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小さい町みつけた①

 この6月に車を手放して以来、すっかり世界が狭くなってしまった。行動範囲が、事実上、徒歩圏内に限定されるわけで……こんなこと、子どものころ以来だよなあ。

 で、そんなことも関係しているのか、このところやらたと自分が子どもだったころのこの界隈のことを考えている。この界隈――とは、あえて術語化するならば「長江・不二越・石金界隈」ということになるかな。言うまでもなく「谷中・根津・千駄木界隈」を模したものですが、「谷根千」みたいにいい感じで略せないのが玉に瑕? しかし、自分では気に入っていて、なんならこの「長江・不二越・石金界隈」をモチーフとする小説を書いてもいいかなと。

 実はね、おれが子どものころの「長江・不二越・石金界隈」は結構なワンダーランドだったんだよ。ここで、地図を見てもらうことにしよう。国立国会図書館のデジコレで見つけたものだけれど、人文社から昭和41年に出版された『日本都市地図要覧 都道府県庁所在都市篇』に収められている「富山市詳図」の一部を切り取ったもの。


富山市詳図

 富山地方鉄道立山線の不二越駅が中心になるようトリミングしましたが、この地図の特徴は市街地と郊外が明確に区別されていることで、市街地はカラー、郊外はセピアで表示されている。で、富山地方鉄道立山線の不二越駅が中心になるようトリミングした場合、線路を境にして西側がカラー(市街地)、東側がセピア(郊外)ときれいに二分される形になる。で、おれの少年時代のワンダーランドにして現在の活動範囲である「長江・不二越・石金界隈」はこのセピア部分に当たる。これね、実によくできているというか。思い出というのは往々にしてセピア色をしているものですが、おれの少年時代のワンダーランドが地図の上でもセピア色で描かれているわけだから。どうしたって、感傷をそそりますよ。しかも、おれの少年時代の思い出の場所がちゃんと記載されているではないか!

 たとえば、地図を四等分した場合(地図は富山地方鉄道立山線で東西に二等分されるわけだけれど、さらに中央を東西に貫く形で通っている主要地方道富山立山線によって南北にも二等分できる。そういう意味でも、このトリミングの仕方は当を得ているかなと)、その右下(南東)部分に「富山少年鑑別所」とあるのがわかりますよね。実は、少年時代、わが家の近くに少年鑑別所があったのだ。これが強烈な印象として残っている。何しろ、少年鑑別所は高い壁で囲まれていた。多分、5メートルくらいはあったはず。そんな高い高いコンクリートの壁の横を通って……銭湯まで通っていた。別にね、他の道を通って行くことだってできたんだよ。でも、なぜかあの壁沿いの細い道を通ることが多かった。わざわざそうしていたわけで……もしかしたら、惹かれていたのかも知れないなあ、「不良少年」というやつに。それが、到底、自分にはなれそうにないものであるとわかった上で。そんな複雑な感情を巧みに言い表した短歌があって――

われよりも熱き血の子は許しがたく少年院を妬みて見をり 春日井建

 まあ、当時のおれのワンダーランドにあったのは少年鑑別所であって少年院ではないんだけれど。でも、同じようなものでしょう。ちなみに、少年院は大山町にあった。その名を富山少年学院と言った。で、その所在地はと言うと……なんと、かつて〝国際道場〟こと立山道場があった場所なんだよ(と言われても何のことやら、という人はぜひとも『有合亭ストーリーズ』をお読み下さい。『有合亭ストーリーズ』の1つのピークをなすのがこの〝国際道場〟にまつわるエピソードです)。しかも、富山少年学院は立山道場の土地と建物を譲り受ける形で昭和23年に設立されたものなのだ(出典は富山少年学院後援会編『十五春秋』)。これには、オドロイタ。おれの少年時代のワンダーランドと『有合亭ストーリーズ』のユニバースがつながったわけだから。

