去年の1月以来、ためらいながらも(こんなことやって何か意味があるのだろうか?)繰り広げてきた文学的エンデバーが、今日(3月31日)、最終的に終った。
この間、書いたのは長編が1本、短編が1本、その短編を一部手直しして連作短編に仕立てたものが1本の計3本。
これだけ書いて、なんら得られるものがなかったという結果。
なんだから、これはもう、どうしようもないね。
そんなどうしようもない自分を受け容れた上で、連作短編の内の第三話を公開することとします。
書いたものの中では、比較的、これが一般読者の関心を惹きうるかな、というのが自己評価で(しかし、これでそうなら、あとはどうなんだ? という話で。みゃあらくもんにも、ほどがある……)。
また夏がやって来た。
そして、おれはまた富山にやって来た。いや、今回の取材のメインは富山ではなく、お隣の新潟。北陸新幹線で糸魚川駅まで行き、まず海望公園で沼河比売(ヌナカワヒメ)の像を見た。それから一の宮まで歩いて奴奈川神社にお参りした。糸魚川には奴奈川神社という社号の神社は二つあるが、田伏にある奴奈川神社はちょっと離れているのでパス。まあ、『延喜式神名帳』に記載されているのは一の宮の奴奈川神社なのでね。で、奴奈川神社でお参りを済ませると今度は糸魚川バスの美山公園・博物館線でフォッサマグナミュージアムまで行って、ヒスイを見た。フォッサマグナミュージアムはその名の通りフォッサマグナが展示のメインではあるのだが、第一展示室のテーマは「魅惑のヒスイ」。糸魚川はヒスイの産地なのだ。ここで糸魚川で産出したヒスイの数々をたっぷりと見た。中でも目を惹かれたのは「翠の足」と名付けられたもので、長さ二十二センチ、幅十センチ、高さ十一センチ。これだけのサイズのものにお目にかかれるのはここくらいだろう。
で、こんなものを見たからには、フォッサマグナミュージアムからは車で五十分ほどとなる「小滝川ヒスイ峡」にも行きたいところなのだ(川の中には巨大なヒスイの原石がごろごろ転がっているとされている。ただし、採集は禁止)、おれは糸魚川市内に戻ると第三セクターの日本海ひすいラインに乗って県境を越え、越中宮崎駅に移動(日本海ひすいラインの営業エリアはここまで。越中宮崎駅から西はあいの風とやま鉄道の営業エリアとなる)。この越中宮崎駅から歩いて五分ほどの宮崎海岸は通称「ヒスイ海岸」として知られていて、砂利浜でヒスイが拾えることで有名。また、近くの浜山にある「浜山玉つくり遺跡」は日本のヒスイ文化を解き明かすスタート地点となったとされている。宮崎海岸は、その発掘調査の際、調査団により「ヒスイ海岸」と命名された。実は「ヒスイ海岸」という愛称で親しまれている海岸は糸魚川にもあるのだが、「ヒスイ海岸」という歌にもなっているのは宮崎海岸の方。ちなみに、作詞は秋元康。そのゆったりとした甘やかなメロディーを頭の中でリフレインしながら砂利浜を見て回ったのだけれど……今回の取材対象に宮崎海岸を含めたのは、ボクシングで言う「ホームタウンデシジョン」的なところがないでもない。結局、おれには富山県人の血が流れているんだよ。で、取材対象にどうにか富山を含めることはできないものかと……。
ともあれ、そんな感じで、宮崎海岸でヒスイ探しもして、これで本日の取材は終了。で、既に気がついている人は気がついているだろうが、すべてヒスイにゆかりの場所。最初に訪れた海望公園で見た沼河比売の像は古代にこの地にあったとされる「沼河国」の女王を象ったもので、なんでも古語の「ぬ」には宝玉という意味があり、「ぬなかわ」とは「玉の川」となるそうだ。その「玉の川」とは姫川のことで、今日、行きそびれた「小滝川ヒスイ峡」も姫川の源流域に当たる(小滝川は姫川の支流)。そして、その姫川源流域から流出したヒスイの原石が見つかることから「ヒスイ海岸」と呼ばれている海岸が河口の東にも西にもあって旅人のロマンを駆り立てている――ということになる。
で、こんなふうに説明すると、今回の取材のテーマは「ヒスイ」――と思われるだろうが、実は違う。テーマは「出雲(王朝)」。編集長からこのなかなかに蠱惑的なテーマを提示された上で企画書を出すように言われたおれは、だったらこれしかないだろう、という感じで引っぱり出したのが梅原猛が二〇一〇年に上梓した『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』。その第三章「考古学が語る出雲王朝」では「日本海沿岸の高い文化を示すもの」としてまずはウッドサークルの遺跡を挙げた上で、さらにつづけて――
そしてもう一つ、この日本海沿岸で栄えた文明がある。それは「玉」の文明である。玉の生産は縄文時代に溯るといわれるが、その原産地がどこであるかは謎であった。戦前は、その原産地はビルマであり、日本のヒスイもビルマから輸入されたものという説がまかり通っていた。しかし、近年の調査によって、新潟県糸魚川地方がヒスイの原産地であるということが確かめられた。
この原産地について暗示を与える歌が『万葉集』巻十三に、〈天橋も長くもがも高山も高くもが月読の持てる変若水い取り来て君に奉りて変若得てしかも〉という長歌があり、それに〈天なるや月日の如くわが思へる君が日にけに老ゆらく惜しも〉という返歌と、〈渟名川の底なる玉求めて得し玉かも拾ひて得し玉も惜しき君が老ゆらくも惜しも〉という短歌がついている。ここでヒスイが「玉」と呼ばれ、玉は不老不死の呪力をもち、「渟名川」の底で拾う玉であることが歌われている。渟名川はヌナカワヒメを思わせる川で、姫川を指すことは明かであろう。
いわゆる「梅原日本学」の伝道師が『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』と題された書でかくもヒスイ(ないしはその祭祀女王である沼河比売)について熱く語るのには理由がある。これまた知っている人は知っているだろうが、『古事記』では八千矛神(=大国主命)と沼河比売は夫婦とされているのだ。しかも、八千矛神は高志国に「賢し女」ありと聞いてわざわざ高志国まで赴き、沼河比売にプロポーズする。この際、両者は歌(短歌ではなく長歌)の交換を行うのだが、沼河比売の歌がなかなかにエロチックで。「あわゆきの 弱るむねを そだたち」とか「股ながに 寝は宿さむを」とか。かつて叔父さんは『古事記』から読みとれるのは至って向日的な性の肯定だと言ったんだが、それは全く以てその通りで……。ともあれ、こうした関係にある以上、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』と題された書でヒスイ(ないしはその祭祀女王である沼河比売)について熱く語るのは当然と言えた。
