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愛しておるよ酒をくだされ

 細田守監督の『果てしなきスカーレット』が大コケだそうだ。興味深いのは同作がシェイクスピアの『ハムレット』から着想を得たとされていること。『もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう』もシェイクスピアがモチーフとなっており、タイトルからして『お気に召すまま』のジェイクイズの台詞「全てこの世は舞台、人は皆役者に過ぎぬ」の本歌取とされている。そんなシェイクスピアゆかりの大作2本がともに大コケの憂き目を見ている、というのははたして偶然なのか。両作を見舞った悲劇には共通点があって、それは最初から低視聴率&不入りであること。期待して見たけどつまんなかった、という反応の集積として低視聴率&不入りがもたらされているわけではないのだ。最初から低視聴率&不入りなのだ。そして、この両作は事前のプロモーションでシェイクスピアをモチーフとすることが告知されていた。ここは、このことがもたらした影響を思わざるを得ない。もしかしたら、三谷幸喜(64歳)、細田守(58歳)というもはや旧世代に属すると言っていい表現者の中に脈打つシェイクスピア崇拝を「西洋崇拝」と見なして忌避する空気感ができ上がっているのでは? 『国宝』はなぜ大ヒットしたか。それは「日本礼賛」の映画だったからだろう。だから、もしWS劇場で上演されるのが『夏の夜の夢』や『冬物語』ではなく『仮名手本忠臣蔵』や『義経千本桜』だったら結果は違ったのではないか? あるいは、もし復讐譚の下敷きになっているのが『ハムレット』ではなく『曽我物語』だったら結果は違ったのではないか? それほどまでに今の日本人は「日本」に恋い焦がれている。亡くなった恋人の俤を必死で追い求める人のように、もうせつないくらいに「日本」に恋い焦がれている。その恋情に阿ることが表現者の仕事であるかは別として……。

 さて、このブログ(PW_PLUS)を立ち上げたのは2018年4月なんだけれど、最初はGoogleが提供しているブログサービス「Blogger」での運用。しかし、どうも使い勝手がよろしくない。で、1か月くらい経過した段階で契約しているインターネット・プロバイダー(ケーブルテレビ富山)が契約者にオプションとして提供している(していた)ホームページ・アカウントを利用して独自に構築することとし、移転を完了したのが6月だったかな。まあ、自慢じゃないですが、これくらいの簡易ブログなら簡単に作れますよ。で、以来、ケーブルテレビ富山が用意してくれたホームページ・アドレス(https://www.ctt.ne.jp/~okamura/)で運用を続けてきた次第なのだけれど……先頃、ケーブルテレビ富山が「大切なお知らせ」なる文言が赤字でプリントされたA4サイズの封筒を送り付けてきた。何ごとかと思ったら、①として「メールサーバー移行のご案内」。さらに②として「インターネットオプション(ホームページ)提供終了のお知らせ」。これを見て、ええ⤴ 提供終了となるのは2026年3月31日で、まだ間がある……とはいえ、5か月程度。これね、短かすぎるって。案内では「今後もホームページの公開をご希望される場合は、お客様ご自身で他のホームページサービスへコンテンツの移行をお願いします」としていて、いや、やりますよ、やりますけども……サービス終了まで5か月は短かすぎるって。一般にホームページを移転してURLが変更となった場合、この変更にGoogleが対応するには1年程度かかるとされている(サイトのトップページのように頻繁にGooglebotが訪問するようなページは2〜3日で対応が可能だが、公開してから数年も経っているような古いページのクロール頻度は数か月に1回程度で、全ページの対応が完了するまでにはどうしても1年程度かかるとされている)。で、その間は古いURLから新しいURLにユーザーを誘導するリダイレクトという措置を取る必要があるのだけれど、Googleではその期間について「最低1年」としている。だから、2025年11月という時点で2026年3月31日でのサービス終了を通告し、「上記日時をもって、お客様のホームページはすべて公開終了となり、コンテンツ(データ)も完全に削除されます」は無茶だって。それじゃあ、Googleが対応できない。2026年3月31日以降は既に存在しないページがGoogleの検索で表示されて、かつアクセスしたユーザーが新しいURLに誘導(リダイレクト)されることもない――という事態が生じることになる。まったく、困ったもんで。

 既に本サイトは新しいURL(https://okamura.nobody.jp/)での運用を開始しておりますが、利用しているのは「忍者ツールズ株式会社」が提供する「忍者ホームページ」。ただ、ここもいつサービスが終了となってもおかしくない厳しい経営状態ではあるようだ。ウィキペディアによれば「2020年2月27日、8つのサービスを終了して事業を大幅に縮小することが発表された。「忍者ホームページ」および「忍者ブログ」はサービスを継続するが、4つの機能はやはり提供を終了することが同日に発表された」。Blogger→ケーブルテレビ富山→忍者ホームページと来て、ことによるとまた移転をしなきゃならん事態が遠からずやってくるんだろうか? まあ、何が「オワコン」かって、ブログこそ最大の「オワコン」ではないかという意見もあるくらいで……それをわかっていながら、いつまでこのブログを続けるつもりなのか、このおれは? いっそ、2026年3月31日を以て、このブログ自体、終了してしまった方がよかったのでは?

