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ペーパーバックの倉庫から③

2011.11.01

 今、ワタシのアタマの中には竹内力が熱唱する「欲望の街」がガンガン……。宮田昇著『戦後「翻訳」風雲録』(本の雑誌社)に登場する「翻訳権の帝王」ことジョージ・トマス・フォルスター(George Thomas Folster)。実際、その商法は「翻訳権の帝王」という呼び名にふさわしいものだったようで、同じ著者が『東は東、西は西』(早川書房)に記すところによれば――「海外の著作権をまず自分の名前で契約し、あらためて、自分と日本側と再契約するというやりかただった。したがって、中間利潤を得ようとすれば、いかようにも貪ることができるシステムだ」。また『戦後「翻訳」風雲録』には「著作権の仲介というよりブローカーまがいのことをしていたフォルスター事務所」という表現も。ここはどうしたってかの竹内力演じる「ミナミの帝王」を連想せざるをえないところなんだけど、こんな「翻訳権の帝王」についていささか異なるニュアンスで言及しているのがWikipediaの雑誌『宝石』についての記事――

1949年にジョージ・トマス・フォルスターがGHQ認可を受けて翻訳権仲介業を始めたことにより、海外との著作権交渉ができるようになり、1950年から『宝石』『別冊宝石』で翻訳推理小説の掲載を始める。

『別冊宝石』第11号

 ま、トイチで取り立ては容赦なし。それゆえ鬼と怖れられる萬田銀次郎ではあるけれど、それでもその日の資金繰りにさえ苦しむ零細事業者にとってはありがたい存在。これについては宮田昇も「占領下、外貨送金が不可能で、日本側の信用をあてにできない状態で、とにかく、海外文化を日本に紹介する橋わたしをした氏の功績は高く評価してよい」。こんな「翻訳権の帝王」をめぐる相矛盾する人物評を理解するためには当時の翻訳出版をめぐる状況をおさらいする必要がある。当時――とは、敗戦からサンフランシスコ講和条約が発効する1952年4月28日までのいわゆる占領下。この時代の翻訳出版をめぐる状況をひと言で述べるならば、「すべてGHQの思し召しのまま」。それまでの日本はいち早くベルヌ条約にも加入(1899年)、ベルヌ条約加入国ではないアメリカとの間にも日米著作権条約を締結(1905年調印、1906年発効)。これらの条約に定められた義務と権利を忠実に履行してすべての出版活動は行われたはずだったのだけれど……。

 そのベルヌ条約では旧来、原著の刊行から10年間、著作権者が翻訳権を行使しなければ(未翻訳ならば)翻訳権は消滅と明記(パリ追加改正条約第五条第1項)。その条項自体は1928年のローマ改正条約で削除されるのだけれど、一方、少しでも多くの国の参加を促すための方便として、同条項の「留保」を宣言することでひきつづき10年未翻訳で翻訳自由という特例を認める妥協案を用意。日本はベルヌ条約ローマ改正条約批准(1931年)に際してこの「留保」を宣言。これがいわゆる「翻訳権10年留保」(日本の著作権法にも同様の規則を定めた第七条が1970年まで存在)。またベルヌ条約とは別に二国間条約として結ばれた日米著作権条約ではそもそも翻訳は相互に自由。このベルヌ条約の「翻訳権10年留保」と日米著作権条約の「翻訳自由」をフルに活用して行われたのが戦前の翻訳出版。例えば戦前発行の雑誌『新青年』には毎号、海外小説の翻案や翻訳が掲載され、人気を博したわけだけれど、両条約がもたらす恩恵を最大限、享受した結果。

 しかし、戦後、ベルヌ条約や日米著作権条約、また日本の著作権法は効力を失効。一方、それらに代わる法や条約も当面、存在しない。そんな中、法や条約に代わるものとした君臨したのが「GHQの思し召し」。この“専制君主”は戦前、ベルヌ条約や日米著作権条約に基づいて合法的に出版された本を次々「無断翻訳」と指弾。さればと出版社側が新たに翻訳権を取得した上で発行し直そうにも、拠るべき条約とてなく、そもそも外貨送金が不可能。こうなると、事実上、海外の著作物の翻訳出版は手立てを断たれたも同然だったのだけれど、こうした閉塞状態を打開する方途としてGHQはある制度を提案。それが翻訳権の入札制度(第1回実施は1948年6月)。GHQが提出したその第1回分のリストにはトインビーの『歴史の研究』、エドウィン・ライシャワーの『日本の過去と現在』、ルース・ベネディクトの『菊と刀』など。日本側の評判も上々だったようで、「その閉塞状態のなかで干天の慈雨のごとく入札が行われた」(宮田昇著『翻訳権の戦後史』)。

