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鐡張軍艦ストンワール①

 それにしても、とんだ草臥れ儲けだったなあ――ユージン・ミラー・ヴァン・リードをめぐるペーパー・ディテクティヴ。さんざん調べた揚げ句、『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』に書いたのはほんのわずか。ユージン・ミラー・ヴァン・リードの手引きで政治亡命した元幕府高官がいたかもしれないという話だとか、『横浜新報もしほ草』第18篇の面妖な紙面構成にまつわる謎だとか、一掬の涙を濺がずにいられないその哀切な最期だとか、全部ボツ。ま、結果的にユージン・ミラー・ヴァン・リードは輪王寺宮マターとは直接の関係はなかったのだから仕方のないこととは言えるんだけど、それにしてもなあ。

 で、このユージン・ミラー・ヴァン・リードの件とはやや事情は異なるのだけど、やはり徹底的なペーパー・ディテクティヴを断行(と、言わせていただきましょう)しながら『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』にはほとんど書かなかったエピソードがもう一つある。それはストーンウォール号について。まあ、ユージン・ミラー・ヴァン・リードの件に比べればもうちょっと書いてはいるんだけどね。

 なお、最後に出てくるストーンウォール号とはヴァン・ヴァルケンバーグが2月3日付け至急報告で徳川慶喜が気にかけていると書いていた、あの。慶応3年、徳川幕府がアメリカで買いつけた当時、最新鋭の装甲艦。この至急報告からほどない4月24日(旧暦4月2日)に横浜に到着している。この際、ヴァン・ヴァルケンバーグが取った対応はなかなか興味深い。彼はジョージ・ブラウン艦長に対し同艦にアメリカ国旗を掲げ、アメリカの管理下に置くよう命じたのだ。ここで思い出して欲しいのだが、条約列強は2月時点で新政府側、旧幕府側がそれぞれ購入し、今後、日本に回航されてくることが予定されている軍艦について、本国の指示があるか、または平和が回復してかかる措置が必要となくなるまで引き渡しを見合せるという内容の合意に署名していた。ヴァン・ヴァルケンバーグの決定はこの合意に沿ったものということになる。ただ、ヴァン・ヴァルケンバーグが至急報告に同封した合意文書を見るとその対象は「(署名各国の)旗を掲げ、依然、当該国の管理下にある軍艦」。そうなるとストーンウォール号は対象外のはず。なぜならストーンウォール号はアメリカを出航した時点で日の丸を掲げており、法律的には既に日本の船だった。ジョージ・ブラウン艦長以下のクルーも日本側に雇われて日本までの回航を請け負っていたに過ぎない。にもかかわらずヴァン・ヴァルケンバーグは同艦をアメリカの管理下に置き、日本側への引き渡しを見合わせる決定を下したということになる。これに対しウィリアム・スワードはヴァン・ヴァルケンバーグからの報告を受けた5月20日付け訓令でストーンウォール号をアメリカの管理下に置く法的根拠はないとした上で、こうした「変則的な状況」は一刻も早く終わらせる必要があると書いている。そうなるとヴァン・ヴァルケンバーグの取った措置は事実上の〝超法規的措置〟だったということになる。あるいはそうまでして彼はストーンウォール号の明治新政府への引き渡しを拒みたかったということだろうか?

 このあと、もう少し出てくる。でも、まとまった記述としてはこれくらい。いずれにしても、実際にワタシが調べ上げたことどもを思えば何も書いていないのと同じ。それくらいストーンウォール号については調べ上げた。実は「よく熟慮された親切という奥ゆかしい行動」で少しばかり紹介した「甲鐡艦収領顚末」も「ある不良外国人に捧げる『時の娘』①」で典拠として挙げたThe Secret Service of the Confederate States in Europeも何を隠そうストーンウォール号のことを調べるために目を通した史料。そしてストーンウォール号のことを調べるために目を通した史料は他にも沢山。よくもまあここまで読み込んだもんだという……。ひょっとしてアンタ、パラノイア?

