PW_PLUS


キング・クリムゾンを聴きながら②

 えー、タイトルの通りで、キング・クリムゾンを聴きまくってはいるんですが、正直、グレッグ・レイクが脱けた後のキング・クリムゾンにはあまりなじみがないんですよ。実際、聴いてもこなかった。『太陽と戦慄』は、リリース当時、何らかのかたちで聴いたはずだけれど、多分、それっきり。『暗黒の世界』も決してよく聴いたアルバムとは言えない。そんな中、『レッド』だけはよーく聴いてきた。このアルバムにはグレッグ・レイクがいた頃に通ずるものがありますよね。それはいい意味での大衆性と言っていいと思うんだけれど、グレッグ・レイクの影響を排除したかったのか、ロバート・フィリップはわざと大衆性を忌避するかのような方向にグルーブを引っぱって行った。しかし、今、聴くと、悪くはないよなあ。『太陽と戦慄』なんて、恰好のBGMになってくれる。何のBGMかというと……

 さて、高柳重信という俳人をご存知でしょうか。いわゆる「多行形式」を創始した人で、ワタシは学生時代に知って衝撃を受けたものです。いや、最初に知ったのは福島泰樹が『抒情の光芒』で紹介していたこの句だったと思うので、それほどの衝撃ということでもなかったのだけれど――

明日は
胸に咲く
血の華の
よひどれし
蕾かな

 なんというか、詩の一節の抜き書きかな? みたいな。正直、これが俳句だとは思わなかった(思えなかった)。ただ、なんともやさぐれた詩だなあ、と。福島泰樹はこの句が1966年2月、早稲田大学のキャンパス(福島泰樹の第一歌集『バリケード・一九六六年二月』の正にその舞台ですね)において「黒旗のアナーキスト集団によって、彼らのオリジナル、独特の節まわしでうたわれていた」と書いていて、まあ、いかにもそんなふうな詩だなあ、と。ところが、その後、どうやって読んだんだかは思い出せないんだけれど(当時としても高柳重信の句集は大変な稀覯書で、とても学生風情が買えるようなものではなかった。ワタシがちゃんと高柳重信の句を読んだのは朝日文庫から刊行された『現代俳句の世界 14 金子兜太・高柳重信集』によってですよ。それまでは読もうにも読めなかったんだから)、とにかく読んだんだよな、『蕗子』を(あるいは『蕗子』収載の句を)。そしたら、いきなり、こんなのに出会して――

身をそらす虹の
絶巓
    処刑台

 言葉がもたらす意味もさることながら、この視覚性ね。あるいは、音楽性と言ってもいいか。詩で音韻を重視するというのはあるけれど、音程までは……。だから、本当にど肝を抜かれた。これは、ただの言語表現を超えていると。さらには、こんな句も紹介しておきましょうか――

時計をとめろ
この
  あの
    止らぬ
時計の暮色

 もうね、魔術的と言ってもいい。「この」「あの」「止らぬ」と小刻みな場面転換がつづいて、その眩暈感の中に時計(機械)に束縛されることの官能みたいなものが詠いこまれている。いやー、キング・クリムゾン的だわ。で、夢中になっちゃったわけだけれど……ただ、既に書いたように、読めないんだよ、この人の俳句は。当時、結構、古本屋を回ったんだけれど、1972年刊行の母岩社版『高柳重信全句集』でも万単位だから。そんなの、ムリだって、大学生には。そんな中、なんとか『青彌撒』っていうのを手に入れたんだけれど、これは1974年に深夜叢書社から刊行されたもので、高柳重信の句集としては後期のものになる。でも、高柳重信が本当にスゴかったのは前期で、それこそ『伯爵領』とか『罪囚植民地』とか、タイトルからしてインパクトがあるやつがあって、読みたかったのはコイツら。でも、結局、この辺は読めず仕舞い。で、それがようやく読めるようになったのが『現代俳句の世界 14 金子兜太・高柳重信集』だったわけですが……やられました。今度はこれですよ――


の 夜
更け の
  拝
火の 彌撒
  に
身を 焼
く 彩

 言うまでもなく原文は縦書きで、横書きだとどうかなあ、と思ったんだけれど、これでもそこそこ伝わるよね。縦書きだとこれを90度時計回りに回転させたかたちになるわけですが、その場合、奇麗に展翅された標本状態の蛾に見える。しかし、↑だと、正に飛んでいるようにも見える(よね)。だから、案外、この方がいいのかなあ……。ただ、横書きだと明らかに意味をなさないケースもあって、紹介するのはこの句のみとしますが……まあ、これを見れば十分か(笑)。とにかく、高柳重信はスゴかった。もう完全にロックだったと言っていい。しかも、プログレね。バリバリのプログレッシヴ・ロック。そんなものが「俳句」などというおよそ「革新」とは縁遠そうな世界で……。ただ、そんな高柳重信が変るんだよ。全句集を除いたオリジナル句集としては第7句集ということになるようですが、『山海集』というのが1976年に刊行されている。高柳重信は1923年生れだから、この時、53歳。まだそれほどのトシでもないよなあ。でも、それなりに重みのある年齢でもある。そうなると、やっぱりこういうことになるのかねえ……。この『山海集』は「飛騨」「坂東」「葦原ノ中國」「倭國」「日本軍歌集」なるチャプターから成るんだけれど、この章題からして、え? だよね。で、事実、高柳重信はこの第7句集において見事に日本主義者に変貌を遂げているのだ(あるいは、秋山清が萩原恭次郎の「亜細亜に巨人あり」を分析して言った言葉を援用するなら「天皇の存在を仰ぎ認める日本主義に変貌し得た」)。ここは「葦原ノ中國」より最初の5句を紹介するなら――

