富山市東町はかつて遊廓だったところで、往時は東新地(読みは『日本漫遊案内』だと「ひがししんち」、『越中名勝案内』だと「あづましんち」。まあ、今の住所が「ひがしまち」だし、日本初のトラベルライターとの見方もある松川二郎の『全國花街めぐり』でも「ひがししんち」になっているので「ひがししんち」とする方が自然かな?)とも東廓(こちらは当時の新聞では「とうくわく」とルビが振られている)とも呼ばれ、県下随一の色街だった。この東町、おれが通っていた富山市立東部中学校の校区(通学区域)に含まれており、卒業アルバムで確認するとつきあいのあったクラスメートの中にも東町に住んでいた子がいたことがわかった。斎藤衛くんがそうで、おれは二年生になると斎藤くんに誘われてサッカー部に入部している。当然、おれとしては玉井真吾になるつもりだったのだが、練習試合か何かでやらされたのがバックスで、それが不満で1か月ほどでやめてしまった。以来、おれは中学校卒業まで帰宅部を貫いた。斎藤くんとのつきあいも深まることはなく、彼の家がどこかなんて知ることもなかった。そうか、斎藤くんは東町に住んでいたのかあ。体型的には大平洋介にそっくりで、なるほど、かつての廓内に住んでいたとわかれば、どことなくそんな雰囲気がしないこともないなあ……。
ここで、Googleマップを見てもらうことにしよう。
東廓は大きく3つのゾーンに分れており、北から順に北ノ丁、中ノ丁、南ノ丁と呼ばれていた。これを今の住所に当てはめるならば、北ノ丁が東町一丁目、中ノ丁が東町二丁目、南ノ丁が東町三丁目となる。検番(管理事務所)は南ノ丁にあり、Googleマップの赤線で囲まれた区画(うん、実に的確な表現だ)の左下(南西)の角あたりにあった。その前の道を西に辿るとやがて雪見通りに出ますが、ここに当時は市内電車の雪見橋停留所があり、ここが最寄り駅となる(松川二郎は『全國花街めぐり』で東田地方停留所を最寄り駅としていますが、これは間違い。多分、「東」という一字が共通するので勘違いしたのだろう)。で、遊客は検番で何らかの手続きをして(これが、よくわからない。もしかしたら、ここでいくばくかの手数料を取られるのかな?)廓内に入る――と考えるなら、この検番のある南西の角が東廓の正面玄関となる。で、おれは『有合亭ストーリーズ』で主人公の「おれ」に富山県警察部刑事課の巡査部長・島地林作を〝尾行〟させたのだが、島地林作はこの東廓の正面玄関である南ノ丁からではなく、北ノ丁から東廓に踏み込む。〝暴力刑事〟である島地林作が生真面目に正面玄関から東廓に踏み込むというのはらしくないと考えたわけだけれど……じゃあ、島地林作はどういうルートを通って東廓に行ったのか? 実は、そこもちゃんと考えた。当時、富山県警察部は富山城址に建つ赤十字社富山支部に間借りしていたのだが、この富山城址から東廓までの道順を考えたということ。で、ここはぜひ↑のGoogleマップをズームインしたりズームアウトしたり右に左にスクロールしながら読んでいただきたいのだけれど……当時、今の国道41号線はなかった。ただ、概ね41号線に沿った道はあって、島地林作もその道を歩いた――雪見通りに突き当たるまでは。しかし、こっから先は41号線に相当する道はない。代わって、かつての北国街道を行くことになる。↑のGoogleマップだと北新町交差点を少し東に行ったところから北東方向に分岐したやや広めの道がありますよね。これがかつての北国街道。ちなみに、上杉謙信は生涯に10度、越中に〝出馬〟していますが(富山市郷土博物館が平成29年の特別展「謙信 越中出馬」で一切の忖度なしに暴露した事実)、その都度、この北国街道を馬で駆けた。言っちゃなんだが、上杉謙信なんて越中からすれば〝侵略者〟ですよ。彼は越中を越後の属国だと思っていた。ちょうどプーチンがウクライナをそう思っているようなもの。だから、何かと言っては越中に軍を進めた。元亀3年、上杉軍と越中の一向一揆軍が激突した(とされる)尻垂坂の合戦が繰り広げられたのも北国街道沿い。そういう歴史の道ではあります。ともあれ、そんなエピソードも有する旧街道なので、当時、街道沿いには店が建ち並んでおり、殷賑を極めていた。その旧北国街道を島地林作は歩いた。そして、今、長江東生園がある辺りで小路を右に折れ、極成寺の前を通って太田和彦が『居酒屋放浪記』で立ち寄った「舞子」の横に出た(言うまでもなく、当時、「舞子」はない)。「舞子」の前は今は国道41号線だが、当時は細く短い道があるだけで(これについては昭和15年に出版された『最新實測富山市街地圖』でご確認いただければ)、その道を東に進めばすぐに奥田用水に突き当たる。そして、用水に架かった橋を渡れば……そこが北ノ丁だった。島地林作のキャラを考え、生真面目に正面玄関から東廓に踏み込むのはらしくないとして、こんな道順まで考えたおれって……やっぱりみゃあらくもんだよなあ(苦笑)。