 かもね。でも、なんでそこまでストーンウォール号に執着? はっきり言ってストーンウォール号は輪王寺宮マターとは何の関係もない。まあ、ワタシが輪王寺宮擁立劇における影の仕掛け人と睨んでいる元幕府老中首座・板倉勝静が戊辰戦争中、「徳川氏全権」を名乗って「鐡張軍艦ストンワール」の引き渡しを求める密使を派遣しようとしていたことを伝える史料が残っており、その限りではストーンウォール号も全く関係がないとまでは言えない。ただ、それは戊辰政局における板倉の重要性を裏付ける傍証という意味合いが強く、ストーンウォール号が直接、輪王寺宮擁立劇に何か関係しているかといえば、それは「ない」というのが本当のところ。そもそもだ、このストーンウォール号引き渡しのための密使派遣は実際には行われなかった。ま、この結論を導き出すのもそれほど容易なことじゃなかったんだけど、ともあれそういうことを考えてもだ、単に「東武皇帝」即位説の真相解明ということならストーンウォール号に執着しなければならない理由は何もない。

 ただ――おもしろいんだって。特に合衆国政府の目を盗むかたちでフランス・ボルドーの造船所(シャンティエ・ド・ロセアン)で建造されたストーンウォール号がキブロン湾の沖合で南軍に引き渡される経緯なんてほとんど冒険小説。それこそハモンド・イネスとかアリステア・マクリーンの世界ですよ(このあたりのことを記しているのがThe Secret Service of the Confederate States in Europe。2001年にはランダムハウスからトレード・ペーパーバックとしても刊行)。しかもそうして南軍の手に渡ったストーンウォール号が大西洋を横断してカリブ海の南軍の海軍拠点に到着した時、既にロバート・E・リー将軍は降伏。ジェームズ・D・ブロック(The Secret Service of the Confederate States in Europeの著者。イギリス・リバプールを拠点に活動した南軍の「シークレット・エージェント」)ら、このミッションに携わった男たちが忠誠を誓ったアメリカ連合国も事実上、存在せず。ストーンウォール号の帰属は完全に宙に浮いてしまう――という、なんともアイロニカルな結末。これなんてちょっとジャック・ヒギンズを連想させないこともない? さらに言えばだ、その後、ストーンウォール号は1867年になって徳川幕府の手に渡ることになるのだけど、メンテナンス等を経て日本に到着した時、既に徳川幕府は存在せず。同艦の帰属はまたもや宙に浮いてしまう――という、例の「歴史は繰り返す(History repeats itself)」という古から伝わる格言を地で行くような事態。いやー、なんてよくできたストーリーなんだ! 一体書いたのは誰?

 と、そう言いたくなるくらいにはストーンウォール号の25年に渡る船歴はよくできた物語のよう。そりゃあ夢中になるって。で、時には「東武皇帝」即位説をめぐるペーパー・ディテクティヴもそっちのけでストーンウォール号の航跡を追跡することに没頭したのだけど、ユージン・ミラー・ヴァン・リードをめぐる「彼是」のエピソードでさえボツなんだ、ストーンウォール号の話なんて。ということで、『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』には↑で紹介した程度のことしか書いていないんだけど……でも、このままボツにするのはあまりにもMOTTAINAI。ジャン=ルシアン・アルマンに対しても申し訳ない(?)。とりあえずユージン・ミラー・ヴァン・リードについては書きたいことは書いたことだし、今度はストーンウォール号の話というのは流れとしては悪くない。とりあえず「鐡張軍艦ストンワール①」と題して1本。ハテ、①ということは②や③があるということ? まあ、その辺は、船の話だけに、風任せ、潮任せということにして……。


 さて、↑の引用部分にもあるように、ストーンウォール号が日本に到着したのは1868年4月24日(慶応4年4月2日)。ところが、これも引用部分にあるように、時のアメリカ公使ロバート・ブルース・ヴァン・ヴァルケンバーグは2月3日付け至急報告でその11日前の1月23日(慶応3年12月29日)に大坂城内で行われた「プライベートな懇親の席」で徳川慶喜がストーンウォール号の到着を気にかけていたと書いている。この事実からは徳川慶喜としてはもうそろそろストーンウォール号が日本に到着するのではないかと考えていた節がうかがえる。ことによると徳川慶喜としては近日中にはストーンウォール号が到着するものとして、それを前提に具体的なストーンウォール号の運用方針に考えを及ぼしていた可能性も? ヴァン・ヴァルケンバーグによれば、この会見における徳川慶喜の姿勢は至ってポジティヴなもので、アメリカの議会制度について質問するなど、今後も引き続き自分が日本の政治を担って行くんだという気概に溢れていたとされる。そんな彼ならば仮にストーンウォール号の到着が旦夕に迫っていると考えていたのなら、その運用方針に考えを及ぼしていたとしても不思議はない。しかし、実際にストーンウォール号が日本に到着したのはそれから92日も経った4月24日のこと。この厳然たる事実を前にするなら1月23日の段階でストーンウォール号の運用方針に考えを及ぼすなんていかにもピントがズレている――ということになりそうなのだけど……でも、実は1月23日の段階でストーンウォール号が近日中に日本に到着することを想定し、その運用方針に考えを及ぼすことには一定の合理性があったのだ。というのも、ストーンウォール号がメンテナンス等を終え、日本に向けてバージニア州ノーフォークの海軍基地を出航したのは1867年8月26日だったのだから。つまり、ヴァン・ヴァルケンバーグと「プライベートな懇親の席」を持った1月23日の段階で既に150日が経過。本来ならばもうストーンウォール号が到着しても何ら不思議ではない、そういうタイミングだったのだ。