ただ、梅原猛の関心はヒスイを媒介とした両者(国)の〝結婚〟に止まるものではない。それをはるかに超えて、とほうもない仮説を披露しているのだ。そう、本当にとほうもない……。
この仮説について説明するためには、『古事記』に記されたヤマタノオロチに関わる神話をおさらいする必要がある。まずは岩波文庫版『古事記』(幸田成友校訂)より「八俣遠呂智の段」を読んでもらおう――
故避追えて、出雲国の肥河上なる鳥髪の地に降りましき。此の時しも箸其の河より流れ下りき。是に速須佐之男命、其の河上に人有りけりと似爲ほして、尋覓き上り往でまししかば、老夫と老女と二人在りて、童女を中に置ゑて泣くなり。汝等は誰ぞと問ひ賜へば、其の老夫僕は国神、大山津見神の子なり。僕が名は足名椎、妻が名は手名椎、女が名は櫛名田比売と謂すと答言す。亦汝の哭く由は何ぞと問ひたまえば、我が女は本より八稚女在りき。是に高志の八俣遠呂智なも、年毎に来て喫ふなる。今其れ来ぬ可き時なるが故に泣くと答白言す。其の形は如何にかと問ひたまへば、彼が目は赤加賀智如して、身一つに八頭八尾有り。亦其の身に蘿また檜榲生ひ、其の長さ谿八谷峡八尾に渡りて、其の腹を見れば、悉に常も血あえ爛れたりと答白す。此に赤加賀智と謂へるは、今の酸醤也。爾速須佐之男命其の老夫に、是汝の女ならば、吾に奉らむやと詔りたまふに、恐けれど御名を覚らずと答白せば、吾は天照大御神の伊呂勢也。故今天より降り坐しつと答詔へたまひき。爾に足名椎手名椎神、然か坐さば恐し、立奉らむと白しき。
爾速須佐之男命、乃ち其の童女を湯津爪櫛に取り成して、御みづらに刺さして、其の足名椎手名椎神に告りたまはく、汝等、八鹽折之酒を醸み、且垣を作り廻し、其の垣に八つの門を作り、門毎に八つのさずきを結ひ、其のさずき毎に、酒船を置きて、船毎に其の八鹽折酒を盛りて待ちてよとのりたまひき。故告りたまへる隨にして、如此設け備へて待つ時に、其の八俣遠呂智、信に言ひしが如来つ。乃ち船毎に己頭を垂入れて、其の酒を飲みき。是に飲み酔ひて、皆伏し寝たり。爾ち速須佐之男命、其の御佩かせる十拳劔を抜きて、其の蛇を切り散りたまひしかば、肥河血に変りて流れき。故其の中尾を切りたまふ時、御刀の刃毀けき。怪しと思ほして、御刀の前以ちて、刺し割きて見そなはししかば、都牟刈の大刀在り。故此の大刀を取らして、異しき物ぞと思ほして、天照大御神に白し上げたまひき。是は草那藝之大刀也。
この中でポイントは足名椎命が自分たちが直面している苦難の元凶は「高志の八俣遠呂智」であり、それが「年毎に来て喫ふなる」、つまり毎年やって来ては若い娘を喰ってしまうとしている点。しかも、その造形をプロファイリングして、目は真っ赤、身一つに頭と尾は八つあり、その腹はと言えばいつも血がにじんで爛れている……。だから、ほとんどバケモノなんだけれど、そんなバケモノが(おそらくは毎年の秋?)高志国からやって来ると書かれているのだ。
これを踏まえた上で、梅原猛はこんな仮説を披露する――
もちろん、八つの頭と八つの尾を持つオロチが実在したとは考えられない。オロチは、しばしば強くて悪い人間に例えられる。その人はオロチのような人だというのは、鬼のような人だというのとほぼ同じ意味である。鬼退治やオロチ退治というのは、人民を苦しめる強く悪しき人間を退治することをいうのであろう。
このように考えてみると、ヤマタノオロチとは、人民を苦しめる強くて悪い豪族を指すのかもしれない。後に述べるが、ヤツカミヅオミツノは国引きにおいて、西は新羅の国から、東は越の国から国を引いてきたという。つまりヤツカミヅオミツノの出雲王国の交易範囲は、西は新羅から東は越に及んでいたことを意味するのであろう。『出雲国風土記』には越の人の来訪がしばしば語られているが、日本海に臨む当時の国々の中で、ヒスイを生産した越の国が最も豊かで強い国であったに違いない。そしてこの越の国からやって来た豪族が出雲の山々を支配し、海や川を支配し、そこに住む人々を苦しめていたのではなかろうか。その強き悪しき越の豪族ども、すなわち「高志の八俣のをろち」に、スサノオは酒を飲ませて油断させ、皆殺しにしたのではなかろうか。つまり出雲王朝は、出雲が越の支配から解放されたスサノオの時代に始まったのではないか。そして、スサノオの行なった越の国の支配からの解放をさらに進め、越の国を逆に出雲の国の支配下に置いたのが、スサノオから数えて六代目の子孫、オオクニヌシであったと、私は考えたい。
なんと、「日本海に臨む当時の国々の中で、ヒスイを生産した越の国が最も豊かで強い国であったに違いない」として、その越(高志)の国からやって来た侵略者が出雲を植民地化していたというのだ。そして、その越の国の侵略者を祝宴の場を利用して(「酒を飲ませて油断させ」とは、そういうことだろう)謀殺したのがスサノオであり、この赤松満祐による足利義教殺害にも似た(状況的には似ていると言っていいだろう)一大変事こそは『古事記』に記されたスサノオによるヤマタノオロチ退治の真相だというのだ。
おれは『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』を刊行当時に読んでいたのだが、『古事記』で言うところの「高志の八俣遠呂智」が越の国の豪族だろうということはかねてから考えていたことで、スサノオによるヤマタノオロチ退治とは出雲が越の国を支配下に収めた戦争を神話化したものだと思っていた。実は古代の越の国が出雲の支配下にあったことを示唆する事実は十分過ぎるくらいにある。越中一の宮・高瀬神社の主祭神は大国主命だし、出雲地方で多く見つかっている四隅突出型墳丘墓と同形の古墳が北陸三県でも多く見つかっている。福井県で六基、石川県で二基、そして富山県では呉羽山丘陵で四基、婦中町で六基の計一〇基。古代の越の国が出雲の文化圏に属していたのは明らかで、そこにスサノオが「高志の八俣遠呂智」を退治したという『古事記』の記載を重ね合わせるならば、出雲国が越の国を武力侵攻し、植民地化していた――という絵が浮かび上がってくるのだが、梅原猛は逆に越の国が出雲国を支配していた――というのだ。