「日本の古本屋」で『神日本』第1篇が1万円で売られている。『神日本』第1篇は国立国会図書館にも富山県立図書館にも所蔵がなく、確かに希少書ではある。しかし、1万円はどうだろう。実はおれはこの本を持っていて(こちらです)、買値は1900円だった。こんなもんだと思うぞ。だって、大道重次なんてほぼほぼ忘れられた思想家だから。北日本新聞社発行の『富山大百科事典』には載っているけれど、ウィキペディアにはページがない――、その程度の存在。『神日本』第1篇はそんな大道重次が昭和2年に立ち上げた日本農人社から昭和10年1月に発行されたもので、以後、昭和14年まで全4篇が発行された(なお、発行元は第2篇から立山塾に変更になっている。ただし、所在地は上新川郡大山村文殊寺九番地のまま)。この内、第2篇と第3篇はデジコレで閲覧可能で、第4篇はまたまた希少書となるものの、こちらは去年4月にヤフオクで落札された記録が残っている。落札価格は1000円。だから、第1篇の売値が1万円というのはいかにも不相応。でも、今年は昭和元年(1926年)から起算して満100年を迎える記念の年でもあるし。これをモーメンタムとして昭和初期の国家主義運動が再評価されることにでもなれば、その真っ只中にいた大道重次にもスポットライトが当たる、ということは十分に考えられる可能性で……もしかしたら、名古屋市にある(らしい)古本屋もそれを当て込んだのかな? さて、そんな大道重次をおれは『有合亭ストーリーズ』の最重要人物の一人としてフィーチャーしたわけだけれど、おれにとっての大道重次は大正15年に出版された『しんせいかい』第1号に掲載された一文に尽きると言っていい。『しんせいかい』というのは大道重次が日本農人社を立ち上げる前に主宰していた宗教コミューンみたいなものがあって(大道重次は大本教の道場に出入りしていたことがあって、その言動には拭っても拭い切れない宗教臭がする。ただ、宮沢賢治だって日蓮宗系の国柱会に出入りしていたことがあるわけで、宗教臭がすることを以てどうこう決めつけるのは間違っていると思う)、その機関誌だったようなのだけれど、やはり国立国会図書館にも富山県立図書館にも所蔵がない。ただ、元富山県立図書館々長の高井進氏が大道重次の親族にも取材して書いた「昭和恐慌と大道重次の新農村」(梅原隆章退官記念論集『歴史への視点』所収)で紹介されており、そこから孫引きする形で『有合亭ストーリーズ』で紹介したのが次の下り(一部、ひらがな⇄カタカナに訂正)――
軍備ノ充実乎、軍備ノ撤廃乎、左傾乎、右傾乎。旧案ハ老耄カラ、新案ハ生齧リカラ出テ居ル夢デナイ乎。更ニ産業立国、経済立国、進ンデ教育、宗教、政治、芸術、哲学、科学立国等ヲ唱ヘル者アリトスレバ共ニ枝葉問題デアル。是レ等ノ一切ヲ抱擁シタル人類立国=釈迦トまるくす、なぽれおんトとるすとい、かんとト老子、大杉ト甘粕、労働者ト資本家ガ調和シ手ヲ取ツテ行ケル世界。是レハ人間ガ人間ヲ真解スレバ何デモ無イ。此ノ何デモ無イ道ノ普及者ハ「しんせいかい」デアル。
ここに出てくる「大杉ト甘粕……ガ調和シ手ヲ取ツテ行ケル世界」というプレゼンテーションには、心底、衝撃を受けた。で、一発でこの人物にハマってしまったのだ。そして、『有合亭ストーリーズ』では、昭和4年の富山に〝転生〟した「おれ」は真っ先に大道重次に会いに行くという……。
そんな昭和4年時点における大道重次の正体を一言で表すならば、それは「農本主義者」ということになるだろう。農業を国家の下部構造と捉えた上で、その農業を人間の本分とする思想――、それが農本主義。だから、羅須地人協会を主宰した宮沢賢治も農本主義者だし、有島農場を主宰した有島武郎も農本主義者、ということになる。当然、上新川郡大山村文殊寺の山中で日本農人社/立山塾を主宰していた大道重次も農本主義者、ということになる。で、昭和初年とは、そんな農本主義者(たち)が国家主義運動に取り込まれて行く過程、と見なすことができる。その最もドラスチックな例が「兵農決死隊」を組織して五・一五事件に参加した橘孝三郎だが、実は宮沢賢治でさえこういう流れと無縁ではなかった。