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来年、『逆賊の幕臣』を見るために⑧

 昨日、YouTubeで大島由香里の酒呑み動画を見ていたら(最近のお気に入り。昨日は6本ばかり立て続けに見た)、どういうわけかお薦め動画で「【小沢一郎がはじめて語る】ロッキード事件とは何だったのか⁈」てのが表示されて、へえ。で、つい見てしまった。見てしまったんだが、さして目新しい話はなかったな。強いて挙げれば「バルカン政治家」三木武夫が田中角栄に恨みを抱くようになった経緯だが(なんのことはない、田中角栄が三木武夫の選挙区に後藤田正晴を立てたこと。しかし、却ってリアリティがあるというか。遺恨と言えばおどろおどろしいが、政治家の場合、煎じ詰めるならば選挙に行き着くというのは、リアリティを感じる。国民民主党の榛葉幹事長が立憲民主党を目の敵にしているのも煎じ詰めるならば2019年の選挙で立憲民主党が徳川家広を立てたことに行き着くわけだから)、でもそこがロッキード事件の核心ではないもんなあ。いずれにしても、「小沢一郎がはじめて語る」という割にはサプライズには欠けるかなと。ただ、こうして小沢一郎は少しずつ「戦後政治の証言者」というところにポジショニングし始めているのかなあ、という印象はあって、それはそれである種の感慨も覚えた。で、この動画を見終わったら、さらにいろいろ小沢関連の動画がお薦め動画として表示されて(本来、おれは政治関係の動画はほとんど見ないので、これまでこの種の動画がお薦め動画として表示されることもなかった。なんで「すきっ!~娘ver~を聞きながら推し活の私ルール語ってみた」関連のお薦め動画として「【小沢一郎がはじめて語る】ロッキード事件とは何だったのか⁈」が表示されたんだろう? 大島由香里って、一応、局アナ時代は報道だったから?)、その中に「小沢一郎はどう動くのか⁈」というのがあって、え、まだやるつもり? と。で、これもうっかり見てしまったんだが、どうも小沢はまだ諦めていないらしい……三度目の政権交代を。しかし、小沢一郎が何を語ろうが、もう国民は耳を傾けないって。それを、わざわざ「小沢一郎公式チャンネル-いっちゃんねる-」なんてものまで立ち上げてね。ご苦労なこったなあ……。まあ、件の動画を見た印象はこんなところなんだが、こんなことを考えながらも、ふと、小沢一郎こそは現代の『逆賊の幕臣』ではないか? という考えがアタマに浮んだ。幕府=政府と見なすならば、「幕臣」とは「政府を構成する政治勢力の一員」ということになる。そして、小沢一郎は正にかつては自由民主党という政権与党のど真ん中にいた人物(ど真ん中にいて権力を恣にした人物)。当時、いかに小沢が権力を恣にしていたかは「金竹小(こんちくしょう)」と陰口を叩かれていたことを以て十分に説明ができるだろう。そんな人物が今や世間一般からは二度の政権交代の失敗の責任を一身に負う存在と見なされており、議員バッジさえ失った身。そういう意味では正に「逆賊」。だから、小沢一郎を現代の『逆賊の幕臣』と見なすことはあながち的外れではないと思うのだが……この際だ、小沢一郎が主導して実現した二度の政権交代について語ろうではないか。それを「来年、『逆賊の幕臣』を見るために⑧」というタイトルで記事にするなんてイカレていて(?)いいではないか。

 では、なぜ二度の政権交代は二度とも失敗したのか? これは、一括で答えるのはムリ。一度目と二度目は相当に趣が違うので。まずは第一次野党政権(という言い方をしよう。「野党政権」とはずいぶんと妙な言い草だけどね)の失敗の本質から考えるなら……7党からなる連立政権として誕生した細川政権には新自由主義を志向していた新生党や日本新党が社会党と組むことの矛盾が当初からあって、遠からず連立の組み換えは避けられない状況だった。で、社会党といずれかの政治勢力との入れ替えを考えた場合、自民党内にあって新自由主義的色彩が最も濃かった渡辺派というのは最適解だっただろう。そして、事実、小沢一郎は渡辺美智雄の担ぎ出しによる連立の組み換えを模索した。そして、そのチャンスは早々にやってきた。細川護煕が突如として政権を投げ出したのだ。