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虎よ、虎よ!

 五木寛之の初期作品に「天使の墓場」というのがあって、主人公の行動(闇から闇へと葬り去られた米軍のジェット機墜落事故の真相解明。この事故により、5人の高校生が命を落としていた)に疑問を呈する男(ラジオ局の報道部員・五条昌雄)に対し主人公(高校の山岳部々長・黒木貢。彼が率いる山行で5人の部員が亡くなった――米軍のジェット機墜落事故の巻き添えを喰って)が「一瞬、五条がおびえるような激しい感情を込めた声で」こう言い放つという場面がある――「復讐はわれにあり。われこれをむくいん」。

 実は、この引用は間違っている。聖書の「ローマの信徒への手紙」に記されているのは「愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり」ということであって……要するに、人間の復讐心を戒めているわけだね。ところが、五木寛之はそれを復讐心の肯定のように使っているわけで……これぞ若書きのなせる業だろうなあ。もっとも、キリストがこんな訓戒(?)を垂れなければならないほどには復讐心は人間の心を安々と捕えてしまう。で、「復讐の鬼」と化した人間を主人公として戴く小説や映画がこれでもかとばかりに生み出されることになる。「天使の墓場」もその一つなんだけれど……そんな中、わが同郷人である細田守は『果てしなきスカーレット』でその超克を訴えようとした――らしいのだけれど(一応、ソースとしてアニメイトタイムズのこちらの記事から引いておくなら――「この映画では、「復讐」というテーマを中心に据えました。といっても、ただ単なる復讐というよりも、「報復の連鎖」について考える作品にしたいと思ったんです。今作の制作を始めたのが、ちょうどコロナが明け始めたくらいの時期でした。その苦しい時期が過ぎて、やっと落ち着けると思った矢先に、ご存じの通り世界中でまた新たな争いや悲しい出来事がたくさん起こりました。/その様子を見ながら、どうして人は報復をし続けるのか、そしてその先には何が待っているのか。この問いが頭から離れませんでした。このような状況に立たされている「現在」を考えながら、このテーマを持って映画を作り上げようと決意しました」。全く以て、志は気高い。しかし……)、敢えなく爆死してしまった、ということだね。