しかも、その根拠として「日本海に臨む当時の国々の中で、ヒスイを生産した越の国が最も豊かで強い国であったに違いない」という推定を挙げているのだが……その推定には合理性がある。太古、ヒスイには不老不死の呪力が備わっていると考えられていたことは梅原猛も指摘している通りで(若干、補強する意味で富山市埋蔵文化財センター所長・藤田富士夫氏が「ヒスイと古代人の心」に記すところを引くならば――「私は不老長生、そして再生に通じる呪物としての役割を担っていた可能性が強いものと考えています」)、しかもヒスイを産出するのは日本国内では――いや、東アジアに枠を広げても――姫川流域しかない。そんな貴重なものとあれば、その経済的価値たるやとほうもないものだったはずで、その東アジアにおける唯一の産出国である越の国が、当時、最強の国だったろうというのは決して荒唐無稽な推定ではない。むしろ、その可能性を否定することの方が難しいのではないか? そうなると、『古事記』に記されたスサノオによるヤマタノオロチ退治とは、そんな越の国の支配下から出雲を解放した戦い――という梅原説は、大いに得心の行く一つの絵解きであるのは間違いない。さすがは、梅原猛だ、というのが当時のおれの率直な感想。
ただ、この仮説を踏まえて企画書を出そうにも、仮説に沿って訪ねるべき場所が思い浮かばないんだよ。仮説そのものが相当に漠然としているのでね。で、やむを得ずと言うか、ヒスイを媒介とした両者(国)の〝結婚〟に焦点を絞った企画書を提出した。本当はもっと攻めた企画書を出したいところだったんだが……ただ、そんな企画書でも編集長は相当に面喰らったようで、「お前はいつもこういうひねくれた企画を出してくる」。まあ、「出雲(王朝)」の特集で新潟県糸魚川市と富山県下新川郡朝日町を取材したいと言っているわけだから。旅行雑誌の編集長としては面喰らうだろう。しかし、「大国主命のベターハーフとしての沼河比売を紹介することはそれほど特集の本筋から外れないだろう」とも言ってくれて。で、今日、糸魚川市と朝日町を見て回ったという次第。
そんなわけで、いささか駆け足ではあったけれど、今日、糸魚川市と朝日町を見て回った結果として、この地域がいかにヒスイとゆかりがあるかは実感できた。何しろ、糸魚川市にも朝日町にも「ヒスイ海岸」があるばかりではなく、北陸新幹線の開業に伴ってJRから切り離され、第三セクターでの運行となった鉄道の名称が「日本海ひすいライン」だというのが、もうね。ただ、梅原説に関心を持つ立場から言えば、「日本海に臨む当時の国々の中で、ヒスイを生産した越の国が最も豊かで強い国であったに違いない」という主張にはいささかの疑問も覚えた。かつてこの地が「最も豊かで強い国であった」と実感させるものは見当たらなかったのだ。また『古事記』では「是に高志の八俣遠呂智なも、年毎に来て喫ふなる」と書かれているわけだけれど、古代、この地に蟠踞した豪族がはるか出雲まで遠征して掠奪行為を働いていた――ということに関してもリアリティを以て感じとることはできなかった。そんな「男性的」な匂いはおれの嗅覚では感じとれなかったのだ。
ところが、例によって築四十年の家で富山寿司を摘みながらおれがそんな感想を洩らすと、叔父さんは至って当然という口ぶりで――「沼河は言うならば聖地だからな」
「聖地?」
「沼河比売が住まう聖なる地」
「沼河比売が住まう聖なる地……」
言われたことをただおうむ返しで繰り返すだけなんて間の抜けた話だが、正直、言うべき言葉が見つからなかった。で、おうむ返しで間をつないでいると、遠くの方でうごめくものがあって、それを必死で引っぱり出すような感じて――「要するに、叔父さんとしては、沼河は女王が住まう神聖な土地で、それとは別に軍事拠点があった……というようなことを言いたいんですか?」
すると、叔父さん、おっというような顔になって――「ほお、さすがだな。おれは〈知力〉というのは脳の遠ーくの方から言葉を引っぱり出してくる力のことだと思っているのだが、今、お前は脳の遠ーくの方から言葉を引っぱり出してきたよな。いや、おみそれしました」
「よしてくださいよ。ただの苦し紛れですから」
しかし、〈知力〉とは脳の遠ーくの方から言葉を引っぱり出してくる力のこと、か。至言かも知れん、メモしておこう。で、話のつづきなんだけれど――「じゃあ、沼河とは別に軍事拠点があったとして、それはどこかというのは、叔父さんなりに見当はついているんですか?」
「まあな」
そう言うと、叔父さんはゆっくりとビール(金麦。今日、おれが訪ねることは伝えていたので……多分、そういうことだろう)を飲み干した。わざと引っぱっているわけで、なんか、自信がありそう。ここは、思う存分、その間を楽しませてあげるのが甥たるものの務めで……。
叔父さんが、おれを見据えた。どうやら情報解禁のようだ。
「一九九八年に氷見市柳田である発見があった。それまでただの山林だと思われていたものが前方後方墳だとわかったのだ。しかも、墳丘長は一〇七・五メートルというから、かなり大きなものだ」
「一〇七・五メートルですか。それは確かに大きい」
「なんでも前方後方墳としては日本海側で最大規模で、かつ全国でも十指に入る規模だそうだ」
「へえ、それほどの規模の古墳が、氷見に……」
正直、初耳だった。氷見と言えば、なんと言っても番屋街で、あとは藤子不二雄Ⓐの生誕地ということで、ゆかりのモニュメントがあちらこちらに(ただし、それらのモニュメントが観光資源として十分に機能しているとは言いがたい。一応、モニュメントは市中心部の商店街に集中する形で設置されており、地元ではこの通りを「まんがロード」と名付けてはいるものの、鳥取県境港市の「水木しげるロード」とは比べるべくもない。「水木しげるロード」は、設置されている銅像だけで一七〇を超える。これに対し「まんがロード」は一〇にも満たない。有り体に言って「まんがロード」はただのシャッター通りでしかない。シャッター通りと化した商店街に一〇やそこらのモニュメントを設置したところでどうなるものでもないだろう。おれとしては、投下できる予算が限られていることを前提に考えるならば、そのすべてを番屋街の周辺に集中すべきではないかと。シャッター通りと化した商店街の「再生」にこだわることは、地方自治体にとっては消耗戦でしかないだろう)。また歴史とのゆかりで言えば、阿尾城があるし(かの「傾奇者・慶次」として名高い前田慶次郎が城代を務めていたことがある)、朝日山公園には斎藤弥九郎の立派な銅像もある。氷見は斎藤弥九郎の生誕地でもあるのだ。だから、歴史とのゆかりという点でも氷見はなかなか見所のある場所ではあるんだけれど……ただ、前方後方墳があるというのは知らなかったなあ。そういうイメージがない。イメージとは、先入観のことでもあるので、そういう先入観を持っていること自体が問題なんだけれど……。