その直接的な原因は佐川急便からのヤミ献金問題を自民党から攻め立てられて国会が回らなくなったことを財界の実力者である中山素平に厳しく咎められて〝殿〟が意気消沈してしまった――と、当時、どっかの新聞だか週刊誌だかが書いていたが、真相は不明。でも、とにかく細川は突如として政権を投げ出した。で、連立与党としては後継を選出する必要があるわけだが……ここで小沢は渡辺美智雄担ぎ出しの切札を切る。それが「渡辺首班」。この誘い玉に渡辺美智雄も露骨に色気を示した。ただし、「渡辺首班」には条件があった。それは、渡辺美智雄が社会党に取って代わるだけの十分な数を揃えて自民党を割って出ること。しかし、渡辺美智雄は十分な数を揃えられなかった。そして、小沢一郎から投げられた「渡辺首班」という誘い玉に色気を見せつつも最終的に離党を断念した。やむなく小沢は社会党に非常にハードルの高い連立合意(その多くは朝鮮半島有事を睨んだものだった。当時、日本政府には半島有事が現実的な政治課題として突きつけられており、一説には小沢にはアメリカから北朝鮮の核開発施設をターゲットとした空爆の可能性さえ通知されていて、その際、日本政府がどう対応するかを厳しく問われていたとされる。小沢が連立の組み換えを遮二無二めざしたのもそのためだし、細川首相に政権の女房役である武村官房長官の更迭を迫ったのも武村正義が共産党の青年組織である民主青年同盟の出身でアメリカ政府が北朝鮮に融和的と見ていたから、という話もある。まあ、エビデンスを示せと言われると困るけどね。でも、当時、そんなふうな言説が『週刊ポスト』によって盛んにばらまかれていた。当時、『週刊ポスト』は親小沢メディアと見られていた。それに対し、『週刊現代』が反小沢メディアだった。今やどっちもお爺ちゃんメディアになっちゃったけどね)を呑ませた上で7党による連立を維持することにした。そして、羽田孜を首班とする政権の樹立に漕ぎ着けた。しかし、その直後に「改新」騒動が起こる。当時、民社党の委員長だった大内啓伍が自らの保身のために仕掛けた騒動。もともと新・新党の結成を睨んでいた小沢はその母体となる統一会派結成を目ざしていたのだが、それに抵抗していたのが大内。立正佼成会の支援を受けている大内としては創価学会を母体とする公明党と一緒になることは政治的自殺に等しかった。とはいえ、その姿勢が党内で反発を招き、大内啓伍は孤立していた。彼が望んでいた羽田政権での厚生大臣留任も望めない状況だった。そこで、君子豹変し自ら小沢に統一会派結成を呼びかけた。これを渡りに舟と捉えたのが小沢で、統一会派「改新」は社会党と新党さきがけを除く5党により電撃的に結成された。しかし、これを騙し討ちと受け取った当時の社会党委員長・村山富市が一気に政権離脱へと舵を切ったのは小沢としても想定外だっただろう。よもや社会党にそこまでの気概があろうとは……。で、小沢すらも予期していなかったこの不測の事態によって羽田政権は発足直後に少数政権に転落してしまうのだが、それでもまだ第一次野党政権が潰えたわけではなかった。この時点で小沢には2つの選択肢があった。1つ目は解散総選挙。しかし、これは現実的には取れない選択肢だった。なぜか? 社会党が連立離脱して少数政権となったからには解散総選挙で国民に信を問うのが常道でもあるのだが、羽田政権発足当時、まだ小選挙区の区割りを有権者に周知するための期間が満了しておらず、仮に解散総選挙に打って出た場合、中選挙区制で行われるというのが法的な規定だった。しかし、中選挙区制を批判して小選挙区制を導入した羽田・小沢コンビには中選挙区制での選挙は自己否定に等しかった。だから、解散総選挙は現実的には取れない選択肢だった。しかし、2つ目の選択肢がある。それは、羽田の首を差し出した上でその後継を決める首班指名選挙で自民党を切り崩し、勝つこと。小沢はその可能性に賭けた。そして、村山富市を担ぐ自民党と(渡辺美智雄ではなく)海部俊樹の担ぎ出しに成功した連立与党が首班指名選挙で雌雄を決するという、憲政史上、稀に見るスリリングな場面が現出することになった。もしかしたらあれは戦後民主主義における関ヶ原の戦いと呼んでもいいものだったかも知れないなあ。結果は、社会党の委員長を担ぐという禁じ手に手を染めた自民党が勝つという意外なもの。