 まず、いくつかの裏付けとなる史料を紹介しよう。ストーンウォール号が日本に到着したのが1868年4月24日だったことを裏付ける史料はたくさんあるのだけど、ここでは「甲鐡艦収領顚末」を挙げておこう。この「甲鐡艦収領顚末」、読んで字のごとく「甲鐡艦」ことストーンウォール号が明治新政府に「収領」されるに至るまでの経緯をまとめたもので、原本は外務省記録局旧記編輯課が1883年2月に編纂。それを同年5月、太政官修史館(1878年、それまでの修史局から改組された組織)が謄写。さらに1931年、維新史料編纂会(1911年、明治維新関係史料の収集・編纂を目的として文部省内に設けられた組織)が「大日本維新史料」編纂のための参考資料とすべく謄写。1949年、維新史料編纂会が東京大学史料編纂所に吸収されたのに伴い、以降は「維新史料引継本」として同編纂所に収蔵・保管されているというのがその凡の由来。で、この「甲鐡艦収領顚末」の第3冊「後記・坤」でははっきりと「甲鐡艦」が「戊辰四月二日」に「横濱に入港」したと記している(→「甲鐡艦収領顚末」の当該ページ)。

 次にストーンウォール号がノーフォークを出航したのが1867年8月26日だったという点についてなんだけど、これについては「甲鐡艦収領顚末」には記載がない。またストーンウォール号をめぐってはもう一つ、「小野友五郎日記」という重要なものがあって、こちらも東京大学史料編纂所が所蔵。慶応3年、軍艦買い付けのために派遣された遣米使節団で正使を務めた小野友五郎(ちなみに副使を務めていたのがあの松本寿太夫。ワタシが「明治元年の亡命者」でユージン・ミラー・ヴァン・リードの手引きでアメリカに政治亡命した元幕府高官ではないかと指摘した――)が書き記した日記。小野らがワシントンの海軍工廠で係留状態にあったストーンウォール号を買い付けるに至った経緯がほぼ把握できるという貴重なものなのだけど、残念ながらこちらにもストーンウォール号がアメリカを出航した日付までは記されていない。まあ、小野らはそれ以前に帰国してしまっているのでね。で、これ以外の史料からもストーンウォール号がノーフォークを出航した日付については確認することはできないのだけど、いろいろ調べたところ、当時のニューヨーク・タイムズの記事に記載されていることがわかった――

Movements of Secretary Seward—The Ram Stonewall.
FORTRESS MONROE, Va., SUNDAY AUG. 25
Secretary Seward, accompanied by the French and Spanish Ministers and Col. Seward, reached here this morning from Washington on the revenue cutter Nemaha, and visited the ram Stonewall, which had just arrived in harbor from the Gosport Navyyard in thorough sea-going order. The party did not land. After spending an hour on the ram the party reëmbarked on the revenue cutter and returend to Wahington. The Stonewall sails to-morrow for Japan.

 8月25日付けで「ストーンウォール号は明日、日本に向け出航する」と書いているのだから、出航日が8月26日だったことが裏付けられる。その上で、徳川慶喜がヴァン・ヴァルケンバーグと「プライベートな懇親の席」を持った1月23日の段階では本来ならばもうストーンウォール号が到着していても何ら不思議ではないタイミングだったという点についてなんだけど――実は徳川幕府はストーンウォール号に先立って富士山丸という軍艦をアメリカから購入しており、この富士山丸は141日で日本に回航されてきたという実績があったんだ。これについても裏付けとなる史料を示す。まず富士山丸が日本に到着したのは1866年1月23日(慶応元年12月7日)。これについても「甲鐡艦収領顚末」で確認が可能で、同日付けで代理公使、アントン・ポートマンから外国奉行に対し富士山丸の到着を知らせる書状が差し出されていることが記されている(→「甲鐡艦収領顚末」の当該ページ)。一方、富士山丸がいつアメリカを出航したかについては、ストーンウォール号のケースと同様、日本側には裏付けとなる史料は見当たらない。ただ、これもストーンウォール号のケースと同様、当時のニューヨーク・タイムズの記事で裏付けが取れる――

