「鐡張軍艦ストンワール①」でも書いたように、ストーンウォール号の25年に渡る船歴はよくできた物語のよう。合衆国政府の目を盗むかたちでフランス・ボルドーの造船所で建造されたストーンウォール号が紆余曲折を経てカリブ海の南軍の海軍拠点に到着した時、既にロバート・E・リー将軍は降伏。ジェームズ・D・ブロックらストーンウォール号建造に携わった男たちが忠誠を誓ったアメリカ連合国も事実上、存在せず。ストーンウォール号の帰属は完全に宙に浮いてしまう。その後、1867年になって徳川幕府の手に渡ったストーンウォール号がメンテナンス等を経て日本に到着した時、既に徳川幕府は存在せず。同艦の帰属はまたもや宙に浮いてしまう――という、この事実関係だけでもそうした印象を抱くには十分なのだけど、ここにもう一つこういう事実が加わるとそうした印象はいよいよ確固たるものに……。
ということで、まずはこういう文書を紹介することにしよう。第2代駐日アメリカ公使ロバート・H・プラインから国務長官ウィリアム・スワードに宛てた1862年10月29日付け至急報告に同封された2通の文書うちの1通――
To his Excellency ROBERT H. PRUYN,Minister Resident of the United States of America, &c., &c., &c.:We have to state to your excellency, as we already did on several occasions when consulting with you on the subject, that we desire to have constructed in the United States and set here two steam sloops of twenty-four guns of heavy calibre each, propellers, with masts and rigging, nautical instruments, small-arms, &c., and what belongs thereto, with spare spars and sails, according to the regulations for the American navy; and also a steam gunboat (with heavy guns, the number of which we leave you to fix) of seven hundred tons, Netherlands measure, propeller, masts, rigging, &c., and with spare and sails, as above stated.
The cost of these vessels will amount, it is supposed, to eight hundred and sixty thousand dollars, of which two hundred thousand will now be paid in advance, the same amount on the 1st of January, 1863, and also on the 1st of March, and the balance, with the expenses at sea, &c., will be paid together after the said ships are finished and upon arrival here and delivery to us.
We request your excellency to take the proper measures in regard to the foregoing without delay.
Stated, with respect and esteem, the 28th day of the 8th complementary month of the 2d year of Bunkin, (the 21st October, 1862).
MIDSUNO IDSUMI NOKAMI.
ITAKURA SUWO NOKAMI.
