もしがくはオワコンなんかじゃない。おれは毎回ほれぼれしながら視ているよ。特にあの作り込まれたセット。そして、色彩設計の素晴らしさ。石井輝男監督の1960年の傑作『黄線地帯』にも匹敵する。そこに菅田将暉の熱量や二階堂ふみの圧巻のファムファタールぶりが加わるのだから、これ以上、何を望むっていうんだ⁉ まあ、あえて注文をつけるなら、冒頭のエピグラフの朗読かな。ここにビッグネームを当てたのが正解だったのかどうか。そこにわずかでも「権威主義」の匂いが感じられれば、それだけで視聴者は引く……。同じビッグネームでも、三谷作品に縁が深い二代目松本白鸚とかだったらまた話は別なんだろうけどね。でも、現在、二代目松本白鸚は病気療養中で……もしかしたら、ここにこのドラマの不幸がある? でも、注文をつけたいのはこれくらいで、あとは完璧だよ。残り3話(?)も楽しませてもらおう。もっとも、「もしもこの世が舞台なら」、おれは迷わずに(人生を)引退するよ。この期に及んで演技しなければならないなんて真っ平御免だ。もしがく界隈の皆様、そこは悪しからず(笑)。ところで、島地林作という刑事がいた。明治19年11月25日、上新川郡針原村の農家の次男として生まれ、明治40年7月、巡査採用試験に合格して富山県巡査になった。そして大正9年に八尾署の刑事担当の巡査になると、昭和22年に富山県警察部を依願退職(特別な理由があったわけではない。当時、公務員に定年はなく、警察官の退職は依願退職が一般的だった)するまで刑事一筋の人生を歩んだ。昭和40年にはその功績が認められ、勲六等単光旭日章も受章している。その風貌は世人がイメージする「鬼刑事」そのもので(こちらで拝顔が可能です)、今の俳優に当てはめるなら渡辺哲かな。で、この人、風貌からは想像できないんだけれど、劇団「シェイクスピア・シアター」の旗揚げメンバーらしい(ウィキペディア情報)。劇団「シェイクスピア・シアター」というのは、もしがくに登場する劇団「天上天下」のモデルのはずで……それはそれは、大変な劇団にいらっしゃったもので。でも、演技力は折り紙付き。もしこれから書く話がドラマ化されることがあれば島地林作の役は渡辺哲にお願いしよう……?
ということで、ここでタイトルを改める。この記事の本当のタイトルは――
おれが島地林作を知ったのが、この呉羽村事件だった。昭和16年7月1日に当時の婦負郡呉羽村で起きた〝猟奇殺人事件〟。日米開戦の予感が漂う不穏な時代に、さらに輪をかける不穏な事件。まずはこの事件の第一報に当たる北日本新聞の昭和16年7月2日付け記事を読んでもらおう――
頭部に致命の一撃
吳羽の獵奇殺人事件
二日午前九時ごろ婦負郡吳羽村吉祥寺前の梨畑と縣道内の深溝で發見された殺害死體は森富山署長、杉村刑事課長、島地强力犯主任、若林司法主任が現場に驅け付け、金澤醫大井上博士執刀の下に死體を解剖に附した結果、頭部に一擊を負つたことが致命傷となり、さらに下腿部を鋭利な刄物で斬られてゐることが判明した。
全縣下に捜査網
兇行は一日、蔭に女性か
縣警察部竝に富山署では事件發生以來、直に吳羽紡績工場前の吳紡武道場に搜査本部を設け、縣刑事課員および富山署員十數名が現場の吉作部落を中心に縣下一齊に大々的の搜査陣が犯人逮捕に活躍してゐるが、三日正午に至り被害者の身元は下新川郡櫻井町荻生、幸作氏長男、當時富山市若木町某工場寄宿舍の職工若林淸八君(二二)と判明。兇行は一日晚に行はれたものと見られてゐる。なほ被害者は國防色の作業服を着て附近には下駄まであり、三間幅の道路上で格鬪、頭部の一擊のため昏倒、深溝へころがり落ちたとも推測出來る。しかも兇行は現在のところ女性關係をめぐる嫉妬が有力で若林君と懇意にしてゐた男に對し有力な嫌疑かかけられてゐる。
