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布施に有縁の地あり
〜おれはひとりぼっちじゃない、〈彼ら〉がいる限り〜

 自分はナニモノなのか? ということに考えが向かうのは……淋しいからだろうなあ。ひとりぼっちで、淋しい。その淋しさを紛らわすには、自分のルーツに思いを致すのが、いい。自分が、今、ここにいる、というのは、何代にも亘って営々とくり返されてきた世代交替の結果であって、この事実を思うならば……おれは決してひとりぼっちじゃない……と感じられる効果が、自分のルーツに思いを致すという営為には、ある。そんなふうに、今、自分が取り組んでいることの〝意味〟を整理した上で……

 おれの父方の祖父は義春というんだが、改製原戸籍なるものを見ると、岡村次左エ門の参男となっている。しかし、実は義春は次左エ門の実子ではなく、生まれてすぐに岡村家に貰われた、ということが、まあ、公然の秘密とでも言うのかな、家族内では周知の事実で、では実の父は誰かというと、それは佐伯という人だそうだ。しかも、佐伯というのは、岡村家からすれば地主さんに当たるそうで、言うならば旦那さんということになる。その旦那さんの子をなぜか小作が貰い受けたわけだが……それがどういう事情によるものかについては、聞いていない。もしかしたら、佐伯の家では育てられない事情があったのかも知れない。たとえば、旦那さんが下女に生ませた子であるとか。そう言えば、『日本之下層社会』の著者として知られる横山源之助は富山県中新川郡魚津町の出身なんだが、明治4年、魚津町の網元の家に私生児として生まれ、すぐに左官職人の横山伝兵衛の養子となった。この経緯については、横山源之助と同じ富山県魚津市生まれの歴史家・立花雄一が昭和54年に著した『評伝横山源之助:底辺社会・文学・労働運動』に横山源之助の最期を看取ったとされる尾崎恒子の口伝として詳しく記されていて――「実の父親は魚津の網元であった。実の母が網元の家に下女奉公にあがっているうちに不義の子を孕んだ――それが源之助であったという。不義の子なるがゆえに実子としての認証は拒絶された。いくばくかの養育料(賠償金といっていいかもしれない)をあてがわれて、下女は網元の家を放逐された。主家をおわれた女は不義の子を腹にしながら、実家かあるいは心ある縁辺のもとに身をよせた。そして薄幸の子を産みおとしたのである」。まあ、下女に生ませたんなら、当然、その下女に育てられるはずで、なんで岡村家に養子に出されたんだ? という話になるわけだけれど……ともあれ、義春の実の父は次左エ門ではない、佐伯という人。これは、まちがいない。

 で、その佐伯家なんだが、おれはどこにあるのかも知らない。ただ、デジコレで見つけたこちらの史料(大正6年に富山県上新川郡新庄町の有志が「産業組合設立登記」を富山区裁判所に届け出た書類。なお、産業組合は現在の農協の前身に当たる)には組合の理事として名前を連ねた7名の氏名と住所が明記されており、なるほど、あのあたりかと。もっとも、訪ねてみようという気にはならないけどね。訪ねたところで、一体何を話せばいいものやら……。