これはあまり知られていない事実だけれど、昭和8年8月、賢治は羅須地人協会の会員だった伊藤与蔵に宛てた手紙でこんなことを書いている――「(略)然しながら亦万里長城に日章旗が翻へるとか、北京を南方指呼の間に望んで全軍傲らず水のやうに静まり返ってゐるというやうなことは、私共が全くの子供のときから、何べんもどこかで見た絵であるやうにも思ひ、あらゆる辛酸に尚よく耐へてその中に参加してゐられる方々が何とも羨ましく(と申しては僭越ですがまあそんなやうに)感ずることもあるのです。/殊に江刺郡の平野宗といふ人とか、あなたとか、知ってゐる人たちも今現にその中に居られるといふやうなこと、既に熱河錦州の民が皇化を讃へて生活の堵に安じてゐるというやうなこと、いろいろこの三年の間の世界の転変を不思議なやうにさへ思ひます」。これを読めば、あの賢治でさえもが十分に国家主義者としての一面を有していたことがわかるだろう。農業を国家の下部構造と捉える思想に立脚している以上、農本主義者が国家主義者と化すのは当然と言えた。そして、大道重次は正にそういう〝道〟を突き進んで行くことになるのだが……その歩みは他に例がないユニークなもので。ここでざっとそのあらましを記すならば――
大道重次は北一輝と並ぶ昭和初年の国家主義運動のグルとも言うべき大川周明と親交があり、昭和7年2月11日、大川が中心となって神武会が設立されると、同月14日には富山市新富町の栄楽座で日本農人社が主催団体となって神武会の公演会を開催。さらには4月にも富山市梅沢町の光厳寺(初代富山藩主・前田利次の菩提寺)で二度目の公演会を開催。このときは聴衆は250名を数えたという。そして、五・一五事件が発生する10日前の5月5日には中新川郡立山村岩峅寺の雄山神社拝殿で賛同者二十数名を集め、宣誓式を挙行した。一体、何の宣誓式かと言うと……「立山十字軍」旗揚げの宣誓式。なんとも、不穏。ただ、クーデターが不発に終ってしまったからか、「立山十字軍」は特に何をするということもなく、これきり歴史から姿を消してしまう。一体、何を目的とした〝軍〟だったのか……? で、大川周明が事件に連座して逮捕され、禁固5年の有罪判決を受けたこともあって、以後、日本農人社は本来の農業道場に立ち返ったかというと、そうでもない。それをうかがわせる記載が昭和8年3月に日本農人社から発行された『国難に臨み警告と声明』と題するパンフレットに掲載されていて――「他は知らないが県下に於ける吾等の同志に杞憂さるゝが如き非合法的な考へを以て居る者はなく、其の非合法的な事があればこそ、此の大合法的吾等の運動は必要なので、左傾右傾フアツシヨとは以ての外である。此の土から生れた日本人にして富山県民も又他県の同志も断じて、日本の青史を汚し、郷士の面目を失墜するが如き事はあるべき事でない。苟も東亜の風雲急なるを知り、祖宗の遺訓に本づいて此処に健実な足踏みをする者。万一同志の中に此の精神に悖る者ありとすれば速かに自決すべく。又妨ぐる非道の者あらば徹底的に調伏すべきである」。この当時、日本農人社が周囲からどう見られていたかを端的に物語っていると言っていい。で、組織の長としてあらぬ憶測を払拭しようとしたわけだけれど……はたしてそれが本当に「あらぬ憶測」だったのかどうか? というのも、その後、日本農人社は立山塾と改組され、その機関誌として『神日本』を発行することになるのだが、昭和10年6月22日発行の第2篇では「大戒厳令」の布告を唱えていたのだ――「奸臣を退け、悪業を正し、邪行を改めさすには、タゞ精神作興とか国民教化とかと云ふ生ヤサシイ事で道は行はるゝものではない。况して、精算さるべき覇者、彼の政、教、法等を売り物食ひ物にしてゐる不耕貪食の没道漢に依つて宣伝されるやうな事で道は立つものか。乞ふ大達観せよ」「この長い間の悪の惰性を正規に復せしむるには、謂ゆる常世の暗を啓くには○○○○に依り全国に戒厳令を布き、第一に中間の妖雲を払ひ、一切の邪悪を精算し、進んで国家総動員で、日本精神、日本的生活、日本的制度を再興し、日本をして日本たらしめ次の世界皇化へ」。ここではそういう言葉は使われていないものの、「大戒厳令」の布告による一気呵成の「昭和維新」を訴えていると言っていいだろう。そして、それを正に実行しようとした青年将校らの決起――世に言う二・二六事件は明くる昭和11年に起きている。