 ただし、一見、どれだけ“良書”が並ぼうが、所詮、GHQの差配。その選定も「文学的に優れているとか娯楽的価値があるとかいうことよりポツダム宣言下の日本人の義務と必要を充すに役立つものという原則によっている」という当時の「日本読書新聞」の指摘も首肯けるところ。ま、文部省推薦図書なるものを有難がるものが少ないように、当初は「干天の慈雨」とされた“GHQ推薦図書”も次第に入札数が減少。結局は1951年6月実施の第14回を最後に自然消滅となるのだけれど、それに代わって登場するのが――そう、われらが(?)ジョージ・トマス・フォルスター。この人物がGHQより正式に著作権仲介業務の認可を得たのは1949年3月とされるが、実はそれ以前から事実上のエージェント稼業に手を染めていたらしい。というのも1948年に毎日新聞社から刊行されたウィンストン・チャーチル著『第二次世界大戦回顧録』の扉裏にはこう記されているという――「一九四八年、ジョージ・トマス・フォルスター氏との協定により日本における版権は毎日新聞社所有」。

 このフォルスターなる人物、そもそもはアメリカNBC放送の特派員として来日したらしいのだけれど、どういう経緯で著作権の仲介業務を手がけるようになったのかは不明とか。しかし、正式な認可を得る前に、半ばGHQの目を盗む形で著作権の仲介業をはじめたフォルスターに対し、GHQが取った態度は、それを取り締まるのではなく、正式な認可を与えてその活動にお墨付きを与えること。そのココロを『翻訳権の戦後史』では――

 つまり入札だけでは日本側の翻訳出版への渇望を満たすことができない現状を補うため、GHQは、すでに放送マスコミの特派員という地位を利用して、著作権の売買に走り出しているフォルスターの活動を利用すると同時に、その営業活動を規制する必要があった。著作権統制を通じてマスコミの活動を規制し、アメリカナイゼイションを促進する網を、それにも被せることである。

 ちなみに、1949年にGHQから著作権仲介業の認可を得たのはジョージ・トマス・フォルスター(フォルスター事務所)だけではない。ヘンリー・ホルトやクノッフ、マクミランなど、英米の出版社15社、大手リテラリー・エージェンシーやニュース・エージェンシーが6社、そしてフォルスター事務所。つまり21の法人と1個人ということになる。この時代、ジョージ・トマス・フォルスターが占めたポジションがいかに特異なものだったかがこうした事実からもうかがえる。ともあれ、戦前の「翻訳権10年留保」「翻訳自由」から一転、戦後の翻訳したくてもできない時代。その後、一時的には「干天の慈雨」とされた“GHQ推薦図書”の時代を経て、晴れて、望むものを、交渉次第で、自由に翻訳出版できる時代がやって来たということになる。たとえその商法が「著作権の仲介というよりブローカーまがいの」ものであったとしても、歓迎すべき出来事であったであろうことは容易に想像できる。

 そうした状況を雄弁に物語るのが他ならぬ『宝石』。1950年8月刊行の『別冊宝石』第10号は「世界探偵小説名作選」と題して「翻訳の途絶えていた期間中も英米の原書を読み続けていた乱歩の激賞していたディクスン・カーの戦後初の邦訳として3長編『帽子収集狂事件』を高木彬光、『黒死荘殺人事件』を岩田賛、『赤後家怪事件』を島田一男が抄訳した」。また同年10月刊行の第11号でも「世界探偵小説名作選」第2集としてレイモンド・チャンドラア(という表記が時代を感じさせる)の「聖林殺人事件」(清水俊二訳)、「ハイ・ウィンドォ」(萩明二訳)、「湖中の女」(二宮佳景訳)の豪華三本立て。もう「待ってました」と言わんばかりの怒濤の翻訳ラッシュ。いかに当時の読書人が海外物を待ち望んでいたかということ。そしてその露払いを務めた人物こそ、それぞれの作品の冒頭に「日本版權所有者」として名前が明記されているジョージ・トマス・フォルスターその人。人呼んで「翻訳権の帝王」。あゝ、またワタシのアタマの中には竹内力が熱唱する「欲望の街」が……。

追記(2011.11.03)