 で、その理由の分析については専門家に任せるとして……興味深い小説がある。それは、岩佐虎一郎が昭和33年に『日本海作家』に寄稿した「地獄の蓮(はちす)」。岩佐虎一郎というのはおれが書いた『有合亭ストーリーズ』の登場人物の一人で、『西行と芭蕉と一茶』など著書も何冊かあるものの、ほぼ無名と言っていい。ただ、すこぶる興味深い人物で、『有合亭ストーリーズ』では主人公の「おれ」は最後に岩佐虎一郎に会いに行くのだ、「この時代に〝異邦人〞として参加しているという意味ではおれも彼も同じだった。かつての自由主義者から転じて、国家主義者として時局に便乗しようとしている彼は、本当のところ、どう思っているのだろう?」との思いを持って。おれ的には、それほどその人物に惚れてしまった、ということ。で、最近も岩佐虎一郎が戦後になって書いた俳句とか小説とかを読んでいるわけだけれど、「地獄の蓮」はその中でも期待値の高かった作品。というのも『文芸首都』昭和33年6月号の「全国同人雑誌評」で「日本海作家四月号では「地獄の蓮」(岩佐虎一郎)が面白い。円有―のちの休誉上人―の不幸な出生と戦国時代の悲劇を描いた巧緻な歴史小説である」。それならばと国立国会図書館に遠隔複写を依頼して読んでみたわけだけれど……最初に書いておこう、出来はそれほどよくはない。一言で言って、焦点が絞り切れていないんだよ。「地獄の蓮」というのは能登畠山氏の重臣で穴水城主の長氏が上杉謙信に内通した遊佐氏や温井氏(長氏と共に能登畠山氏を支える立場にあった年寄衆)らの裏切りによって一族が皆殺しになる中、辛うじて落ち延びることに成功した末子・菊松丸(当時、2歳)を主人公とする歴史小説で、当然のことながら菊松丸には長家再興の願いが託されることになるわけだが……実は一族の中にはもう一人生き残ったものがいて、菊松丸からすれば叔父に当たる孝恩寺宗顒。長家第19代・長続連の三男で、出家して宗顒と称し孝恩寺の住職となっていた。ところが、これが生臭坊主もいいところで、僧形でありながら孝恩寺を通称として戦場にも赴いていた。長氏のお膝元である石川県穴水町では「マンガふるさとの偉人」なる電子書籍のシリーズを発行しており、その中に「不屈の武将 長連龍」というのがあるのだけれど、主人公・長連龍こそは孝恩寺宗顒のことで、作中では僧形のまま戦場で剣を振るい敵をなぎ倒す様も描かれている。で、その姿を目の当たりにした家臣らが「軍神のようじゃ!」。この「軍神のよう」な孝恩寺宗顒によって長家再興も非業の最期を遂げた父(長続連)や兄(長綱連。菊松丸の父に当たる)の仇討ちも達成されてしまうのだ。こうなると、菊松丸が落ち延びた意味って? 一体、幼子(とその乳母。名前は霜井)は何を目的にして生きて行けばいいんだ? ということになって、この小説の焦点もここに絞られている――かというと、そうでもない。小説は専ら霜井の視点で綴られ、幼子を武家として育てるべきか、出家として育てるべきか、という乳母としての煩悶に焦点が絞られることにはなるわけだけれど……ただ、そこに絞り切られているわけでもない。実は小説の後半では知恩院の僧となった菊松丸改め円有が遊女(染葉)と肉の交わりを持ったりする。それを見咎められ「外道」「破戒僧」と責め立てられたりして……なんとも焦点が絞り切れていない。そういうね、ちょっとザンネンな小説。まあ、おれだったらばどうするかだけど……菊松丸と孝恩寺宗顒改め長連龍の関係は相当に微妙なものだと思うんだよ。というのも、この二人の関係は源頼朝と源行家の関係と同じなんだよ。ここは、図にして示そう。

源為義―義朝―鬼武者
   └行家

長続連―綱連―菊松丸
   └連龍

 仮にだ、源氏再興が源行家によって果たされてしまったとしよう。その場合、鬼武者の運命や如何? だよね。平気で身内で殺し合いをした源氏のことだ、鬼武者も行家に謀殺されていた可能性は否定できない。で、そんな危険な立場に菊松丸は立たされた――と見なすことができる。まあ、源氏みたいに身内で殺し合いばっかりやっている氏族も珍しいと思うので、そこまで心配する必要もないのかも知れないけれど……実は、そうとも言いきれない。小説では菊松丸は京都の知恩院で得度し、僧・円有となって今は前田家の領地となっている加賀国に下向し、現在も金沢市山ノ上町(旧・高道新町)にある浄土宗の古刹・心蓮社を開創するのだけれど、調べたところ、心蓮社が開創されたのは慶長17年だというのだ(ソースはこちら)。その前年、父・連龍から長家の家督を引き継いだ好連が早世している。これを受け、連龍が再び当主の座に返り咲いたそうだけれど……奇しくもそのタイミングで長家第20代・綱連の忘れ形見である菊松丸改め円有がやってきたのだ。不穏と言うしかない。かつての家臣団の中には、円有を奉じて長家の家督を譲渡するよう迫る、というような動きを見せるものだっていたのでは? 下手をすると、これをきっかけに血で血を洗う家督争いが勃発――なんてことにもなりかねない。そんなことを勘ぐりたくなるようなタイミングでの加賀国下向であったのは間違いない。しかし、岩佐虎一郎の関心はこの点には向かわなかったのか、あたかも心蓮社を開いたことを以て菊松丸改め円有の物語が「完結」したかのような書き振りになっている――

