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小さい町みつけた③

 もし本当に「長江・不二越・石金界隈」をモチーフとする小説を書くことになるなら、どうしても避けては通れない出来事がある。実は、昭和42年1月21日、「長江・不二越・石金界隈」の一画で殺人事件があったのだ。場所は、若草町。なんだ、長江でも不二越でも石金でもないじゃないか、と言われそうだが、若草町というのは戦後にできた町で、もともとは西長江に属していた。そして、現在は石金一丁目に編入されている。だから、がっつり「長江・不二越・石金界隈」に含まれるのだ(これは例の「富山市詳図」をご覧いただければ一目瞭然のはず)。そもそも事件現場は東部小学校の正門の真ん前なんだから。しかも、おれはその事件を目撃していたってんだから……これは、もう、おれの少年時代にあっても特筆すべき出来事だよ。

 この事件、19歳のバーテンダーが42歳の巡査部長を刺殺したというもので、ここは警察資料通信社編『警察資料年鑑』1969年版より引くなら――

 竹林巡査部長は、昭和四二年一月二一日午前九時五〇分ころ、富山警察署石金警察官派出所から逃走した窃盗被疑者広田豊一九歳を、藤田満巡査とともに追跡し、富山市若草町二八番地水島義治方前袋小路に追い込んだ。
 藤田巡査が先に犯人に追いつき格闘となったが、犯人は藤田巡査を組み伏せ、刃渡り一四・九センチメートルの肉切りほう丁をふるって同巡査の左背部を猛烈な力で連続に突き刺した。
 そこへかけつけた竹林巡査部長は、とっさに犯人に組みついて行った瞬間、犯人は素早く藤田巡査を突き離して竹林巡査部長に立ち向かい、右手の凶器に全身の力をこめて同巡査部長の心臓めがけて突いてきた。同巡査部長は体をかわしたが及ばず心臓貫通の刺創を受けてその場に倒れるに至った。
 竹林巡査部長は、藤田巡査とともに直ちに富山市西長江二二〇番地、富山県立中央病院に収容されたが、同日午前一一時四五分に同病院において死亡したものである。
 なお、犯人富山市若草町八七番地若草荘内バーテン広田豊一九歳は、現場において富山警察署員に逮捕された。

 これを読んでちょっと不思議に思うのは、現場を「富山市若草町二八番地水島義治方前袋小路」としていること。しかし、目撃者の立場で言わせてもらうならば、そこは東部小学校の正門の本当に真ん前なんだよ。だから、ここは「富山市西長江六一番地富山市立東部小学校正門前」としてもいいはず。そうした方が緊迫感がより伝わるだろう。確保に向かった警官としても、必死だったと思うんだよ。何しろ、小学校では正に授業が行われている真っ最中だったんだから。子どもたちを守らなければ、という思いが何よりも最優先だったとおれは信じる。そんな思いがさ、現場を「富山市若草町二八番地水島義治方前袋小路」とすることで薄らいでしまうような気がするんだけれど……いや、こうした方がこの事件の〝本質〟を表わすのに適しているのか……。

 さて、おれはこの事件を目撃していた、と書いたんだけれど、事件が発生した時刻(午前九時五〇分ころ)、小学校は授業中だった。それなのに、なぜ? 実は、当時、校舎は今と違って敷地の南側に建っていたのだ。それが、敷地の北側(元は運動場だったところ)に鉄筋コンクリートの新校舎が建てられ、代わって南側が運動場になったのは昭和43年のこと(なお、この際、体育館だけはいわゆる「曳家」が行われた。大きな建物が少しずつ少しずつ移動して行く様は見物だったですよ)。だから、昭和42年当時は、事件現場にも近い敷地の南側に校舎はあったのだ。そして、事件現場は教室からも見通すことができた。で、当時から夢見がちなところがあったおれは席が窓際だったのをいいことに授業も上の空で遠い世界(?)に思いを馳せていたわけだ。すると、正門のあたりで何やら人が争っているのが目に入った。何をしているんだろう……とは思ったものの、それを口にすることはなかった。だから、クラスでも気がついたのはおれ以外にいなかったはず。おれだけがその無言劇(声は聞こえず、本当にアクションだけが無言劇のように繰り広げられていた)を教室の中からボーッと眺めていた。