The Japanese Corvette Fusiyama.
THE DEPARTURE FOR JAPAN—HISTORY AND DESCRIPTION OF THE VESSEL.
Yesterday (Monday) the new steam corvette Fusiyama, Capt. F, HALLETT, sailed from the Battery for Japan, and will touch at Rio Janeiro, Cape of Good Hope, Hong kong, from whence she will proceed direct to the main naval depot of the Tycoon. This vessel was built for the Imperial Government of Japan, through an order of the American Minister resident in Japan, and with the consent of the United States Government, under the superintendence of Capt. JOSEPH J. COMSTOCK, by WESTERVELT & SON, of this city. She is 207 feet in length, 34 feet beam, and 15 feet depth of hold, and draws only 11 feet of water. She is brig rigged, and has a bowsprit, jib and flying jibboom, and in every respect is a war vessel of the first-class and speed, having made nearly 13 knots by actual measurement, under steam alone. It is a great pity that we are not possessed of some vessels like her, instead of the scores of slow tubs which are on our navy list.

 掲載されているのは1865年9月5日号。その時点で「昨日、出航した」と書いているのだから、ニューヨークを出航したのは1865年9月4日であることが裏付けられる。その上で、日本に到着したのは1866年1月23日なのだから、回航に要した日数は141日となる。この日数を単純にストーンウォール号のケースに当てはめるなら、想定される日本到着予定日は1868年1月13日(慶応3年12月19日)。従って徳川慶喜がヴァン・ヴァルケンバーグと「プライベートな懇親の席」を持った1月23日の段階でストーンウォール号の到着を気にしていたというのも当然のこと――ということになる。

 ところが、実際にストーンウォール号が日本に到着したのは1868年4月24日。想定される到着予定日から101日の遅延。さて、これは一体どういうことなんだろう? どういう出来事があればこれほどの遅延が生じるのか? 一つ考えられるのは、ストーンウォール号は日本回航の途中で航行不能となるようなトラブルに見舞われたという可能性。実はThe Secret Service of the Confederate States in Europeによれば、ストーンウォール号はハバナに回航される際に船体が水漏れを起こし、スペインのフェロル港で修理を余儀なくされている。フェロル港に入港したのが1865年2月2日、出港したのが3月24日なので実に2か月近い足止め。もしそんなことがなければまだアメリカ連合国が存続しているうちに目的地に到着できただろうに……。同じようなトラブルが日本回航の際も生じた可能性はある。なにしろ「歴史は繰り返す」のだから。ならば、ストーンウォール号の日本回航に関する何か気の利いた史料はないものか? そう思っていろいろ調べたところ、ストーンウォール号の日本回航にあたって艦長を務めたジョージ・ブラウンの出身地であるインディアナ州の州都インディアナポリスで発行されていたインディアナポリス・ジャーナルの日曜版、サンデー・ジャーナルの1904年2月28日号にStory of the Stonewall, Japan's First Ironclad, a Vessel with Quite a Remarkable Recordと題する記事が掲載されていることがわかった。ストーンウォール号の25年に渡る船歴を綴ったもので、日本回航の様子についても相当詳しく記されている。それによると確かに途中で日和見を強いられるということはあったようだ。また船籍に疑念を持たれ、足止めを食らったこともあったらしい。ただ――それが何か月にも及んだというふうには読み取れず、そうしたことが100日に垂んとする遅延の原因になったとはちょっと。

 とすると、このサンデー・ジャーナルの記事からもストーンウォール号が日本回航に242日も費やすことになった理由を解き明かすことはできない? いや、実はその手がかりとなるある重要な事実がこの記事には記されていたのだ。それがこの部分――

As soon as she was ready for sea she proceeded to the Norfolk navy yard, where she was docked and coaled. She sailed from Norfolk and proceeded via Barbadoes, Maranham, Bahia and Rio de Janeiro, in Brazil; Montevideo, Uruguay; Straits of Magellan; Valparaiso, Chile; Callao, Peru, and Honolulu, to Yokohama, Japan, where she arrived after a voyage of eight months.

