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映画でココロの空洞を埋める実験⑤
〜黒木和雄監督『泪橋』〜

 参ったな。『十六歳の戦争』はVHSだと7,000円台で手に入れられるんだな。そうと知っていればVHSという選択肢もあったんだよな。久しくわが家はVHSを視聴できない環境にあったのだけれど、この4月にヤフオクでビクターのビデオデッキを買いましてね、VHSが視聴できるようになったのだ。ビデオデッキを買った理由は、昔、録っておいた黒木和雄監督の『とべない沈黙』を見るためで……『とべない沈黙』、DVDだと『十六歳の戦争』と、どっちがどっち、というような取り引き価格で、既に『十六歳の戦争』の購入を決めていたワタシとしては、この上、『とべない沈黙』に万単位のカネを注ぎ込むのはチト苦しい……と思案していたら、あ、だったらアレだ! と。そう、10年前に録ったまま見ることもなく(見よう見ようと思いつつ、ついその「前衛的な作風」とやらに怖れをなして見るのを先延ばししているうちに例の「地デジ」化でデジタルチューナーを搭載したテレビに買い替えたはいいが、それまで使っていたいわゆる「テレビデオ」をうっかり処分してしまって、あ! かくて、それまで撮り貯めた大量の映画やテレビ番組は→)押し入れの奥深く仕舞い込まれていたわけだけれど、そーだ、今こそあの秘蔵の(?)ビデオを呼び覚ます時ではないか⁉ と、そう思い至り、ビクターの「VHS hi-fiビデオデッキ HR-A10K 通電確認済」をゲットしたのが4月3日のこと(ちなみに落札価格は1,100円)。以来、「ココロの空洞を埋める」べく、これらVHSビデオ群も見まくっている状況ではありまして。だから『十六歳の戦争』もVHSだと7,000円台で手に入れられるんなら、そっちにするという選択肢もあったわけだよ。これはちょっとミスったかなあ……。

泪橋

 で、若干、そういう後悔も胸に抱きつつだ、今回はVHSで視聴した映画について。その映画が→。黒木和雄監督の1983年の作品『泪橋』。VHSでの視聴となったのは、↑に記したような、DVDとの価格差を勘案して――ではなくて、そもそもDVDにはなっていないんだよね。また、配信もされていない。黒木和雄の監督作品だと他にも『夕暮まで』がそういう状況にあるのだけれど、こちらは、ワタシ、見たことがあるので。見たことがない上にDVDにもなっていなければ配信もされていないのは『泪橋』だけ。さあ、どうしたものか……と思案していたら、DVDにはなっていないものの、VHSにはなっていることがわかった(ちなみに『夕暮まで』はVHSにもなっていない。なんと……)。しかも、探したところ、1点だけだけれどメルカリに出品されていて、しかも値段もリーズナブル(AucFreeで確認できる最近のヤフオクでの落札価格と比較しても格段にリーズナブル)。ということで、即断即決での購入となりました。こういうとき、オレって意外と決断が速いんだよなあ……。ともあれ、そういう感じで『泪橋』を視聴したわけだけれど、これね、なかなかの映画ですよ。なかなか見るものの思考力を休ませてくれないというか……。この映画については、失敗作との評価があることは、かねてよりワタシも承知していた。たとえば佐藤忠男は「この映画化では黒木和雄は村松友視的なるものと唐十郎的なるものとの間に引き裂かれて、その中に自分独自のものをどう設定すべきか、困ってしまっているように思える。つまりは失敗作と言ってしまっていいと思うのだが(……)」(『黒木和雄とその時代』より)。ただ、ワタシは他人の評価はアテにしないタチなので。あくまでも自分が見てどう評価するか。実際、佐藤忠男は黒木和雄の1978年の作品『原子力戦争』について「社会派的な問題提起、問題追及としても、またミステリーとしてのエンタテインメント性でも中途半端な出来だった」(同)。しかし、ワタシの評価は全く違う。『原子力戦争』についてのワタシの評価は「第一級のスリラー」。そのココロは……まあ、これについては某密林のカスタマーレビューを読んでいただくこととして。ともあれ、ワタシにはワタシのモノサシがある。そのモノサシに照らしてどうか? という以外にはないわけですよ、作品の評価というのは。で、その姿勢でこの映画とも相対したわけだけれど……1度目を見終わった時点では、ワタシもこの作品は失敗作だなと。ワタシはこの映画の原作も読んでいたのですが(原作のある映画の場合、大体、映画を見る前に原作は読んでおく。監督なり脚本家なりが原作をどう解釈したのか? ということがいちばん興味を惹かれるポイントなので)、原作にはない映画のオリジナル部分が「木に竹を接ぐ」とでもいうのか。原作の世界観とマッチしていないように思われたのだ。その消息というか、ニュアンスについて説明するためにはまず原作と映画の異同について知っていただく必要があるのだけれど……その手っ取り早い方法としてここはウィキペディアの「泪橋 (小説)」より原作の「あらすじ」をご紹介しよう。なお、あえて書き添えておきますが、この「あらすじ」はワタシが今日書いたものです(従来はスタブという扱いとなっていた。これじゃあ、あんまりだ、ということで、ご苦労にも。もっとも、ここでこうして〝引用〟すれば元は取れる、という計算もした上で、ではあるんですが……)――