 それよりも、気になるのは、この佐伯家と両峅寺(芦峅寺と岩峅寺を総称してこう呼ぶそうだ)の佐伯一族との関係だよ。両峅寺の佐伯一族が立山開山・佐伯有頼に由来することは言うまでもないことだけれど、その両峅寺は明治初めの排仏毀釈によって大変な打撃を被った。立山信仰というのは、仏教と修験道が融合したもので、立山には極楽浄土があるとするある種の極楽信仰でもあった。で、その極楽を求めて多くの参拝客が訪れた。最盛期には、参拝客を受け容れるための宿坊が芦峅寺には33、岩峅寺にも24あった。しかし、神道を国教とする明治政府の「神仏判然令」により、仏教的要素が徹底的に排除されることとなり、その結果としてどのような風景が現出することになったかというと――ここは、芦峅寺の宿坊・大仙坊の出身で、戦後、雄山神社の宮司も務めた佐伯幸長が昭和48年に著した『立山信仰の源流と変遷』より引くなら――「然しながら、僅か明治二年三年四年の三カ年の間に断行強行された排仏毀釈の台風は、立山の盛観を一挙に変貌してしまった。千古の霊場は一時に潰滅し、久遠の法燈は断滅した。石仏は倒れ、布橋は朽ち、無常を告ぐる鐘の音さえ無くなり、全く廃虚と化したのである」。かくて、生活のすべを失った坊家や社家の中には離村するものが後を絶たなかったとされる。義春の本当の生家である佐伯家もそんな排仏毀釈の煽りを食って両峅寺から離村した一家ではないのか? というのがおれが思い描く〝絵〟なんだが……実は、この見立てを裏付ける状況証拠もあって、昭和50年に新庄校下自治振興会から刊行された『新庄町史』を繙くと、佐伯家はもともとは新庄新町に住んでいたようで、当時はその名の通りの新開地だったらしい。で、その新庄新町を貫く形で幅四間の街道が通っていたそうだ。この街道、幕府の巡検使の通り道であるところから巡検往来とも上使往来とも呼ばれていたそうだが、実はこの街道は岩峅寺まで繋がっていた(こちらでそのルートを確認することができる)。つまり、岩峅寺と新庄新町は一本の道で結ばれていたわけで……排仏毀釈の煽りを食って両峅寺から離村した一家が巡検往来を下って新庄村まで至り、その村外れを切り開いて新庄新町ができた……というストーリーを思い描くことも可能。ちょっとアメリカあたりでよく読まれているファミリーサガみたいな話になってきましたが……まあ、義春の本当の生家がどこかから新庄新町に移ってきたことだけは間違いないわけで、やはりそれなりのドラマはあったんだろう。もし現在の佐伯家の当主にお会いする機会があれば、その辺のことをお伺いすることにはなるかな(ただ、そういう予定はない。そんな、心理的圧のかかることは……)。

 ところで、おれは「両峅寺の佐伯家が立山開山・佐伯有頼に由来することは言うまでもない」と書いたのだけれど、実はここには若干の誤魔化しがある。それは「由来する」。由来するって、どーゆーこと? これが、なかなかに微妙で。佐伯幸長は前掲書で「有頼公に三人の男子が居り、長男有胤は法体修験となって泉蔵坊慈泉となり、次男有寿は同じく永蔵坊(後の大仙坊)弘順となり、三男有澄は同じく日光坊光智となって夫々創坊した」と書いているのだけれど、芦峅寺33坊、岩峅寺24坊のすべてが佐伯有頼の子孫によって経営されていたとはちょっと信じがたい。佐伯氏というのは、ルーツをたどれば天孫降臨の時に彦火瓊々杵尊(ににぎのみこと)を先導した天押日命(あめのおしひのみこと)に行きつくという名族で、天平年間に越中の国司を務めた大伴家持とは同族となる(ウィキペディアには「大伴室屋の時に大伴氏から別れた」と書かれていますが、これはやや正確性を欠く。典拠として示されている『新撰姓氏録』に書かれているのは「大伴宿禰と同じき祖、道臣命の七世の孫、室屋大連公の後なり」ということであって、これを以て「大伴室屋の時に大伴氏から別れた」とは言いきれないのでは? 実際、福島県伊達郡桑折町生まれの歴史家・角田文衛が昭和38年に著した『佐伯今毛人』では佐伯氏の祖を大伴歌としており、これは大伴室屋の孫に当たる。それでも「室屋大連公の後」であることには違いない。なお、同書は、佐伯氏としては、唯一、参議まで昇った佐伯今毛人の評伝。「今毛人」の読みは「いまえみし」。言うまでもなく「毛人」とは「蝦夷」の謂いである……)。佐伯有頼はそんな名門貴族の出身だったんだから、当然、多くの家人を抱えていたはずで、両峅寺を始め、越中の各地に散在する佐伯氏とは、佐伯有頼に仕えていた家人らの末裔――と考えることも可能。それほど佐伯を名乗る一族は越中の各地に広まっており(これについては『角川日本姓氏歴史人物大辞典』のこちらのページを参照していただければ)、それらすべてが佐伯有頼の血を引く子孫というのは、なかなか考えにくい。そうではなく、佐伯有頼に仕えていた家人らの末裔――とするならば、これほどまでの広まりも得心が行くというもの?