実はこの記事にはいくつかの誤情報が含まれている。まず被害者の名前は若林清八ではなく寺林清八。また死因が頭部への一撃というのも誤りで、犯人検挙を報じた10月11日付け記事では「頭部に一撃をうけて扼殺されていた」と改められている。また事件の背後に女性がいるという見立てもほどなく誤りとわかった。この事件、昭和40年に出版された『富山県警察史』に8ページという同書でも突出した分量で詳述されているのだけれど――「寺林について調べてみると、この男は知能が低くて、痴情やえん恨などは考えられなかった」。また記事では時局を慮ってか「下腿部を鋭利な刄物で斬られてゐることが判明した」とぼかした表現になっているものの、こちらについても『富山県警察史』では「奇態なことに、陰部は陰けい・こう丸とも、その周辺の肉とともにかなり鋭利な刃物で残らず切り取られていた」。
でね、そんな猟奇性もさることながら、おれはこの記事に登場する「島地强力犯主任」というフレーズに、なんというか、ハートを鷲掴みされたとでもいうか。とにかく、昭和16年の富山に一人のタフガイを発見した、という感じだった。多分、それは「强力犯主任」という肩書きに依るところが大だったのだろうけれど、加えて事件がかくも猟奇的なものであり、かつ昭和16年という特異な年に起きた事件でもあり(さしずめ『16(イチロク)』かな?)、反射的に、小説になるのでは? で、この事件についても「島地强力犯主任」についても相当に調べたのだが、紆余曲折を経ておれは『有合亭ストーリーズ』という小説を書くことになった。そして、この小説にも「島地强力犯主任」こと島地林作にはご登場願ったのだが、小説は昭和16年4月で終わっているため、昭和16年7月に起きた呉羽村事件については言及することができなかった。そういう意味でこの事件はおれにとってやり残した宿題みたいなものなんだけれど……実は、この事件、容易ならざる事件なんだよ。刑事事件としては、事件発生から約3か月後の10月11日になって呉羽村吉作に住む甲野利雄という男が犯人と断定され、一応の解決とはなった。しかし、もしかしたら甲野利雄は無実なのではないか? という疑いをおれは持っている。まずは、おれがそう考える理由を箇条書きで挙げる。
以下、一つ一つ説明しよう。まず①については記事を読んでもらう必要があるのだけれど――
吳羽殺人 獵奇の謎解く
賭博帰り・咄嗟の兇行
縣民を恐怖のどん底にたゝき込んだ吳羽村殺人事件の眞犯人は事件發生以來百十三日ぶりで遂に檢擧され富山署の搜査本部にどつと凱歌が上つた――本年七月二日拂曉吳羽村吉作吉祥寺前縣道をへだてた梨畑の側溝に下新川郡櫻井町荻生、幸作長男、當時富山市若木町不二越合宿所内、同富山工場職工寺林淸八君(二二)が仰向けの儘何者かに絞殺された上、局部まで奇麗に切り取られてゐたといふ殘忍獵奇を極めた殺人事件が發生。爾來所轄富山署は縣刑事課の協力を得て活發な搜査陣をしき、犯人檢擧に必死の活躍が展開された。こゝに本事件の全容が明白となり近く富山地方檢事局へ移送されつはこびになつた。この殺人犯人は婦負郡吳羽村吉作戸主友安弟乙田爲雄(二〇)といふ者で彼は去る七月一日の夜興亞奉公日といふにも拘らず村の靑年たちの遊び場である同村司庄理髮店で友達と一しよに二日の午前一時頃まで博奕をなしその歸途自宅の前まで來ると一人の怪しい男(被害者寺林淸八)と出會つたたので誰何した揚げ句、同人と格鬪を演じたが相手が抗し得ず梨畑まで逃走したので彼は追跡つひに同人を絞殺したが動機を誤魔化して警察の手を免れやうと考へた揚げ句、かの局部切取事件で有名な阿部お定が最近出獄したといふ新聞記事をおもひ出し、これもそんな樣にしておけば一應癡情と見えて搜査の手から外れるだろうと信じたものらしく一旦自宅に引返して刄物を持ち出しその際先に寺林が放つて行つた攜帶品を持つて現場へもどり刄物を用ひて局部を切り取つてそれを附近にある潅漑用水の溜池中へ投げ棄て犯行を晦ましたものである。