舞台は東京都品川区鈴ヶ森界隈。その一角を流れる立会川は、江戸時代、鈴ヶ森刑場に曳かれていく科人が家族や縁者と今生の訣れをする場所にちなんでそう呼ばれていた。そして、その立会川にかかった浜川橋には泪橋という別名があった。

英語の百科事典のセールスをしている工藤健一は、10年前、その泪橋の上で鈴ヶ森の住人である洋服屋の加吉に声をかけられた、「学生さんだろ、追われてるんだろ」。当時、ホストだった健一はヤクザの女に手をつけ、それがバレて必死に逃げ回っているところだった。しかし、その頃は鈴ヶ森からも近い羽田空港周辺は佐藤栄作首相の訪米を阻止しようとする学生たちのデモで騒然としており、加吉は健一を機動隊に追われる過激派学生と勘違いしたのだった。結局、健一は洋服屋の2階で1か月ほどかくまわれることとなった。鈴ヶ森にはお上に追われて獄門首にされる科人たちへの哀れみみたいなものが風となってずっとのこっている――、それが当時をふり返った健一の感想だった。

セールスの途中で鈴ヶ森の近くまで来た健一は、ふとその当時のことを思い出して泪橋を渡るのだった。するとそこには10年前と変わらぬ世界があった。そして、昔、健一がかくまわれていた洋服屋の2階には当時の健一と同じように1人の女がかくまわれていた。女は新興宗教の信者で、家に連れ戻されるのを怖れ大井オートレース場のあたりをうろついているところを加吉に声をかけられたのだ。再び鈴ヶ森を訪れるようになった健一はやがてその女・千鶴と関係を持つことになるのだが……。

 その上で今度は「映画」セクションの「原作との異同」をご紹介することに。言うまでもなくこちらもワタシが今日書いたものです――

プロットは概ね原作を踏襲しているものの、主人公の役名は歌舞伎狂言の「鈴ヶ森」の主人公・白井権八に寄せて白井健一と改められている。また健一と関係を持つ千鶴には白井権八の馴染みの花魁で権八の刑死後、権八の墓前で自害した小紫が重ね合わされている。作中には「抱けない、こんな小紫?」と言って千鶴が健一を誘う場面もある。

また原作では千鶴は横暴な父から逃れるため新興宗教の教主に救いを求めたということになっているが、映画では父が兄に置き換えられている。また原作では千鶴と父の間に何かあったことを示唆するに止めているものの、映画では兄・修造は千鶴にシスターコンプレックスを抱いており、映画の最後では立会川の川べりにある鶏小屋で思いを遂げるという衝撃的なストーリーとなっている。