 小鷹信光著『私のハードボイルド 固茹で玉子の戦後史』(早川書房)の第2章「ハードボイルド戦後輸入史検証」によれば、戦後まだ間もない時点で既に翻訳物を扱う探偵小説専門誌が存在したらしい。ひとつは『ウィンドミル』(1947年12月創刊)、もうひとつは『マスコット』(1949年1月創刊)。『ウィンドミル』の表紙には「新しいアメリカ雑誌の日本語版」という惹句。掲載作家はハメット、クイーン、ウールリッチ、デイ・キーンなど。一方、『マスコット』にもハメットをはじめ、ウールリッチや「正体不明の日系作家」(小鷹信光著『ペイパーバックの本棚から』の表現)ミルトン・オザーキ、イギリスのフィリップ・マクドナルドなど。

《ウィンドミル》と《マスコット》は、キング・フィーチャーズ・シンジケートと契約し、翻訳権を取得した上で刊行された翻訳専門の読物雑誌だったが(《マスコット》は終刊間近に日本作家の作品も載せた)、残念なことにどちらも長続きしなかった。

 この引用部分の少し後には「キング・フィーチャーズ・シンジケート自体は版権代理業の元締めのような組織」との文言も。敗戦直後からGHQ肝煎の入札制度がはじまるまでの期間についてエントリ本文では「翻訳したくても出来ない時代」としたのだけれど、『ウィンドミル』は正にその間に創刊されているわけだし、一見、何の手立てもないように思われた時代でも、何とかつてを探し出して翻訳権を取得し、「翻訳専門の読物雑誌」を刊行することは可能だったということだね。しかし、当時、外貨送金は事実上、不可能だったとされているのだけれど、一体、印税の支払いはどうしたんだろう? 宮田昇著『東は東、西は西』には「手つづきは面倒とはいえ、日本円を積立て契約できた実績もあるのだし」との記述もあるにはあるのだが……。

 あと、『別冊宝石』第11号の表紙絵は松野一夫なんだけど、描かれているのはローレン・バコールなんだとか。チャンドラーの『大いなる眠り』を映画化した『三つ数えろ』のポートレートを元に描かれたものだろうというんだけど……でも、全然違うよなあ、目力が。もしこれが本当に『三つ数えろ』のポートレートを元に描かれたのなら、松野一夫の画力は相当オソマツと言わざるをえない。で、ここは画伯の名誉のためにも(?)書き添えておくなら、乾信一郎著『「新青年」の頃』によれば、同誌のお雇い絵師だった画伯と編集長(その頃は水谷準)との間では毎月決まってこんな会話が交わされたという――「今月の顔もやっぱり奥さんだな」「うちのワイフとどこが似とるとですかね、わしゃちゃんとゼニ出してモデル雇って描いとるとですけんね」「いや鼻のあたりがそっくりだ(目つきだ、あごのあたりだ)」。そして――「わしゃな、女房にほれとるとだもんね」。きっと『別冊宝石』第11号の表紙絵も姿形はハリウッド女優から拝借しつつ、目だけは「うちのワイフ」のものだったに違いない……?

2011.11.07

 ジョージ・トマス・フォルスターが「翻訳権の帝王」の名を恣にしたのは、彼がGHQから著作権仲介業務の認可を受けた1949年から、すべての業務をタトル商会に委譲して日本での活動を終了した1957年までの8年ばかり。「帝王」とまで畏れられながら、意外とあっさり日本市場から撤退したのは、やはりその前年に万国著作権条約が発効したことが大きいのでは? それ以前の1952年には平和条約の発効に伴ってベルヌ条約も効力を復活。つまり、GHQが「超法規的」に日本の著作権を差配する時代はもう終わったということ。およそ化け物とは、闇の中でこそ精彩を放つもの。「無条約」という闇の時代が去り、すべての翻訳出版が再び「法と条約」の下に復した今となっては、最早オレの出る幕はない――そう「翻訳権の帝王」は悟ったのかも。しかし、だからと言って、著作権をめぐる人間喜劇がすべて幕を下ろしたわけではなかったのだけれど……。

 ともあれ、ここではまず、平和条約発効以降、日本の翻訳出版が「法と条約」の下に復するまでの経緯をおさらいすると――まず、平和条約発効に伴って日本はベルヌ条約加盟国としての権利と義務を回復。ただし、敗戦国ゆえの一定のペナルティも。それが「戦時加算」と呼ばれるもの。これは平和条約第十五条(c)に定められているものなのだけれど、戦争中、連合国民の著作権は正当に保護されなかったとして、ベルヌ条約で定める保護期間については、戦争期間に相当する3794日を加算(注1参照)。つまり、原著者の死後、著作権が失効し、公有(public domain)に帰するまでの期間は30年(当時)+3794日。一方、翻訳権については、この3794日に何故か6か月を追加(6か月=翻訳に要する時間?)。幸いなことに(?)「翻訳権10年留保」は引き続き認められることになったものの、実際に翻訳権が消滅するのは、原著刊行から10年+3794日+6か月後。