「で、被葬者はわかっているんですか?」
「いや。ただし、氷見市教育委員会がまとめた『史跡柳田布尾山古墳整備事業報告書』では「古墳が築かれた場所は、真下に布勢水海の入り江があり、遠く富山湾を望む丘陵の上である。また、越中の広い範囲から見通すことのできる二上山丘陵を意識した立地でもある。その被葬者は、古墳時代前期前半に富山湾を中心とした海上交通を掌握した人物であったと考えられよう」としている」
「なるほど、「海上交通を掌握した人物」ですか……」
これは、確かに耳寄りな情報だった。『古事記』では「是に高志の八俣遠呂智なも、年毎に来て喫ふなる」と書かれているわけだけれど、越の国から出雲まで行くのに陸路ということはあり得ない。当然、海路。そして、氷見市柳田の前方後方墳の被葬者は「海上交通を掌握した人物」。とするならば、その人物こそは「高志の八俣遠呂智」である可能性も……。
「ただ、時代はどうなんでしょうね? 報告書では古墳が築かれたのは古墳時代前期前半とされているそうですが……」
「そこはなかなか微妙なところではあるんだが……富山を代表する四隅突出型墳丘墓である杉谷4号墳が築かれたのは、富山大学人文学部考古学研究室がまとめた『杉谷4号墳―第1次発掘調査報告書―』によれば「弥生時代終末期または古墳時代前期初頭」。このいささか幅のある推定年代の後半――つまり、古墳時代前期初頭を採用するならば、築造年代は重なることになる。そして、出雲地方に特有の四隅突出型墳丘墓が北陸地方に普及したことを以てこの地が出雲の支配下に入った証と見なすならば、その時期も古墳時代前期初頭ということになる。その上で、スサノオによる「高志の八俣遠呂智」退治もその時代の出来事――と考えるならば、柳田布尾山古墳の被葬者こそは「高志の八俣遠呂智」としても決して不合理ではない――とは言えるのではないかな?」
「そうですねえ……」
そう言いつつも、確かに微妙なところではあった。仮に杉谷4号墳が築かれたのは弥生時代終末期だとしたら、今、叔父さんが言ったセオリーは成り立たないわけだから。「弥生時代終末期または古墳時代前期初頭」とされる杉谷4号墳の築造年代をどう採るかによってセオリーの成否が左右される。こんなとき、人はどうしたって自分の都合のいいように解釈しがちで……。
そんなおれのためらいを見抜いたのか、叔父さんはこう問いかけてきた――「仮に杉谷4号墳が築かれたのは弥生時代終末期だとしたら、柳田布尾山古墳が築かれた当時、既に越の国は出雲の支配下にあった、ということになる。その場合、柳田布尾山古墳は四隅突出型墳丘墓でないとおかしくはないか?」
「ああ……」
言われてみれば、確かにそうだ。柳田布尾山古墳が、越の国が出雲の支配下に入って以降に築造されたものならば、出雲国に特有とされる四隅突出型墳丘墓でなければおかしい。しかし、柳田布尾山古墳は前方後方墳。となると、杉谷4号墳の築造年代を弥生時代終末期とするのは合理的ではない。
「いやー、おもしろいです。柳田布尾山古墳が前方後方墳であるという事実が杉谷4号墳の築造年代を推定する材料になるわけですか……」
「まあ、考古学の専門家からすれば穴だらけの推論ではあるんだろうがな」
「でも、ぼく的には腑に落ちましたよ。少なくとも、杉谷4号墳の築造年代を古墳時代前期初頭として議論を始める根拠は得られたと思います」
「そうか、それはよかった」
叔父さんは、そう言うと、おいしそうにビールを呷った。
おれも、釣られてビールを呷った。
ビールの味がグッと良くなったような気がした。
すると、パッと灯がついたような感じになって、こんな言葉が飛び出してきた――「そう言えば、氷見という地名の由来については「烽(とぶひ)の火を見るところだから火見と言った」という説があるようですね」
「ああ、数ある説の一つではあるがな」
「つまり、それだけ氷見は眺望が利く、ということになるますよね」
「まあ、そうだわな。阿尾城の展望台からは遠く黒部まで見通せるはずだ」
「黒部まで、ですか? 新潟は、どうですか?」
「新潟は……さすがにムリだろう。まあ、能登半島の先端からならばどこまでだって見通せるだろうが、氷見は能登半島の付け根だからな」
「ああ、そうか……」
「ははあ。お前は、氷見からは糸魚川が眺望できて、烽で通信できた。で、水軍の拠点が置かれた、と言いたいわけか?」
「えーと、まあ、そうなんですが……でも、糸魚川まで眺望することができないのならば、ダメです、成り立ちません」
「いや、そうとも限らんぞ。烽というのはリレー方式で情報を伝達するシステムだ。生地あたりに中継ポイントを設ければ糸魚川―生地―氷見という光通信は可能だろう。問題は、生地に適した高台があるかどうかだが……」
まあ、中継ポイントを設けることで、糸魚川と氷見の光通信が可能になるとしても、その場合、なんで氷見なのか、というのがいささか根拠薄弱になる。光通信の便を重要視するなら、むしろダイレクトで糸魚川と光通信ができる能登半島の先端の方が適しているということになるだろうから。だから、水軍の拠点がなぜ氷見だったのか、ということついて地名からアプローチするのはムリのようだ。閃きっていうのは、所詮、この程度のものか……。
「じゃあ、叔父さんの考えを聞かせてもらえませんか?」
「うん?」
「だから、なぜ氷見なのか、について」
「なぜ氷見なのか……」
ここで、叔父さん、やや身を反らした。そして、腕を組み、中空を見上げるポーズ。叔父さんの得意なポーズだった。
