もしかしたら、澤田ふじ子の念頭にあったのは、仲哀天皇の最期かも知れないなあ。『日本書紀』では「一に云ふ」として「天皇親しく熊襲を伐ちて賊矢に中りて崩りたまふ」。熊襲征討と蝦夷征討は大和朝廷の拡張政策の一環という意味で共通しており、であるならば熊襲征討の過程で起きたことが蝦夷征討の過程で起きた(あるいは、起きかかった)としても何ら不自然ではないだろう、というような?
ただ、仲哀天皇が熊襲の矢に射られて死んだというのはあくまでも一書が伝える異説ということになっていて、『日本書紀』が紡いでいるのはもっとミステリアスなストーリー。即位8年、仲哀天皇は熊襲征討を群臣らに諮るのだが、神懸かりとなった神功皇后が次のような〝異論〟を述べる――「天皇何ぞ熊襲の服(まつろ)はざることを憂ひたまふ。是れ膂宍(そしし)の空国(むなしくに)ぞ。豈兵を挙げて伐つに足らむや。茲の国に愈(まさ)りて宝国有り。譬へば美女(をとめ)の睩(まよびき)の如くて向津国有り。眼の炎耀く金銀彩色多に其の国に在り。是を𣑥衾新羅国(たくぶすましらぎのくに)と謂ふ。若し能く吾を祭りたまはば、則ち曾て刃に血ぬらずして、其の国必に自ら服ひなむ。復た熊襲も服ひなむ」。要するに、熊襲なんか構わずに、新羅を攻めろと。しかし、そう誘導するに当たって新羅を「美女の睩」(「睩」とは「眉引き」の意、らしい)に譬えるとは。多分、昭和の軍人さんなら、この御託宣に手もなくそそのかされてしまったはず……。しかし、どうやら仲哀天皇はこんな誘惑には負けない凛とした武人だったらしい。御託宣を信用せず、却って「誰の神の徒に朕を誘きたまふ」との疑いを抱く。すると、皇后はまたもや神懸かりとなって――「其れ汝王(いましみこと)、かく言(のたま)ひて遂に信(う)けたはずば、汝其の国を得たまはじ。唯今皇后始めて有胎(はらみ)ませり。其の子(みこ)獲たまふことあらむ」。要するに、言うことを聞かなければ、子に取って代わられるぞ、と。仲哀天皇はそれも無視して、熊襲征討の途に就く。しかし、「え勝ちたまはで還ります」。そして、翌年の春、「天皇忽に痛身(たやみ)たまうこと有りて、明日崩りたまふ」。
で、ここまではよしとしよう。しかし、このあとがなんとも謎めいていて。皇后は仲哀政権の執政(大臣)である武内宿禰に命じて天皇の亡骸を密かに穴門に遷し、同地の豊浦宮で无火殯斂(ほなしあがり。コトバンクによれば「死を秘するために、灯火をたかないで殯をすること」)にした……。これをミステリー小説ふうに読むならば、仲哀天皇は妻(神功皇后)とその愛人(武内宿禰)に謀殺され、その亡骸は密かに穴門で焼却された……。これぞ「天皇弑逆」? いやー、これだから「日本の古代史はおもしろい」。
ということで、本題。こうしたドロドロの愛憎劇(?)を経て即位することになるのが第15代応神天皇だが、この応神天皇の「五世の孫」とされるのが、第26代継体天皇。しかし、そのプロフィールを額面通り受けとるものはおらず、その正体をめぐってはさまざまに取り沙汰されている。関連する研究書も多い。ウィキペディアの「継体天皇」には今日時点で37冊の研究書が参考文献として挙げられている。で、実を言えばおれはここに列挙された本をただの1冊も読んだことがない。それでいて、継体天皇について一文を草そうというんだから身の程知らずもいいところだけど……まあ、おれは「反日分子」だから。「反日分子」には「反日分子」なりのアプローチがあるということで……さて、継体天皇の正体をめぐってだ。実は、おれが推したいと思っているのは、継体天皇は百済の大王・武寧王の弟とする説なんだよ。こんな説があるってことは(少なくとも今日時点の版では)ウィキペディアにも書かれていない。ただ、継体天皇と武寧王との関係には若干の言及があって、たとえば「隅田八幡神社人物画像鏡」という節では「継体天皇と百済の武寧王は密接な同盟関係にありそれを示唆する同時代の資料がこの隅田八幡宮人物画像鏡だとも言われる」。でね、継体天皇は百済の大王・武寧王の弟とする説の根拠とされているのが、この隅田八幡神社が所蔵する「人物画像鏡」の銘文なんだよ。ただし、この銘文が一筋縄では行かない。これについては、別途、「隅田八幡神社人物画像鏡」というページが設けられていて、その中で「銘文と読み下し」として、さまざまな解釈が紹介されているのだけれど、ここに掲げられている読み下しのいずれからも継体天皇は武寧王の弟であるとするニュアンスさえも読みとれない。