 一方、アメリカとの間はどうか? 日本とアメリカの間には1906年発効という日米著作権条約が存在したのだけれど、ベルヌ条約同様、こちらも効力を復活? 答えは、NO。日米著作権条約を復活させるかどうかの決定は一義的にアメリカの判断に委ねられたのだけれど、「宗主国」は復活を望まず。代わって外交当局間で「平和条約第一二条に基づく内国民待遇の相互供与に関する日米交換公文」なるものを締結。これは、その名の通り、平和条約に定める「内国民待遇の相互供与」について確認するものなのだけれど、早い話、アメリカ人についても日本人同様の法的権利を認めるという内容。著作権について言えば、アメリカの著作物にも日本の著作権法を適用するということ。となると――当時の日本の著作権法では10年未翻訳で翻訳権消滅と定められているわけだから(著作権法第七条)、へー、それが適用されるというのなら、日本にとっても悪い話ではない?

 ただし、この取り決めは4年間の暫定措置。その間に本格的な条約を話し合おうということなのだけれど(結論から言えば、1952年にユネスコの提唱によってベルヌ条約を補完するものとして締結された万国著作権条約を日本が批准するというかたちで決着。同条約の日本批准は平和条約発効から4年後の1956年)――この「日米暫定協定」と呼ばれることもある取り決めによればかつてのように10年未翻訳で翻訳自由という特例が使える上にベルヌ条約のような「戦時加算」というペナルティもない。しかも「暫定協定」の効力は過去に遡って適用される。つまり、敗戦から平和条約発効までの無条約時代にやむなく「翻訳権の帝王」とやらに跪いて翻訳権を取得した(しなければならなかった)あのミステリやあのスリラーについても、もし原著刊行から既に10年が経過していたとしたら、もうそいつは「誰の物でもない」。つまり、誰もが自由に翻訳出版してOK。

 もっとも、これにはとんでもない副作用も。そう、占領中に高い金を払って翻訳権を取得した側の立場。何しろ、せっかく取得した「独占翻訳権」がパーになってしまうのだから。そんなの、ありィ? って息巻く出版者・編集者の声が聞こえてきそう。実際、宮田昇著『翻訳権の戦後史』には当時の「毎日新聞」のこんな記事の一節が――「これらの出版社は支払いの義務だけ負って、代りに独占の権利を喪失するというのは踏んだりけったりの沙汰だと騒いでいる」。ホント、本来なら詐欺。ゴルァ、カネ返せ、ふぉるすたあ、とブチ切れてもいいくらいなんだけれど、平和条約第十九条(d)に曰く――「日本国は、占領期間中に占領当局の司令に基づいて若しくはその結果として行われ、又は当時の日本国の法律によって許可されたすべての作為または不作為の効力を承認し、連合国民をこの作為または不作為から生ずる民事または刑事の責任を問ういかなる行動もとらないものとする」。あゝ、戦争には負けたくないモンだ……。

 ともあれ、日本は1956年1月28日、万国著作権条約を批准、4月28日、発効。1952年以来、アメリカとの間で運用されてきた著作権に関する取り決め「日米暫定協定」は以後、同条約に引き継がれることになるわけだけれど、実は「日米暫定協定」と万国著作権条約には大きな違いがある。ひとつは、著作権の保護期間が登録後28年、再登録されればさらに28年、合計56年保護(登録を前提とする「方式主義」。これに対し、ベルヌ条約は「無方式主義」)。さらに、第五条で翻訳出版権の「七年法廷許諾制」(原著刊行から7年経てば、所管官庁に申請し、一定の印税を供託することで出版出来る特例。ただし、実際に利用された例はほとんどないとか)を定めているものの、基本的には、翻訳権も通常の著作権と同様、保護するというスタンス。これはもう翻訳著作権保護というゲームのルールを一変させるものと言っていい(ただし、発効前に刊行の著作物には遡及せず)。ともあれ、これによってほぼ今日に通ずる著作権保護の体制は整うことに。