 で、そう考えた場合、これまたおもしろい〝絵〟が見えてくるのだ。実は、大伴室屋の時代だかその孫の時代だかに佐伯氏が大伴氏から別れたのには理由があって、それは佐伯部を監督する(させる)ためだったのだ。で、佐伯部とは何かというと、かのヤマトタケルが死の間際に伊勢神宮に献上した蝦夷の俘囚がルーツで、その後、倭姫命(やまとひめのみこと)により朝廷に進上され、御諸山の傍に置かれた。しかし……ここは『日本書紀』が記すところをそのまま引けば――「未だ幾ばくの時を経ざるに、悉く神山の樹木を伐りて、隣里に叫呼(さけびよば)ひて人民を脅かす。天皇聞きて群卿に詔して曰く、其の神山の傍に置きし蝦夷は、是れ本より獣心(あやしきこころ)有りて中つ国に住ましめ難し。故れ其の情願のままに、邦畿之外(とつくに)に班(あか)ちつかはせ。是れ今播磨、讃岐、伊予、阿芸、阿波、凡て五国の佐伯部の祖なり」。で、朝廷はそれら5か国の在地豪族の中からこれはというものを選んで佐伯部の監督に当たらせた。そのための氏姓も下賜した。それが、佐伯直(さえきのあたい)。ちなみに、空海は俗名を佐伯眞魚と言ったんだけれど、空海が生まれた讃岐佐伯氏こそは讃岐国に送られた佐伯部を監督するための氏族だった。ともあれ、こうして佐伯部は播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5か国でそれぞれの国の佐伯直に仕えつつ、必要に応じて上京し宮廷警衛の任務に就いていたらしい。で、その際、彼らを監督する役職が必要になるわけで、そのために大伴氏から分家する形で作られたのが佐伯氏だった、ということになる。当然、それにふさわしい氏姓も下賜されて、それが佐伯連(さえきのむらじ)。実は「佐伯」の語源には諸説あるのだけれど、こうした経緯を踏まえるならば、聞きなれない言葉を話すので「騒(さえ)ぐ」ように聞こえたことに由来するとする説が有力かなと(『日本書紀』には「是に神宮に献れる蝦夷等昼夜喧譁(なりとよ)きて、出入礼無し」とも記されている。だから、まあ、バルバロイだよね。そういう趣旨のことは、芦峅寺の宿坊・吉祥坊に生まれた佐伯彰一も言っている。こちらがそうです)。角田文衛は、そうではなく、「塞(さえ)ぎる」に由来するとしているのだけれど、佐伯連より佐伯部の方が古いので「佐伯」の語源も佐伯部の成り立ちをベースに解釈すべきかと……。