 その富山少年鑑別所の左下に「東部浄水場」というのが見えると思いますが、ここも思い出深い。今、この場所には県営不二越団地が建っていますが、東部浄水場が廃止となり、その跡地に県営不二越団地が建設されるまで数年程度の間があった。その間、その東部浄水場の遺構が悪ガキたちの遊び場になったのだ。浄水場の遺構と言うと思い出されるのは上田慎一郎監督の映画『カメラを止めるな!』ですが、あのロケが行われたのは茨城県水戸市にある芦山浄水場。で、おれの記憶の中の東部浄水場はあれほど大きな施設ではないんだけれど、やっぱり似ている感じはあって、いろんな用途もわからない機械がそのまま残っていた。そう言えば、仲間に妙に世故に長けたやつがいて、施設内に放置されていた部品やら何やらを鉄くず屋に売りに行って、その金でパンを買ってみんなで食ったことがあった。あれは美味かったなあ。ほとんど気分は「独立愚連隊」だよ。そうそう、敷地内にはちょっとトーチカふうの構造物がいくつかあって、それを正にトーチカに見立てて戦争ごっこをやったもんだ。きっとテレビの『遊撃戦』あたりを意識していたんだろうな。岡本喜八監督の『独立愚連隊』から派生したドラマで、『独立愚連隊』と同じく佐藤允が痛快な大陸浪人を演じていた。まあ、そういう意味では、昭和四十年代でさえまだまだ「戦後」だったんだよね、既に「戦後ではない」と言われてはいたけれど。

 それから、この地図でうれしいのは、石金商店街に「東部劇場」の記載があること。実はね、東部劇場については、以前、書きたいと思って調べたことがあるんだが、参照し得る資料がきわめて限られている(『山室郷土史』には写真が掲載されているが、記事には大したことは書かれていない。むしろ、それ以前に石金に存在した不二越会館に記述が割かれている。不二越会館はもともとは不二越の講堂だったそうだが、空襲で市内の映画館が全滅してしまったので不二越会館がその代役を果たしていたそうだ。で、この不二越会館が閉鎖となり、代わって東部劇場が開館したわけだが、不二越会館が東部劇場に移行したわけではないよう。もっとも、このあたりのこともさほど詳しくは書かれていない)。これは紙媒体に限った話ではなく、ウェブでもそう。Xにしろ何にしろ、東部劇場について語っているなんてついぞ見かけたことがない。でも、おれにはいろいろな思い出があってね。おれが東部小学校に通っていたころ、既に東部劇場は成人映画専門の映画館に成り下がっていたのだが(小学校のすぐ近くだっていうのに)、それでも夏休みや冬休みだけは子ども向けの映画をやってくれて、怪獣映画もここで観た。あと怪談。『四谷怪談』とか『番町皿屋敷』とか、その手のヤツ。それを何人かでぎゃーぎゃー言いながら観た記憶がある。観たというか、ぎゃーぎゃー言いながら館内を走り回っていたんだが、そうしても許される程度には館内は子どもたちによる貸し切り状態だったというわけだね。

 それと、もう一つ、この映画館に関しては思い出があって。実は、同級生の中にこの映画館で暮らしている子がいたのだ。山下博子さんと言って、家族と一緒に東部劇場で暮らしているという話だった。どういう事情でそういうことになっていたのは知らないが、確か山下博子さんがモギリをやっていたこともあったような。とすると、家族で住み込みで働いていたということか? でね、ここはどうしたってこんなふうに思考が流れて行くんだけれど……寺山修司は、中学生時代、叔父が経営する「歌舞伎座」という映画館に居候していた。で、昭和43年に上梓した「自叙伝らしくなく」という但し書きを付した自叙伝『誰か故郷を想はざる』で映画館に住み込みで働いていた虫松という映写技師(?)のことを書いているのだが――

 ひとりの中年男――虫松という映写技師がいた。妻に逃げられてから、私たちの映画館に棲みついてしまっていて、当直と掃除とを一手にひきうけている、気の弱い男であった。通信販売で「吃り対人赤面恐怖の治し方」という書物などを取りよせていたから、ほんとうは無口なのではなく「対人赤面恐怖症」だったのかも知れない。
 何しろ、「モシモシ」と言えず「ムシムシ」と発音する典型的な津軽人で、十年も独身で暮していたので、その宿直室へ入ると、酢に浸けた皮のような、すえた男くささが充満していた。
 あるとき、私はその虫松に将棋盤を借りにゆき、その枕許に缶を一つ発見した。それは鮭の缶浸けの缶より少し大きく、ラベルがはがされていたが、手に持つと何だかずっしりと重いのだった。私は、好奇心からその蓋をとってみた。
 すると中には、切り捨てた爪がびっしりと入っていた。
「あの缶に入っている爪は何だ?」
 と、べつの日に私は訊いた。
「おれの爪だ」
 と虫松は答えた。
「何する? あんなもの」
 と、また私は訊いた。虫松は、財布の中のヘソくりを数えられでもしたように、すこし怒りをこめて、
「あれは全部、おれの爪だ」
 と、言った。
「尋常小学校のときからのを、ずっと貯めておいたのだ」
 私は、夜たった一人で裸電球の下で爪を切り、その爪を大切そうに缶にしまいこむ一人の中年男、虫松勇人の孤独を思った。それは蒐集家の爪などではなかった。大戦中、ニューギニアからセレベスへ、御国のために死にに行った一人の男が、戦場において守りつづけた「個人的なるもの」の正体は、こんな無残なものにすぎなかったのだろうか? その夜、私はその缶を借りて帰り、耳もとで何べんも振ってみた。それは土着版のマラカスで、かさかさと切ない音をたてた。だが、この爪のマラカスを鳥らすための楽団はどこにもないだろう。私は、虫松に同情し、そして軽蔑したのであった。