そのポーズのまま、しばらく考えていたが、やがて――「安政五年、幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの五か国と個別に結んだいわゆる「安政五カ国条約」では第三条で神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港・開市が謳われていた。この内、神奈川――実際は横浜だがな――と長崎は安政六年に開港されている。一方、京都から近い兵庫は孝明天皇の頑強な反対もあり、開港は遅れに遅れた。これに業を煮やしたイギリス・フランス・オランダは連合艦隊を編成して兵庫沖に侵入し、軍事力を誇示して幕府に開港を迫る――といういかにもこの時代の「欧米列強」と「アジアの小国」に相応しい騒動を経て、慶応三年、どうにか開港に漕ぎ着けた。残るは新潟ということになるが――実は新潟の開港はもっと遅れた。開港されたのは政権が徳川から薩長に移った明治元年十一月になってからだ。京都でさえ慶応三年に開港したっていうのに、なぜ? 実は、これは政治的な理由からではなく、現実的な理由から。新潟港は信濃川の河口に位置する河口港。そのため、水深が浅い。これでは、大型船は入港できず、開港場としてふさわしくないという意見が視察に訪れた外国使臣団から出された。そして、現に新潟に代わる開港場が要求されたりもしたようだ。おれが読んだロバート・ブルース・ヴァン・ヴァルケンバーグの至急報告にも七尾・三国・敦賀・宮津など、新潟に代わる候補とされた各港を実際に見て回った印象などが記されたものがある。だから、新潟に代わる開港場が要求されたのは事実だろう。一方で、仮に新潟に代わるいずれかの港を新たなる開港場とした場合、条約の修正が必要となって、これもまた大変。ということなんだろう、おそらくは。結局、新潟港は、水深が浅いという問題を抱えたまま、明治元年十一月に開港となった、という次第だ」
「はあ」
ここで「はあ」とは何とも間の抜けた反応ではあるが……でも、本当に「はあ」としか言いようがなくって。氷見に水軍の拠点があったことと、新潟港が開港場としてふさわしくないとされたことに一体どんな関係が……ある! やはりパッと灯がついたような感じではあるんだけれど――「要するに、越後には水軍の根拠地となるような天然の良港がない。で、氷見に置かれたと?」
すると、叔父さん、相好を崩して――「おお、さすがだ。アメリカ人だったら、That's my nephewとでも言うところだな」
そして、おいしそうにビールを呷った。
その上で、こう話を続けた――「越後に天然の良港となりうる場所が見当たらないのは地図を見れば一目瞭然だ。現在、新潟港は国際拠点港湾に指定されているが、これは永年に亘る浚渫工事の賜物だ。明治維新当時でさえ、水深が浅く、とても良港とは言えなかった。だから、水軍の拠点を置くとすれば、越後以外に適地を探す必要があるのだが……その点、越中はうってつけと言っていい。単に大きく湾入しているだけではなく、能登半島が天然の防波堤の役割も果たしてくれている。だから、富山湾岸でも特に能登半島の付け根に位置する氷見は最適地と言えるだろう。その上で、生地あたりに中継ポイントを設ければ沼河とも光通信が可能だったわけだから」
「いや、それは置いておいて……」
「あとな、もう一つ指摘しておこうか。氷見市教育委員会がまとめた『史跡柳田布尾山古墳整備事業報告書』では古墳の立地場所についてこう説明している――「古墳が築かれた場所は、真下に布勢水海の入り江があり、遠く富山湾を望む丘陵の上である。また、越中の広い範囲から見通すことのできる二上山丘陵を意識した立地でもある」。なぜか二上山丘陵について言及しているわけだが……実は二上山には少し変わった社がある。その名を悪王子社と言うのだが……」
そこまで言うと、叔父さんは反応をうかがうようにおれを見た。
おれもその眼を見返しつつ――「悪王子社、ですか。確かそういう名前の神社は京都にもありましたね」
「ああ。現在、八坂神社の境内摂社となっている悪王子神社だ。また、全国の日吉神社の総本社である日吉大社の境内にも悪王子社がある。さらに滋賀県野洲市、静岡県富士宮市、千葉県香取市にもある。香取市にあるのは全国の香取神社の総本社である香取神宮の境外摂社・返田神社。この神社の古名が「返田悪王子神社」とされている。おれは、もしかしたらこの「返田悪王子神社」こそはすべての悪王子神社のルーツではないかと思っているのだが……ただ、誤解のないように言っておくなら、「悪王子」の名を冠した神社が日本全国にある、というわけではない。挙げられるのは、今、おれが列挙したものがせいぜい。そんなレアと言えばレアな神社が二上山の山中にあるわけだが……この二上山の悪王子社には興味深い伝承がある。ちょっと待ってろ」
そう言うと叔父さんはすっと立ち上がって居間を出て行った。足音はみしみしと音を立てながら階段を上がって行き、二階でしばらく留まって、ほどなくまた階段を降りてきた。そして、居間の障子戸を開けるや、「ほれ」と言って差し出したのはA3サイズのコピーの綴りだった。
「樽谷雅好氏が『二上山研究』に寄稿した「『悪王子』考―平安京からの使者―」のコピーだ。『二上山研究』というのは高岡市教育委員会生涯学習課内に設けられた二上山総合調査研究会が発行する一種の紀要だが、紀要というほど堅苦しくはない。むしろ、同人誌に近いかも知れない。この「『悪王子』考―平安京からの使者―」も好奇心に促されるままスイスイ読み進めることができる。で、とりあえず読んで欲しいのは、コピー2枚目から3枚目にかけて記されている「悪王子の伝説」だ」
「「悪王子の伝説」ですか」
おれは、そう言うと、コピーをめくった。そうすると、2枚目に確かにそういう見出しが立っていた。
そして、次のような「伝説」が綴られていた――
その昔、二上山には、天をも動かすことが出来るほどの力を持つ〝神〟があった。神は越中(現・富山県)の国に住む民を領(うしは)き、支配していた。
二上の神は、太陽を照らし、雨を降らせて天候を左右し、また、川の流れを自由に司って、人々の作る穀物を、豊かに実らせていたのであった。
だが神は、食べ物の恵みを与える代償として、人々に「人身御供(ひとみごくう)」を要求した。越中の四郡(射水・砺波・婦負・新川)、すなわち、富山県一円から毎月の1日、8日、13日、23日、28日の五回、うら若い乙女をこの二上の神へと、捧げねばならなかったのである。月に五人、年に六〇人もの娘たちが、親もとから消えて行く。
越中の民は、大いに嘆き、悲しんだ。二上の神を怨(うら)み娘を哀(あわ)れむ民の声は、やがて「帝(みかど)」の耳にまでにも達して、ついに、「越中の邪神、討(う)つべし」
との勅命(ちょくめい)が、下された。