ところが、そう読みとるしかないような読み下しを披露している研究者がいる(いた)のだ。それは、渡辺光敏という人で、1983年に上梓した『古代天皇家の渡来:崇神・応神・継体の謎を解く』(新人物往来社)という本の中でこんな読み下し文を披露しているのだ――
癸未年八月日十、大王年は男弟王に意柴沙加宮にありし時の斯麻として、長寿を念じ、開中費直と穢人今州利二人等を遣し、白上同二百旱を取り、竟を作る
また、これを語釈する形で――
私は袁本杼命(継体)は武寧王の王弟だからヲホトであると考える。それを記するのが隅田八幡の人物画像鏡銘文である。「大王年」は武寧(むね)王(余隆)=牟年(むね)の年(ねん)に示し、男弟(オオト)王すなわち袁本杼(ヲホド)は継体である。継体は武寧王の王弟だと読む。すなわち銘文は、武寧王が「私の男弟王へ」、「私が忍坂宮に人質とされていた時の幼名が斯麻であるが、弟の長寿を願って……この鏡を作った」と読む。文ははじめに大王名、あとに幼名を記し、親愛の情に満ちている。継体がまだ天皇になっていない時のものである。
ハッキリ言って、この説明はわかりにくい。単純に、日本語として、わかりにくい。「「大王年」は武寧(むね)王(余隆)=牟年(むね)の年(ねん)に示し」って、てにをはが間違ってるんじゃないの? それに「大王年」を「牟年の年」と読むのはさすがにムリでしょう。ただ、ちょっと手を加えれば意味の通る文になるとは思うんだよ。で、おれなりに言葉を補う形でこう読み替えてみたんだけど――
癸未年八月日十、(私が)大王の年。男弟王(へ)。(私が)意柴沙加宮にありし時は斯麻(という幼名)だった。(今、当時の私と同じ境遇にある男弟王の)長寿を念じ、開中費直と穢人今州利二人等を遣し、白上同二百旱を取り、竟を作る
最初の「癸未年八月日十、(私が)大王の年」までが年紀で「男弟王(へ)」が宛名。そして、それ以降が本文ということになる。で、この解釈を裏付ける若干の史実を提示するならば、まず武寧王が百済の大王に即位したのは502年であるとされる。そして、銘文の「癸未年」を503年とすることには複数の研究者の支持がある。だから、「癸未年」は武寧王にとっては正に「(私が)大王の年」ということになる。で、その武寧王は日本で生まれている。これは『日本書紀』に記されている事実で、どうやら百済は日本に人質を差し出していたらしい。しかも、当初は姫。雄略天皇二年の条に「百済新撰に云ふ」として「己巳年、蓋鹵王立つ。天皇阿礼奴跪を遣して、来りて女郎(えはしと)を索(こ)はしむ。百済、慕尼夫人の女を荘飾(かざり)、適稽女郎と曰ひ、天皇に貢進(たてまつ)る」。ところが、雄略天皇はこの女郎(日本で池津媛と名付けられた)を焼殺してしまう。自らの寵を拒み、あろうことか近習と「淫(たは)けぬ」というのがその理由。これを伝え聞いた蓋鹵王は「今より以後、女を貢る合(べ)からず」として次は自らの弟の軍君(昆支王)を差し出すことにした。それに対し、軍君は条件を出した、「願わくは君の婦を賜ひて後に遣し奉へ」。蓋鹵王はこの条件を呑み、軍君と自らの夫人の一人を娶せるのだが、このとき、その夫人は蓋鹵王の子を妊っていた。で、「若し路に於て産まば、翼はくは、一船に載せて、随到何処(いづこにいたるとも)、速に国に送らしめよ」。で、実際に夫人は筑紫の各羅嶋(加唐島)で男児を産んだ。そして、島君と名付けられた。軍君は、言われた通りこの島君を国に送り返すのだが、この島君こそは武寧王――というのが『日本書紀』が伝える物語。なんともケッタイな話という気がするんだが、武寧王が日本で生まれたこと、幼名が島(斯麻)であったことは確かな事実と見て間違いないだろう。