この当時、新聞が刑事事件の犯人を仮名で報じるという習慣はなかった。実際、呉羽村事件と時を同じく(やや遅れて)富山市月岡村で起きた芸妓殺傷事件は呉羽村事件よりも少し早く8月24日に犯人逮捕に至っているのだけれど、それを報ずる北日本新聞の記事ではハッキリと実名で書いている――「犯人は上新川郡大山村上大浦眞成寺僧侶海野殳良師長男惠博(二一)」。だから、北日本新聞が呉羽村事件の犯人を実名ではなく仮名で書いているのは異例中の異例と言っていい。当然ながらそれは北日本新聞の独自判断であるはずはなく、富山県警察部が仮名で発表したものをそのまま踏襲したに過ぎないと考えるべき。だから、ここはこう言い換えるべきだろう――富山県警察部が事件発生以来130日ぶりとなる犯人逮捕というビッグニュースを実名ではなく仮名で発表したというのは異例中の異例で……おれには、富山県警察部の自信の無さの表れのように思える。
次に②についてだけれど、実はこの点については事件解決を報ずる北日本新聞の記事には何も書かれていない。また『富山県警察史』でも(8ページという同書でも突出した分量で詳述しながら!)草刈り鎌がどのように発見されたかについては言及がない。単に「甲野は真犯人と断定され、十月二十二日、草刈りがまその他の証拠物件とともに検事局へ送られた」と記されているだけ。
また③についてはその『富山県警察史』に記されている事実で――「その後甲野は犯行の全部を否認したが、しかし、自供にもとづく証拠は動かし難く、十八年一月二十七日、名古屋控訴院で懲役五年の判決があり、同年六月二十六日、大審院で上告棄却となって服役した」。
そして④は②とも密接に関わってくるポイントなんだけれど、これについては『最高裁判所裁判集:昭和二六年七月上』に収載されたさる戦前に起きた事件の再審請求に対する弁護側抗告書(名古屋高等裁判所が下した請求棄却の決定に対する抗告署)で裏付けることができる(こちらがその抗告書)。ここでは事件そのものの説明は省かせていただくこととし、抗告書に記された若林司法主任が働いた違法行為に関わる部分のみをご紹介――
しかし請求人申請の各証人は原判決言渡前においては真実の証言を求めることが不可能の状態にあつたのである。即ち請求人が犯罪の嫌疑を受けるようになつたのは、畠山竹三、林銀三なる者が富山警察署の若林司法主任、砂川、北山の両刑事等と共謀の上、請求人を株式会社富山製作所から放逐して、同社を乗り取りにかかつたものである。それで再審申立書に掲げた正木芳隆や坂井芳次郎等は警察に呼び出されて訊問されたのであるが、申立人が横領した事実はないと供述すると然らば統制違反と贈賄罪で罰すると一喝され剰え「お前等も申立人と共謀の疑がある」と強迫されて真実を供述することができなかつたのである。
まあ、戦前の悪事が戦後になって明るみになるってのは、この時代、ざらにあったんだろうな。だからと言って、戦前がすべて間違いで、戦後がすべて正しいと言い張るつもりはさらさらないけれど……。ともあれ、こうしたさまざまな事実を踏まえて、改めて事件の経緯をまとめるなら、当時、富山県警察部は2件の殺人事件を抱えており、てんやわんやの状況だった。そして、先に起きた呉羽村の事件は容疑者の絞り込みもできず、現地捜査本部も撤収。誰言うともなく事件はこのまま迷宮入りとの噂も流れていた(これについては、事件解決を報じた10月22日付け記事で盛本警察部長が「決して迷宮入りのやうな絕望感をもつたことはなかつた」と否定している。しかし、そういう噂が流れていたこと自体は認めている)。そんな中、後に起きた月岡村の事件が幸運も手伝って犯人逮捕に至り、俄然、警察部の意気は上がった。そして全マンパワーを注ぎ込む形で呉羽村事件の再捜査が行われ、なんと村民十数人を一斉に検挙するという非常手段に打って出た(これについては『富山県警察史』に記載がある。曰く「そのような中からも容疑者はくまなく洗われ、九月十七日、甲野利雄ほか十五名の容疑者の取り調べとなったが、甲野利雄を除きいずれも三日以内に取り調べを終わり釈放された」)。かくて、一人また一人と釈放される中、最後に残った甲野利雄が遂に自供した――というのが犯人逮捕に至る流れ。この村民十数人を一斉に検挙するという手法の乱暴さには呆れるしかないし、その最後に残った甲野利雄が遂に自供したという結末に至っては不自然さを通り越している。しかし、仮に甲野利雄の自供に伴って局部切除に使った草刈り鎌が発見されたのなら、さしずめsmoking gunというやつで、甲野利雄を犯人と断定する決定的物証と見なしていいだろう。