〝神〟の追討(ついとう)を任されたのは俵藤太(たわらのとうた)という異名をもつ、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)であった。
秀郷は、近江(おうみ 現・滋賀県)の国で、琵琶湖(びわこ)の龍を助けて三上山(みかみやま)の大百足(むかで)を討ち取り、一時期、関東において「新皇(=新しい天皇)」を自称した平将門(たいらのまさかど)を滅ぼしたことでも有名で、剛弓にすぐれた英雄である。
秀郷が、現在の高岡市東五位のあたりにさしかかった時であった。
とある一軒家から、何やら泣き声が聞こえてくる。もしや、と思ってその家をのぞいてみると、年老いた両親が一人の娘を間にはさんで、涙にくれていた。
聞けば、「二上の神」より白羽の矢が、先日、この家に立ったのだという。となれば、早速と、娘を「人身御供」に差し出さねばならぬ。
「なぁに、案ずるにはおよばぬ。」
秀郷は、娘の「うちかけ」を借り、頭からすっぽりとかぶって身を包む。
「娘と入れかわって、わたしが行き、これより、二上の邪神を、討つ。」
人身御供を乗せた「輿(こし)」は、村人に押しかつがれて、しずしずと進んだ。
やがて一行は「荻布(おぎの)」の村へと入る。
この村の裏手の小川にかかる「俎板橋(まないたばし)」に、娘を、「輿」もろともに置いて帰るならわしである。肩から「輿」をおろした村人たちは、もう、後も見ないで、みな走り去った。
二上山のうしろに太陽がストンと落ちて、文目もわかぬ夕まづめ、なまぐさぁい一陣の風ものすごく、ズォーンと吹いたと見る間に、「輿」は、人身御供を乗せたまま、二上山の頂きへ〜〜と、運ばれて飛んだ。
それからどれほどの時間がたったものか……。
まっくら闇の、真っただ中。秀郷はひとり右手に刀、左手に剛弓を握りしめて、あたりの気配(けはい)をずっとうかがい続けている。
……と、かすかに空気が動く。
ズズザザァ〜ッッ、ズズザザァ〜ッッと何者かが押し寄せてくるのを感じた。
「すわっ。」
自慢の弓に手早く、矢をつがえる。しばし息をころして待つや、なにやら巨大な二つの丸ぁるく強よ〜い光を放つものが、ヌソ〜リ、ノソ〜リと近づいて来る。
「出たなぁ〜。邪(よこしま)なる神よ!」
秀郷は、剛弓をば満月のように引きしぼって、ハッシと射(い)かける。
射ても、また、射に射ても、手ごたえは無い。
すでに残り矢は、わずかに一ッ本。
これにベベェッと唾(つば)をはきかけ、
「南無三(ナムサン)!」
と仏にたのみ、腕ちぎれんばかりに弓しぼってヒヨウっと射る。
ズブヌッウ、と、手ごたえが、たしかにあった。
あとは刀をぬいては闇くもに、切って切って、切りまくった。
ふと我に返ると、はや、薄っすらと曙(あけぼの)の色。
と、東なる剣山(たちやま)よりサアッーっと射す、一条の朝日の輝き。
見れば、邪まなる神の正体は、なんと二上山を七巻き半もかき抱く、大蛇であった。
その傷口からはゴボリゴボゴボリと血が吹き出し、沸(わ)いてはこぼれ、たぎる血は草木を燃やして麓にむかって流れ落ちつづけていた。
ふーむ。なんとも文章が〝感覚的〟というか。おれはそんな感想をためらわずに口にした。
「なんか、擬音が独特ですね。「ズォーン」とか「ズズザザァ〜ッッ」とか」
「まあ、ちょっと劇画ふうではあるよな。樽谷雅好氏は、一応、郷土史家ということにはなるだろうが、元鮮魚卸商という異色の経歴の持ち主だよ。二〇二三年に亡くなられたが、アカデミズムの世界に身を置いていた人ではないので、発想も自由だったんだよ。じゃなきゃ、「なにやら巨大な二つの丸ぁるく強よ〜い光を放つものが、ヌソ〜リ、ノソ〜リと近づいて来る」なんて文章は生み出せんよ」
「な〜るほど。ただ、文章は自由でもいいんですが、俵藤太が大蛇を退治したというのはどうでしょう。俵藤太と言えば、百足退治ですから。しかも、俵藤太は大蛇に頼まれて百足を退治したとされている。その大蛇を俵藤太が退治してどうするんですか」
「実は、二上山の悪王子伝説にはいくつかのヴァリアントがあって、俵藤太が大蜘蛛を退治したというものもあるんだよ。一方、討手が俵藤太ではなく行基だったというのもあって、行基が退治したのは大蛇だったというんだよ」
「ああ、書かれていますね。なになに、「蜘蛛では、たしかに気味は悪いけれども、どこか〝凄み〟に欠けるし。結局、よりドラマチックに悪王子を語るために私は両者から〝いいとこ採り〟をして俵藤太と大蛇の死闘に仕立て直した」か。ということは、これは樽谷雅好さんが「再話」したものなんですね」
「そういうことだ。しかも、「再話」に当たっては樽谷雅好氏が自ら古老から聞き取りした話も加えている。それが、最後の部分だ。つまり、「その傷口からはゴボリゴボゴボリと血が吹き出し、沸いてはこぼれ、たぎる血は草木を燃やして麓にむかって流れ落ちつづけていた」という部分」
「ああ、それも書かれていますね。「大蛇の流いた血ぃの跡が、今の登山道っちゅ。そやさかいで、二上山の登山道っちゃぁ、今ででも赤ぁい色ぉしとっが、ちゅうもんじゃあ」、ですか。これ、イントネーションが難しいんでしょうね」
そう言っておれは叔父さんを見た、叔父さんにぜひ〝実演〟してみせて欲しいという意図を込めて。
叔父さん、おれの意図を読みとって――「大蛇の流いた血ぃの跡が〜、今の登山道っちゅう。そやさかいで〜、二上山の登山道っちゃぁ、今ででも赤ぁい色ぉしとっが」
良い。実に良い。特に「大蛇の流いた血ぃの跡が〜」「そやさかいで〜」と語尾を伸ばしたところ。これこそが、おれが子どものころから耳に親しんできた富山弁だ。
おれはすっかり楽しくなっていた。おれの中には間違いなく富山県人の血が流れている。その血が富山弁のイントネーションに和んでいた……。
ところが、叔父さん、そんなおれの感慨を意に介さず――「おれが注目するのも、この樽谷雅好氏が自ら古老から聞き取りした部分なんだよ」
急に現実に引き戻されたようになったおれは――「え? ああ、はい……」