 これを読む限り、虫松が本当に映写技師だったのかどうかは疑わしい。寺山修司は同じ『誰か故郷を想はざる』で「映写技師のなかに、ジムに通っている金田という朝鮮人がいて」とも書いていて、どうも映画館で働いている人はみんな「映写技師」にしてしまっているようなところがある。でも、実際は住み込みで働いている用務員のようなものだったのでは? ただ、いずれにしたってこの時代の映画館には住み込みで働いている人たちがいたということで、家を持たずに住み込みで働いていたということは、ある種のホーボー(渡り労働者)のようなものだったのかも知れない。そして、もしかしたら山下博子さんの一家も?

 しかし、もうそんな人たちはいない。映画館を渡り歩こうにも、その映画館がなくなってしまった。東部劇場が閉館したのは、昭和45年8月。世は大阪万博に沸き返っていた。そんな中、人知れず閉館したのだった、ピーター・ボグダノヴィッチ監督の映画『ラスト・ショー』のようなドラマもなく……。

 さて、最後にもう一つだけ書いておこう。おれの両親が最初に天から授かった子は敏夫と言った。生まれたのは昭和24年1月4日だから、母は満で20歳にもなっていない(母が満20歳の誕生日を迎えるのは敏夫の誕生から2日後の昭和24年1月6日)。そして、敏夫が2歳、母が22歳だった昭和26年9月25日、その幼い命は早々に天に召されてしまう。死因は、交通事故。ここで、この事故を報じた当時の北日本新聞の記事を読んでもらおう――

バス、坊やを轢く

二十五日午前九時ごろ富山市不二越町十二丁目岡村登氏長男敏夫ちゃん(二つ)が不二越アパートの臨設保育所に行くため不二越工業正門前広田用水橋上で道路を横切ろうとしたところ、疾走してきた不二越町発富山駅行地鉄バス=運転手藤原忠雄さん(三〇)婦負郡八尾町=の下敷きとなり後車輪で大タイ部に重傷を負つたのでただちに県立中央病院に収容、手当を加えたが同九時四十分ごろ死亡した。

 記事では事故発生現場を「不二越工業正門前広田用水橋上」としていますが、人文社の地図だと問題の橋と不二越の正門は少し離れている。しかし、『不二越五十年史』に掲載されている「終戦時における本社・富山工場配置図」を見ると、当時、正門は不二越第2アパートの真ん前にあったことがわかる。そして、問題の橋はそのすぐ近くにあった。

 昭和26年9月25日午前9時ころ、不二越第2アパート内の臨設保育所を〝脱走〟した(新聞記事には「臨設保育所に行くため」と書かれているが、実際にはもう一人の子どもと一緒に保育所から逃げ出したらしい。そういうやんちゃな子どもではあったようだ)敏夫は県道双代町流杉線と広田用水(正しくは「広田用水補給水路」。富山市広田地区を流れている広田用水に水を補給するための水路)が交差する橋の上でバスに轢かれた。おれが聞いた話だと、轢かれた後、一度、立ち上がったそうだ。そして、お母さん、と言ったとか。しかし、それきり意識を失った。

 その敏夫を富山県立中央病院まで運んだのは、敏夫を轢いたバスの運転手だったと聞いている。そして、当時、洋裁学校に通っていた母を迎えに来たのもバスの運転手だったと母は言っていた。しかも、敏夫を轢いたそのバスに乗って迎えに来たというのだが……本当かねえ。今とは時代が違うとはいえ、交通事故を引き起こした張本人がそんなに自由自在に動き回れたものだろうか? しかし、母からはそんなふうに聞いていて、迎えに来たバスの形状まで母は語っていた(母は「鼻ぺっしゃんのバス」と言っていた)。なお、この際、バスの運転手は「多分、大丈夫だと思うんですが」と言ったそうだ。事故後、一度、立ち上がったことについては、事故を目撃していた人の証言もある。だから、間違いないだろう。で、運転手もそれを目撃していたとするなら、よもや命に関わることはあるまい――と思ったとしても不思議はない。しかし、敏夫は大腿部に重傷を負っていた。大腿部には総大腿動脈が通っている。この総大腿動脈が傷つき出血すれば、たちどころに全身の細胞への酸素供給が絶たれ、幼い命などひとたまりもない。記事が「ただちに県立中央病院に収容、手当を加えたが同九時四十分ごろ死亡した」と簡潔な文体で記しているのは、おそらくはそういう経緯だろう。