だから、その発見の経緯は事件捜査のハイライトであるはず。ところが、全8ページという突出した分量を費やして事件を詳述している『富山県警察史』が草刈り鎌発見の経緯に一切言及していないという不可解さ。加えて、この事件で司法主任を務めた富山署の若林源松は戦後になって職務上の違法行為が暴露されているというおまけ付き。これで「証拠捏造」の可能性を疑わないとしたらそのモノの感性はよほどどうかしていると言わざるを得ない。だからね、ここは、ハッキリと、草刈り鎌は捏造されたと断言しよう。それを指示したのは富山署の若林司法主任であり、実際に捏造したのはその配下の富山署員――、そう見て間違いないと思う。
そして、もしかしたら、捜査の指揮に当たった富山県警察部の杉村刑事課長、島地強力犯主任あたり(なお、北日本新聞の昭和16年7月2日付け記事では判読が難しいと思うが、島地強力犯主任は警察部刑事課所属。それに対し、若林司法主任は富山署で、この点で2人は立場が違う)はそのことに薄々気づいていたのではないか? だからこそ、報道発表ではあえて犯人を実名ではなく仮名で発表したのだ。それは、あきらかに富山県警察部の自信の無さの表れだった……。
さて、仮に本当にこの事件が冤罪事件だったとしたら、真犯人は誰なのか? ということになるわけだけれど……この事件の最も顕著な特徴は、これが〝猟奇殺人事件〟であること。それは確かにその通りで、被害者の局部は無残にも切り取られていたわけだから。しかし、なぜ犯人はそんなことをしたのか? これについて事件解決を報じた北日本新聞の記事では「かの局部切取事件で有名な阿部お定が最近出獄したといふ新聞記事をおもひ出し、これもそんな樣にしておけば一應癡情と見えて搜査の手から外れるだろうと信じたものらしく」云々。しかし、甲野利雄は無実であるとする前提に立つならば、この説明も全くの作り話ということになる。作ったのは、甲野利雄を犯人にでっち上げた富山署の刑事ら。しかし、被害者の局部が切り取られていたのは紛れもない事実なのだから、それにはそれなりの理由が必ずあるはず。これがこの事件の最大のポイントであるのは論を俟たないだろう。
ということで、ここで本件の第一報に当たる北日本新聞の7月2日付け記事に立ち返りたいんだけれど、記事では被害者の検死に当たったのは金沢医大の井上博士であるとされている。これは井上剛という人物で、調べたところ、当時の法医学界の権威だったことがわかった。ドイツへの留学経験もあり、レオン・ルリッシュ著、浅田一訳『科學警察』(文庫クセジュ)なる書では訳者注として「クリミナリスチックを犯罪科學と譯した先鞭者は金澤醫大法醫學敎授井上剛博士である」。で、この訳者注の主である浅田一が昭和24年に上梓した『首つりと窒息死』(芹田東光社)なるなんとも風変わりなタイトルの本があって、ドイツのブルーアルデルという法医学者の学説に従う形でタイトル同様、相当に風変わりなことを書いている。まず、首つりは「三つの容態に分たれる」とした上で――
此第一期の終頃に性的快美感が起ると、よく民間に云い傳えられているが(略)この俗說は次の事實からブ氏は解する。卽ち、一五七二(元龜三)年ギーヨンというフランスの醫師が十四人の黑人の縊首處刑に立會したが、其内九人は處刑中勃起したというのである。昭和十一年尾久の吉定二人きり事件では定は屡々交接中、吉の頸をしめた事は當時の新聞紙や巷間に傳えられた所である。之は失神と共に痙攣をおこす時、陰莖も血管怒張して勃起を强化したものでなかろうかと思う。窒息死體でも往々見られるが多くの學者は半勃起としている。
ここで浅田一が述べているのは、俗に「死後勃起」と呼ばれる生理現象なのだけれど、実はヨーロッパではよく知られた現象で、いくつかの名高い文学作品のモチーフにもなっているくらい。たとえば、サミュエル・ベケットのかの有名な『ゴドーを待ちながら』では――
ヴラジミール (沈黙。エストラゴンは、しげしげと木を眺める。)さて、どうしよう?