当時、おれは、当然のごとく、連立与党が勝つだろうと見ていた。いくらなんでも社会党の委員長を首班とする政権が誕生することはないだろうと。それは、天人ともに許さざる暴挙だとまで思い込んでいた。あのとき、何が勝敗を分けたのだろう? 朝鮮半島情勢を考えても、社会党の委員長を首相にするというのはありえない選択だったと思うのだが(ジミー・カーターが「個人資格」で電撃訪朝して米朝の対話に門戸を開いたのは1994年6月15日〜18日だが、米朝が「米朝枠組み合意(ジュネーブ合意)」を結んだのは10月21日。だから、首班指名選挙が行われた6月29日の時点ではとてもそこまで見通せる状況ではなかった。自民党は、そんな状況で「自衛隊は違憲」とする政党の党首を首班候補として担いだのだ。全くありえない選択だよ)、そのありえない選択がまかり通った理由が今もおれには見出せていない。従って、第一次野党政権の失敗の本質もおれには見出せていないということになる。つーかさ、第一次野党政権って本当に失敗だったの? 首班指名選挙で負けたことを以て失敗というのならばそれは確かに失敗だろうけれど、あの状況で社会党の委員長を担ぐことの方が「失敗」だって。なんか、そんなふうに思えてきたんだけれど……。

 ともあれ、首班指名選挙に敗れた小沢一郎は野に下ることになるわけだが、それから15年の忍従の時を経て再び政権交代を実現する。で、今度こそは、と思いきや、今度は本当に失敗した。では、第二次野党政権の失敗の本質は? 小沢が「陸山会事件」で身動きを封じられたことも大きかったとは思う(なお、この際だから書いておくが、世に言う「陸山会事件」とは本来ならば事件とも呼べないようなものだった。単なる期ずれなんだから。後に発覚する鳩山由紀夫の資金管理団体による政治資金収支報告書の虚偽記載ほどの犯罪事実もない。それを、当時の佐久間特捜部長がむりやり「事件」に仕立てた。その背後に何らかの意図が働いていたのかは不明。でも、将来、NHKの『未解決事件』で取り上げてもいいような不可解な事件ではあったよ。「陸山会事件」とは、おれに言わせれば、民主党政権という選挙によって誕生した政権を検察が潰しにかかったという事件であり、戦後民主主義の一大汚点――と、この際だから断言しておこう)。しかし、ではそれが失敗の本質かとなると……。むしろ、本質は別のところにあって、それはトップを務めた人物が政治的にきわめて未熟だった、というところにあるのではないか? そう、第二次野党政権で首相となった三人は揃いも揃って政治的に未熟だった。鳩山由紀夫も菅直人も野田佳彦も、村山富市と比べても、未熟だった。以後、順番に見て行こう。まず、鳩山由紀夫の場合は、やはり普天間基地移設問題をめぐる迷走劇がイタイ。おれは、「最低でも県外」というのは、鳩山がそれほど深い考えもなく、沖縄に遊説に行った際にただのリップサービスで言ったに過ぎないと思っている。しかし、選挙で民主党が勝ち、鳩山が内閣総理大臣になってしまうと、ただのリップサービスが「政治公約」になり、それが実現できなければ「公約違反」となって政治責任を問われる事態となる。事実、鳩山政権はこれで潰れたと言っていい。その後に発覚した鳩山の資金管理団体による政治資金収支報告書のお笑いレベルの虚偽記載(献金者の中に故人や実在しない人物が100人以上いた。虚偽記載にしたって、あまりにもお粗末)なんてのはただただ鳩山由紀夫という政治家の未熟さをわかりやすい形で可視化して見せただけで鳩山政権崩壊の原因にもならない。もともとこの人は総理大臣になってはいけない人だったんだよ。次に菅直人の場合は東日本大震災に起因する原発事故への対応の仕方にその未熟さが凝縮されている。この際、菅直人は(おそらくは阪神大震災当時の村山首相の対応への反省から)国民の目に見える形で自らのリーダーシップを誇示することにこだわるあまりパフォーマンスと見紛うような行動(福島第一原発の視察)に出て現場の混乱を招いてしまった。あの局面では、一国の総理たるものの務めとして、官邸の危機管理室に腰を据えているべきだった。ただ、そうは言っても、国家レベルの危機だったのだから。その現場を自分の眼で見たいと思った菅直人を責められるのか? という意見もあるだろう。