ただ、そんなみゃあらくもんとしては、ここでぜひとも書いておきたい事実があって、それはかの阿部定が19歳のときに「春治」と名乗って「左褄をとる」(当時の北陸日日新聞の記事で使われている表現。「左褄をとる」は「芸者をする」ことの婉曲表現)生活をしていたのがこの東廓であり、春治を抱える妓楼があったのが北ノ丁だということ。しかも、その店――平安楼は格式の高い店だった。東廓の表玄関が南ノ丁で、必然的に南ノ丁の方が賑わっていたと考えがちだけれど、実は東廓の業界団体である東廓二業組合の取締を長年に亘って務めていたのも平安楼の楼主である上田菊次郎という人物。この人物については『富山県知名人物大鑑』に記載があって――「君は慶応三年八月生れ富山市清水町に住す、東廓二業組合取締として二十数年就職して今日に及ぶ、大正七年五月富山市会議員に選挙せられ更に再選して現在に及べり」。そんな〝名士〟が経営するだけに平安楼の格式もそれなりのものとなるわけで、いわゆる〝待合政治〟の場として使われていたことをうかがわせる記載もちらほら見受けられる(たとえば、元富山日報の記者・長崎正間が昭和34年に上梓した『今昔』というインタビュー集では「ところがこの臨時県会と前後していわゆる知事の自動車乱用問題がおきました。このころ県では乗用車を購入し東園知事は早速この乗用車(富一号)に富山市東廓平安楼の老松という美妓をのせて東京へ地方長官会議に出かけ、赤坂、柳橋などをのりまわしていたことが憲政会にわかり」云々。東京出張に〝同伴〟するくらいだから、知事がどんだけ平安楼に入り浸っていたかは容易に想像がつく)。また映画の撮影が行われたこともあるらしい(『高志人』で金井ひさしという人がそういう趣旨のことを書いている。平安楼の庭前などで撮影されたそうだが、こちらの本に平安楼の写真が載っていて……なるほど、雰囲気はあるかな)。そんな店で阿部定が左褄をとっていたとすれば、少なくとも19歳ころの彼女はそれほど不幸な境遇にあったわけではないのでは? 東京市神田区の畳屋の娘として生まれ、小学校に上がる前から三味線や常磐津を習うなどそれなりに恵まれた家庭環境に育ったものの、生来の男好きが高じて横浜市住吉町の芸妓屋を皮切りに芸妓生活に入り、岐阜・長野を経て富山に流れ着いた――とその足跡を跡付けるならばどうしたって「転落」の二文字を重ねたくなるのだけれど、その店は政財界の名士も出入りする名店で、定の前借が1300円だったことを考えても、彼女の〝商品価値〟は決して低くはなかったんだよ。だから、少なくとも富山に流れ着いたころまではそれほど「転落」してはいなかったんだと思うな。ただ、どうしようもなく手癖が悪かったとされていて、上田菊次郎曰く「一年半も落着いてゐたのですが生来の盗癖からか、同僚の三味線の撥を盗んだり、帯留めを盗んだりしましたので夫となく注意を与へてゐましたが近所の女髪結屋で鏡台の抽斗から紫水玉の簪を盗だのが運の尽きで廓に居られなくなつたのです」。で、その後は長野県飯田市の店に移ったらしいが、昭和2年には娼妓に身を落とした。そして、以後は落ちるばかり……。
ともあれ、『有合亭ストーリーズ』で島地林作と「おれ」が足を踏み入れた北ノ丁には平安楼という妓楼があったわけだけれど……実は、ここは文字通り「あった」と過去形で記す必要がある。というのも、このエピソードの時代背景である昭和8年の時点で平安楼は既に廃業していたようなので。これについては、ハッキリとした裏付けとなる文献は見当たらず、片々たる事実から推察するしかないのだけれど……まず、昭和4年8月2日付け『官報』によれば「債務者上田菊次郎ヲ破産者トス」。また、昭和6年8月31日付け『官報』によれば「破産者ヨリ左記条件ニ依ル強制和議ノ提供アリタルヲ以テ強制和議ノ為メノ債権者集会ヲ昭和六年九月十九日午前十時当裁判所ニ招集ス」。