 ストーンウォール号が航海の途中で立ち寄った停泊地が列挙されている。すなわちバルバドス―マラニョン―バイーア―リオ・デ・ジャネイロ―モンテビデオ―マゼラン海峡―バルパライソ―カヤオ―ホノルル。そう、ストーンウォール号はノーフォークを出航した後、アメリカ大陸東岸に沿って南下、南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を迂回して太平洋側に出、そこから今度は西岸沿いに北上、カヤオ(ペルー)まで行ってそこで舵を西に取り、ハワイ島のホノルルを経由して日本にやって来たのだ。つまり、ストーンウォール号は地球を東から西に向かって航行する西回り航路で日本にやって来たということ。

 一方、富士山丸はどうか? これについては1865年9月5日付けのニューヨーク・タイムズの記事に記されている。つまり「新しい蒸気コルベット、フジヤマは昨日、バッテリー(マンハッタン島の別称)から日本に向け出航した。リオデジャネイロ、喜望峰、香港を経て大君の海軍基地に直行することになるだろう」。そう、富士山丸はアフリカ大陸南端の喜望峰を経由する東回りルートで日本までやって来たということ。何とストーンウォール号と富士山丸では航行ルートが違ったのだ。

 ここで当時の航海ルートについておさらいしておこう。よく知られているように(あるいは意外と知られてない?)かのペリー艦隊は富士山丸と同じ東回りルートで日本にやって来た。その理由は、当時の蒸気船の燃料効率では多量の石炭を消費する必要があったのだけど、艦隊の旗艦であるサスケハナでさえ1週間分の積載が精一杯だったとかで、途中で何度も石炭の補給を受ける必要があった。しかし、そのための補給基地が西回りルートは未整備だった。それに対し、ヴァスコ・ダ・ガマの遠征以来、航行ルートとしてメジャーだった東回りルートは一定の整備が進められており、蒸気船での航行に適していた。

 一方、それ以前はむしろ西回りルートの方が一般的だった。まだ帆船が主流だった1850年代まではニューヨーク―サンフランシスコ―広東を結ぶ「三角航海」なるものが盛んに行われていたという。服部之総「汽船が太平洋を横斷するまで」(『黒船前後』所収)によれば「ニユーヨークから、滿載した貨物と旅客をサンフランシスコで下ろすと、空荷のまゝ一氣に太平洋を横切って、廣東又は上海で茶を積込み、印度洋及び喜望峯經由で寄航する」という、言わば西回りでの世界一周。確かに西回りの場合、南西貿易風に対しては順風。しかし東回りの場合は逆風。当然、逆風よりは順風の方が帆走には都合がいい。従って帆船時代はアメリカ東海岸から極東アジアに航行する場合も東回りルートが主流。もっとも単に人の移動なら陸路でサンフランシスコまで行ってそこから船に乗り換える方が早道。実際、ヴァン・ヴァルケンバーグも1866年7月に日本にやって来る際はサンフランシスコからスワロウという名のバーク船に乗っている(まだその時点ではパシフィック・メール社による太平洋航路は開設されていない)。

 ともあれ、こうしたことどもを踏まえるなら、ストーンウォール号が富士山丸より101日も余計に日数を費やして日本にやって来ることになった原因は西回りルートを取ったことにあると推定することができるのでは? しかし、だったら何でストーンウォール号は西回りルートを取ったのか? 蒸気船の航行ルートとしては一般的ではなかった西回りルートを――。あるいはペリー艦隊の時代と違ってもうこの頃は西回りルートでも問題なくなっていた? しかし富士山丸が日本に回航されてきたのは1866年なのだから。わずか1年前。そんなに急に環境が整うものか? また現にストーンウォール号は日本回航に242日を費やしている。1867年当時もこのルートが蒸気船の航行ルートとしては適していなかったことを如実に物語っていると言うべき。そうなると一体なぜストーンウォール号は西回りルートを……?

 これについてはサンデー・ジャーナルの記事には何も記されていないし、また「小野友五郎日記」からもこうした疑問に答えてくれる記載を見つけ出すことはできない。実は「小野友五郎日記」には日本回航にあたってどういうルートを取るのか、またその場合の所要日数はどれくらいか――といった当然、両国間で詰めておくべきポイントについて話し合われた形跡が全くないのだ。これは実に奇妙と言わざるをえない。あるいは日本側としては富士山丸という前例があったので、ストーンウォール号も当然、その前例を踏襲するものと思い込んでいたということだろうか? しかし現にストーンウォール号は富士山丸の前例を踏襲せず、西回りルートで日本にやって来た。それには何らかの理由があったはずなのだけれど……。