 若い新妻と、青春の美僧とは、たゞ念仏を低声に念じながら、たとえこの天地の魔神が怒つて奈落の底へ蹴落そうとも、決して、動じまい、心をゆるがせまいと誓いながら知恩院に別れをつげた。
 草庵の石段に琳有僧正が立ち、弟子僧や堂衆たちは朽葉色の法衣の裾をふりながら見送つた。
 もう春を告げるさゝなきが聞え、樹々の梢は、ほのあかい芽を点じている。
 はるばる加賀に下向した男女は卯辰山のふもとに(今の高道新町)その名もゆかしい心蓮社と号する、さゝやかな草庵を結んで、行住坐臥、仏願に順ずる念仏易行の研鑽にたのしい日を送った。
 すべてがあるがまゝのかたちに――
 聴聞の法筵に坐する人々は、春の夜の星を仰ぐように敬慕の眼をほそめた。
 円有――のちの休誉上人である。

 しかし、慶長17年当時、円有はそこまで枯れていたのだろうか? 円有は、一族が皆殺しになった天正5年当時、2歳だったとされるので、心蓮社を開いた当時は37歳かな? まだまだ枯れるには早すぎる。何よりも彼は長家の当主が早世したというタイミングを選んで加賀国に下向しているのだから。それは、明らかに思惑があってのことだと思うけどなあ。だから、おれだったらむしろそんな円有(の実存)が体していたであろうある種の色気とその色気が脱色されて行くプロセスに焦点を絞り切ったかな? まあ、それだけの筆力がおれに備わっているかは別としてね。

 ただ、こういうことは措いておいてだ、岩佐虎一郎が長家の物語を紡ぐに当たって、長家の再興を果たした長連龍にスポットを当てるのではなく、菊松丸にスポットを当てたというのは、非常に興味深い。↑で紹介した「不屈の武将 長連龍」を読んでもらえばわかると思うけれど、長連龍の生涯は実にドラマチック。これはね、小説になりますって。ところが、そんな素材をあえてスルーして彼は菊松丸を物語の中心に据えたのだ。その心中を忖度するなら……彼としては、小説の主題を「復讐」とすることを避けたかったのでは? 連龍を小説の中心に据えた場合、好むと好まざるとに関わらず「復讐」が主題とならざるを得ない。だからこそ、小説の題材として長家を選びながら、連龍を小説の中心に据えることを避けた……。

 時は、昭和33年だよ。奇しくもおれが生まれた年だ。敗戦後、GHQにより日本人の中に潜む復讐心を刺激しかねないとしてご法度になっていた忠臣蔵も解禁となり、世は忠臣蔵ブームの只中にあった(戦後、作られた忠臣蔵映画の第1号は昭和29年製作の大曾根辰夫監督『忠臣蔵』。これ以前にも忠臣蔵をモチーフとする映画は製作されていたものの、ウィキペディアに曰く「まだGHQに対する遠慮があったのか、どれもアンチ仇討ち、アンチ忠臣蔵というスタンスで描かれていた」。しかし、一度、禁が解かれるや、一転して「戦後忠臣蔵映画の黄金期に突入し、その後1962年まで、毎年数本もの忠臣蔵映画が作られ続けている」)。多分ね、その根底にあったのは、「敗戦」によって失われた日本人としての誇りの回復、という大命題だったと思う。だからね、そのこと自体が一つの「復讐」だったんだよ。そんな中、岩佐虎一郎としては珍しい小説という形式で紡がれた物語にあって、あえて「復讐」という主題を避け、「念仏易行の研鑽」に生きた僧の物語に仕立てた。実は、彼自身、GHQにより公職追放処分を受けていた(特に何をしたわけではない。「雄姿塾」を立ち上げて青少年の指導に当っただけ。それでもアメリカからしたら許されざる所業だったということ)。そのことに対する復仇という思いが全くなかったとは思えない。でありながら、あえて「復讐」の物語を紡ぐことを避けたのだ。

 かくて、岩佐虎一郎とは、細田守が言うところの「復讐の連鎖を断つ」という主題をわが身を以て実践した作家だったのでは? と、いささかこじつけ気味に書くならば……。



 さて、岩佐虎一郎について若干の情報を補足しておこう(ただし、記事タイトルの「虎よ、虎よ!」はこっちの方にかかっている。だから、こっちの方が本文みたいなもの?)。昭和33年の時点では「すべてがあるがまゝのかたちに」とホトケの心境に達したかのような一語を綴っていた岩佐虎一郎ではあるが、ここで意外な事実を明すなら、なんと昭和39年に逮捕されている……。