文久2年閏8月28日付けで徳川幕府から提出された書簡。内容はアメリカでの軍艦の建造を依頼するもので、建造する軍艦の細目(蒸気スループ2隻と蒸気ガンボート1隻)や建造費の支払い方法など、至って具体的なもので、既にこの件をめぐっては数度の話し合いが持たれていることも内容からはうかがえる。ロバート・プラインはこの書簡と彼がこのプロジェクトのアメリカ側の代理人として選定した2人の人物(1人はプラインの義理の兄弟)に宛てたもう1通の書簡を同封した上で本国の承認を求めているわけだけど、それに対しウィリアム・スワードは1863年1月29日付け訓令でアメリカが内戦中であることを踏まえ、陸海軍両省の長官の判断を仰いだとした上で、「陸軍長官は、われわれ自身の任務の必要性を踏まえ、船舶の武装に関しては認められないと回答してきた」としつつ、船舶の建造そのものには反対しない姿勢であるとして、プロジェクトに承認を与えている。ただし「この件はあくまでも貴君が非公式に行うものであることを日本側にも周知するよう務められたい(you will be careful to impress it upon them that your services in this behalf are of an entirely unofficial character)」とも付け加えていて、アメリカ政府としては関与しない方針を打ち出している。まあ、建造は認めるけれど、それはキミが個人で請け負うということだからね、と釘を刺しているわけだね。とはいえ、本国の承認は得られたことになるわけで、ここに軍艦の建造プロジェクトは正式に動き出すことになる。
そして、このプロジェクトによって建造された軍艦こそはかの富士山丸なんだけど――一体この件とストーンウォール号にどういう関係が? 文久2年(1862年)といえば、まだストーンウォール号の建造さえ始まっていない(ジェームズ・D・ブロックがジャン=ルシアン・アルマンに2隻の装甲艦の建造を発注するのは1863年7月)。一見何の関係もなさそうに見えるんだけど……実はこれが大アリなんだ。というのも、この時、徳川幕府とロバート・プラインとの間で結ばれた3隻の軍艦の建造契約のうち、実際に徳川幕府に納入されたのは富士山丸だけ。残る2隻は遂に納入されなかった(そのうちの1隻は建造さえされなかった)。それにはさまざまな要因が絡んでいて、内戦に伴う物価の高騰もその一つ。また元治元年6月に薪水を求めて長州藩領の深川湾に侵入したアメリカ商船(モニター号)に対し長州側が砲撃を加えるという事件が発生しており、これに伴ってアメリカ政府が徳川幕府に対して科した〝経済制裁〟も大きかった。「鐡張軍艦ストンワール①」でも記したように、富士山丸が日本に回航されてきたのは1866年1月23日(慶応元年12月7日)なんだけど、実は1864年6月には既に完成しており、本来ならば同年中には日本に回航されていたはずだった。ところが深川湾の事件に伴うペナルティで出航が差し止められてしまう(→富士山丸の出港差し止めを命じる大統領令)。それが解除されることになるのは翌年の6月になってから。結果、富士山丸の日本回航は1866年1月にずれ込むことになった――というのが凡の事実経過。つまり完成から丸1年も無駄に時間が費やされることになったわけで、その間には日本側とアメリカ側で実にさまざまなやりとりがありまして、今なら新聞の外交面を連日、賑わすことになっていたはず。しかも遂にこの問題は日本国内での話し合いでは全面解決には到らず(富士山丸は納入されたとしても、日本側は3隻分の建造費として60万ドルを払い込み済みで、その扱いをどうするかが未解決)、場所をアメリカに移して最終的な決着が図られることになった。そのために派遣されたのが小野使節団。そして小野使節団が未納に終わった2隻に代るものとして購入することになったのがストーンウォール号――ということ。言うならばだ、文久2年に発注した蒸気スループ2隻と蒸気ガンボート1隻がめぐりめぐって富士山丸とストーンウォール号に化けたという話。
なお、話のついでに記しておくなら、ワタシは「鐡張軍艦ストンワール①」の最後で自分が回航艦長を務めたいというジョン・M・ブルックの申し出を日本側が断った理由を「ことを政府間の公式ルートで進めたかったからとされる」と記したんだけど、それはロバート・プラインとの間で結んだ軍艦建造契約がアメリカ政府が関与しない「非公式」なものであったことに対する反省から。日本側としては軍艦建造をめぐって発生した諸々の問題はすべてそこに起因すると考えたということ。もっとも、じゃあ1862年段階でアメリカ側が外国政府からの軍艦建造の依頼に政府レベルで応じられる客観的状況にあったかと言えば、それはなかったろうと思われる。現に陸軍長官は船舶の武装に関しては認められないと回答してるんだから。船舶の建造そのものには反対しないというのもきっと不承不承。だから、この問題を煎じ詰めるならば、そもそも国を二分する内戦の只中にあったアメリカに軍艦の建造を依頼した、そのこと自体が問題だったと言うべき。