で、五・一五事件では連座を免れた大道重次だったが、二・二六事件はそうは行かなかった。文献により、記されている事実には揺らぎも認められるのだが、大山村を管轄に収める新庄署に拘引されたとするもの(富山新聞社編『越中の群像:富山県百年の軌跡』)もれば、金沢の師団本部に呼び出され陸軍軍法会議の出張審問を受けたとするもの(大山町教育委員会編『郷土の群像:ふるさと大山の先賢』)もあって、正確な事実は把握しがたい。ただ、起訴されるには至らなかった。そのため、大道重次の事件への関与はなかったと見なすのが順当だが――ただ、松本清張・藤井康栄編『二・二六事件=研究資料』には大道重次の名前も登場する。「陸軍一部将校ノ動静概況」中、「第四十五期ノ砲工校学生」に関する記載として――「追テ明石中尉ハ二十七日夜富山県下立山塾頭大道重二〔ママ〕ノ来訪ヲ受ケ共ニ同夜上野発退京セリ」(注:二十七日とは二月二十七日ではなく、十一月二十七日)。ここに出てくる「明石中尉」とは富山県魚津市出身の明石寛二砲兵中尉のことで、北一輝や西田税とも交流があったとされる(前述『越中の群像:富山県百年の軌跡』)。大道重次はそんな〝青年将校〟と行をともにしていたということ。いずれにしても、『二・二六事件=研究資料』などという本に名前が登場するだけでも相当に穏当を欠いていると言わざるを得ないわけで、そうした〝名前〟を慕って集まってくる若者も後を断たず、そんな一人に岩田孝三という人物がいた。島根県能義郡赤江村生まれで、昭和15年7月5日、〝季節外れのクーデター〟とも言うべき皇民有志蹶起事件(七・五事件)で逮捕され、懲役2年の有罪判決を受けている(なお、同事件では他にも2人の塾生が逮捕されているが、1人は懲役1年、もう1人は応召服務のため公訴棄却となった)。
こう見て来ると大道重次が「昭和維新」に極めて近いところにいたことは間違いないだろう。ただ、結局、彼自身が何らかの行動に打って出ることはなかった。彼は農本主義者としての分を守り通し、その限りで当時の国家主義運動に「翼賛」した。具体的に言えば、昭和13年、彼は満洲国浜江省立農民訓練所から所長として招聘された。この前年、大川周明が保釈となっており、満鉄の付属機関・東亜経済調査局の理事長として満洲に太いパイプを持っていたことを考えるなら、大川の口利きがあった可能性もある(実際、『大川周明日記』昭和14年1月26日の条には「大道重次君来訪」とあり、この時期、大道重次が大川邸に出入りしていたことが裏付けられる)。ともあれ、浜江省立農民訓練所の所長となった大道重次だが、彼がユニークなのは、所長には就任したものの、訓練所は塾頭である石黒武夫(後に農協の協会長や自民党の県会議員を務めた人物)に任せ、自らは引き続き立山塾で塾生らの指導に当たったこと。そして、その立山塾へ満洲の青年らを招いたのだ。浜江省から13名の青年が文殊寺にやってきたのは昭和13年10月26日のことで、この事実を報じた北陸日日新聞の記事では――「満洲国浜江省各県選抜の十八歳から二十五歳までの志操堅固体格強健な中堅青年十三名が今春同省から省立農民訓練所の所長として招聘せられた、富山県上新川郡大山村文殊寺仙人篤農家愛国思想家大道重次氏に引率せられ去る二十六日来県。一行は向ふ一ケ年間の予定で農業経営の実地と理論を研究のため同郡福沢村東黒牧の五万町歩の荒地を開墾し自給自足の修練を積むことゝし二十九日入所式を挙行するが、これ等の青年留学生は一年間の課程を終へ帰国後専門学校卒業程度の資格を与へられ官吏の地位につくものである」。また11月14日にはは開墾予定地である福沢村東黒牧(立山塾がある大山村文殊寺からは谷を挟んだ西側となる。今、その場所には富山国際大学が建っており、同校の『開学30周年記念誌』にもこの事実は記載されている)と同じ福沢村内にある富山県青年修練道場で県や青年団関係者との交歓会(記事では「座談会」とも書かれており、一種のシンポジウムのようなものだったとも考えられる)が催された。これはね、おれはスバラシイと思うんだよ。農本主義者として当時の国家主義運動に「翼賛」する、その最高の形ではないかと思う。ちなみに、このシンポジウムに参加した王根岩と同姓同名の人物が描いた絵がこちらの本に掲載されている。浜江省の人らしいので、多分、同一人物では?