 この事実、おれは翁久允(上新川郡六郎谷村生まれの文人ジャーナリスト。昭和11年に富山で『高志人』を創刊し、亡くなる48年まで発行を続けた。最近、室井滋が翁久允をモデルにした『キューちゃんの日記』なる絵本を出版するなど、富山ゆかりの文人として売り込みを図っておりますが、さて……)が『高志人』に連載していた「太稚庵はだか日記」で知った。その昭和39年1月29日の条ではさる画帳(よくわかりませんが、「須垣天山への画帳」とある。須垣天山は地元富山の書家――だったらしい)のための構想などを記した上で――「終ったところへ横山白門から電話。「今朝の新聞をよんだか」という。「ああ、あの岩佐虎一郎と国泰寺管長の記事か」「ウンそれだ」あれでみると寺本(管長)も可愛相だな」なんという対話。二人とも岩佐とは知っているのである。しかし「三十三件」もの横領とか脅喝で三百万円もまきあげたなど新聞記事はどこまで真かわからないが、人間というものはどこで何をやって歩くものかわからない」。翁久允に電話してきた横山白門というのは北日本新聞や北日本放送の社長を務めた横山四郎右衛門のことで、岩佐虎一郎が北陸日日新聞で健筆を振るっていた頃は富山新報で編集局長を務めていた。だから「岩佐とは知っている」のも当然。それにしても、国泰寺管長から300万円も「まきあげた」とは……。「太稚庵はだか日記」を読んで行くと、「まきあげられた」側の寺本宗演は管長を辞職し、その後、還俗したという話もあるし、さる住職の話として「美濃の正眼寺で雲水からやり直すのだといって修行しておられるそうで」ともあって情報は錯綜しているものの、人生のやり直しを迫られるような深刻な事態であったのは間違いないようだ。300万円もの損害を寺に負わせたとなれば、そういうことになるだろう。ただ、それよりも、岩佐虎一郎だよ。おれは岩佐虎一郎には思想犯としての前歴があったのではと睨んでいるのだが(これについては『有合亭ストーリーズ』でも書いた)、どう見たってこの件は思想的背景があるものではなさそう。ということは……よほど追いつめられていたのかねえ、経済的に。岩佐虎一郎は『北日本年鑑』昭和36年版では「著述業」とされている。しかし、富山で著述業で喰って行けたかどうかは疑わしい。追いつめられ、犯罪に手を染める、ということも考えられないことではない。そして、事実、彼はそういう禁を犯してしまった……ということか?

 ただ、そうだとしても、おれのこの人物に対する思いは変わらない。もう一度書くが、『有合亭ストーリーズ』では主人公の「おれ」は最後に岩佐虎一郎に会いに行くのだ、「この時代に〝異邦人〞として参加しているという意味ではおれも彼も同じだった。かつての自由主義者から転じて、国家主義者として時局に便乗しようとしている彼は、本当のところ、どう思っているのだろう?」との思いを持って。そういう「多生の縁」を結んでしまったわけで……それを袖にするほど、おれは薄情な人間ではないつもりだ。で、現にこうして岩佐虎一郎について書いているわけだ、細田守の『果てしなきスカーレット』にこじつけて。しかし、こじつけだろうがなんだろうが、年の終りにこんな記事を書けておれ的には満足かな。今年は、大道重次と岩佐虎一郎の年だったので。この二人と「多生の縁」を結んだ年。その年の最後にまた岩佐虎一郎について書くことができた。『有合亭ストーリーズ』でも主人公の「おれ」は最後に岩佐虎一郎に会いに行ったわけで……南田町一五五番地の岩佐虎一郎の家を探し当て、ガラス戸を開けて、岩佐さん! と呼びかけると、奥から「はーい」と女性の声が返ってきて……。