『宝石』1951年10月号

 で、ここからが本エントリの本題。こんな猫の目のように変わる翻訳著作権保護のルールに翻弄された(と思われる)ある傑作ハードボイルドについて。それが『さらば愛しき女よ』。はじめは『宝石』1951年10月特大号から1952年3月号にかけて連載。その後、ハヤカワ・ミステリの1冊として単行本化。刊行は1956年3月31日。一方、原著の刊行はというと――Farewell, My LovelyがAlfred A. Knopfから刊行されたのは、1940年8月。つまり、『宝石』掲載の時点で既に10年が経過していたことになる。ただ、当時はまだ「翻訳権の帝王」の治世。岩谷書店(『宝石』の版元)もフォルスター事務所を通して翻訳権を取得していることが『宝石』1951年10月特大号の誌面で確認できる。これに対し、ポケミス版の刊行時点では「日米暫定協定」が効力を発揮。つまり、10年未翻訳で翻訳権消滅という日本の著作権法第七条が有効。とすれば――その時点で『さらば愛しき女よ』の翻訳権は公有だったはず。

 そこで、手元のポケミス247番(何を隠そう、1956年刊行の初版であります)の扉裏を確認すると――案の定というべきか、著作権に関する表記は一切しるされておらず、真っ白(もっとも、だいぶ変色しちゃってるけどね)。やはりこの時点で『さらば愛しき女よ』は公有だった? ところが、念の為、現在も刊行されているハヤカワ文庫版(1989年33刷)の扉裏を見ると、何とこちらには著作権の表示があるじゃないか。This book is published in Japan by arrangement with HELGA GREENE LITERARY AGENCY, through CHARLES E. TUTTLE CO. INC, TOKYO. ハテ、どーゆーコト? それに、そもそも『宝石』では「さらば愛しき女よ」の「日本版權所有者」を「ジョージ・トマス・フォルスタア」としていて、早川書房がタトル商会の仲介で版権を取得したとしているのも不可解。何かここには巧妙なトリックが隠されているような気が……。

 そう、そこには確かに巧妙なトリックが隠されていた。それが「同時公刊」。何のことかというと――実は、元々はアメリカの本でも、もしカナダやイギリスでも同時に刊行されていればカナダやイギリスの本として扱われるという規定がベルヌ条約にはあるのだ(ローマ改正条約第四条)。えーと、そうすると……そう、カナダやイギリスはベルヌ条約加盟国なので、ベルヌ条約の保護対象になる(!)。いやはや、とんだ盲点があったものだ。これにはフィリップ・マーロウもびっくりだろう(?)。では、件の「極めつきチャンドラアの傑作」(『宝石』10月特大号「編輯後記」)は「同時公刊」されていたのか? されていた。カナダではThe Reyerson Pressから、イギリスでもHamish Hamiltonから(注2参照)。こうなるとFarewell, My Lovelyは完璧にベルヌ条約の保護対象。もちろん、「翻訳権10年留保」は使えるものの、「戦時加算」を加える必要があり、実際の保護期間は原著刊行から10年+3794日+6か月。初版発行が1940年、日本初訳が1951年ならば、余裕で保護期間内。

 想像するに、早川書房は「日米暫定協定」の規定から「さらば愛しき女よ」は既に公有と判断、一旦は許諾契約を交わすことがないまま刊行。それを物語るのがポケミス版の真っ白の扉裏。しかし、その後、アメリカの版元から「同時公刊」を理由にクレームがついたのではないか。宮田昇著『翻訳権の戦後史』を読むと、当時、そういう例は沢山あったという(特に万国著作権条約発効後に増えたとか)。例えば、E・S・ガードナーの『どもりの主教』は翻訳権消滅として早川書房、東京創元社が別の翻訳者で競作。しかし、その後、版権所有者からカナダでの「同時公刊」の事実を根拠に著作権侵害と指摘。このクレームに早川書房はいち早く対応、自らは許諾契約を結ぶとともに、東京創元社に回収を要求。結局、回収はせず、紙型の没収で和解したらしいのだけれど、「跡に残ったしこりは、いまだに完全に消えているとは思えない」とか。同書によれば「昭和三十年代のトラブルのほとんどが、それ(同時公刊)に起因した」。

 で、想像ついでに、さらに想像をめぐらせれば、早川書房が「同時公刊」を理由とするクレームを受け、「さらば愛しき女よ」の翻訳権を取得したのは1957年以降。何故なら、ハヤカワ文庫版の扉裏にはthrough CHARLES E. TUTTLE CO. INCとあるため。『宝石』が「日本版權所有者」としている「ジョージ・トマス・フォルスタア」がすべての翻訳権仲介業務をタトル商会に委譲したのがこの年。さらに時期を絞り込むなら、それ以降1978年までの間。1978年6月、タトル商会著作権部はタトル・モリ・エイジェンシーとして独立。早川書房がタトル商会から『さらば愛しき女よ』の翻訳権を取得できたのは、この期間に限られるということ。まあ、その相当早い段階だろーね。ともあれ、こうして「極めつきチャンドラアの傑作」の版権は今も早川書房が所有。保護期間は、ベルヌ条約が定める著者の死後50年に「戦時加算」を加えた22,057日。つまり、保護期間満了は2019年8月15日(注3参照)……。