 それが、殺人事件だったとわかって学校内が上を下への大騒ぎとなったのは、どれくらい経ってからだろう? そこのところはよく覚えていない。しかし、授業は中断になったんではなかったかな。そして、各自、下校ということになったのだけれど、おれは久保君というクラスメートと一緒にあえて事件現場の前を通った。現場にはべっとりと血糊が残っていた。その禍々しさは今でも鮮明な記憶として残っている……。

 この事件について書こうというとき、難しいのは、この事件に対するおれのスタンスだよ。殺された竹林実巡査部長がとても立派な警官だったのは疑問の余地がない。ある意味、竹林実巡査部長は守ってくれたわけだよね、おれたちを。だから、本来ならば、誰よりも竹林実巡査部長に心を寄せるべきなんだろうけれど……どうにもおれの心は犯人である広田豊の方に寄って行ってしまうのだ。彼が19歳のバーテンダーだったこと。そして、現場が「富山市若草町二八番地水島義治方前袋小路」であり、広田豊が暮していたのが「富山市若草町八七番地若草荘」という事実。特に「若草」が2度リピートされる居住地を表した13文字の文字列の破壊力たるや……。おれはここにもう一つの――オリジナルとは全く異なる『若草物語』を読みとってしまうのだ。

 そもそも若草町は戦後にできた町だ。実はこの一帯は富山大空襲で丸焼けになっている。富山地方鉄道立山線の線路を隔てて東亜麻工業富山ラミー工場があって、工場内の燃料タンクに引火して爆発、大炎上し、その煽りを食って線路東側まで燃えた。同じ線路東側でありながら、主要地方道富山立山線を隔てた不二越鋼材富山工場が延焼を免れたのは……風向きの関係かなあ。ともあれ、東部小学校も含めて、今の石金一丁目あたりは丸焼けだった。

 戦後、その一帯にはバラックが建ち並んだ。『山室郷土史』によれば、山室駅(現・不二越駅)の近くには闇市もできたそうだ。焼け出されても、へこたれない――、この日本人特有の逞しさについては、連合軍最高司令長官付外交部局員として来日したエドワード・G・サイデンステッカーがこんなふうに振り返っていて――「軍事的な拡大政策は、夢想したような輝かしい成果など、何ひとつもたらしはしなかった。だとすれば、何か、新しい道を模索しなくてはならない。そう思い定めるや、人々はみな、懸命に働き始めた。瓦礫の山を片付け、家を建て、物を作り、売ることを始めたのである。とはいえ、私がその時直ちに、将来の奇跡の経済成長や、巨大な産業構造の形成を予見したなどと言えば、それは嘘になってしまうだろう。ただ、私はその時、はっきり思い知ったのだ。この人々、そして、この人々の言葉を研究することは、決して時間の無駄などには終わらないはずであると」(『流れゆく日々:サイデンステッカー自伝』より)。この町でも、そんな日本人特有のレジリエンスが発揮されたということだろう。

 そして、そんな思いは、町名にも託された。それが、若草町。焼跡に若草の芽生えを幻視するこの究極の楽天性……。

 広田豊はそんな若草町にある若草荘で女と一緒に暮していた(広田豊が女と一緒に暮していたことは↑の記事には書かれていない。しかし、久保博司著『日本の警察』に書かれている――「藤田巡査は富山署捜査係の竹林実巡査部長(当時四十二歳)と窃盗容疑者(十九歳)を任意同行するよう命令された。容疑者は暴力団準構成員だった。二人は、容疑者と同棲中の女の二人を近くの派出所に連行し、竹林刑事は容疑者を、藤田巡査は女を取り調べていた」)。このね、暴力団の準構成員が情婦と同棲中という、若草町とも若草荘ともおよそ似つかわしくないシチュエーション。しかし、そこが戦後に誕生したバラック街(『日本の警察』には「当時、派出所の周辺はドヤ街になっており迷路のようになっていた」とも書かれている。当時の石金界隈が「ドヤ街になっており」というのは事実に反するとは思うけどね。しかし、一帯がかつての焼跡だったのは間違いのない事実)だったと思えば、逆にお似合いという……この何ともアンビバレントな舞台設定よ。しかし、どっちにしたって、この事件は「若草町」という町名と切り離しては考えられないだろう。これは、紛れもなく、もう一つの『若草物語』なんだよ(追記:おれの小学校時代の通信簿を見たら、おれは「若草子ども会」なるものに入っていたようだ。なんてこった……)。