 さて、ここでストーンウォール号の日本回航にあたって艦長を務めたジョージ・ブラウンという人物に注目することにしよう。おそらく――いや、間違いなく、ストーンウォール号が西回りルートを取ることになった鍵を握るのがこの人物。まずはその経歴から。これについてはうってつけの史料がある。1898年に刊行されたThe Records of Living Officers of the U.S. Navy and Marine Corpsがそれ。読んで字のごとく同書刊行時点で健在だったアメリカ海軍士官の名簿――というか、その軍歴を記したもの。ジョージ・ブラウン(この時点での階級は大佐)は1835年に生まれ、1913年に亡くなっているので当然、この本に載っている――

CAPTAIN GEORGE BROWN,
BORN in Indiana, June 19, 1835. Appointed from Indiana, February 5, 1849; attached to frigate Cumberland, Mediterranean Squadron, 1849-51; frigate St. Lawrence, Pacific Squadron, 1851-4.
Promoted to Passed Midshipman, 1856
Promoted to Master, 1856.
Commissioned as Lieutenant, June 2, 1856; sloop Falmouth, Brazil Squadron, 1856-9; store-ship Supply and sloop Portsmouth, coast of Africa, 1859-60; sloop Pawnee, 1860; steam-sloop Powhatan, special service, 1860-1; gunboat Octarora, Mortar Flotilla, and Wilmington, North Carolina Blockade, 1861-2; engagement at Vicksburg, June 28, 1862.
Commissioned as Lieutenant-Commander, July 16, 1862; commanding iron-clad Indianola, Mississippi Squadron, 186232-3; passage of Vicksburg and Warrenton, February 14, 1863; action between Indianola and rebel rams Wm. H. Webb and Queen of the West, and cotton-clad steamers Dr. Batey and Grand Era, at Upper Palmyra Island, Mississippi Rvier, February 24, 1863. The engagement lasted one hour and twenty-seven minutes, and resulted in the surrender of the Indianola to a force of four vessels manned by over one thousand men. The loss of the Indianola was one killed and one wounded (Lieutenant-Commander Brown) severely, and seen missing, while the enemy lost two officers killed and many wounded. Lieutenant-Commander Brown and his officers and crew were taken prisoners, but were exchanged at Richmond a few months later in the war; commanding steam-gunboat Itasca, Western Gulf Blockading Squadron, 1864; battle of Mobile Bay, August 5, 1864; gunboat Arizona, 1864-5, —lost by fire, February, 1865; iron-clad Cincinnati, 1865; gunboat Pocahontas, 1865; gunboat Hornet, 1865; naval operations in Mobile Bay, against Spanish Fort and defences of city of Mobile, from March 23 to April 14, 1865.
Commissioned as Commander, July 25, 1866; Navy Yard, Washington, 1866-7; as agent of Japanese government in command of Japanese iron-clad Stonewall, 1867-9; commanding Michigan (fourth-rate), 1870-2; ordnance duty, Boston, 1873-6, Light-House Inspector, 1876-8.
Commissioned as Captain, 1877.

 ストーンウォール号を日本に回航したこともしっかり記されている。またこれは最初に紹介した引用部分でも問題としている点なんだけど、その時点でストーンウォール号が日本船籍であったことも読み取れる。その上で注目すべきポイントが一つ。それはジョージ・ブラウンは1849年から51年にかけて太平洋艦隊のフリゲート艦、セント・ローレンス号に配属されていること。ではそのセント・ローレンス号とは――、次はDictionary of American Naval Fighting Shipsという本の出番となる。アメリカ海軍歴史遺産部(Naval History and Heritage Command)により編纂されたアメリカ海軍所属艦船の公式記録。このDictionary of American Naval Fighting Shipsでセント・ローレンス号の船歴を確認すると注目すべき記載が見つかった――

Recomminssioned on 18 November 1851, St. Lawrence sailed on 12 December for the Pacific. For the next three and one-half years, she cruised along the west coast of North and South America, from Cape Horn to Puget Sound, occasionally venturing as far west as the Sandwich (Hawaiian) Islands. In 1853, she relieved Raritan as flagship of the Pacific Squadron and continued this duty until she relinquished her role as flagship to Independence on 2 February 1855. She departed Valparaiso five days later and arrived at Hampton Roads on 21 April. She was decommisshioned and placed in ordinary at Norfolk exactly a month later.

 セント・ローレンス号の活動エリアは「ホーン岬からピュージェット湾まで」。そして時にはサンドイッチ諸島まで遠征した――。当然、ハンプトン・ローズにある海軍基地との往来はホーン岬を経由したはず。ジョージ・ブラウンは1849年から51年までこのセント・ローレンス号に乗り込んでいた。つまり彼には西回りルートでの航海の経験があったということ。これはなかなかに重要な情報。なんとなくストーンウォール号が西回りルートを取った理由が見えてきたような?