エストラゴン 待つのさ。
ヴラジミール うん、だが、そのあいだだよ。
エストラゴン 首をつってみようか?
ヴラジミール ぴんとするにゃいいかもしれん。
最後の「ぴんとするにゃいいかもしれん」には訳者(安堂信也&高橋康也)による脚注が付されていて「直訳すれば「勃起する」」。また、ウィリアム・S・バローズの『裸のランチ』にも「死後勃起」をモチーフにしたと思われる描写があって――
とつぜん大立て者は少年のからだを宙に突き飛ばしてコックから解放する。そして両手を少年の座骨に当てて揺れないように押え、象形文字のような動きをする手を首に当て、首の骨を折る。戦慄が少年の全身を駆け抜ける。彼のコックは骨盤を上に向けて、大きく三度びくびくとはねあがり、たちまち射出する。
しかし、こんな戦後のアヴァンギャルド文学を持ち出さずとも「死後勃起」は近代文学の傑作と誉れ高い作品でも重要なモチーフとして使われているのだ。その作品とはジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』。初版刊行は1922年。その第12挿話「キュクロプス」より引けば――
そこで皆が死刑の話を始めた、そして勿論ブルームも『何故に』とか『この故に』とか凡そこの問題についてありつたけの出鱈目な說を述べた、それから老耄犬は始終奴を嗅ぎ廻はしてゐた、何でも俺の聞いたところではかうした猶太人からは一種妙な匂ひが出るのでそこいらの犬が引き寄せられるといふ話だ、それから何かは知らないが『威止的效果』がどうだのああだのかうだのといろいろと話し合つたのである。
――死刑でも『威止的效果』の及ばないものが一つあるんだよ、アルフは言ふ。
――何だいそれは? ヂヨウは言ふ。
――絞罪になつた野郎の一物さ、アルゾは言ふ。
――さうかい? ヂヨウは言ふ。
――まがふ方なき眞實だよ、アルフは言ふ。俺はキルメイナムで無敵團のヂヨウ・ブレイデイを絞殺した時さういふことがあつたと看守長から聞いたんだ。その男の話では、其奴を絞め殺した後で索を切つて下ろして見るとそれが火掻棒のやうに皆の目の前に突立つてゐたさうだ。
この野卑な口語体が何とも言えず、イイ。この延長線上に、1930年代、かの『ブラックマスク』の紙上を占拠したハードボイルド小説群があるのでは……? ともあれ、ことほどさように「死後勃起」はヨーロッパでは(著名な文学作品のモチーフとして頻繁に使用されるくらいには)よく知られた現象だった。ただ、呉羽村事件が起きた昭和16年当時の日本ではどの程度知られていたものか? 多分、ほとんど知られていなかったのでは? もっとも、『ユリシーズ』の初訳は昭和7年刊行の岩波文庫版(↑も岩波文庫版からの引用)。だから、誰もが手軽に読むことはできた。とはいえ、『ユリシーズ』を読んで「死後勃起」に興味を持った、なんて警察関係者はまずいなかっただろう。ただし、呉羽村事件の捜査関係者は別。なにしろ、事件の検死に当たったのが金沢医大の井上博士で、ドイツへの留学経験もある当時の法医学界の権威だったのだから。だから、井上博士からヨーロッパでは広く知られている「死後勃起」と呼ばれる生理現象についてもレクを受けたという可能性もあるんじゃないだろうか? 少なくとも、そう妄想することはできる。