 そんなネガティブな感情に襲われる11月の末。今日は、終日、時雨でね。ふいに福島泰樹の歌(の替え歌)が口を突いて出る――時雨せり窓の外にもに情(こころ)にも愛しておるよ酒をくだされ。実は、この歌、福島泰樹の歌の中でもさほど印象に残るものではなかったのだけれど(今も手元に取ってある国文社版『現代歌人文庫㉕福島泰樹歌集』をひも解くと気に入った歌の頭に○が付けられている。しかし、この歌には付けられていない)、1981年12月10日に明大前のキッド・アイラック・ホールで開催された「短歌絶叫コンサート」(シンガーソングライター龍とのジョイントコンサート。龍のブログにこのコンサートについて記した記事がある)というのがあって(おれも行った。客の中に沖山秀子がいて、飛び入りでステージに上がり「朝日のあたる家」を唄った)、これが砂子屋書房から2枚組のレコード『曇天』として発売された。そのライナーノーツで立松和平がこの歌を取り上げて――「カーステレオのスピーカーからシンガーソングライター龍の声が洩れてくる。私はこのテープをいつも持ち歩き、部屋にいる時はラジオカセットで、車に乗る時にはカーステレオで聞いている。全首暗記するほどくりかえし聞き、「愛しておるよ酒をくだされ」のくだりでは決まって激情にも似た涙ぐましい気持ちになる。龍は福島泰樹の無頼に至る心情をよく音にしている。/私はアクセルを蹴り、黒い帯のようなアスファルト道路をたぐり寄せる。いやな用事をすませた帰路である。田舎の冬の夕暮はさみしい。静かに闇の落ちてくる景色の中で、私の心にも冥々とした暗澹がひろがってくるのである」。爾来、この歌――吹雪せり窓の外にもに情(こころ)にも愛しておるよ酒をくだされ――はおれの冬のテーマソングというか。雪のときは元歌で、今日みたいな時雨のときは「吹雪」を「時雨」に置き換えた替え歌で愛唱している次第で……それが今日も口を突いて出てきてしまったと。

 今夜は酒を呑みながら「終了」のタイミングについて考えるとするか……。



追記 良い酒を呑んだ。そして、冒頭で書いた『曽我物語』を下敷きにした復讐譚(ダーク・ファンタジー)についてアイデアをめぐらしていたら、こんな確信にたどりついた――曽我兄弟による建久4年5月28日の行動が〝仇討ち〟ならば、山上徹也による令和2年7月8日の行動も立派な〝仇討ち〟では?

 建久4年の事件は一般に「日本三大仇討ち」の1つとされているのだけれど、同事件を単純な仇討ちと見なすにはいろいろ腑に落ちない事実がある。いちばんは、晴れて怨敵である工藤祐経を討ち果たし、これでミッションは完了――のはずなのに、なおも兄弟の無念は晴れていないようで、仁田(新田)忠常に討ち取られ、最早これまでと覚悟した兄・祐成は弟・時致にこう最期のミッションを託すのだ――「五郞は何處に有るぞや。祐成こそ新田が手に懸り、空しくなるぞ。時致は未だ手負ひたるとも聞えず、如何にもして君の御前に參り、幼少よりの事ども、一々に申し開きて死に候へ。死出の山にて待ち申すべきぞ。追ひ付き給へ。南無阿彌陀佛」(出典は大正2年刊行の有朋堂文庫版『義經記・曾我物語』。底本は「貞享四年の刊本」とされているので、『曽我物語』の数ある伝本の中でもいわゆる「流布本」ということになる)。弟・時致に、君(源頼朝)の御前に参り、「幼少よりの事ども、一々に申し開きて死に候へ」と言うのだ。これがなんとも妙で。なぜ大望を果たした後に頼朝の御前に参る必要があるのか? 頼朝に言わずにはいられない恨み言でもあると? 実は、この下り、『吾妻鏡』だと事実関係が異なる。こちらでは兄が弟に最期のミッションを託したということにはなっていない。「十郎祐成は新田の四郎忠常に合い討たれ畢ぬ」とあって、続いて「五郎は御前を差して奔参す。将軍御劔を取り、之に向わしめ給わんと欲す」(出典は汲古書院版『振り仮名つき吾妻鏡』)。なんと、頼朝は自ら剣を取って時致を迎え撃とうとしたというのだ(「之に向わしめ給わんと欲す」の原文は「欲令向之給」で使役の助動詞「令」が使われている。あたかも剣が人格を有するかのような表現になっているのがおもしろい。まるで刀剣乱舞?)。しかし、傍らに控えていた左近将監能直(大友能直)がこれを押し留めた――とされている(而左近将監能直奉抑留之)。そうこうしている内に時致は小舎人童五郎丸(御所五郎丸重宗)に搦め獲られた(此間小舎人童五郎丸搦得曽我五郎)――というのが『吾妻鏡』の記載。だからね、『吾妻鏡』の記載を信じるならば、時致は頼朝を討つつもりだったんだよ。父の仇である工藤祐経を討ち、さらには源頼朝をも討つ――、それが兄弟のこの日の計画だったということになる。