 では、次になぜジョージ・ブラウンがストーンウォール号の回航艦長に選ばれたのか? これについては「小野友五郎日記」によってその事情を明らかにすることができる。それはジョージ・ブラウンにはストーンウォール号を回航した実績があったから。実はストーンウォール号は一旦、スペインの手に渡り、その後、アメリカに譲り渡されているのだけど、スペインのキューバ総督領の首府だったハバナからワシントンまでストーンウォール号を回航した際の艦長が彼なのだ。そして小野友五郎らはストーンウォール号を購入するにあたって事前にジョージ・ブラウンに会ってストーンウォール号の航洋性(これを「シーワージネス」と言うらしい)について尋ねている。これはアメリカ側の勧めによるもので、実はアメリカ側はもともとストーンウォール号が河川での運用が想定されていたため(南軍はストーンウォール号をミシシッピー川で運用するつもりだった)、シーワージネスには問題があると考えていたようだ。そのため日本回航が可能かどうか、疑問を持っていた。そういう事情で小野らはジョージ・ブラウンに会ってストーンウォール号のシーワージネスについて確認したわけだけど、ジョージ・ブラウンの答は「問題なし」。これで安心した日本側はストーンウォール号の購入を最終決断、さらに回航艦長も彼に依頼した――というのが凡の経緯。

 また実際、ストーンウォール号のハバナからワシントンまでの航海には何の問題もなかったことを裏付ける史料もある。1891年から99年にかけて刊行されたMilitary Essays and Recollections: Papers Read before the Commandery of the State of Illinoisという全3巻からなるシリーズの第1巻にTwo Stone Walls, from a Seaside Viewと題するエッセイが収録されている。執筆者はJames Nevins Hyde。どうやら軍医だったらしい。このTwo Stone Walls, from a Seaside Viewにジョージ・ブラウンがストーンウォール号をハバナからワシントンまで回航した際のことがこんなふうに記されているのだ――

In October, 1865, Commodore Alexander Murray, commanding the “Rhode Island,” was ordered to proceed to Havana with that vessel and the United States steamer “Hornet,” Lieutenant-Commander George Brown, in order to receive the “Stonewall” and bring her to Washington. Commander John C. Febiger, with a sufficient number of officers and men, went with these vessels for the purpose of manning the ram. They sailed from Washington October 21, the “Rhode Island” arriving at the port of destination on the 30th, and the “Hornet” soon after. Commander Febiger with his officers and men, having prepared the ram for sea, sailed from Havana with her, under the flag of our own country, on the 15th of November. The trip was marred by the death, from yellow fever, of Acting Assistant-Paymaster J. Clifford Bordman, and of James Gallaher, one of the crew of the “Stonewall,” whose body was discovered floating in the harbor.
On the 19th they were compelled to anchor under the lee of Cape Lookout, and to remain there till the 21st, on account of a furious gale from the northeast. Washington was reached on the 24th of November, 1865. The entire coast of getting the “Stonewall” out of Havana, and preparing her for sea, amounted to about eighteen thousand dollars.

 途中、黄熱病による死者が出たり、嵐で3日間の日和見を余儀なくされるなどのアクシデントはあったものの、結局はわずか9日間でハバナからワシントンまでの航海を終えたことがわかる。これを見る限り、ストーンウォール号のシーワージネスには確かに何の問題もないということになる。従って彼が日本側の問い合わせに対しストーンウォール号のシーワージネスに太鼓判を捺したのは十分に根拠のあることだったと言っていい。

 ただ、ここで一つ疑問がある。それは、彼が問題なしとしたストーンウォール号のシーワージネスとは、汽走状態でのものだったのか、帆走状態でのものだったのか? 実はストーンウォール号はマゼリン式水平直動レシプロエンジン2基を備えた蒸気船だったのだけれど、同時に2本の帆走用マストを備えた「機帆船」だった。これはストーンウォール号に限らず、初期の蒸気船に共通の特徴で、ペリー艦隊の旗艦・サスケハナも3本の帆走用マストを備えており、日本遠征にあたっては必要に応じ帆走に切り替えていたことが知られている。言うまでもなく石炭消費を抑えるためで、東回りルートの場合、西回りルートに比べ、補給基地が整備されていたとはいえ、それでもそういう工夫が必要だったということ。ともあれ、当時の蒸気船とはそういうものだったということで、もしかしたらジョージ・ブラウンが問題なしとしたストーンウォール号のシーワージネスとは汽走状態でのものだったのでは? Two Stone Walls, from a Seaside Viewには特に触れられていないんだけど、おそらくジョージ・ブラウンがストーンウォール号をハバナからワシントンまで回航した際は汽走だったはず。ハバナからワシントンまでなら最大で200トンだったとされるストーンウォール号の石炭積載量でも十分対応できたと考えられる。その場合、ジョージ・ブラウンはストーンウォール号の汽走状態でのシーワージネスについては十分な知見があったものの、帆走状態でのシーワージネスについては全くの未知の領域だったという可能性も……?