ということで、ここからは筆者が紡いだ純然たるストーリーであるとお断りした上で――捜査は暗礁に乗り上げていた。呉紡武道場に設置していた現地対策本部も既に撤収しており、事件はこのまま迷宮入り――誰言うともなくそんな噂も広がり始めていた。そんな中、島地林作は『ユリシーズ』を読んでいた。こんなときに読書ですか。そんな同僚の嫌みとも呆れともとれる囁きも聞えた。しかし、島地には意図があった。金沢医大の井上博士から聞いた「死後勃起」のことが気になっていたのだ。そして、総曲輪の清明堂書店で『ユリシーズ』の第3巻を買い求めると脇目もふらずに読み耽った。ケッタイな小説もあるものだと思った。そして、こんなケッタイな小説を書く西洋人というのもケッタイな連中だと思った。しかし、そうした主観は脇に置いて、「死後勃起」という生理現象が存在することだけは間違いないらしいという感触を持つに至った。そして、この神が作りたもうた奇妙な生理現象を局部切除という猟奇的犯行と結びつけて考えてみた。確かに、それは可能だった。筋書は、こうだ。犯人Xは自宅に侵入しようとしていた不審な男を発見(『富山県警察史』によれば、被害者・寺林清八の所持品には盗難届の出されているものが複数含まれており、このことから寺林は窃盗常習犯である疑いが浮上。また事件5日前には同じ呉羽村の小竹で寺林が窃盗を働いていたことも判明。これらのことから、事件当夜、寺林が吉作を訪れたのも窃盗目的だったのではないかというのが警察の見立て。この筋書もこの見立てに沿ったもの)。で、大声で威嚇するや、男は脱兎のごとく逃げ出した。本能的に後を追う犯人X。しかし、ここは追う者の強みで、ほどなく追いつくと両者は取っ組み合いの格闘となった。とはいえ、犯人Xとてただの市民。格闘技の心得などあろうはずもない。2人は上になり下になりの互角の格闘の末、どうにかマウントを取った犯人Xが……無我夢中で男の首を絞めるに至った。別に、殺そうという意図があったわけではない。本当に、無我夢中で首を絞めていた。そして、気がつくと相手は事切れていた。ゆっくりと身を起し、しばし呆然と立ち尽す犯人X。ところが、ふとその眼が今や動かぬ物体と化した男の股間に向けられるや、そのまま眼は釘付けになってしまった。なんと、男の股間が膨らんでいたのだ。このとき、犯人Xの中で何かが破裂した。そして、たったいま放出したばかりの憎悪に数倍する憎悪が彼の中で勃興した。というのも、その膨らんだ股間はあきらかに犯人Xを挑発していたので。事実は、犯人Xがそう感じ取ったというだけなのだが――そう彼が感じた理由。犯人Xは、性的不能者だった……。
島地林作がそんな仮説に思い至った頃、月岡村事件の犯人が逮捕されたという一報が舞い込んできた。経緯は、多分にラッキーだった。犯人が性懲りもなくまた芸妓屋に忍び込んだところを発見され、一旦は逃れたものの、自宅(眞成寺)に戻ったところを戸口捜査にやってきた巡査に逮捕されたというんだから。しかし、警察部の意気は上がった。すると、富山署の若林司法主任から驚くべき提案がなされた。これまでの捜査で浮上した呉羽村の素行不良者十数人の一斉検挙に踏み切りたいというのだ。全く前例のない、そして全く成算のない捜査の提案だった。島地にはこんなことで犯人にたどりつけるとは思えなかった。この事件の犯人は心の奥に深い悲しみを湛えた人物であると彼には思えた。きっとその人物は表面的には人並みの生活を送っているに違いない――心の奥に湛える深い悲しみを押し隠しつつ。だから、捜査対象とすべきは、素行不良者ではなく、むしろ何食わぬ顔で市民生活を送っている者ではないか? 確かに、そんな中から犯人を見つけ出すのは容易ではない。彼とて妙案があるわけではなかった。しかし、素行不良者十数人の一斉検挙という乱暴な捜査で網にかかることは決してない――、それは確信を以て言えた。そして、そう杉村刑事課長にも進言した。杉村刑事課長は島地の意見に耳を傾けてくれた。また、犯人が性的不能者ではないかという仮説にも関心を示してくれた。しかし、既に富山署は村民十数人の一斉検挙に向けて走り始めていた。今さら止められない――、それが杉村刑事課長の答だった。