――と、こんな感じで、昭和初年の国家主義運動に「翼賛」した大道重次ではあるが、案の定と言うべきか、戦後、GHQにより公職追放処分となる。これは、致し方ないところ。雄姿塾を立ち上げて青少年の指導に当っただけの岩佐虎一郎でさえ公職追放処分を受けているのだから(岩佐虎一郎は大道重次と並ぶ『有合亭ストーリーズ』の最重要人物の一人で北陸日日新聞における「おれ」の上司に当たる)。そんな大道重次が再び陽の当る場所に登場したのは昭和32年のことで、7月11日、北日本新聞社で開催された「世界連邦富山支部設立準備会」に姿を現し、周囲を驚かせた(らしい。翁久允は『高志人』の連載「太稚庵はだか日記」でこう書いている――「時間が来たので行つてみると、集つている人達の顔触れは殆ど見慣れない人達である。中に一人の黒い頬髯を生やした人がいるが、どこかで見たような人だと思出したら農民道場の大道重次氏だつた」)。で、なんでこんな晴れの場に大道重次が姿を現したかだけれど……これについては、この「世界連邦富山支部設立準備会」といういささか香ばしい匂いもするイベントのウラがわかれば納得。実は、このイベント、主催したのは大本教の関連団体である人類愛善会だったのだ。これについては大本北陸本苑編『大本北陸五十年史』に記載がある――「昭和三十二年七月三日、世界連邦運動の呼びかけで会員が富山市を初め〔ママ〕県下各都市の盛り場に出て運動した。一方小山内匠富山新聞論説委員の働きかけで富山県が三十二年九月二十七日国内二番目の世界連邦県宣言を行い、前知事高辻武邦氏を支部長とする世界連邦建設同盟富山県支部も結成され、馬瀬洋氏ら愛善会員らが活動の中核となった」。なんでも当時の北國新聞社(富山新聞社の親会社)の社長・嵯峨保二が大本教の大幹部(北陸本苑初代本苑長)とかで、「小山内匠富山新聞論説委員の働きかけで」云々もそういうウラがあってのことだろうね。ともあれ、もともと大道重次は大本教の道場に出入りしていたわけだから、事実上、大本教の主催イベントである「世界連邦富山支部設立準備会」に姿を現しても不思議はない、ということになる。また大道重次の戦後の活動としてはもう一つ知られている事実があって、大山町発行の『大山の歴史』によれば、昭和42年、大道重次が文殊寺の土地を提供して富山国際センターなる施設が開設されている。施設を運営していたのはOISCA(産業・精神文化促進機関)という団体で、一見すると政府の外郭団体か何かのようですが、実は大本教の流れを汲む三五教(あなないきょう)の関連団体(三五教の教組・中野與之助がOISCAの初代会長)。こんなふうに戦後はやたらと宗教臭が強くなるのだが、高井進氏はそんな戦後の歩みをまとめて――「戦後は失われた理想郷の再建を計画、〈平和・健康・文化の理念は大自然の精神によってのみ培われる〉とし、文殊寺山に設けた〈大自然文化研究所〉を拠点に生涯〈軍備撤廃による世界一国家〉の建設を叫び続けた」。このまとめ方は、なかなかに思いやりが感じられて、イイ。
さて、そんな大道重次の夢の結晶であり、わが国におけるコミューン運動の〝標本〟でもある日本農人社/立山塾/大自然文化研究所は、今、どうなっているかというと――

これが日本農人社/立山塾/大自然文化研究所の所在地とされる上新川郡大山村文殊寺九番地の現在(撮影日は2025年4月19日)。こっから先は私有地なので許可なく立ち入ることはできませんが(一応、コンプラなんとかに従って、そういうことにしておきます。ただ、ここはフィリップ・トルシエの言葉を紹介しておこうか。日韓ワールドカップで日本代表を指揮したフィリップ・トルシエはかつてこんなふうに日本人のメンタリティを語ったことがある――「日本人はたとえ車が来ていなかったとしても、信号が赤ならば誰も渡らない」。そんなただでさえ規範意識の強い国民がコンプラなんとかでがんじ搦めになっていよいよ身動きがとれなくなっている。こんなさ、柵さえ設けられていない土地にかつての日本農人社/立山塾/大自然文化研究所の痕跡を求めて立ち入って何枚かの写真を撮ってそれをブログで公表したとして、どんな差し障りがあるってんだ? たとえば、こんなふうに……)、かつての痕跡は何にも残っていない、というのはわかりますよね。これには、寂寞たるものを覚えざるを得ませんよ。「今はこみ上げる 寂寞の思いに」ってやつだ……。ただ、近くにはよく手入れされた果樹園もあって(こちらです)、日本農人社/立山塾/大自然文化研究所の忘れ形見であるのは間違いないでしょう(大道重次は司法省刑事局編『国家主義乃至国家社会主義団体輯覧』では「果樹園経営」とされており、『農人』第1号でも「人口問題に行詰らんとして居る日本の更生法として山間に天然果樹園の開拓である、即ち園芸的技巧に囚はれざる自然法に基づいて、無肥料的栽培に依つて至全生活に適した良質の食物を得る事である」と「天然果樹園の開拓」を推奨していた)。そう考えるならば、大道重次(の理想)は生きている、とも言えるわけだけれど……今年、そんな大道重次に再びスポットライトが当たることになるのだろうか……?