注1 1941年12月7日(第2次世界大戦勃発の前日)までに著者が死亡したか、公刊された著作物の場合。一方、1941年12月8日以降、1952年4月27日(サンフランシスコ講和条約発効の前日)までに公刊された著作物の場合は、公刊された日から1952年4月27日までの日数。
注2 特にカナダでの刊行については、わざわざクノッフ版の初版の前付で“Published simultaneously in Canada by The Ryerson Press.”と、あたかもベルヌ条約を意識したかのような事項まで記載されているという。ソースはこちら
注3 ベルヌ条約では7条1項で保護期間を「生存の間及び死後50年」と規定する一方、7条6項で「それ以上としてもよい」としていて「死後50年」というのはミニマム。そして今まさに死後70年に延長しようという動きがあるのは周知の事実。はたして延長が先か、保護期間満了が先か。

2011.11.10

 1988年にハヤカワ文庫から刊行されたダシール・ハメット著『マルタの鷹』の解説で、翻訳者の小鷹信光がこんなことを書いている。

 一方、『マルタの鷹』が初めて日本語に翻訳されたのは一九五四年。ハヤカワ・ミステリの砧一郎訳である。原作者のハメットにとっては非常に不運なことに、チャンドラーとはことなってハメット作品には翻訳権が発生しなかったために、以後『マルタの鷹』は、田中西二郎訳(一九五六年、新潮社)、村上啓夫訳(一九六一年、東京創元社)などがあいついで刊行された。

 冒頭で「一方」としているのは、その前にジョン・ヒューストン監督、ハンフリー・ボガート主演の映画『マルタの鷹』の日本公開について述べているのを受けてのことなのだけれど――注目は「チャンドラーとはことなってハメット作品には翻訳権が発生しなかった」としていること。ハテ、なんでそんなことに? チャンドラーの著作権が現在も「法と条約」の下にしっかりと保護されている(一部短編は除く)経緯については前エントリでじっくり検証したところだれど、そういえば実年齢とは違って(ハメット1894年生れ、チャンドラー1888年生れ)作家としてのキャリアはハメットの方がチャンドラーより12年ばかり先輩(ハメットがRed Harvestで単行本デビューしたのは1927年。一方、チャンドラーは1939年にThe Big Sleepで単行本デビュー)。この12年という時間差があるいはハメットから翻訳著作権保護の権利を奪った元凶?

 確認したところ、小鷹解説にもある通り、『マルタの鷹』の日本初訳は1954年であるのに対し、原著であるThe Maltese Falconは1930年刊行。とすれば、もし同書がベルヌ条約加盟国で「同時公刊」されていたとしても、本来の保護期間10年に「戦時加算」を加えた翻訳著作権の保護期間はとうに過ぎている。そう、ハメットは登場するのが早過ぎた

 ところが――ハメットのビブリオグラフィーをつぶさに検討していたら、おや? と思わせられる事実が。それは長編としては最後の作品となるThe Thin Man。原著の刊行は1934年1月。とすると、本来の保護期間10年に「戦時加算」を加えた実際の保護期間が満了となるのは1954年11月中。一方、日本初訳はというと1950年、雄鶏社の「おんどり・みすてりい」の1冊として刊行された『影なき男』(砧一郎訳)。その後、この砧一郎訳はハヤカワ・ミステリに加えられ、1991年に小鷹信光訳に取って代わられるまで長く市場に流通しつづけることになるわけだけど――そう、1950年なんだよ。つまり、想定されるThe Thin Manの翻訳著作権の保護期間の満了前。

 もちろん、当時はまだ日本は占領下。ベルヌ条約が適用される環境ではない。当時の翻訳出版をめぐる状況をここで改めて説明することはしないけれど、その前年の1949年にジョージ・トマス・フォルスターがGHQの認可を受けて翻訳権仲介業を始めたことにより、ようやく翻訳出版が再開されたばかり。従ってまだこの時点では本来の保護期間10年に「戦時加算」を加えた翻訳著作権の保護期間云々というようなことが問題となるような状況でもない。そういうことが問題となるのはサンフランシスコ講和条約が発効して以降。またそもそもアメリカが「同時公刊」を根拠に著作権侵害を指摘するようになったのは専ら万国著作権条約の発効後らしいので(宮田昇著『翻訳権の戦後史』)、1950年に雄鶏社が『影なき男』を刊行していたことに伴うThe Thin Manの翻訳著作権に及ぼす影響については相当、アタマを整理してかかる必要があるのだけど――