「大蛇の流した血の跡が今の登山道で、だから二上山の登山道は今でも赤い……。樽谷雅好氏はこの聞き取りを元に「その傷口からはゴボリゴボゴボリと血が吹き出し、沸いてはこぼれ、たぎる血は草木を燃やして麓にむかって流れ落ちつづけていた」というストーリーを紡ぎ出したわけだが、おそらく樽谷雅好氏はこの話を記紀に描かれたヤマタノオロチの伝承に寄せたかったのだろう。『古事記』ではヤマタノオロチの造形をプロファイリングして――「彼が目は赤加賀智如して」「其の腹を見れば、悉に常に血あえ爛れたり」。何か赤々と燃えたぎるっていような印象がするではないか。寺田寅彦はこの印象を根拠にヤマタノオロチの正体は溶岩流ではないかという説を披露していたくらいだ。で、樽谷雅好氏が紡いだのもそういうイメージを抱かせるものだが……おれはヤマタノオロチの正体が溶岩流ではないかという寺田寅彦説には賛同できないんだよ。相手が溶岩流ではいかにスサノオでも退治はムリだ。溶岩流に「八鹽折酒」を貢いだところで眠ってくれるはずもない。だから、『古事記』が記す赤々と燃えたぎっているようなイメージを別の実態として捉えるべきだと思うのだが……ここで鍵となるのは、スサノオがヤマタノオロチの中尾を切ったら一振りの大刀が出てきた――という「草那藝之大刀」発見のエピソードだ。出雲地方からは、多くの青銅器が出土している。出雲文明は、青銅器文明だった。当然、スサノオが使っていたのも銅剣だろう。その銅剣が毀けた、ということは、ヤマタノオロチの中尾から出てきた剣は銅剣よりも剛い鉄剣だったと考えるのが順当だろう。つまり、「高志の八俣遠呂智」は鉄器で武装した集団だったということになる。そうなると、彼らは製鉄技術を身につけていたと考えることができる。その製鉄技術とは、おそらくは古代の製鉄法である「野だたら」製鉄だろう。そうすると、寺田寅彦が溶岩流に見立てたものとは、実は「野だたら」の炉から流れ出した銑鉄だったと見なすことが可能になる。その方が溶岩流などよりよっぽどリアリティがあるんじゃないか?」
「まあ、そうですね」
「で、重要なのはこっからなんだが……樽谷雅好氏も書いているように、二上山は赤土だ。赤土ということは、鉄が含まれているということ。また、二上山の近くを流れる小矢部川では砂鉄が採れることが知られている。こうなると、あくまでも可能性の話ではあるんだが、二上山で「野だたら」製鉄が行われていたとしてもおかしくはない、ということになる。その上で、「高志の八俣遠呂智」の正体を越の国から船団を率いて襲来した集団でかつ鉄器で武装していた、と考えるならば、その水軍の根拠地が氷見で鉄器の製造拠点が小矢部川を遡行して船でも行ける二上山だった、という見立てが可能になる」
「なるほど」
一応、口ではそう言ったものの……なんか、壮大な〝ウソ〟に丸め込まれたとでもいうか。
ただ、『古事記』と『史跡柳田布尾山古墳整備事業報告書』と二上山に伝わる伝承――、これだけの材料を元にかくも壮大な〝ウソ〟を生み出せるというのはもうそれだけで才能だよ。正に〝みゃあらくもん〟。その真骨頂を見た、という思いではあった。
で、その思いを率直に言葉にした――「いやー、正に〝みゃあらくもん〟ここにありですよ。ぼくは叔父さんの甥であることが誇らしい」
これには、叔父さん、ややムッとしたような顔で――「お前、おれのことをバカにしてるだろう?」
でも、そう言って、すぐに笑った。
そして、おいしそうにビールを呷った。
おれも、それに倣った。
そして、少し疑問に思うところがあったので、ぶつけてみることにした――「でも、不思議ですよね。いずれにしても越の国が古代においては強国で、出雲を支配していた時代もあった。そして、その水軍の根拠地は越中にあった――、ここまではぼくとしてもまずまず素直に受け取ることができます。ただ、スサノオによって「高志の八俣遠呂智」は退治され、以後、逆に出雲が越の国を支配することになった――とするならば、なぜそれは伝承として伝わっていないんでしょうか? もしかしたら、二上山に伝わる悪王子伝説がそれを伝えるものなのかも知れないけれど、なぜか討手は俵藤太であったり行基であったり。スサノオによるヤマタノオロチ退治としては伝わっていない。ぼくとしては、ここが少しばかりものたりないところなんですが……」
すると、叔父さん、いささかも慌てたふうがなく、それどころかやや笑みさえ浮かべて――「実は、出雲が越の国を支配することになったことを伝える伝承は、あるんだよ」
「え、そうなんですか!」
「お前は野崎雅明という人を知っているか?」
「野崎雅明? 聞いたことがあるようなないような……」
「では、野崎伝助は?」
「ああ、その人なら知っています。叔父さんが大好きな人ですね」
「そう、おれが大好きな……まあ、お前が言うところの〝みゃあらくもん〟の頭目とでも言うか」
「ええ、ええ、確かに……」
野崎伝助というのは、富山藩で御前物書役などを務めた人物で、『喚起泉達録』なる書を著した。越中に伝わる伝承を野崎伝助が自ら採録したもので、成立は享保年間。なんでもこれ以前には越中に関係する「読むに値する旧記」はなかったとされ、本書が編まれることになったのも、そうした状況を残念に思った野崎伝助が自ら起草することを思い立ち、越中各地に足を運んで本書に記されたような伝承を採録したのだという。当然、伝承であるから、創作も入り込むし、額面通り受け取るのが憚られるような話も含まれることになる。それゆえ、この書は永らく「荒唐無稽な伝説の累積・物好きの架空創作」と見なされる傾向があった。しかし、近年、その史料的価値を再評価しようという試みがなされており、『喚起泉達録の世界―もう一つの越中旧事記―』という立派な研究書が編まれたりもしている(ちなみに、編者は藤田富士夫氏だ。富山市埋蔵文化財センター所長も務めた人物が関わっているあたりにこの〝奇書〟に対する見方の変化がうかがえる)。ただ、歴史的真実を汲み取ることに傾注するあまり、その物語的要素が余計なものとして排除されてしまうことになってはツマラナイ――というのが叔父さんの意見。『喚起泉達録』に綴られた伝承はそれほど面白いのだ。叔父さん曰く「『喚起泉達録』は一冊丸ごとパルプ・マガジンだと思え」。そう言われておれも読んでみたのだが、確かに巻之十三「大若子命白旗ヲ作リ始玉フ事并八将ヲ配リ玉フ事」などは「越之中洲国」を舞台とした「剣と魔法の物語」と言ってよく……。
「野崎雅明というのはな、その野崎伝助の孫だ」
「ああ……」
「野崎伝助は御前物書役などを務めた役人だが、孫の雅明は富山藩の藩校「広徳館」で学正を務めた立派な学者だったようだ」
「そうですか」
「その野崎雅明が文化十二年に『肯搆泉達録』という書を著している。ざっくり言うならば、祖父の著した『喚起泉達録』の記載内容をブラッシュアップしたもので、藩校の学正が書いたものだけに、内容的にはずっとアカデミックだ。それでいて、十分に「面白い」。ま、血は争えんということかな」