その斯麻が「意柴沙加宮」(一般には「忍坂宮」と解釈されている)にいたことは『日本書紀』では裏付けられないものの、銘文にそう書かれているんならそうなんじゃないの? とにかく、「(私が)意柴沙加宮にありし時は斯麻(という幼名)だった」という部分は史実との照合が可能ということ。その上で、韓国側の文献によれば、昆支王は477年に亡くなっているそうだ(出典はウィキペディアの「昆支王」)。とするならば、百済としては代りの人質を差し出す必要があったわけで、それが男弟王だったのではないか? そんなことは『日本書紀』を始めとするいかなる文献にも記されていない。でも、状況的にはあり得る話で、この場合、そんな状況を想定した上で、502年、第25代百済王に即位した武寧王は、明くる癸未年、かつての自分と同じ境遇にある男弟王の長寿を念じ、(当時は霊力があると信じられていた)鏡を作って贈った、と解釈するのがロジカル。しかも、武寧王がそうするに当たって、思わず自分の当時の幼名が思い出された(「(私が)意柴沙加宮にありし時は斯麻(という幼名)だった」)というのは、人情の機微にも適っている。だから、おれは↑の解釈には結構な自信があるんだが……
しかし、そうなると、大伴金村や物部麁鹿火らは百済人を日の本の大王として担ぎ出した――ということになるわけだが、たとえばデンマーク王スヴェン1世の子がイングランド王クヌート1世として即位した、という例だってあるわけだし。世界史レベルでは、決してない話ではないんだ。ただ、そうは言っても、受け容れられる日本人はどれだけもいないだろう。ましてや、ネトウヨくんたちにはね。でも、事実として述べるならば、継体天皇は、即位後、百済に対してほとんど〝売国的〟と言ってもいいくらいの従属的な外交方針を打ち出すのだ。即位して間もない512年には百済の要請に応じて任那4県を割譲しているし、527年には百済と対立関係にあった新羅と誼を通じていた筑紫君磐井を討っているし(いわゆる「磐井の乱」)。なぜ継体天皇は百済に対してそれほどまで従属的な外交方針を打ち出したのか? それは、自身が百済の大王・武寧王の弟であり、百済と日本は文字通りの兄弟国家だったから、と考えれば説明がつくのではないかな? 多分、ネトウヨくんたちも継体天皇が打ち出した外交方針が〝売国的〟だったことには同意するはずで(なにしろ、何かの賠償ってわけでもないのに領土を割譲しているわけだから)、であるならばそんな人物の素性をめぐっては、むしろ(おれみたいな反日分子ではなく)キミたちこそが言い募るべきなんじゃないかな、継体天皇は武寧王の弟だったって。だから、国を売ったんだ、ということにすればスッキリするじゃないか(ちなみに、2013年に福岡県八女市/八女市教育委員会の企画で制作されたアニメ『筑紫の磐井』では筑紫君磐井の台詞として「大伴金村は国を売った」。でも、それを言うならば「ヲホドノ王は国を売った」でしょう)。
ただ、継体天皇、ならびに継体の血を引く歴代天皇の強力な梃入れにも関わらず、百済は亡びる。それは、660年のことで、百済は唐の占領下に置かれた。しかし、百済再興をめざす遺民らは10月になると唐の俘百余人を献上し斉明天皇に援兵を求めた。斉明天皇は求めに応じて出兵を決断するや(これが、なにゆえの決断なのか? 『日本書紀』によれば「危うきを扶け、絶えたるを継ぐは、自ら恒典に著われたり」。ただ、それはリクツだよ。そんなことよりも、自らの身内にも流れる〝百済人の血〟のなせるもの――と考えた方がわかりやすいのでは?)、自らも西征。ところが、豈図らんや、筑紫の朝倉橘広庭宮(現在の福岡県朝倉市)で崩御。日本側はこの事態にも動じず、以後は皇太子である中大兄皇子の指導の下、大規模な軍事オペレーションが企図されることとなり、663年、遂には朝鮮半島西岸の白村江(えらい! おれの使っているIMEは「はくすきのえ」をちゃんと「白村江」と変換した!)で日本・百済遺民連合軍と唐・新羅連合軍の間で一大海戦が繰り広げられることになる。