 まず一つ押さえておくべきポイントがあるとするなら、それはここで云々している翻訳著作権の保護期間とは、それが過ぎれば権利が消滅する――という意味での保護期間ではないということ。この保護期間内に著作権保有者が権利を行使しなければ、その権利は保護期間満了を以て消滅する――というもの。逆にもしその期間内に権利を行使していれば、その権利は保護期間満了日以降も生きつづける。その場合、満了日は大本の著作権同様、著者の死後50年に「戦時加算」を加えた期間。そしてその期間内であればいつでも著作権侵害を訴え出ることができる――「極めつきチャンドラアの傑作」がそうされたように。だから著作権保有者側からするならば重要なのは保護期間内に権利を行使したかどうか――と、こういうことになる(はず)。

 で、雄鶏社版の『影なき男』である。繰り返しになるが、刊行されたのはのThe Thin Manの想定される翻訳著作権の保護期間の満了前。もし同書が著作権保有者の許諾を得た上で刊行されていたのなら、それはつまり著作権保有者が権利を行使したということであり、この時点でThe Thin Manの著作権は発生した――ということになる(はず)。ということで、同書の扉裏を見てみよう。そこにはこう記されている――

Originally Copyrighted by ALFRED A. KNOPF, INC.
Copyrighted in Japan by Ondori-sha Publishing Co., 1950

 これだけ。うーん、ちょっとビミョー。当時の翻訳出版をめぐる状況を考えるなら、当然、そこにはジョージ・トマス・フォルスターの名前が記されているはずだと思ったのだけど、ない。ただ、実は同じ雄鶏社刊行の「おんどり・みすてりい」の中には記されているものもあるんだ(例えばA・A・ミルン作『赤い家の秘密』)。とするなら、もしかしたらこの辺は出版社側がまだ翻訳著作権の扱いに慣れていなかった(何しろ戦前までは翻訳権に金を払うという習慣がなかった)ために生じた表記のブレということかもしれない。当時の状況を考えればフォルスター事務所を通さずに同書を翻訳・出版できたとは考えられないので。で、それよりも重要なのはここに版権所有者としてALFRED A. KNOPF, INC.という文字がハッキリと刻み込まれていること。つまり同書はALFRED A. KNOPF, INC.の許諾を得て刊行されている――と考えることができるのだ。つまり――、この1950年の時点でAlfred A. KnopfはThe Thin Manの翻訳権を行使した――。

 で、こうなってくると、次に問題となるのはThe Thin Manが「同時公刊」されていたかどうか。↑の表記からもわかるようにハメットもチャンドラー同様、Alfred A. Knopfの作家。そのAlfred A. Knopfはチャンドラー作品をカナダとイギリスで「同時公刊」していた以上、ハメット作品についても同様の措置を取っていたであろうことは容易に予想できるのだけど、ここは念のため、確認してみた。すると、どーもカナダでは思わぬトラブルに見舞われて出版差し止めになっているようなのだけれど(後述)、イギリスではArthur Barker Ltd.から刊行されていることを確認(こちらはイギリス版限定のチェックリスト。これによるとThe Thin Manを除くハメットの4つの長編はイギリスにおける版元もAlfred A. Knopf。何でも1920年代後半から30年代前半にかけてAlfred A. Knopfはイギリス進出を図ったらしいのだけれど、あえなく失敗。The Thin Manが刊行された1934年には既にグレートブリテン島から撤退した後だったらしい)。こうなるとThe Thin Manはベルヌ条約の保護対象――普通ならば。ということは、これまで見てきたセオリーに従い、雄鶏社版『影なき男』の刊行を以て翻訳権は発生した――ということになるはずで、あるいはこの作品に限っては「ハメット作品には翻訳権が発生しなかった」という小鷹解説の例外?

 ところが――1991年に「40年ぶりに新訳なる!」の惹句とともに刊行されたハヤカワ文庫版『影なき男』(言わずと知れた小鷹信光訳)の扉裏を見ると、タイトルと著者名、そして原著の初版刊行年が記されているだけ。そう、この作品の翻訳著作権は既に失効していることを示唆しているのだ。

 さあ、わかからなくなった。なんでこんなことになってるんだ? もしかしたらワタシの翻訳著作権に関する認識が間違ってる? 一時はそう真剣に悩んだものなんだけれど(いや、その可能性はある。どれだけ翻訳著作権通を気取ってみたところで所詮はシロウトの浅知恵。見落としや事実誤認はありうる)、ただ、どーやらこーゆーことなのではないか? 実は色々調べて行くうちにちょっと驚くような事実関係が浮かび上がってきたのだ。われなががらよく見つけたもんだという気がするのだけど……何とThe Thin Manは「同時公刊」されていなかったのだ。え?