しかし、富山県警察部と富山署の刑事を総動員して行われた検挙した村民十数人を相手とした取り調べはなんら成果を生むこともなく、ほどなくこの異例の捜査劇の幕は下りようとしていた。そして、そのときがこの事件の迷宮入りが決まるときだった。ところが、そんな土壇場で思いがけない報告がもたらされた。最後に残った一人が犯行を自供したというのだ。それが、甲野利雄だった。かねてから村一番の乱暴者として知られ、廓通いを繰り返していることも周知の事実だった(乙田爲雄こと甲野利雄の人物像については北日本新聞の記事ではこんなふうにデッサンされている――「年の割合にませた身長五尺四寸體重十九貫足らずもあるといふ豪の者で、おまけに酒は飮む廓遊びはする、喧嘩する、更にまた博奕をも打つといふ具合で手におへぬしたゝか者、日頃附近や友達から嫌はれれてゐたものであるが」云々)。島地が思い描いた犯人像とは真逆と言ってよかったが、若林司法主任によれば犯行を認めたというのだ。そして、甲野利雄の自供に従って決定的物証とも言える草刈り鎌も見つかった……。
かくて事件は〝解決〟した。それは10月11日のことだった。それから間もない12月8日、日本の真珠湾奇襲により太平洋戦争の火蓋が切って落とされた。そうした中、始まった甲野利雄の裁判は異例な展開をたどった。捜査段階では自供したとされていた甲野利雄が無実を訴えたのだ。しかし、第一審、第二審とも裁判長は甲野利雄の訴えを退け、有罪判決を下した。それでもなお甲野利雄は無実を訴えつづけ、遂に裁判は大審院に持ち込まれた。そして、昭和18年6月26日、大審院は上告を棄却し、ここにようやく事件は最終的な決着を見た。既に太平洋戦争の戦況は序盤の日本優位からアメリカ優位に変わりつつあった。
それから14年が経った。終戦から間もない昭和22年に富山県警察部を依願退職した島地林作はようやく戦災からの復興が目にも見えるようになってきた富山市街を見て回るのが日課になっていた。自宅は芝園町にあり、富山市街を見て回るには絶好のロケーションだった。3月上旬のある日、そんな島地の自宅をかつての上司である杉村政義が訪ねてきた。上司と言っても島地の方が17歳も年上。上新川郡針原村の農家の次男として生まれ、巡査採用試験に合格して富山県巡査に採用され、派出所勤務の平巡査から警察官生活を始めた島地林作に対し、杉村政義は昭和4年に普通文官試験に合格し、昭和11年には内務省警察講習所(現・警察大学校)も卒業した準エリート。現職も高岡区検察庁副検事だった。しかし、かつて「同じ釜の飯を喰った」間柄には違いない。しばし懐旧談に花を咲かせた二人だが、さて、という感じで杉村が一冊の本を取り出した。北日本新聞社から2月に出版された『富山県紳士録』だった。高岡区検察庁副検事という要職を務める杉村政義も当然のように掲載されていた。しかし、今日、杉村がこの本を持ってやってきたのはそれを島地に見せつけるためではなかった。彼は『富山県紳士録』の194ページを開いて島地林作に示した。そこには、今、呉羽町議会議員(注:呉羽村は昭和29年に長岡村、寒江村及び射水郡老田村と合併して婦負郡呉羽町になっている)を務めているある人物が掲載されていた。島地は、その名前を覚えていた。それは、甲野利雄の11歳上の兄だった。弟と違って、品行方正で通っており、家業の瓦製造所を切り盛りする村の有力者でもあった。それが、今や呉羽町議会議員か。しかし、これが、何か? そんな思いで杉村政義の顔を見やる島地林作。それに対し、杉村はその呉羽町議会議員の家族構成に注目するよう促した。見ると呉羽町議会議員には息子が1人、娘が2人いると記されていた。そして、すべて養子である旨が明記されていた。