――と、文久2年閏8月28日付けで徳川幕府から提出された書簡とストーンウォール号の関係を説明したところで、さて、ここで注目して欲しいのは↑に紹介した書簡の末尾に記された氏名。1人は水野和泉守、もう1人は板倉周防守。いずれも外国御用取扱を兼帯する老中(ロバート・プラインは至急報告の本文で「外相」と記載)。このうち、水野和泉守は水野忠精という人物で本稿が注目するところではない。注目するのはもう1人の板倉周防守。この人物こそはワタシが輪王寺宮擁立劇における影の仕掛け人と睨む板倉勝静その人。この文久2年の段階では周防守を名乗っているのだけど、慶応元年には徳川家茂から板倉家初代・勝重が名乗った伊賀守を名乗ることを許されている。これは勝重が永年、京都所司代を務めたことを引き合いに勝静にも同様の働きをしてもらいたいとの思いからだったとされる。で、ここでそんな板倉勝静に注目を促すゆえんとは――他でもない、幕末の国政を振り回すことになる軍艦問題に板倉が当初から関わっていたことを知っていただきたいがため。東京大学史料編纂所所蔵の「大日本維新史料稿本」所収の史料によれば最初に徳川幕府がロバート・プラインに対し軍艦建造を打診したのは文久2年8月29日のことであり、その話し合いは板倉の私邸で行われていることがわかる(→「大日本維新史料稿本」の当該ページ)。板倉勝静はもう本当の最初の最初からこの案件の担当だったということ。付け加えるならば小野使節団を派遣した時の老中首座(ヴァン・ヴァルケンバーグが言うところの「大君の首相」)も彼。こうしたことどもを踏まえるならさしずめ一連の軍艦問題とは「板倉案件」だったと言ってもいい。
そんな板倉が戊辰戦争中、「徳川氏全権」を名乗ってアメリカ公使館に対し「鐡張軍艦ストンワール」の引き渡しを求める密使を派遣しようとしていたことを伝える史料が残っていることは「鐡張軍艦ストンワール①」でも記したところだけど、その史料(「米澤藩士長尾景貞北越在陣中日乗」)に記された「モシエールワルケンビユーリー横濱在留亞米利加合衆國全權ミニユストル」宛て書簡に曰く――「我輩ハ則買人にして且右の軍艦ハ我方に属すべき理あるにより直ちに渡されん事を願ふ君も吾輩の心事を洞察して異議なく渡さるヽ事と思へり」(→「米澤藩士長尾景貞北越在陣中日乗」の当該ページ)。板倉とストーンウォール号の関わりを考えるなら、この「我輩ハ則買人」という口上は文字通りの意味と解釈することもできる。少なくとも彼が自分には「鐡張軍艦ストンワール」の引き渡しを求める資格がある――と考えていたでろうことは心理的には十分に共感ができる。
ただ、時の移ろいというのは残酷なもので、かつては「大君の首相」としてアメリカ合衆国の全権ミニストルと渡り合う立場にあった彼がいつしか「朝敵」の身となり、遂には〝政治亡命〟を決意する(ただし、結局は家臣団の説得を受け容れ、断念する)ことを余儀なくされるまでになる。
板倉が藩主を務めた備中松山藩の辻七郎左衛門なる人物が「艱難実録」(『岡山県史』第26巻。他にも『艱難実録 板倉家中幕末秘話』など、公刊されたものがいくつかある)なる手記を残していることは『「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡』にも記したところだけど、それによれば板倉は明治2年4月の段階で海外逃亡を決意している。その時、板倉は箱館にいたわけど、榎本武揚を総裁として建国された「蝦夷共和国」は板倉ら旧大名(板倉の他にも桑名藩主・松平定敬、唐津藩世子・小笠原長行が榎本の元に身を寄せていた)を「余計もの」扱い。ここは自分たちの居るべき場所ではないと悟った彼は「一ト先外国江避け、暫く時勢見合居り候方可然」と判断、箱館の外国人を頼って海外に渡ることをめざす。そして4月23日、「二本檣」の英船(船名不祥)に搭乗して箱館を脱出するのだけど、折しも箱館には新政府軍艦隊が集結、22日には箱館に向けて砲撃をはじめていた。曰く「払暁より官軍艦六艘函館沖江相見へ、追々港江御寄発砲、回天・幡竜・千代田よりも発砲、台場よりも発砲ニ及、終日艦戦有之」。この時、箱館湾に集結していた新政府軍艦隊は甲鉄艦、朝陽丸、春日丸、陽春丸、延年丸、丁卯丸の6隻。そしてその旗艦を務める甲鉄艦こそはかつてのストーンウォール号。
かつて「外相」として携わったアメリカへの軍艦発注。その後、今度は「首相」としてその事後処理を図るべく派遣したのが小野使節団であり、その小野使節団が未納に終わった2隻に代るものとして購入することになったのがストーンウォール号。そして「徳川氏全権」としてその獲得に執念を燃やしたのもまさにこのストーンウォール号。今や「朝敵」に身を落とした彼が箱館を脱出するにあたってそのストーンウォール号を旗艦とする艦隊から砲撃を浴びせかけられようとは――一つのドラマツルギーのなんと見事な完結であることよ……。