 まずはカナダでの発禁処分について説明しておこう。こんなことさえなければ問題なく「同時公刊」の事実を主張できたはずなんだけれど――その障害となったのは、実は「たったの五語」のダーティーワード。

"So am I. Tell me something, Nick. Tell me the truth: when you were wrestling with Mimi, didn't you have an erection?"
"Oh, a little."
She laughed and got up from the floor. "If you aren't a disgusting old lecher," she said. "Look, it's daylight."

 ね、どの単語がダーティーワードとされるのかはおわかりですよね? この一節、手元のVintage Booksの版(1972年刊)では、件のノラのセリフは“didn't you get excited?”と改められているのだけれど、これはThe Thin Manが最初にRedbookというパルプ雑誌(かと思いきや、なんと女性誌とか。詳しくは2012年9年28日付けエントリ参照)に掲載された時点で取られた措置。しかし単行本の版元であるAlfred A. Knopfはこの修正部分を復元した上でわざわざNew York Timesにこうした経緯を強調するかのような挑発的な広告まで掲載。その惹句をダイアン・ジョンスン著『ダシール・ハメットの生涯』より小鷹信光訳で引くと――「ダシール・ハメットの『影なき男』の問題になっている百九十二ページめが、この本の売れ行きにほんの少しでも影響を及ぼしているとは思わない。ベストセラーは昨今、そう簡単に生まれはしない。二万人のひとが、わずか三週間のうちに、たったの五語で成り立っている台詞を読みたいがために本を買うはずがないではないか」。

 どう見たってその「たったの五語」に注意を喚起しているとしか思えない広告。で、これが功を奏したのかどうかは知らないけれど、The Thin Manは売れに売れた。「最初の三週間で二万部売れ、最初の一年間にさらに三万部売れた」(同)。しかし劇薬には副作用がつきもの。アメリカで大評判を博した代償は――そう、それがカナダでの出版差し止め。ったく、バカなことをしたもんだ……。しかし、カナダがダメでもイギリスがあるさ――と思ったかどうかは知らないけれど(多分、思ってない。てゆーか、1934年の時点でAlfred A. Knopfが日本市場での翻訳権に思いを致していているハズがない)、たとえカナダで出版差し止めになろうがイギリスで「同時公刊」されていればベルヌ条約の保護対象。で、されてるんでしょ? Arthur Barker Ltd.から。確かに、されている、出版は。しかし、どうやらアメリカでの刊行から4か月遅れだったらしいんだ。実は1981年に刊行されたRichard LaymanのShadow Man: The Life of Dashiell Hammettにこんなことが記されているんだ――

When the novel was published in London by Arthur Barker Ltd. in May 1934, The Times Literary Supplement judged the book more harshly than American reviewers: "This American detective story is told largely in dialogue, of which the object is rather to amuse with the smart phrase than to advance the movement. In fact there is little movement in it, if we deduct what goes to the getting of drinks and the making of telephone calls." (...)

 注目は、The Thin Manはイギリスでは1934年5月にArthur Barker Ltd.から刊行されたとしていること。一方、アメリカでAlfred A. Knopfから刊行されたのは1934年1月。となると、イギリスでの刊行は本国アメリカより4か月遅い。たったの4か月……。で、それはわかったけれど、何かモンダイが? それが大ありなんだ。何しろベルヌ条約が定める「同時公刊」とは本国での刊行から30日以内であることが条件(ブラッセル改正条約第四条3)。だから本国アメリカでは1934年1月に刊行、イギリスでは同年5月に刊行だと、同時公刊には当らない。なんとなんと。カナダでは「たったの五語」が仇となって出版差し止め。イギリスではたったの4か月本国での刊行からタイムラグ。そのふたつの「たった」の合わせ技がThe Thin Man(ハメットその人をも指す。ハメットと長年、内縁関係にあった劇作家のリリアン・ヘルマンは赤狩りに伴う獄中生活で痩せさらばえた恋人を評してこう語ったとか――“jail had made the thin man thinner”)から「同時公刊」に伴う翻訳著作権保護の権利を剥奪――とは、あまりにも意外すぎてノラもニックも二の句が継げないだろう。いや、本当に二の句が継げなかったのはAlfred A. Knopfの著作権担当者だったか……?