その条件とは「金四千百七十一円八十二銭ヨリ破産手続費用全部ヲ控除シタル残額ヲ強制和議認可決定確定ノ日ヨリ五日以内ニ各債権者ニ按分シテ支払スルコト」。そして、昭和6年10月26日付け『官報』によれば「本件破産手続ハ終結ス」。強制和議の条件が果たされたので10月26日を以て破産手続は終結した――と、そういうことだろう。しかし、これにより上田菊次郎は丸裸になった、多分。そして、東新地の平安楼も手放した、多分。それを裏付けるように、大日本商工会編『大日本商工録』昭和3年版の富山県の「和洋料理 席貸」の項には上田菊次郎という名前が記載されているのだけれど、以後、消えている。だから、この見立ててまず間違いないだろう。何がどうしてこうなったのかはわからないが……まあ、しくじったんだろうなあ。で、阿部定事件が発生した当時、上田菊次郎は富山日報と北陸日日新聞の取材を受けているのだけれど、富山日報の記事だと「当時の楼主であつた、上田菊次郎氏(映画劇場横菓子舗)を訪へばこう話した」「えツ、あれが私とこにゐた春治ですつて!」。だから、この時点で上田菊次郎は富山市二番町の富山映画劇場(についてはこちらに記載がある)横で菓子舗を営んでいたのだ。長年に亘って東廓二業組合の取締を務め、富山市議会議員にまで成り上がっていた男が。要するに、「転落」したのは阿部定ばかりではなかったということ……。
ところで、『有合亭ストーリーズ』ではおれ――というか、「おれ」は北陸日日新聞社会部の記者で、北陸日日新聞に掲載されたさまざまな記事を「おれ」が書いたことにさせてもらったわけだけれど……では、北陸日日新聞の5月23日付け1面に掲載された上田菊次郎に対するインタビューも「おれ」が書いたかというと、さにあらず。このとき「おれ」は整理部に配置替えとなっており、この一件にはノータッチだったということにした。わざわざそういうことにしたわけで……なぜか? これね、なかなか説明するのが難しいんだけれど、上田菊次郎という人物に対するおれ自身のスタンスを決めきれなかった、ということになるだろう。まだ彼が破産する前の昭和3年刊行の『富山県知名人物大鑑』では上田菊次郎の経歴は実に麗々しく飾られているわけだけれど、それは彼自身ばかりではなく、長男夫婦にも及んでいて――「長嗣徳治郎君は京都帝大化学工科を卒業し日本毛織物株式会社の技師として在勤し同婦うた子は京都府立第一高等女学校家事裁縫科を卒業し現に京都家政高等学校女学校に奉職す」。このね、職歴や学歴を身を飾るための装飾と思い込んでいるかのような俗物ぶり。しかし、その正体は何かと言えば「忘八」じゃないか。そういう人物に対して、どう接すればいいのか? それを決めきれなかったということ。そりゃあ、妓楼の主人として女を食い物にする一方、自らの子には高等教育を受けさせているわけだから。それは、どーなんだよ、というのは誰しも思うところでしょう。
ただ、一方で、この時代(昭和初年)は廃娼運動が盛んで、富山県議会も昭和12年12月14日に公娼制度廃止を決議している。「おれ」に上田菊次郎に会いに行くのを回避させたおれはこの事態に諸手を挙げて賛成――かと言えば、さにあらず。おれは『有合亭ストーリーズ』でこの動きにも疑義を挟んでいる。これねえ、矛盾っちゃあ矛盾なんだけれど……おれの中には公娼であれ私娼であれ身を売らなければならない女たちに対するリスペクトがある。で、あえて言うならば、廃娼を声高に叫んだ女史たち――それは、山川菊栄や星カズヱだったりするわけだけれど――とは、金輪際、無縁な世界がそこにあったんだと。それは、一言で言えば、「鉄火場」と言っていいのでは? おれに言わせれば、娼婦とは「鉄火場の女」なのだ。そういう修羅の巷に生きる女……、そんな女たちに対するリスペクトがおれの中にはある。たとえば、堀口直江という娼婦がいた。浅草十二階下の娼婦で、大杉栄の仇を討とうとして関東大震災当時の戒厳司令官・福田雅太郎陸軍大将を狙撃しようとした和田久太郎と「灼熱的な恋愛」(秋山清)をした。二人は那須温泉で出会ったとされ、このとき、堀口直江は梅毒の治療のために那須温泉を訪れていたとされる。和田久太郎は、そんな堀口直江と恋に落ちた。しかし、梅毒は恐ろしい病気だよ。結局、堀口直江はこの病気が元で命を落とすことになる。そして、最後は埼玉県大里郡妻沼町にある生家に引き取られ、その離れ(物置小屋!)に寝かされていた。和田久太郎は、そんな堀口直江を探し当て、迎えに行くのだが、気の強い堀口直江はこう言い放ったという――「いいよ。何処へも行かないよ。放つといておくれ、妾は此処で斯うして死んでやるんだ」。