 これについて、この復讐譚のそもそもの発端である工藤祐経による伊東祐親襲撃(その結果として、兄弟の父にして伊東祐親の子である河津祐泰が死んだ)が「伊東祐親にわが子・千鶴丸を殺された頼朝の報復」という要素があったという指摘があり(発案者は歴史学者の保立道久。この説だと、工藤祐経は頼朝に使嗾されて伊東祐親を襲ったということになる)、であるならば工藤祐経に父・河津祐泰を殺された曽我兄弟による〝仇討ち〟の対象が工藤祐経の背後にいた頼朝にまで及ぶ、というのはなんら不思議ではない。また、曽我事件の謎として、なぜ大事の決行日として「富士の巻狩り」の日を選んだのか? ということがある。別にさ、曽我兄弟のターゲットが工藤祐経ただ一人ならこの日じゃなきゃならない理由はないんだよ。相手は殿上人とかではないわけだから。滅多に人前に姿を現さない、なんて事情は存在しない。にもかかわらず「富士の巻狩り」の日を選んだというのは、鎌倉殿の臨席が確実であり、鎌倉殿を狙うにはこの日が最適だったからだろう。だから、「富士の巻狩り」の日を選んだという事実そのものが兄弟のターゲットに頼朝が含まれていたことを端的に物語っていると言っていい。ところが、ことが政治に関わるとなると何かと配慮しなければならないのは今も昔も変わりなく、兄弟のターゲットに時の最高権力者が含まれていたという事実は「なかったこと」にされてしまったのだろう。そして、兄弟の行動は父の仇である工藤祐経を討った見事な〝仇討ち〟であるとされ、剰え「日本三大仇討ち」の1つとして今日に伝わっている、ということになる。しかし、工藤祐経を討ち果たした後、曽我時致が鎌倉殿の寝所に向けて「奔参」したのは鎌倉幕府の「正史」である『吾妻鏡』にも記されたファクト。そして、鎌倉殿が自ら剣を取ってそれを迎え撃とうとしたのも。だから、建久4年5月28日の事件は時の最高権力者の弑逆をも狙ったものであったのは疑うべくもない。

 ――であるならば、その行動は山上徹也が取った行動とどれほど違うのか? 11月19日の証人尋問で妹が証した「血で真っ赤じゃないか」という山上の言葉(警察で自死した兄の遺品として渡された服を手に取って山上が発したとされる言葉)はおれの胸にも深々と突き刺さった。兄をそんな〝血まみれ〟の自死に追い込んだのは統一教会であるのは明らかで、第一義的には彼の恨みは統一教会に向けられて行くわけだが、それを超えて教団の活動を政治的にバックアップしていた(と山上徹也が信じた。同日の証人尋問では安倍晋三の写真が表紙に掲載された教団の機関誌を見たという証言もあった)内閣総理大臣・安倍晋三に向けられて行ったのは……曽我兄弟の恨みが工藤祐経の背後にいた(と、これだって曽我兄弟が勝手に信じた、という側面がないわけではない。しかし、あえて往年の平岡正明に倣ってマキシム化するならば――「行動」を決するのは「主観」である)征夷大将軍・源頼朝に向けられたのとどれほど違うのか?

 かくて、曽我兄弟による建久4年5月28日の行動が〝仇討ち〟ならば、山上徹也による令和2年7月8日の行動も立派な〝仇討ち〟では? と、酒の精にソソノカサレテ……。