 ただ、そう思うにつけても、なんで広田豊は警官相手にそこまで暴走してしてしまったんだろう? 彼にかけられた嫌疑は窃盗に過ぎない。その程度の嫌疑から逃れるために警官を刺殺するなんて、馬鹿げている。ただ、実を言うと、この年、警官が犯人逮捕に関連して殺害される事件が7件も起きているのだ。これは『朝日年鑑』1968年版に記されている事実で――

警官襲撃事件

1967年には、警官が犯人逮捕に関連して殺害される事件が7件も発生し、警察庁発足(1954年)以来、最高となった。
《鹿児島》67年1月5日、川内市隅之城町で、強盗事件の自動車検問中の川内署、外山輝宣巡査(19)が、検問突破の犯人、元運転手、新須正治(26)と格闘中、包丁で刺されて死亡。
《富山》67年1月21日、富山署捜査1課の竹林実巡査部長(42)と、同書警ら係の藤田満巡査(20)が、窃盗容疑者バーテンの少年(19)を任意聴取中逃走され、追跡逮捕しようとした竹林巡査部長は、刺身包丁で胸を刺され死亡、藤田巡査は背中を切られ重傷を負った。
《佐賀》67年2月20日、諸富署早津江駐在所の緒方敏郎巡査(51)が、交通違反者を取調中、自転車でのりつけた精神異常の農業、宮副一夫(23)にナイフで刺され死亡。
《愛知》67年6月12日、半田署防犯少年係の彦坂洋一巡査(29)が当直中、署の玄関前付近で、刃物で刺殺された。12月28日、別の傷害事件で逮捕していた17歳の少年工員を、彦坂巡査を殺した疑いで逮捕し取調べ中。はじめ柳川組系の暴力団風天会の犯行と誤認して組員を逮捕し、捜査の安易さが問題となった。
《大阪》67年6月29日、岸和田署警ら係の谷克彦巡査(23)が、岸和田市内で職務質問中、刃物で胸を刺され死亡。犯人は捜査中(67年12月現在)。
《大阪》67年10月21日、池田署北豊島派出所の中野輝彦巡査(25)が、住吉神社境内で職務質問中、けん銃で撃たれ死亡。犯人は捜査中(67年12月現在)。
《東京》67年10月5日、町田署木曽派出所の黒坂五郎巡査(54)が立番中、道をたずねるふうをして近よった男にナイフで胸を刺され格闘中死亡、けん銃を奪われたが、1時間後に土工、小野純夫(26)を逮捕。
 また、12月29日夜、東京・赤坂の東宮御所警備派出所で、赤坂署の加藤正雄巡査が勤務中、住所不定・無職の長谷川光雄(22)が、長さ15㎝の千枚通しを持って「ピストルをよこせ」と襲いかかったが、格闘の末、逮捕した。長谷川は競輪、競馬にこり、年越しの金がなく、警官のピストルを奪って強盗しようとしたと自供した。