たったこれだけの事実ではあるけれど、杉村にとっては重大な事実だった。杉村が、この日、島地を訪うたのはこの事実を伝えるためだったのだが……もとより、たったこれだけの事実で何かがわかるわけでもない。養子が3人いるからといって、それで性的不能者と決めつけることなどできるわけはないのだから。また、そもそも呉羽村事件の犯人は性的不能者であるというのも金沢医大の井上博士から受けたレクを元に島地が導き出した仮説に過ぎなかった。だから、現職の検事である杉村とて動きようがなかった。しかし、島地林作にだけは伝えておきたかった。島地林作としてもあの事件は心にトゲとなって刺さっているという点では自分と同じだろうと思っていた。案の定、島地林作は呉羽町議会議員の3人の子がすべて養子であることを知るや表情を変えて黙り込んでしまった。しかし、島地とて何ができるわけでもない。
その場に、何もできない二人の男がいた。
二人の男は、ガラス越しにも春の暖かさが感じられるようになってきた雪見障子の向こう側に広がる風景を眺めていた。
寂として。声もなく。
その11年後。島地林作は北日本新聞社のインタビューを受けた。この年(昭和43年)、島地林作は北日本新聞文化賞を受賞していた。昭和40年に勲六等単光旭日章を受章したのにつづく栄誉だった。これを記念して北日本新聞社会部の名記者・河田稔のインタビューを受けることになったのだ。その中で警察部刑事課に配属になって以降の彼の刑事人生でも最も充実した時期を振り返った下りを紹介すると――
島地さんは昭和四年十二月、新設された警察部刑事課に移った。四十四歳と脂の乗った島地さんは水を得た魚のように捜査の鬼となって難事件解決にからだを張っていく。昭和二十二年に退職するまでの十八年間、県下のおもな刑事事件の捜査にほとんど関係した。とくに昭和十四年に警部補になってからはおもな事件、長びいた事件のほとんどは直接現場へ足を運び、多くの捜査員を直接指揮、細かい点に配慮しながら指導した。酒を飲みながら部下をしかったこともあった。島地さんにとってもっともはなやかな時代だった。
「昭和四十年四月、氷見で起きた金物屋の強盗殺人事件は警部補になった直後の事件だけに印象に残っている。当時の刑事課長に十人の優秀な刑事を県下各署からすぐってくれと申し出た。張り切っとったんですね。真犯人は二週間ほどでつかまったが、なかなか自白せず苦労しました」
この頃の島地さんの記憶は鮮明だ。当時の事件の内容も細かい点まで覚えている。昭和十六年七月呉羽村吉作(現富山市)の殺人事件などは第二の阿部定事件かと騒がれただけに忘れられないという。
島地林作の18年に及ぶ刑事人生で最も大きな事件が呉羽村事件だったのは論を俟たないだろう。このことは『富山県警察史』で8ページという同書でも突出した分量で詳述されているという事実が証明している。ところが島地はそんな事件を差し置いて昭和14年に氷見で起きた強盗殺人事件を「印象に残っている」。一方、呉羽村事件については「忘れられないという」。なぜかその詳細については語ることなく、ただ「忘れられない」とだけ。
呉羽村事件は、事件発生から27年が経過した昭和43年という時点でも島地林作にとっては気軽に振り返ることができない事件だったのだ。しかし、それはまた「忘れられない」事件でもあった。昭和43年6月に行われたこのインタビューはそのことを物語っていた……。