 でね、主人公の役名を歌舞伎狂言の「鈴ヶ森」の主人公・白井権八に寄せて白井健一と改めたとか、健一と関係を持つ千鶴に小紫を重ね合わせたとかいうのは非常にいいアイデアだと思うんだよ。さすがは唐十郎。もっとも、撮影の大津幸四郎によれば、小紫のアイデアを出したのは美術の木村威夫だという――「小紫という花魁のイメージを言ったのは木村さんじゃないかと思う。それを唐さんがイタダキという感じて、歌舞伎を底本にしてそれをさらにふくらませていく」(大津幸四郎著『撮影術:映画キャメラマン大津幸四郎の全仕事』より)。ちなみに、映画の最初の方で泪橋の上に立った健一がふと見上げた二階屋の縁側には艶やかに着飾った遊女の姿が――。映画の最後に表示されるエンドロールには「小紫のイメージ」として荒木路という名前がクレジットされており、あの遊女が小紫をイメージしたものだったことがわかる。またこの「小紫のイメージ」については本作を「失敗作」と決めつけて憚らない佐藤忠男も――「彼がその家に視線をやったとき、雑然として薄汚い路地裏のその家の二階の雨戸がちょっと開いていて、そこに、およそこの環境には場違いな艶やかに着飾った遊女の姿が見える。これはゾクッとするような一瞬で、黒木和雄のイマジネーションの豊かさに感嘆する」。ま、それもこれも木村威夫のアイデアということで……。ともあれ、主人公の役名を白井健一と改めたとか、健一と関係を持つ千鶴に小紫を重ね合わせたとかいうのは全然いいんだよ。問題はその後。原作の父を兄に置き換えた上で、その兄・修造が千鶴にシスターコンプレックスを抱いており、映画の最後では立会川の川べりにある鶏小屋で思いを遂げるという衝撃的なストーリーとなっている――という部分ね。実はね、ワタシ、これで3回目なんだよ、こうしたシスコン的モチーフに遭遇するのは。こうして「映画でココロの空洞を埋める実験」というタイトルで記事にするのはこの『泪橋』で5本目なんだけれど、見た映画の数はもっと多い。某配信サイトのトライアル期間中で、31日間、無料で見放題なんですよ。だから、もう見まくっている。で、そうして見た映画の中でシスコン的モチーフが採用されているのが2本あって。だから、もういい加減、お腹一杯ですよ。つーか、単にそういうことだけではなくてね、ドラマツルギー的にもこれはなじまないだろう、と。実は修造というのは、どうだろう、雰囲気的には大田区あたりの町工場という感じなんだけれど、ちっぽけなメッキ工場をやっていて、宮下順子演じる妻はもう生活に疲れ切っているというか。さらに原田芳雄演じる修造はメッキ工の少年を容赦なく殴りつけるわで、雰囲気は最悪。しかも、その工場兼自宅で修造はコトに及んでしまうわけですよ。でね、こうなると、『泪橋』なんて物語は成り立たなくなるじゃないかと。『泪橋』というのは、一種の幻想譚で、泪橋を挟んだ向こう側とこちら側では世界が違うんですよ。主人公の工藤健一(白井健一)は泪橋のこちら側では百科事典の営業成績をめぐって上からプレッシャーをかけられたり藤真利子演じる妻・秋子からマイホーム(秋子は「スイートホーム」と言っている)購入を前提としたローンの相談を持ちかけられたり――と、きわめて現世的な世界に暮しているのだけれど、泪橋を渡った向う側では彼は「カゲキハ」(小説ではこう表記されている)で瀬川新蔵演じる加吉老人や殿山泰司演じる一兵老人からしたら白井権八のように「お上に追われる科人」ということになる。だから匿うということにもなるわけで、こうした泪橋を挟んだ向こう側とこちら側の世界の断絶こそが『泪橋』という物語の唯一にして最大のテーマ――であるはず。ところが、映画で描かれている千鶴と修造のエピソードというのは泪橋の向う側でもこちら側でも繰り広げられているわけですよ。これじゃあ、なんのための泪橋なんだ――ということになって、正直、1度目を見終わった時点ではアタマを抱えちゃいましたよ。唐十郎ほどの才人がなんでこんなつまんないことをやっちまったのかと(脚本のどの部分を唐十郎が担当したかはわかりませんが、よもやこれほどの〝原作レイプ〟を作家本人がやるはずはないので、当然、この部分は唐十郎の手によるものだろうと想定して)。ただ、こういうとき、ワタシは粘るタチでね。で、いろいろやっていたら、この映画のシナリオが文庫になっているのがわかった。で、どういうわけか(まだ著作権は生きているはずなんだけれど)国立国会図書館のデジタルコレクションで個人向けデジタル化資料送信サービス限定という制限付きながら公開されていることもわかって、読んでみたんだよ。そしたら、ワタシが「コトに及んだ」と解釈した工場兼自宅のシーンはこんなふうに書かれているんだ――

135 メッキ工場・一室(回想)
  シュミーズ姿で寝転がっている千鶴。修造が下を向いて座っている。
  千鶴は、指にはまった指輪の赤い光を見ている。

 え、「修造が下を向いて座っている」? 「コトに及んだ」んじゃないの? そうだったかなあ、と不安になって、もう1回見てみることにした。すると――千鶴が着ているシュミーズは乱れてはいる。また、修造がその胸に頬ずりしているのも確認できる。でも、すぐにやめてしまうんだよ。で、カーテンの向こうに身を隠してしまう……。ということは、あれは、コトに及ぼうとして、そうしきれなかった、という描写なのか! そんな修造は、しかし、最後は遂にコトに及ぶんですよ(あるいは「思いを遂げる」。ウィキペディアで使った表現を当てるなら)、立会川の川べりにある鶏小屋で――。場所が立会川の川べりにある鶏小屋ということは――そう、修造も泪橋を渡ったわけですよ。そして「思いを遂げた」。

 思いを遂げた修造は千鶴を絞め殺し、その死体を家に連れ帰ろうとするのだけれど、シナリオのト書きに従うなら――「怪我している足に何かがぶつかる。/よろける。/体がもつれて転ぶ。/千鶴の体は、土手の傾斜を転がってゆく」。そして、そのまま立会川の中に没してしまうのだ。そこへ駆けつけた健一が立会川に飛び込んで千鶴の死体を救い上げる。そして、泪橋を渡って(ここ重要)、鈴ヶ森刑場趾まで運ぶのだ。そして、題目供養塔の前に座り込む。すると――「肩に頭をもたせかけている千鶴の頬に血の気がさす。/ふうっと息がもれて……!」。なんと、千鶴は蘇生したのだ。そして、永遠に生きていくことになる、泪橋を渡った向う側の世界で――。

 『泪橋』というのは、そういう映画です。いや、そういう映画である、とワタシは見た。それが合っているかどうかは、ワタシの関知するところではない……。