ここで、和田久太郎が詠んだ短歌を紹介しよう。和田久太郎は酔蜂という俳号を持つ俳人でもあったのだが、昭和2年に獄中出版した『獄窓から』には「あくびの泪」と題する歌集も収められていて、その中には妻沼に堀口直江を訪ねたときのことを詠んだこんな短歌も――
妻沼の里
悪毒にくずおほれたる體よりなほ巻き舌を強く放ちき
村芝居掛ると言ひし若者に爛だれし顔を「どうだ行かうか」
意地に生き意地に死したる彼の女の強きこころを我悲しまじ
梅毒に蝕まれ、余命いくばくもないという状態になって生家の物置小屋に寝かされている堀口直江だが、それでも勝ち気に言い放つわけだよ、自分を厄介者扱いする家族へのせめてもの当てつけで、「妾は此処で斯うして死んでやるんだ」と、巻き舌で。この勝ち気さこそは堀口直江の魅力で(和田久太郎も書いている「あれが即ち奴だ。奴の全部だつたのだ」と)……おれは、堀口直江に教えられる思いなんだよ。人間、最後まで持ちつづけるべきは、この勝ち気さではないかと……。
そんな思いを抱くおれからするならば、山川菊栄や星カズヱのような〝お嬢様〟が唱える廃娼論なんてちゃんちゃらおかしいというか。ここには、金輪際(と、再びこの強い否定語を使おう。ちなみに「金輪際」とは仏教語だそうで、浄土真宗本願寺派「仏教語豆事典」によれば――「私たちにとっては、これより先のない、ぎりぎりのところ、われわれの世界の最下底という意味なので、金輪際の「際」は「果て」ということです」。つまり、この世に生きている限りは、ということかな?)、わかり合うことのできない世界の断絶がある。

こうなると、むしろ上田菊次郎のような「忘八」の方が好ましいというか。そんな気にもなってくるんだよ。そう思って↑の上田菊次郎の顔写真をとっくりと眺めると、どことなく『べらぼう』で高橋克実が演じた駿河屋市右衛門に似ているような。表情の険しさなんてそっくりと言っていいレベルかと。だから、上田菊次郎を駿河屋市右衛門のような人物だったと見なすならば会っておいてもよかったかなあ、と。しかも、上田菊次郎は阿部定事件が発生し、渦中の〝妖婦〟がかつて東廓にいたとわかって富山が大騒ぎとなった昭和11年当時、既に社会的名声を失っていたわけだから。かつては富山市議会議員まで務めながら、今はしがない菓子舗の主人。そんな人生の浮き沈みを経験した男ならではの境地を高橋克実ならば上手に表現してくれるだろう(もう高橋克実は『トリビアの泉』をやっていた頃の高橋克実ではない)。で、菓子舗の店先で北陸日日新聞社会部記者の「おれ」に向かって言うわけだな、「えツ、あれが私とこにゐた春治ですつて!」と。もっとも、上田菊次郎が「えツ、あれが私とこにゐた春治ですつて!」と語ったのは富山日報の記者に対して。北陸日日新聞の記事では上田菊次郎の反応はもっと冷静で――「猟奇殺人事件の女主人公阿部定(三一)を抱へてゐたという元平安楼主上田菊次郎氏を市内総曲輪の自宅に訪へば「それは全く意外です」と暫し言葉も出ぬほどに呆れかへり」。おそらく北陸日日新聞の記者は出遅れたんだろうね。で、彼が行ったときは上田菊次郎は知っていたんだよ、富山日報の記者から聞いて。だから、この点でも上田菊次郎に会いに行くのは気が進まないというか……。ただ、『有合亭ストーリーズ』で「おれ」が上田菊次郎に会いに行かなかったのは、上田菊次郎に対するスタンスを決めきれなかったというのがいちばんの理由と言っていい。要するに、おれはこの人物をリスペクトできるのかどうか。できる、とは言いがたい。ただ、今となってはそこはかとない人間的魅力を感じているのは事実。つーか、結構、その思いは強くなってきているかも知れない。それだけ『べらぼう』に登場した「忘八」どもが魅力的だったということかな? だから、今だったらおれは「おれ」を上田菊次郎に会わせているかも知れない。そして、阿部定――ではなく、堀口直江のことを話させているだろう。堀口直江と和田久太郎の「灼熱的な恋愛」の話を。そして、その「灼熱的な恋愛」のプロモーターこそは、上田さん、あなたたち「忘八」だったんですよ――と、そんなことを? そう言われて、上田菊次郎がどう答えるかはわからないけれど……ここは、上田菊次郎なりの精一杯の勝ち気さで「べらぼうめ」とでも言ってくれれば申し分なし……。