しかし、菅直人という人は厚生大臣時代から薬害エイズ事件の原告団に(テレビカメラの前で)謝罪して涙を流して見せるような政治家だった。そんな政治家がまたしてもテレビクルーを引き連れて福島第一原発に乗り込んだのだから、政治の最高責任者としてのやむにやまれぬ行動とは見なしがたい一面があったのは事実で、そんなふうに見られること自体、菅直人という政治家の未熟さと言わざるを得ないだろう。そんなわけで、鳩山にしろ菅にしろ、総理としてはきわめて未熟であったのは否定しがたい。で、この時点で第二次野党政権の失敗は既に明らかであり、次の選挙での大敗は避けられない趨勢ではあった。しかし、第二次野党政権の三人目の総理として野田佳彦が出てきた。小沢が推した海江田万里を破って野田佳彦が民主党の代表となったことは民主党という政党が小沢一郎の支配から脱したことを国民の目に見える形で示したという意味で非常に大きかった。そして、野田佳彦という政治家は弁論の人だった。古き良き時代の大保守政治家を彷彿とさせる堂々たる大演説をする人だった(そんな野田の魅力は安倍晋三への追悼演説で遺憾なく発揮された)。そんな野田新総理が国民の支持を獲得して第二次野党政権を再生させる可能性はあった。ああ、ところが……なんと、野田は民主党がマニフェストでは全く言っていなかった消費増税に突き進んだのだ。そして、それを裏で操ったのは旧大蔵省出身の藤井裕久だった。かつて小沢一郎に仕えた人物であり、民主党がマニフェストで掲げた大風呂敷を旧大蔵省出身の財政通として裏書きした人物。もし藤井がこれほどの公約を実現するには消費増税は避けられない、と言っていれば、民主党があれほどの大風呂敷を広げることはなかったのでは? しかし、藤井はマニフェストの策定過程ではそんなことを一切言わなかった。それどころか、ムダを省けば財源なんて簡単に捻出できるとまで言っていた(このことは、当時を知る方なら了解されるはず。田原総一朗が司会を務める日曜午前の政治討論番組でもあの歯切れのいい江戸弁で財源捻出の容易さを滔々と弁じ立てていたのを今でもハッキリと覚えている。で、大蔵省出身の藤井裕久が言うのだから信じてもいいのだろうと、多分、誰もが思ったはず)。ところが、その藤井裕久は、民主党政権で財務大臣になるや、突如、大蔵官僚に先祖返りしたかのごとく、消費増税の必要性を言い始めた。その藤井の下で財務副大臣を務めたのが野田佳彦だった。藤井に感化されたのか、財務省に洗脳されたのかは知らないけれど、総理となった野田は(選挙中は「みなさんの税金に、天下り法人がぶら下がってる。シロアリがたかってる」「シロアリを退治して、天下り法人をなくして、天下りをなくす。そこから始めなければ、消費税を引き上げる話はおかしい」と言っていたくせに!)政権の使命に消費増税を掲げ、第二次野党政権を〝財務省政権〟にしてしまったのだ。この時点で、第二次野党政権の再生の可能性は完全に断たれたと言っていい。後に小沢一郎が民主党を割って有権者を辟易させたことなんて大した問題ではない。それ以前に第二次野党政権は終わっていた。こう見てくると、第二次野党政権の失敗の本質は、野田があっさりと財務省に取り込まれてしまったことも含めて、首相となった三人が揃いも揃って政治的に未熟だったというところに帰着するのではないか? あるいは、そんな人物しか首相候補として持ち得なかった民主党という政党の未熟さ。だから、第一次野党政権の失敗以上に失敗の度合いは深くて大きい。おそらくは、二度とこの連中には政権を任すものかと心ある国民に思わせてしまうくらいには……。

 こうして小沢一郎が主導的な役割を果たして実現した二度の政権交代は(世間一般の評価では)二度とも失敗した。そして、小沢一郎は世間一般からはその責任を一身に負う存在と見なされており、今や議員バッジさえ失った身。かつて「金竹小(こんちくしょう)」と陰口を叩かれるくらいには権力を恣にした男が、だよ。だから、正に『逆賊の幕臣』。しかし、一度目は本当に失敗だったのだろうか? そして、二度目の失敗の責任は小沢一郎にあるのだろうか? そこんところをとことん突きつめるならば、また評価は違ってくるはずなのだが……小栗忠順とは違って、こちらの「逆賊」が再評価される日は、当分、来そうにもない……。