世に言う「白村江の戦い」。しかし、結果は日本・百済遺民連合軍の大敗。どういうわけか、「神風」が吹くことはなかった。ただ、敗戦は敗戦だけれど、日本としては領土を奪われたわけでもないし、さほどの打撃はなかったのではないかな?→いや、『日本書紀』天智天皇4年(665年)の条として「九月庚午朔壬辰、唐國、朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等を遣す」とあって、言うならばダグラス・マッカーサー元帥の進駐。だから、日本は間違いなく「敗戦国」だった。ただ、亡国の憂き目を見るまでには至らなかった……。でも、百済遺民は、そうはいかない。これにより百済再興という望みは完全に絶たれることになるわけだから。あるものは唐の占領下で、あるものは亡命先として選んだ日本で亡国の民として生きて行くしかないのだ。これほどの哀しみがあるだろうか……。これは前にも書いたことがあるのだけれど、おれは1979年にビクター音楽産業から発売された『アリランの歌』なるLPレコード3枚+ライナーノーツ(これが、なんと、全28ページという豪華版で。これだけでも持っている価値あり?)からなる充実のボックスセットを持っていて、内容が充実しているだけに、値段も充実していて、帯にプリントされた定価は¥9,000。しかし、よく買ったもんだよ、学生の身分で……。そんな充実のボックスセットに収められたライナーノーツでは「百済歌謡」としてこんなことが書かれている――
一般的に亡んだ国の文化はのこらない。
新羅に亡んだ百済の文化遺産は、たいへんすくない。詩歌もその例を免れない。百済の領域である忠清道、とくに全羅道は民謡の宝庫だが、その由来を語る史料はほとんどない。百済の古歌は「井邑詞(チョウプサン)」の一曲しかない。「三国史記」や「三国遺事」には一句もでてこない。歌詞は李朝の「楽学軌範」にでているだけだ。「井邑詞」の存在は早くから、高麗史に語られている。井邑に住んでいる行商人が全州の市場にでかけたまま、なかなか戻ってこなかった。帰りの遅い夫を心配しながら待つ妻の心を詩ったのがこの歌である。特徴といえば、詞にハングル(韓国文字)がつかわれていることだ。
『月よ 高く昇り給え「オキャ オカンドリ、アオ タロンドリ」は感嘆詞の仲間だという。そこに特別な意味はないとされている。韓国民謡には、意味ありげな感嘆詞がよくでてくるが、それらに特別な意味はない。そうした感嘆詞が一節唄うごとにくり返される。それを「後歛(フリョム)」というが、韓国民謡の大きな特徴とみていい。
ああ 遙か遠くを照し給え
オキャ オカンドリ
アオ タロンドリ』
「ケジナ チンチンナーネ」「ニルリリヤ ニルリリヤ……」「アハァ エヘョ アハァ アハァ」など、さまざまな後歛があり、「アリラン アリラン アラリヨ」などもその類と考えていい。
井邑詞を高麗の時調(シジョ)と関連づける説、さらに新羅郷歌に関連づける説があるが、まだ定説とまでは行っていない。文体の旋律からみると、二句体と四句体の中間、つまり三句体の郷歌に想定することが可能だとされている。その可能性が十分に考えられるが、今後の課題とするしかない。
書かれているのは、たったこれだけ。続けて記されている「新羅歌謡」の半分にも満たない。正に「一般的に亡んだ国の文化はのこらない」。ただ、全羅道は民謡の宝庫とされるだけあって、現地録音された32曲の内、全羅道で録音された楽曲がいちばん多い(9曲)。きっとそれらの楽曲からはもう失われてしまった「百済歌謡」の名残がそこかしこから感じられるはず(なお、↓はたまたまYouTubeで見つけたもので、唄われている楽曲の内、「カンガンスルレ」と「珍島アリラン」は『アリランの歌』にも収録されている)。
かつて、百済と日本は兄弟国家だった。そして、兄弟が手を携えて戦った。しかし、奮闘空しく敗れ兄の国は亡んだ。そして、その亡国の哀しみを唄う民謡が弟の国のどこかで静かに流れているとして、その調べに耳を傾けている日本人は「反日分子」なのだろうか……?