 こう考えた時、いろんな事実が有機的に結合しはじめるような。まずジョージ・ブラウンには西回りルートでの航海の経験があった。また彼にはストーンウォール号をハバナからワシントンまで回航した経験もあり、ストーンウォール号の(汽走状態での)シーワージネスには何の問題もないことも確認していた。実際、彼はわずか9日間でストーンウォール号をハバナからワシントンまで回航していた。そんな彼がストーンウォール号の日本回航を請け負うことになった――、うん、これは西回りルートを選択するわ(笑)。

 ただ、この選択はある重要な事実を見落としていたか、あるいは甘く見ていたという意味で誤りだったと言わざるをえない。それは、蒸気船の航行ルートとして整備されていない西回りルートの場合、航海の大半は帆走に頼らざるをえないという事実。当然、ストーンウォール号もノーフォークから日本までの航海の大半を帆走に頼ったものと思われる(サンデー・ジャーナルの記事にもそうした記載がある)。そして結果としてストーンウォール号が日本回航に242日を要したという事実から推定するなら、おそらくストーンウォール号の帆走状態でのシーワージネスには重大な問題があったのだ。何しろストーンウォール号は船体を鉄で覆われた〝鉄の船〟。土台、帆走には適していなかったのだ。これはセント・ローレンス号の航行記録と比べてみればハッキリする。Dictionary of American Naval Fighting Shipsによれば、セント・ローレンス号は1855年、太平洋艦隊の旗艦としての任務を解除され、2月2日にチリのバルパライソを出港、4月21日にバージニア州のハンプトン・ローズに入港しているのだけど、この間、78日。一方、ストーンウォール号はノーフォークからリオデジャネイロまで99日かけて航海している。距離はセント・ローレンス号の半分程度なのに日数は21日も余計にかかっている。やはりストーンウォール号の帆走状態でのシーワージネスには問題があったことは明らか。しかしなまじストーンウォール号をワシントンまで短時日で回航したという実績があったジョージ・ブラウンはこの点を甘く見ていた。そして、そういう誤った認識の下、ストーンウォール号の日本回航ルートとして、自らが航海経験を持つ西回りルートを選択した。そして、それゆえにこそストーンウォール号は日本回航に242日を費やすという大変なオデッセイを強いられることになった……。

 ちなみに、興味深い事実がある。「小野友五郎日記」によると、小野らはワシントンでジョン・M・ブルックの訪問を受けているのだ。ジョン・M・ブルックとは1859年に来日、設立間もない幕府海軍に技術指導を行った他、かの咸臨丸が初の太平洋横断を行った際には技術アドバイザーとして同乗している(なんでも咸臨丸は事実上、ジョン・M・ブルックの指揮下にあったとか)。「小野友五郎日記」によると、ワシントンのホテルに小野らを訪ねてきたジョン・M・ブルックは軍艦購入にあたってのさまざまなアドバイスを行った上で、購入艦が決まったら自分がその回航艦長になりたいと申し出たという。小野らは海軍方とも協議の上、この申し出を断っている。小野らとしてはことを政府間の公式ルートで進めたかったからとされるのだけど、もしジョン・M・ブルックの申し出を受けていたら……。ジョン・M・ブルックはそもそもは海洋探査の専門家で、1853年に行われた太平洋測量調査にも参加。この際、ビンセンスを旗艦とする船団はバージニア州ハンプトン・ローズを出港、喜望峰を経由して太平洋に向かっている。もしストーンウォール号の日本回航を請け負ったのがジョージ・ブラウンではなくジョン・M・ブルックだったら? ストーンウォール号についての予備知識を持たない彼は同艦の航洋性について事前に十分なテストを行ったはず。その上で帆走状態での航洋性に問題があると判断したなら躊躇なく回航ルートを東回りとしたはず。彼には東回りルートでの航海の経験があった。そして、もしそうなっていたら、おそらくストーンウォール号は1868年1月13日(慶応3年12月19日)前後には日本に到着していたはず。そして、もしそうなっていたら――。ま、ここから先はペーパー・ディテクティヴの領分ではなく、小説家の領分か……?