 これは、驚きですよ。で、もしかしたら、相手が警官だったからこそ、なのかも知れないなあ、と。『警官嫌い』は87分署シリーズの第1作として1956年に発表された作品だけれど、邦題の『警官嫌い』は原題のCop Haterを直訳したもの。実にCop Haterという俗語が生まれる程度には〝警官嫌い〟というメンタリティはアメリカの若者の心に深く根付いていたということだろう。で、アメリカで『警官嫌い』が書かれてから約10年、日本にもそんなCop Haterが跋扈する時代がやって来た――と、そう見なすことも可能かも知れない。ちなみに、1967年は生島治郎が『追いつめる』で直木賞を受賞した年。「ハードボイルド」が新興の文芸ジャンルとして文壇のエスタブリッシュメントに受け容れられた年。それが、こんな年だったと知れば……確かにハードボイルドが世に受け容れられる素地はでき上がっていたと言うべきなんだろうな。

 ただ、その一方で、こんなことも思わざるを得ない――↑の7つの事件で一般的に知られているものは1件もない。広田豊の事件にしたって、世間一般では誰も知らないだろう。一方、この時代は犯罪が大衆化したというか、さまざまな大衆の耳目を惹く事件が連続して起きてそれが当時の「進歩的知識人」も巻き込んだ形で社会現象化し、犯人はある種のヒーローでさえあった。少年ライフル魔事件(1965年)の片桐操、寸又峡事件(1968年)の金嬉老、連続射殺事件=警察庁広域重要指定108号事件(1968年)の永山則夫、瀬戸内シージャック事件(1970年)の川藤展久……。で、これらの事件はいずれも拳銃やライフル銃が凶器として使われている。そういう意味では、派手。一方、1967年に起きた7件の警官殺害事件の内、銃が使われたのは1件のみ。他は刃物による犯行。その点で、世間の耳目を惹くにはインパクトに欠ける、ということなのかも知れない。しかし、これは見た目の派手さに惑わされているところがあるのでは? ナイフや包丁という、日常的に「そこにあるもの」が凶器として使われた事件の方がよりリアル。そう言えば『無頼』シリーズで渡哲也が手にしたのは匕首(ドス)。それゆえのリアリティがあのシリーズにはあった。それまでの拳銃を使った「無国籍アクション」からの決別、それを象徴するものとしてのドス。ただ、そんな例がありながらも、やっぱり世間一般の耳目を惹くのは拳銃やライフル銃を使った犯罪。確かに1960年代の若者にはガンへの強烈な憧れがあった。あるいは、カーとガン。その源を辿ると間違いなく大藪ハードボイルドに行きつくだろう。もしかしたら、片桐操や川藤展久を生み出したのは大藪ハードボイルドだったのかも知れない。

 そんな中で起きた広田豊の事件。19歳の少年による警官殺しという衝撃的な事件でありながら、当時、この事件に反応した「進歩的知識人」なんて、多分、一人もいなかったろう。

 なぜ広田豊の事件は社会化しなかったのか? それは、銃を使った犯行ではなかったからではないか? その証拠に、広田豊の事件と同じくウィキペディアにも記事がないような事件であるけれど、昭和37年7月17日に東砺波郡平村で起きた女子高校生射殺事件(福野高校平分校の卒業生で、当時、20歳だった山本勝次が授業中の学校に侵入して生徒を黒板の前に一列に並ばせ、その中の一人を猟銃で射殺した。射殺されたのは高田三四枝という生徒で、山本勝次にとっては初恋の女性だったとされる)については、週刊誌の事件記者をやっていた頃の田中陽造が『週刊サンケイ』に一文を寄稿している(「ドキュメント・犯罪調書⑬富山〝教室内猟銃殺人〟事件」。名義は笠銀作)。だから、銃を使った犯行にはジャーナリズムは反応するんだよ。しかし、肉切り包丁だと無視される……、どうもそんな消息が読みとれるんだよなあ。所詮、事件なんてエンタメなんだろうな。銃を使った派手な事件だけが社会化し、そうでない事件は無視される……というのは、明らかに事件がエンタメの代用品として消費されている、ということだよ。

 でも、すべての事件は〈リアル〉なんだ。昭和42年1月21日、当時、若草町と言ったかつての焼跡で19歳のバーテンダーが一瞬の衝動を託したのは肉切り包丁だった。その〈リアル〉を象徴する真っ赤な血糊は今もおれの脳裏で禍々しい光を放ちつづけている……。