 さて、そんな佐伯氏(佐伯連)と佐伯部の関係なんだけれど、佐伯部そのものは律令制の施行とともに廃止になったとされる(角田文衛は『佐伯今毛人』で「しかし間もなく彼らは普通の農民と化し、佐伯部という名はあっても、実体のないものとなった」と書いている)。ただし、佐伯氏は大内裏の宮城門を守衛する務めを担っており、そのための門部(かどべ)と呼ばれる実力部隊を抱えていた。で、佐伯氏はその門部を東国で徴募していた可能性がある。これについては喜田貞吉が昭和14年に書いた「久米部と佐伯部」(日本歴史地理学会編『日本兵制史』所収)にそれをうかがわせる記述があって――「聖武天皇は中衛府を組織し給ひ、これを孝謙天皇に伝え給ふた。その兵士を東舎人と云ふ。「此の東人は、額に矢は立つとも、背に矢は受けじと云ひて、一つ心に君を守り奉るものぞ」と仰せられたとある。以て如何に所謂東人が、忠勇剛健の兵士であつたかが察せられよう。此の東人よりなる中衛府は、変遷して後の近衛府の一部となつた。維新前まで宮廷奉仕の近衛の地下の官人に、上野毛・下野毛など東国人の姓を負ふものゝ存するのは、実に此の沿革を伝へたものであつた。/東人は実に佐伯部の延長であつた」。で、これに関して付言するならば、佐伯氏には佐伯東人という名前のものもいた。天平年間に西海道節度使判官を務めた人で、『万葉集』には妻と交わした相聞歌が収められている(こちらです)。佐伯氏がいかに東人と縁が深かったかを裏付ける事実と言っていいだろう。こんなことも踏まえるなら、佐伯氏は佐伯部が制度としては廃止されて以降も東国で徴募した東人を家人として抱えていた可能性が見てとれるわけだけれど……延喜年間、佐伯有若(有頼の父。ただし、有頼を有若の子とするのは、立山縁起ではそうされている、ということにすぎず、必ずしも歴史的事実とは言いがたい。また、有若の実在そのものも永らく疑念の対象だった。しかし、昭和初年に富山県東砺波郡五鹿屋村生まれの歴史家・木倉豊信によって裏付けとなる史料が発見された。京都市山科区にある真言宗善通寺派の大本山・随心院が所蔵する文書の中に「越中守従五位下佐伯宿禰有若」と自署があることがわかったのだ。これにより、少なくとも佐伯有若の実在は裏付けられた、ということになる。なお、宿禰とは天武天皇による八色の姓の改革によって新たに設けられた姓で、それまで連を称していた中央貴族には一律に宿禰が授けられた。従って、佐伯今毛人も佐伯宿禰今毛人だし佐伯東人も佐伯宿禰東人)が越中守に任じられ、越中に下向するに当たっては、当然のことながら、家人を引き連れていたはずで、そのすべてではないだろうけれど、一部は東国で徴募された東人、という可能性が見えてくるのだ。

 そんな彼らからするならば、越中の風景は懐しささえ覚えさせるものだったのでは? 今日、伝わっている立山縁起の一つ「立山略縁起」(相真坊所蔵)では「佐伯有若ハ、越中の郡主をたまハり、布施院に居城す」とされている。この布施とは新川郡布施郷のことで、今、その比定地には地元の有志によって「有頼柳」なるものが植えられており、同じ場所には「越中国守館跡」と刻まれた標柱も建てられている。で、実はこの布施郷というのは大伴家持がかの有名な「立山の賦」を詠んだ場所なのだ。ここは、その全文を紹介することにしよう――

立山の賦一首 并せて短歌 この立山は新川郡にあり

天離る 鄙に名かかす 越の中 国内ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも さはに行けども 皇神の うしはきいます 新川の その立山に 常夏に 雪降り敷きて 帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや あり通ひ いや年のはに 外のみも 振り放け見つつ 万代の 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて ともしぶるがね

立山に 降り置ける雪を 常夏に見れども飽かず 神からならし

片貝の 川の瀬清く 行く水の 絶ゆることなく あり通ひ見む

 その神々しいまでの〝雄姿〟を目の当たりにして東国生まれの東人としては心を奮わされなかったはずはない。かくて、若きリーダー佐伯有頼に率いられた彼らはこの地から立山をめざしたのだ、己の中に流れる東人としての血を騒がせながら。

 そして、その血は、このおれの中にも流れている――のかも知れない……。


越中佐伯氏はこの片貝川のほとりから越中全土に広まったと考えるならば、この片貝川のほとりこそは越中佐伯氏の発祥の地。