「で、その『肯搆泉達録』に出雲が越の国を支配することになったことを伝える伝承が記されているということですか?」
「そういうことだ。ちょっと待ってろ」
叔父さんは、そう言うと、またすっと立ち上がって居間を出て行った。例によって足音はみしみしと音を立てながら階段を上がって行き、二階でしばらく留まって、ほどなくまた階段を降りてきた。そして、居間の障子戸を開けるや、「ほれ」と言って差し出したのは『肯搆泉達録―越中国取りの記―』と題された本だった。
そして、叔父さん、再び指定席に陣取るや――「その巻之一の「船倉神と能登神、闘争の事」を読んでみろ」
そう言われて、おれは素直に従ったのだが――
新川郡船倉山の神を姉倉比売と云ひ、能登の補益山の神を伊須流伎比古と云ふ。姉倉比売と陰陽の神なり。また、能登の杣木山の神を能登比咩と云ふ。伊須流伎比古、姉倉比売を遠ざけ、能登比咩と陰陽の契浅からざりければ、姉倉比売嫉みたまひ、一山の石を盡して礫して、能登比咩を攻め給ふ。布倉山の神、布倉媛も姉倉比売に力を戮せて、布倉山の鉄を打ち砕き給ひければ、能登比咩、姉倉比売の手暴きを怒り、颱風を起し、海濤を山壑に濺ぎて防ぎ給ふ。また、加夫刀山の神、加夫刀比古も能登比咩を援けて、射水郡宇波山に出で、坤軸を鑢とし、隕つる鉄石を鎔かし、海に淪め給ふ。闘争久しうして止まず、怒気、積陰をなし、渾々沌々として両儀の光を見ず、四序分たず、蒼生育せず、故に、天地の諸神これを愁ひ給ひ、高皇産霊尊に告げ給ふ。尊驚かせ給ひ、大己貴命に勅し、「闘争を平ぐべし」とありければ、大己貴命、勅をうけ、急ぎ越路に天降り給ふ。
命、先づ越の神胤を召び給ひければ、雄山より手刀王比古命、船倉山より䋱子姫命、篠山より貞治命、布倉山より伊勢彦、能登の鳳至山中より釜成彦、各来て命に見え給ふ。命曰く、「姉倉比売、能登比咩を後妻討し、両神の怒り、積陰をなし、霄壌に充ち塞がる。これ補益の陽神、爕理することあたはざるは、もとより色に淫するゆゑなり。今、我、勅を奉けて討罰す。汝等神孫、我と心力を一にして勲あれ」と宣ひければ、各謹んで命にしたがふ。手刀王比古命曰く「教諭の如く、陰神の怒りは陽神の致すところなりといへども、重く陽を誅せば、陰専にしてかへって害あらん。ただ陰陽調和の謀しからん。」とありければ、命、諾し給ひ、三神に先ず文告の命あり。次いで、威譲の辞ありしに、服し給はざりければ、遂に軍議し、貞治命をして五個の日鉾を作らしめ、枲を以て八尺の幣を造って五色に染め、五の鉾に垂れ、五行の備を設く。かくて、大己貴命、船倉を攻め給ひけるに、山巓に方七里の池あり。宮城に登ること難ければ、山を鑿ち、池水を決りたまいけるに、忽ち一大流となり、池水盡く落ちて、前駆、容易に宮城に登りける。姉倉比売すでに柿梭の宮へ逃げ給ふと、䋱子姫告げ給ひければ、命遂に柿梭の宮を攻め、姉倉比売を捕らへ、小竹野に流刑を命じ、また、「布を織って貢とし、世の婦女にも紡職の業を教へて罪を贖うべし」となり。また、布倉媛を捕へ、姉倉を援けし罪を責めて柿梭の宮へ遷し、「柿の梭を作り、綊を編み、姉倉と同じく、布を織り、貢とし、また女功を世に教へて罪を庚うべし」と命じ給ふ。姉倉・布倉の神すでに罪に服し給ひければ、大己貴命、能登の補益・杣木の神を攻め、遂に擒とし、これ人民のためにもっとも戒む可き罪なりとて、二神を海浜に暴し給う。また、加夫刀山の神、能登比咩を援け給へる罪を責めて、山を崩し遠く海を埋み、ここに加夫刀比古を置き、命じて曰く「風濤大に起らば、禦ぎて陸へ上すことなかれ。また、先ず人に報じ知らしめ、これを職とし罪を贖うべし」となり。命すでに船倉・能登を平均し給ふ。五の神孫も各、丹誠を抽んで、日鉾を捧げ、渾沌を鑿ち給ひしかば、雲将・雨師、隊を乱して奔走し、飛廉・雷公は深山幽洞に隠れ、海童・波臣は尾閭に遁げ入りければ、積陰忽ち披いて、陽光明かに、天地位し、万物育して北陸静寧なり。
なるほど。これは確かに大己貴命(=大国主命)が越の国を平定したという話だが……。
「でも、『古事記』に記されたスサノオのヤマタノオロチ退治とは全然違いますね」
「ああ。そもそも、大己貴命は『日本書紀』では素戔嗚尊の六世の孫とされている。だから、時代が違う」
「まあ、そこに関しては、『出雲国風土記』でも「越の八口」を退治したのは大穴持命としているので。で、梅原猛氏も『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』で「『出雲国風土記』のこの記述は、ヤマタノオロチを退治したのはスサノオではなく、実はオオナムヂ、すなわちオオクニヌシであったと暗にほのめかしているように思われる」と書いていますので、そんなに問題ではないかと。それよりも、この伝承には沼河比売も「高志の八俣遠呂智」らしき武装集団も登場しません。そこが、どうも……」
「ただ、「高志の八俣遠呂智」を想起させる記載が全くないわけではない。たとえば「布倉山の鉄を打ち砕き給ひければ」とか「隕つる鉄石を鎔かし」とか、鉄に関する記載がある。そして、「高志の八俣遠呂智」は「野だたら」製鉄で作られた鉄器で武装した集団だった……」
「なるほど、「布倉山の神、布倉媛も姉倉比売に力を戮せて、布倉山の鉄を打ち砕き給ひければ、能登比咩、姉倉比売の手暴きを怒り」か」
「ちなみに、その布倉山とは、今、尖山と呼ばれている山のことだ」
「尖山? ああ、超古代のピラミッドだったのではないかという説のある、あの不思議な山ですね?」
「そうだ」
「なるほど。そうすると、尖山でも、昔、「野だたら」製鉄をしていた可能性があるということか……」
しかし、これは、とんでもないことになってきたぞ。実は、尖山は、超古代のピラミッドどころか、神代のUFOとされる「天の浮舟」の基地だったという説さえあるのだ。確か一九八〇年代に富山大学の山口博という国文学の教授が提唱した説だったと記憶しているが……。
「なんか、スゴイな。いやー、なんか、スゴイですよ」
「うん?」
「野崎伝助、野崎雅明、樽谷雅好、山口博……、もう〝みゃあらくもん〟ばっかりですよ、富山は」
「そうか」
そう言って、叔父さん、苦笑。
もちろん、その〝みゃあらくもん〟の系譜には、もう一人、おれのよーく知っている人の名前が加わる。
その人は、今、おれを見つめながら、柔らかな笑顔を浮かべていた。
ああ、愛するべき、みゃあらくもん!