 かくて、敏夫の魂は天に召された。その亡骸を葬ったのは、当時、長江の村にあった火葬場だった。これもおれが母から聞いたことで、藤七(祖父)が敏夫の亡骸を両手で抱いて火葬場まで持って行ったそうだ。また、その火葬場は「東部中学校の近く」にあったとも聞いていて、その場所については「あんまが知っている」とも。「あんまが知っている」とは、自分は知らない、ということでもあるが……もしかしたら、母は行っていないのかも知れない。当時、母は悲嘆のあまり寝込んでいたとも聞いていて、わが子との最後の別れに立ち合える心理状態ではなかったのかも……。

 ともあれ、幼い敏夫の亡骸は、当時、長江の村にあった火葬場で荼毘に付されたのだ。その場所については、母が「知っている」と言っていたあんま(本家の長男)ももういないとあって、その場所を特定することはできないだろうと思っていたのだが……田部重治著『心の行方を追うて』にこんなことが書かれていることがわかった――

 櫻の花が苗代に散りかかる時分から、愈々死期が近づいたと宣告された私に取つて最も愛着深い母の魂は、忘れもせぬ四日の朝に敢えなくあの世へと飛んで仕舞つた。私達はそのなきがらを七八町離れた柳川といふ河の向うの火葬場へ送つた。私達は蓮華草の一面に咲いてゐる田の小径を辿りつつ柳川の水車場を傍にして行つた。そのとき私は四五月になると最も親しみのある、少なくも私の生命の一部を形作つてゐるこの光景が、今日は堪へがたいほど哀れな色彩に浮んでゐるのを感じた。私は帰る途中悲愁に沈みながら、柳川の河床の冷たげな重苦しい石、水車場のむせぶやうな軋る聲、憂ひにぼんやりかすんでゐる野原をあとに家へと歩いた。そしてその時あの田圃の墓場の白いつづじの何とその日は特に印象的に深く閃いたことだらう。

 田部重治は東長江村の大地主だった南日家の三男で、田部家の養子になって田部姓となった。しかし、南日家の当主となる南日恒太郎とは実の兄弟。ウィリアム・ワーズワースの研究などで知られる英文学者だが『山と渓谷』などで知られるアルピニストでもあり、名文家としても名高い。この文章もなかなか読ませるよね、いささか田園の描写が美しすぎるという気がしないでもないけれど……。でも、これによって、田部重治の母も村の火葬場で荼毘に付されたことが裏付けられる。しかも、その場所は「柳川といふ河の向うの火葬場」だそうだ。とするなら、見当がつく。

 ここで、もう一度、地図を見てもらおう。柳川は地図右半分のセピア色の部分をほぼ南北に流れている用水で西長江地内で赤江川(こちらも用水)に合流している。その柳川と東部中学校前の道が交差する地点に「西長江橋」とあるのがおわかりいただけるはずですが、その西詰めに墓地があるのだ(こちらはGoogleマップのストリートビューで見たその墓地)。また、かつては柳川を挟んで東が東長江村、西が西長江村となっており、このあたりが、村境、ということになる。で、かつて火葬場は村と村の境にあったそうで、多くの場合、川べり。そのため、「いま河川の改修をすると、墓石があちこちから出てくる」(大田栄太郎著『日本の民俗 16 富山』)。西長江橋の西詰めも正にそういう場所になるわけで、かつてこの墓地の近くに火葬場があったと考えていいのでは? 確かに、ここならば、長江の家からだって歩いて行ける。昭和26年ならまだ東部中学校が建つ前で、周囲は一面の田んぼだったろう。その中を歩いて行ったのだ、藤七は。両手で敏夫の亡骸を抱いて。後には何人くらいが続いたのだろう……。

 昭和41年――おれが小学3年生だった年に出版された「富山市詳図」にはこれほどまで多くの思い出が詰まっている。この地図とこの地図に描かれた「長江・不二越・石金界隈」をモチーフとする小説を書きたいという意欲が、今、もくもくと沸きあがってきている……。