成してくれた。タイトルは例によって岡田さん(注:当時の東映の社長、岡田茂のこと)が考えて、『ネオンくらげ』(一九七三年)ということになった。
 三上は『馬鹿ぶし』という数え歌のなかで、「六ツァエー 無理な望みじゃないけれど やりたいことの半分も できれば青春それまでか」と歌っていた。妙に共感できた。

 なんとも飄々としているというか。ただ思い浮かぶままに筆を執った、という感じかな? 話が前後することもざらで、「ここで、順序が少し狂うのだが」「このことに関し、また話はとぶが」「思いだしついでにいうと」「語る順序として話をもとに戻すと」といった接続句が頻出。こうした行きつもどりつする語り口調というのは書き言葉よりも話し言葉に近いものがあり、実際、読んでいても内藤監督の話を聞いているような感覚に囚われる。そういう意味では1人の映画監督が己の映画人生をふり返ったオーラルヒストリーという捉え方も可能かと……。ともあれ、内藤監督は三上寛の「馬鹿ぶし」や「ものな子守歌」などの歌詞を「生かして」シナリオを書いたことを明かしているわけだけれど、ここでその「馬鹿ぶし」の歌詞を紹介しましょう。でね、どうも世間には誤解があるようなんだけれど、ブログ等で歌詞を引用することは、できるんです。このことはJASRACも「著作権法上の要件を満たす場合は、歌詞の一部を引用することができます」と不承不承ながら認めています。その上で、文化庁では歌詞の引用に関して「引用の要件に合致するものであれば、必ずしも一節を超える(場合によっては全部の)引用が許されないものではないと考えられます」との判断を示しています。本サイトではこの文化庁の判断に従い、要件を守った上で全文を引用することとします――

馬鹿ぶし
by 麻生ひろし

一ツァエー
人の生まれは皆同じ
だましだまされ泣いたとて
噓は天下のまわりもの

二ツァエー
二人三人恋したが
風の吹きよですぐ逃げた
口先ばかりの女ども

三ツァエー
見かけばかりで生きる街
故郷を出る時抱いていた
意地さえネオンに散らしたか

四ツァエー
余所見したならきりがない
唇かんでこらえたら
人など殺さずに生きられる

五ツァエー
いらぬお世辞も女には
白と黒との見さかいを
忘れて酔わせる男ども

六ツァエー
無理な望みじゃないけれど
やりたいことの半分も
できれば青春それまでか

 本の章題(「三上寛のレコードを映画化」)に従えば、これが映画『ネオンくらげ』の「原作」ということになる。でね、ちょっとわかりにくいかもしれないけれど、各番冒頭の数詞に助数詞よろしくくっついた「ツァエー」は「耐え」なんだよ。「一(ひと)耐え」「二(ふた)耐え」「三(み)耐え」「四(よ)耐え」「五(いつ)耐え」「六(む)耐え」――、三上寛はそう唄っている。それがなんで「ツァエー」と表記されているのかは、わかりません。あえて意味に迷彩を凝らした――のかも知れない。でも、歌詞の内容からも、これが「耐え」であるのは明らかでしょう。しかし、「余所見したならきりがない 唇かんでこらえたら 人など殺さずに生きられる」か……。で、内藤監督はこの唄を「原作」として『ネオンくらげ』を作ったと言っているわけだから、映画のテーマもまた「耐え」である、ということになる(よね?)。で、そう考えれば、確かにそうなんだよ。映画で山内えみこ演じるゆきは荒木一郎演じるゲス野郎にハメられ、落とされて、キャッチバーのキャッチガールとして働かされることになったにもかかわらず、その境遇に甘んじて、あろうことか「今日からあたしネオンの下でくらげみたいにフラフラ生きるんだ」――と言ってのけるわけだけれど、それは明らかに「耐え」ですよ。彼女の中にはきっと「無理な望みじゃないけれど やりたいことの半分も できれば青春それまでか」という思いがあるんですよ。つーか、そんなふうにでも割り切って生きてゆくしかない、と。それは、明らかに「耐え」ですよね。で、そうしたメッセージを孕んだ映画が当時の挫折感に打ちひしがれた学生たちの心を捕えたわけだけれど――と続けると話がおかしな方向に行ってしまうのでやめて……こうした「戦う」ことよりも「耐える」ことをメッセージとする映画に山内えみこという目力を最大の特徴とする女優さんがキャスティングされているというのは、どーなの? と。山内えみこの目力がこの映画に必要なの? と。山内えみこの代表作といえば、おそらくは『番格ロック』ということになるでしょうが、中野貴雄曰く「「アラブの鷹」が敗北した段階で彼女の青春も終わったはずなのに、まだジタバタするユキがいい。演ずる山内えみこは100分間以上、ずーっとふくれっ面で、でもそれがいい」(『映画秘宝EX 鮮烈!アナーキー日本映画史1959~1979』より)。そんなね、100分間以上、ずーっとメンチを切っているような〝芝居〟が成り立ち得るのもあの目力があったればこそ。そんな山内えみこが「戦う」ことよりも「耐える」ことをメッセージとする映画にキャスティングされているというのは、どーなのよ……と、これぞカルトムービー界にあって永年、回答が求められつづけてきたイシューであります(ウソ。こんなことに拘っているのは、多分、ワタシくらいなもんでしょう)。ところが、山内えみここそは「脚本のイメージにぴったり」だっていうんだよ。これは、当の内藤誠が『監督ばか』でそう書いている。監督が書いているんだから、尊重せざるを得ない。ちなみに、内藤誠によれば、山内えみこは『ネオンくらげ』への出演を相当、渋ったらしい――「だが、母親ひとりに育てられたその女の子は、スチュワーデス志望で函館から上京し、一橋スクール・オブ・ビジネスに通っていて、すでに英検二級。尊敬する俳優は市原悦子と田中邦衛。ポルノ映画で裸になるのは真っ平だという」。さらにはA・J・クローニンの本が好きだとか。そんな〝文学少女〟をプロデューサーと2人がかりで口説き落としたわけだけれど(お前らは浩一と里枝か⁉)、今度は当の山内えみこが語っているところを引くならば――「十五日間くらい『ハダカは絶対イヤ!』なんて駄々をこねたの。でも監督やスタッフから、『この役はお前でなきゃダメなんだ。芝居なんかしなくていい。出るだけで存在感があるんだよ』といわれて、最後は口説き落とされちゃった」(『アサヒ芸能』1978年9月14日号より。ただし、これまた同書からの直引きではなく、『セクシー・ダイナマイト猛爆撃』からの孫引きです)。こうなると、山内えみこって〝リアルゆき〟なんじゃないの? と、そんな気もしてくるんだけれど……ともあれ、こうして内藤監督は「脚本のイメージにぴったり」と言うし、スタッフの誰かは知りませんが「この役はお前でなきゃダメなんだ。芝居なんかしなくていい。出るだけで存在感があるんだよ」と言うし。そうまでして山内えみこに拘る必要があったのか? 繰り返しになりますが、映画で山内えみこが演じることになるゆきは戦わないのだ。戦わずに「耐える」――、そういう処世を選ぶ女の役に山内えみこがぴったり? そこがどーにも腑に落ちないところではあったんだけれど……ハタと気がついた、「耐える」とは「心に刃を忍ばせること」。すなわち「忍耐」。そして、映画『ネオンくらげ』においてその「刃」の役割を果たしたものこそはあの山内えみこの「目力」である、と……。