葦牙に
立つ日入る日や
故レ
葦原ノ中國

箸ながす
川上は在り
徂く
丹塗矢

栲縄を延へ
朝日
直刺す
恐ろし處

天が下に
秋きて
神は
みな徒跣

あはれ夷振り
髯の
八十神
八十梟帥

 ハッキリ言って、意味はほとんどわかりません。ワタシごときの教養ではムリ。しかし、わが日の本の歴史や文化に深く根ざしたものであることはひしひしと感じられる。そういう意味では、キング・クリムゾンなんていうバタ臭い音楽を聴きながら読むべきものではない(はず)。しかし、おかしいよなあ、『青彌撒』の頃まではこんなんじゃなかったんだよ。まだオレでも十分に入れ込める現代俳句で。それが、なんで急にこうなっちゃったかねえ……。実はね、高柳重信はこの後しばらくして『日本海軍』なんて句集も出すんですよ。もう「天皇の存在を仰ぎ認める日本主義に変貌し得た」どころの話じゃない。今回、高柳重信を俎上に挙げることにしたのは、そんな変貌を遂げることになった謎を解明したくて、なんだけれど、なかなかねえ……。ただ、当の高柳重信はそのヒントのようなことを『山海集』のあとがきに書いてくれている(ちなみに、このあとがきは『現代俳句の世界 14 金子兜太・高柳重信集』には収録されていない。現在、国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できる高柳重信の句集だと立風書房版『高柳重信全集 1』に収録されている)。なんでも、この数年間、彼の心を揺さぶっていた「何ものとも知れぬ不思議な呼び声」があったとかで、その不思議な経験を分析するかたちでこう書いているのだ――「それは、はっきりと自覚されぬまま血の流れの中に伝えられて来たような、はるか遠い時代の、さまざまな精神の昂揚についての仄かな記憶の喚起であり、また、長い歳月の曲折を経て来たような昔ながらの地名などに、なぜか明らかな理由もなく、いたく心惹かれてゆく思いでもあった。/これは、あるいは、はるかなる祖霊や地霊の密かな語りかけだったかもしれないが……」。うん、なんとなく、わかる。だから、これを踏まえるかたちで、モノゴトを単純化しちゃえばだ、「日本人のアイデンティティ」が目を覚ました、ということになるんだろうと思うんだけれど……そういうことで片づけたくない、という思いがワタシの中にはあるんですよ。それだと、そこで話が終わっちゃうので。で、いろいろ考えるわけだけれど……結局、これってきわめて日本的な象徴主義の具体化なのかなあ、と。実は処女句集『蕗子』には「月下の宿帳/先客の名はリラダン伯爵」なんていう句も収められていて(また『伯爵領』には「タダ コノマボ ロシノモニフクサン/ヴィリエ・ド・リラダン伯爵」というエピグラフも掲げられている。朝日文庫版だとこのエピグラフは『蕗子』の冒頭に記されていますが、デジタルコレクションで閲覧できる『高柳重信全集 1』で確認すると掲げられているのは『蕗子』ではなく『伯爵領』の冒頭)、このリラダン伯爵とはフランス象徴主義を代表する詩人で作家のオーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダンのこと。どうやら高柳重信は若い頃に相当、リラダンに入れ込んだ時期があったらしい。初期作に認められる幻想性はその影響の証、ということになるようだ。でね、日本人の詩人がフランス象徴派に伍して詩作活動をつづけようと思うなら、それだけでは済まない時期が必ずやって来る。その場合、ワレワレが知らないようで知っている古くから伝わる言葉――神さびた大和言葉に頼るというのは、当然の帰結、なのかも知れない。それはね、ある種のリアリズムというもので、あるものをムリに遠ざける必要もないわけだから。ただ、皮肉っちゃあ皮肉、だよね。若い頃にフランス象徴主義にどっぷりとハマったからこそ年取って日本主義的なものに向うようになる、と考えるならば。ただね、↑の句を読んで世の日本主義者たちはどう感じるんだろう? よきもの、と思うのかな? どうもね、そうは受け止めないんじゃないだろうか。ニンゲンのカンてのは鋭いからさ、これらは根っからの日本主義者の手によるものではない、と気がつくのでは? どこがどうだからそうなる、とはなかなか言えないところがもどかしいんだけれど……実際問題として、キング・クリムゾンの『太陽と戦慄』あたりを聴きながら読んだって、それはそれでイケるんですよ。そういう意味で、ワタシにとっての高柳重信は、『山海集』の時点でも、十分にアヴァンギャルドな現代詩人だったと(『日本海軍』については知らず)……。